第107話 落果

 ノーアウトランナー一塁。

 代走の切り札を、スターズはここで切ってきた。

 それは当たり前のことだろうな、と直史は思う。

 この裏には上杉も、一般的に限界とされる135球を超えてくる。

 どうせ12回にチャンスなどあるとも限らない。

 ならばここで、パーフェクトが途切れたここで、試合は終わらせてしまうべきだ。

 緒方の出したエラーというのは、それだけ大きなものである。

 ここからの直史の行動というのも、おおよそは予想することが出来る。


 打たせてダブルプレイ。 

 シーズン中に何度も見てきたシーンである。

 これによってランナーが出たにも関わらず、27人で終わるゲームというのが何度もあったのだ。

 あるいは牽制で殺す。

 スターズの首脳陣は、そういうこと全てを想定した上で、もう打順の回ってこない四番を交代させたのだ。

 ここで決めるという、断固たる決意を感じさせる。


 そしてレックスの方は、緒方を交代させるかどうか、を注意していた。

 セカンドを守れる選手はいるが、果たしてこの状況ではどうなのか。

 緒方はもう、手の痺れもなくなったと言っている。

 だがここで任せていいものか。

 今はアドレナリンの影響で、痛みを感じていないだけなのかもしれない。


 ただ緒方を代えると、ひょっとしたら12回の裏に回ってくるかもしれない打席にも、他のバッターが入ることになる。

 いや、それを考慮した上でも、やはり代えるべきではないか。

「無理をするな」

 直史はそう言ったが、まさかここから失点でもしてしまったら、戦犯は緒方になると言ってもいい。

 ただ、ベストなパフォーマンスを出せない選手をグラウンドに置いていく余裕はない。




 エラー一つから試合が終わる。

 よく言われることだが、まさにそれはこの状況のことでは、などと思われる。

 シーズン中はレギュラーシーズンもポストシーズンも、区別なく安定した守備力を見せている緒方。

 それがミスしたというのは確かに、守備の決壊を思わせる。

 0-0の試合が崩れて決まってしまう、最も多いパターンがこれであろう。

 しかも相手は中軸であるのだ。


 なんとしてでも一点を取れば、あとは裏を守るだけ。

 上杉が投げるならば、1-0で終わることは可能だ。

 スターズは勝利の目が見えてきている。

 対してレックスは、首脳陣が苦悩の判断をしようとしていた。

 緒方を下げて、控えのセカンドを持ってくる。

 ただでさえ、左右田はいいショートであるが、キャリアはまだ不足している。

 そこにキャリア抜群の緒方が抜けてしまう。


 敗北の流れになっている。それは直史も分かる。

 流れが確実に、スターズにいっているということだろう。

 そういったものを直史は信じない。

 だがマウンドに集まった内野陣は、顔色を青くしている。

 10回までパーフェクトをしていたのに、エラーがついに出てしまった。

「レギュラーシーズン中も、普通にエラーでパーフェクトが消えたことあったろう。そんなに気にすることじゃない」

 いや、気にしているのはそこではないのだが、と内野陣は思う。

 ただこれが、直史なりの気の遣い方なのである。


 ノーアウト一塁。 

 これは確かに、面倒な状況である。

 だが悪送球を必死でキャッチして、二塁まで進ませなかったのは大きい。

「まあこの打順なら大丈夫だろう」

 軽くそう言って、直史は指示を出す。

「中間守備。普通に一個ずつアウトを取っていくぞ」

 そのあまりの落ち着きように、メンタルの化物具合を思い知らされる。




 都合よく直史から、連打を打てるとは思っていないだろう。

 するとここで最低でも狙うのは、進塁打となる。

 だが五番に進塁打を期待するというのは、あまりにも消極的にすぎる。

 直史としては、ここでスターズがするべきは、ツーアウトにしてでもランナーを三塁まで進めることだと思う。

 そこまでランナーが進めば、この状況では格段に、エラーなどの確率が上がるだろう。

 内野安打でも、一点は取れる。


 五番でなければ、おそらく送りバントを指示していたのではないだろうか。

 このランナーをダブルプレイなどで失ってしまえば、今度は逆にレックスに流れがいく。

 もちろんオカルトであるが、それを信じる人間はいるし、信じてしまったことで本来以上の実力が出るということはあるのだ。

 ただ直史も、ここでダブルプレイという都合のいいことは考えない。


 レギュラーシーズン中の、そして試合の中盤であれば、直史はダブルプレイを普通に狙っていく。

 だがここは一点で全てが決まる試合だ。

 ならばエラーの可能性がある内野ゴロではなく、一番確実な方法を選ぶべきである。

 つまり内野の守備が必要とされない、奪三振によるアウトである。


 迫水はキャチャーボックスで直史と相対した瞬間、圧倒的なプレッシャーを感じた。

(この人、打たせるつもりなんかない)

 さすがに迫水も、そろそろ分かってきた。

 そして直史は普通に、三振で終わらせていくつもりである。

 少なくともツーアウトまでは、三振でアウトを取る。

 氷のような冷たい決意を、迫水は感じていた。




 なんとしても進塁させなくてはいけない。

 スターズの首脳陣は、これが最初で最後のチャンスだと分かっている。

 引き分けではスターズが不利なのだ。

 ここで五番というのは、その意味ではそれなりに打順は良かった。

 一番いいのは、10回に一番が出塁することなのだが。

 ただ緒方がミスをした原因は、スターズの方もなんとなく理解している。


 上杉相手にあそこまで粘ったのは、緒方にとってもダメージがあったということであろう。

 そして粘られてピンチになりつつある上杉が耐えたおかげで、今はスターズがチャンスになっている。

 ここは打っていくしかない。

 ただ右方向、ダブルプレイにはならないように。

 そう考えていたところ、右バッターに対して直史は、初球をアウトローに投げてきた。

 当然のように打ったが、ボールは一塁線を切れる。


 状況が分かっているのか、と思わずスターズの方が驚いた。

 もちろんこれはレックスも同様で、驚いていないのはもう、慣れてきた迫水ぐらいである。

 直史は心理的な死角を突いてくる。

 この場合は右方向に打ちやすい、外角には投げてこないであろうという思い込みだ。

 だがアウトローというコースはどんな状況でも、定番であるのも間違いない。

 そう考えればここは、間違った選択ではないだろう。


 言われてみればその通りなのかもしれないが、ここでその原則どおりに投げてくるというのが、本当に心理的に意味が分からない。

 もっとも結果だけを見れば、直史のピッチングが間違いないのは分かる。

 まずは初球でストライクを取り、ランナーは動くことが出来ない。

 盗塁に関しては、直史の牽制を思えば、とてもすることは出来ない。

 そもそもランナー自体が出ていないので、どの程度の脅威かも分からない。

 だが少なくとも迫水に関しては、かなりの盗塁阻止率を誇ると分かる。




 ここで単独スチールというのは、やるなら初球であったかもしれない。

 もっとも直史のセットポジションからのクイックは、盗むのがほぼ不可能である。

 今シーズン盗塁を許していないというのを、忘れてはいけない。

 そもそも試行数がほとんどないのではあるが。

 ともかく大切なランナーを、盗塁させるのはリスクが大きすぎる。


 ただそんな心理を一球目で見通したのか、二球目にはカーブを使ってくる。

 大きな変化球に対して、タイミングが合わず見逃し。

 ゾーンをしっかり通っているが、よく使うスローカーブでもないのだ。

 普通のカーブをこの状況で使う。

 どういう思考と度胸をしているのか。

 その両方がないと、投げることは出来ないであろう。


 これでともかく、ツーナッシングになってしまった。

 二球で追い込まれてしまったのである。

 そして前にカーブを見せているということは、最後に投げるのは分かっている。

 ストレートだと、ほぼ予想はしていたのだ。

 だが直史のフォームが、やや横に倒れる。

 サイドスローから、ストレートが投げられた。

 スイングの上を通ったボールは、迫水のミットの中へ。

 ストライクバッターアウトである。


 スターズは完全に見誤った。

 ここで攻撃するのは自分たちなのだと。

 もちろん攻撃しているのは、スターズである。

 だが野球は常に、ピッチャーが主導権を握れるスポーツである。

 つまりピッチャーが投げなければ、プレイは始まらない。

 そして直史は、完全にバッターのタイミングを外して、好き放題に投げ込んでくる。

 どういう意識を持ったピッチャーなのか。




 思考力、洞察力、そして何より精神力。

 もちろん上杉の強大なメンタルを、スターズの選手たちは見ている。

 直史と対戦したのも、これが初めてなわけではない。

 だが本気になった直史を知っているのは、あるいは上杉だけであったのかもしれない。

 そう、負ければそこで終わりという状況、絶対点を取られてはいけないという状況のピッチング。

 国際大会のピッチングを見れば、それは少し分かるかもしれない。


 ただ今さら分かったところで、もう遅かったかもしれない。

 バッターボックスの六番に対しては、シンカーとスルーで簡単にボール球を振らせてしまった。

 そしてここから投げるのは、サイドスローではないストレート。

 伸びるストレートは、スイングしたバットの上を通る。

 なぜここまで当たらないのかなども、分かっていてもやはり打てない。


 ノーアウト一塁が、ツーアウト一塁となってしまった。

 しかもバッターは二人連続で、三球三振。

 内容は全く違うように見えるが、決め球のストレートを打てていない。

 もはやチャンスの機は逸した。

 だがせっかくのランナーを、このまま見殺しにするのか。

 なんとかこれを活用したい。


 直史はこれでバッターにほぼ完全に集中できるようになった。

 長打を打たれれば一塁からでも一気にホームに帰ってこれるであろうから、バッター集中でいい。

 だがそういう考えは常識である。

 直史のピッチングと、それを包括する野球は、全て常識を疑うところから始まっている。

 素早い牽制が、ファーストへと。

 飛び出しかけていたランナーは、タッチアウト。

 結局出塁したランナーは、全く効果がなかった。




 ノーアウトのランナーに代走を出して、全く意味がなかった。

 さすがにスターズのベンチも、士気が落ちるのは避けられない。

「どういう精神力なんだ……」

 誰かが呟いたが、直史にはさほどプレッシャーはかかっていなかった。

 レックスのベンチも呆れたような顔で出迎えたが、直史はその中に緒方の顔を見つけた。

 医務室に行ったはずが、試合が気になってすぐに戻ってきたといったところか。


 直史は無言のまま、口をぽかんと開けている、緒方の髪をぐしゃりと撫でる。

「次はこっちの反撃だな」

 結局ランナーは出たが、それはチャンスでもなんでもなかった。

 いや、直史が強引に「なかったこと」にしてしまった。

 技術ではなく、いや力を伴った技術による、絶対的な試合の支配。

 負けるはずがないという空気が、レックスのベンチを包む。


 このピッチャーが投げていて、どうやったら負けるのか。

 そしてこの11回の表が終わった時点で、直史の球数はまだ100球である。

 ノーヒットノーランは継続中で、三人ずつで試合を終わらせていっている。

 MLBでの記録が目立つが、NPB時代の成績も化物であった。

 五年以上のブランクがある40歳のピッチャーが、いったいどういったピッチングをするのか。

 それへの答えがこれである。


 シーズン中も確かに、素晴らしいピッチングをしていた。

 だが終盤のライガース相手のパーフェクト連続と、そしてこの試合のピッチングを見れば、ようやく本質に触れた気分になれる。

 あの甲子園のピッチングを見ていたベテラン勢なら、少しは分かるかもしれない。

 何がどうなっても、絶対に負けないピッチャーというのはいる。

 もっともこれが、スターズの上杉も、ほぼそれであると言えるのが問題であるが。




 11回の裏、レックスも四番からである。

 スターズの選手も散らばっていって、この回を抑えるという意思を感じさせる。

 野球はメンタルスポーツというのは、こういうところであるのか。

 千載一遇のチャンスをあっけなく潰されたのに、上杉が投げていれば負けない。

 そんな信仰はスターズにもある。

 スタンドももう、これは引き分けが濃厚ではないか、と思えてきた。

 これは無理もないだろう。上杉も直史より多く投げているとはいえ、127球ならまだまだ投げられる、というのが上杉の基準だ。


 12回の裏には、もう140球を超えているだろうか。

 それでも上杉なら、きっとなんとかしてくれる。

 そんな期待を、ずっと背負ってきた人生であった。

 マウンドに君臨する上杉の姿は、バッターボックスから見ても巨大である。

 だがそれでも、直史に比べれば。


 レックスの四番は近本。

 四番というにはどちらかというと、小器用さが目立つバッターだ。

 しかしそれでもレックスの四番は、近本であると認識されている。

 チームでは確かに、打点でトップとホームランに打率も優れている。


 そうは言っても、上杉を打てるのかどうか。

 近本へ投じられた初球のストレート。

 それをスイングしたバットはボールに当たり、外野の頭を超えていく。

 近本は一塁を蹴って、余裕をもって二塁へと到達。

 ついに両チームの、ノーヒットの均衡が崩れた。

 だがこのヒットは、味方であるレックスのベンチからさえ、驚きの歓声をもってして報いられたのであった。




 直史の目には、違うものが見えている。

(155km/hか……)

 もちろんトップレベルの球速だが、四番の初球に投げるようなものであろうか。

 マウンドの上の上杉に、キャッチャーが近づいていく。

 それに対する上杉の表情。

(いつからだ……)

 おそらくは、緒方を打ち取ったあのストレートであろう。

 そこからもう一人、片付けていたのか。


 それに気づかないレックスのベンチやスタンドは、ここが最後のチャンスだと、声を張り上げている。

 何も分からないなら、それも無理はないだろう。

 しかし球場の全てに神経を通している、直史には分かる。

 もう、終わっている。

(上杉さん……)

 上杉の肉体から、普段の圧倒的な力を、もう感じなくなってしまっている。

 終わってしまったのだ。


 五番バッターがバッターボックスに入る前に、上杉がグラブで右肩を叩く。

 その仕草の意味は、もちろん他の者にもよく分かった。

 ざわめきの中で、スターズベンチから監督が出てくる。

「おい……」

「嘘だろ……」

 これは分かる。

 明らかに故障である。

 おそらくは緒方を打ち取って、その時には既に。

 それでも精神力で次まで打ち取ったが、それが本当に限界であった。


 スターズ打線が点を取ってくれれば、まだ投げるつもりであったのか。

 既に一度は故障しているのに、そこから奇跡的にカムバックを果たした。

 だが今はもう、そういうレベルではないのだろう。

 そもそもこの数年の成績を考えれば、今年これだけ復活したというのが、本当に奇跡的なことであったのだ。

 神はついに堕ちた。

 ……堕ちてしまったのだ。


 11回の裏、パーフェクトが途切れてついにレックスは得点圏にランナーが至った。

 そんなことが忘れられるほどの衝撃が、スタジアムに満ちていった。




 過言ではなく、一つの時代が終わった気がした。

 その怪我の程度なども、まだ分かっていないのに。

 上杉が試合の途中で、マウンドを降りるということ。

 それはまさに、象徴であった。

(これで勝ったことは勝った……)

 そう、これは勝利のはずなのだ。

 上杉が去った後のマウンド、ノーアウト二塁から抑えるのは相当に難しい。

 いや、この空気の中で抑えるのは不可能であろう。

 そもそもここから引き分けにしても、ファイナルステージで勝つことが出来ない。

 スターズは、上杉と心中するようなチームなのだ。


 五番バッターに、送りバントをさせる。

 レックス首脳陣は、ここからの勝ち方なら分かっている。

 二塁の近本にも、代走を送っている。

 スターズもクローザーを投入しているが、既に空気は試合の終わりを告げている。

 ワンナウト三塁となって、六番の迫水。

 その迫水が、大きな犠牲フライを打った。

 これが決勝打、サヨナラの打点となった。


 クライマックスシリーズファーストステージ、第一戦の勝利はレックス。

 当然ながらMVPは、ノーヒットノーランを達成した直史である。

 だが影のMVPは緒方だろうな、と直史は思っていた。

 ピッチャーにとって削られるというのが、どれだけ恐ろしいのかは分かる。

 ただ緒方がやっていなくても、おそらく近いどこかでパンクしていたことは間違いない。

 

 上杉はずっと、投げ続けてきた。

 途中で一年の療養はあったものの、それでも逆に言えば、たったの一年で引退ものの故障を癒してきたのだ。

 MLBでさえも存在感を確かに示し、そして日本に戻ってきた。

 あのままアメリカにいれば、はるかに多くの富を得られただろうに。

 もっともそれは金であっても、富ではないのかもしれないが。




 疲れる試合であった。

 過去にも投げ合いはあったし、バッティングの優れたバッターとの対決もあった。

 だがそれでも今日の試合は、間違いなく特別であった。

 単純に上杉との投げ合い、ということがではない。

 上杉の背負っていた、日本の野球そのものとの対決と言ったらいいだろうか。

 だからいつもなら、運が良かったで済ませるところを、違う言葉を使った。

『俺の運が良かったんじゃなく、上杉さんの運が悪かったんです』

 延長に至る投手戦を、ノーヒットノーランで勝利した。

 そうであるのに直史の表情には、全く喜びの色などは見えない。


 まだどのような状態か、というのは明らかにされていない。

 だがベンチに戻った上杉は、そのまま奥へと去っていった。

 球場の医師には見せた上で、さらにセカンドオピニオンを受けにいったのか。

 こんな時間ではあるが、球団が用意している病院はあるのだろう。

『誰か、上杉さんのことを聞いていませんか?』

 顔を見合す記者たち。

 上杉を追った記者はいるだろうが、その結果がすぐに分かるはずもない。


 直史の全能感の中では、あれで上杉の一番太い部分が、折れてしまったと理解している。

 野球選手としての上杉。

 もしもこれが錯覚であったなら、どれだけ良かっただろう。

 だが直史は同じピッチャーとして、今日は同じマウンドに立った者として、上杉の状態が分かってしまった。

 上杉は終わった。

 一つの時代が終わって、次は誰がこの潮流を牽引するのか。


 直史には分からない。 

 ブランクのある直史には、今のNPBの動きが分かっていない。

 そんなものは必要ではなく、ただ勝利することが重要であったのだ。

 バッターの研究はしても、ピッチャーに関しては関心がない。

 次のNPBの流れなど分からないのだ。




 スターズとの対決は、まだ二試合残っているが、もう決まった。

 上杉なしでスターズが、勝てるはずがないのだ。

 ベンチにいるだけで、その存在感は圧倒的。

 逆に言うとスターズは、上杉に頼りすぎていた。

 上杉のいなかった二年間、スターズは最下位であった。

 ここからチームを新しく作るのに、どれだけかかるか。

 それでも上杉は、スターズの黄金期を作り出した。


 直史はホテルに戻ると、送っていたメールの返信が来ていた。

 いったいどこから知ったものか、セイバーは上杉の故障について、既に詳しく知っていた。

 考えてみれば最初に肩を壊した時も、治療を請け負ったのはセイバーであった。

 レックスだけではなく、多くの球団と関わっているのは間違いない。

 そして知らされた事実は、やはり上杉がやってしまったのは、前と同じ肩であるらしい。


 同じ治療で治るかどうかは、極めて疑問である。

 そもそもあの頃とは、年齢が違う。

 一年間である程度回復するとしても、今よりもさらに力落ちることだろう。

 ここから一年を潰したとして、ならば44歳のシーズン。

 さすがにここから、何かを求めるのは無茶だ。


 上杉の時代が終わって、まだもうしばらくは大介がいるとする。

 しかし圧倒的なエースの時代は終わったと言えるであろう。

 直史が引退し、武史はMLBでまだ投げる。

 スーパーエースの時代が終わった。

 本当に空前絶後レベルのピッチャーが、立て続けに出た時代。

 それが終わるのは、セ・リーグ優位の時代の終わりでもあった。




 翌日、ファーストステージ第二戦の午前中。

 直史はセイバーに伴われて、上杉を見舞っていた。

 VIP待遇で、完全に隔離された病院であるが、セイバーならば普通に調べられる。

 調べたと言っても、単にスターズの監督に電話して、教えてもらっただけだ。

 彼女によって上杉が復活したのは、今のスターズの監督も知っている。

 ただそこに直史も一緒、というのは当然ながら知らない。


 当然ながら個室の上杉は、右腕を吊っていた。

 そして妻である明日美が一緒にいる。

「こんにちわ。具合は、聞くまでもないわね」

 セイバーは上杉を見てそう言ったが、上杉と明日美は直史を見ていた。

「ナオか……」

「お久しぶりです」

 だいたい佐藤と呼ばれることもあるのだが、国際大会であると武史も呼ばれることがあるため、やはりこちらの方がよく呼ばれている。


 直史の視線を受けて、上杉は自分の肩に少し触れた。

「もう、いかんな」

 分かっているのだろう。かつて一度は大きな故障をしているのだ。

「悪いですか」

 それでも155km/hを出してはいたのだ。

「ああ、見事に断裂しとる。あとは手術でつなげるだけだが、まあ元には戻らんし、リハビリも長くなるな」

 ああ、やはりそうなのか。

 上杉という不世出のピッチャーは、ついに失われてしまった。


 悲しいことだ。

 もう衰えつつあったとか、そもそも敵であることが多かったとか、そういうことではない。

 ある意味では、上杉はこれで完成した。

 ピッチャーとしてではなく、選手としての完成。

 悲劇的な引退と言えるのかもしれないが、その原因となったのが、直史との伝説的な投げ合いである。

 二人が九回までパーフェクトで投げ合うなど、二度と出てこないであろう。

 昨日の試合の前までも、同じことは言われていたのだが。




 悲壮感などはなく、病室は静かなものであった。

 明日美が林檎を剥いていて、上杉は穏やかな顔をしている。

 ずっと、上杉は戦っていた。

 もちろん人生は、ある意味ずっと、戦いの連続だ。

 しかしここで、一つの戦いは終わったのだ。

(俺はきっと、こんな顔はしてなかったな)

 直史はそう考える。


 セイバーは今後の上杉の道も考える。

 とりあえず日常生活が出来る程度には、手術も必要かもしれない。

 だが筋肉の断裂以外に、おそらく腱なども破損しているはずだ。

 ただその状態で、まだ155km/hを投げていた。

 常識的に考えても、人間の限界は超えていた。

 超えてしまったからこそ、ついに壊れてしまったのだ。


 直史はまだ壊れていない。

 だがいずれは自分も壊れるのか、と思わないでもない。

 そのいつか、が今年でさえなければいい。

 もう自分は目的を達成したのだ。

 今やっていることは、自己満足と生き残ったがゆえの最低限の義務の行使である。

 同時にそれは権利でもあったが。


 上杉は退場する。

 前から言われていたように、政界に進出するのだろう。

 その前に数年、充電期間を必要とするかもしれないが。

 なにしろ上杉の人気は、日本人なら全てが名前を知っているほどだ。

 選挙には人気投票の側面があるので、これは圧倒的なアドバンテージとなる。

 来年から大介の戦う相手が一人減ってしまうのだな、と直史は考えていた。

(いや、二人か)

 自分も引退してしまえば、大介はこれからどうするのだろう。

 家族でもう、こちらで暮らすことは決めているはずだ。




 まだ自分のシーズンは終わっていない。

 しかしある意味、直史のシーズンも終わっているのだ。

 この先の結果はどうでもいいという点では。

 もちろん負けてもいいとは思っていない。

 それこそ上杉のように、全てを燃やし尽くしてもいいと思っている。

 サイドスローからのストレートを多用していれば、もう今年中にでも壊れてしまってもおかしくないのだ。


 そんな直史に、上杉は声をかける。

「少し、二人だけで話せんか?」

 上杉にそう言われると、明日美はすぐに立ち上がっていた。

「私もですか?」

「男同士の話をしたいので」

 セイバーはどこか苦笑したように、その申し出を了承した。


 セイバーと明日美は、しばし廊下に出た。

 それだけでもう、中の話は聞こえない。

(彼女はもう、聞いているのかしら?)

 上杉が直史に話すというのは、いったいなんのことなのか。

 セイバーとしてもそれは、無関心ではいられない。

 だが推測するには色々と、上杉の人物像が分かっていないとも言える。


 その時間は、それほど長くもなかった。 

 直史が出てきて、その表情には変わったところもない。

「セイバーさん、俺は帰ります」

「なら私も帰ります」

 そして二人は明日美にも挨拶をして、上杉の部屋から立ち去る。

 先を歩く直史に対して、セイバーは声をかけた。

「何を話したんですか?」

「それは……まだ整理しきれていないので、なんとも言えませんけど……」

 そう呟いた直史であるが、その右手は何かを握るような動きをしていた。

 そこに何か、とても大切なものがあるかのように。

「ただ、俺が復帰した理由は話しましたよ」

 息子に、父親の背中を見せるために。

 それで上杉は納得したものだ。

「いずれは、セイバーさんにも話します」

「待ってますよ」

 そして二人は、病院を後にする。

 今日もまた、試合はあるのだ。

 


×××



 次話「ファイナル」

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