第106話 完璧であるが、完璧ではない
見えている。
18.44mの空間の中に、一本の線が見えている。
そこに投げれば、どうなるかが分かる。
(多分こんなイメージはないだろうに打ち取れるんだから、やっぱりフィジカルは重要だな)
そんなイメージを見られる直史も、充分以上にチートである。
いくら頭を回転させても、普通はそんなものは見えないのだ。
しかしスローカーブをその通りに投げるのは難しい。
難しいだけで、出来ないわけではないが。
直史の投げるボールは、全く球威が落ちない。
それはそうで、まだ60球程度しか投げていないのだ。
武史であればむしろ、ここからが本気だ、と言い出しかねないし、それは事実である。
だが直史は試合前に、ちゃんと肩を作っている。
ゆっくりと時間をかけて、力はあまりかけずに。
急に肩を作るぐらいなら、試合の間に作っていく。
それが今の直史の、ピッチングスタイルとしているものである。
もう球威ではなく、技術で打ち取っている。
だが確実に三振を奪うには、ある程度の球威がいる。
球速ではなく球威である。
二者連続でまた三振を奪い、そして六番バッター。
打てる程度の球速なのに、どうしてもここまで空振りしてしまうのか。
それは直史としては、星野伸之や山本昌を研究してくれ、としか言いようがない。
なお中年の星などと言われた山本昌は、最速を記録したのは40歳を過ぎてからのシーズンであった。
実際のところは、コントロールもある程度アバウトでいいのだ。
三振というのはむしろ、コントロールが乱れた方が奪いやすい。
なぜならコントロールが良くてコマンドの能力が優れていると、読みとしてどこに投げるか、というコースに投げてしまうからだ。
MLBの奪三振王ノーラン・ライアンも四球は多かった。
なのでノーヒットノーランは何度も達成しても、パーフェクトは達成できていない。
だが直史は、普通はそこには投げない、というところに投げる判断力と洞察力、そして度胸を持っている。
度胸と言うよりは、絶対の自信と確信だろうか。
ど真ん中のはずのストレートが、わずかに浮く。
それによってやはり空振りしてしまう。
複数種類のストレートを意図的に投げ分ける。
それは回転だけではなく、リリースポイントなども関係する。
あとは角度もその一つである。
ここで投げた直史のフォームは、ほとんどサイドスローであった。
そのボールを、バッターは空振り。
かくして三者三振となる。
(けれど10球使ったか)
八回を終えて、72球の17奪三振。
偶然にもこれは、ここまで全てのバッターを三球三振に取った場合の球数と等しくなる。
だが上杉はまだ、八回の裏を投げていないのに、84球に達している。
球数では確実に直史の方に余裕がある。
150km/hオーバーのボールもほとんど投げていない。
パーフェクトを目指していたわけではない。
むしろ球数が少なければ、失点しないこと以外はどうでもいい。
だが結局はランナーを出さないことが、一番の球数節約につながるのだ。
このままであれば、全て10球以内で毎回を終えていることになる。
そして上杉よりも、奪三振が多い。
直史は打たせて取るが、ツーストライクまで追い込んだら三振を奪いに行く。
それがかつてのスタイルで、今でもそれは間違っているわけではない。
だが勝負どころの試合では、圧倒的に奪三振が多くなっている。
二試合連続で20奪三振以上というのは、上杉でも数えるほどしかやったことがない。
もちろん、あるだけですごい。
本当に重要な試合での勝負強さは、どちらの方が上であるのか。
難しい問題だが、状況の多さでは直史であろうか。
もっとも上杉はやはり直史のように、削られて負けていることが多い。
だいたいチーム事情を見れば、直史が有利である場合が多い。
そのあたりを考えると、単純にどちらが上かは断言できない。
少なくとも直史は、自分の方が上だなどという発言は絶対にしない。
お互いをかなり正確に理解していても、どちらが上かなどということは絶対に言えない。
そもそもそういうことは、少なくともお互いが、引退してからようやく決めるようなものであろう。
数字上どちらが優れているか、というのは確かに分かりやすいかもしれない。
だが数字だけを言うのならば、上杉はチームを優勝まで導いた回数で直史を上回る。
ピッチャーとしての実力などというのも、全体を見れば断言など出来ないのだ。
そして八回の裏、上杉はまたも三者凡退でレックスを抑えることに成功する。
球数はわずかに直史よりも多いが、それでも平均を大きく上回るなどということはない。
普段は使っていないスピードのストレートは確かに使っている。
だがそれでも、まだ限界は遠いように思える。
八回が終わって、共にランナーが出ない。
つまり両者パーフェクト継続中。
一本ぐらいは内野安打やポテンヒットが出てもおかしくないであろうに、どうしてここまでランナーさえ出ないのか。
完全に試合が膠着している。
何がこの状況を打破するのか、それはもう分からない。
異常事態だと、スタンドさえもが理解している。
両者無得点で最終回へ、ということはないではない。
だが双方のピッチャーが、共にパーフェクトのまま最終回に突入する。
こんなことは今までに見たことがない者がほとんどであろう。
そう、あの試合を見ていた者以外は。
(レギュラーシーズンの試合とは違うけどな)
ポストシーズンの試合は、一試合当たりの重要度が高い。
この試合は最悪、引き分けでもいい。
残り二試合のうち、どちらかを勝てばファイナルステージ進出だ。
ただどちらのチームも、ベンチはこんなことを想定していない。
たとえ引き分けだとしても、12回まで投げさせてしまったとする。
するとライガースとの初戦で投げるとしたら、中三日で投げることとなる。
12回まで投げて、中三日で先発。
悪い冗談である。
九回の表、直史はマウンドに立つ。
九回からはずっと、後攻のレックスが精神的に有利になる。
サヨナラのチャンスは、裏の攻撃がある側にしかない。
(先に点を取った方が勝つ、という状況はずっと変わらないかな)
上杉は九回を投げて、100球に到達するだろう。
だが他のピッチャーにこの舞台を任せるわけがない。
他のピッチャーもさすがに、ここで代わりに投げるのは嫌であろう。
スタンドの応援が、少し小さくなっている。
今、目の前で繰り広げられているのが、試合ではないと気づいているのだろう。
これはまさに奇跡である。
かつて同じ投手同士が、一度だけ成立させた記録。
共にパーフェクトを達成したにも関わらず、条件を満たさなかったがゆえに、両者にパーフェクトがつかなかったという試合。
二度とあるはずがない伝説であり神話が、今また再現されようとしている。
これはもう、スポーツではなく芸術である。
下位打線相手であるが、スターズは代打を出してこない。
裏のレックスの攻撃を警戒していると言うか、おそらく代打を出すとしたら、12回であろう。
そしてその裏には、守備固めの選手を出す。
代走もしっかりと使ってくるだろう。
ただここは、まだスタメンのまま。
完全に延長を覚悟している。
それは正解だろうな、と直史は考える。
下位打線であっても、油断をしてはいけない。
ファールボールを三球打たせて、その三球目がキャッチャーフライとなった。
これで25個目のアウト。
あと二人片付ければ、ようやく折り返し地点だ。
その最後の一人が、なんだか面倒そうではあるのだが。
チェンジアップを空振りして、ここも三球目で三振。
ツーアウトまではあっさり取れた。
だがラストバッターというのが上杉というのは、なんとも運命的ではないか。
(勝負をかけるつもりなら、わざと歩かせて次で勝負、というのも手段だろうけど)
そんな小賢しいことをしていては、おそらくこの試合には負ける。
わずかでも隙があれば、そこを突くべきであろう。
しかし無理に隙を作ろうとすれば、逆にそこを突かれてしまう。
名人同士の千日手に近い。
お互いに自陣を固めて、相手のミスを待つ。
もちろんそんなミスなど、あっても無理やり埋めてしまうのが上杉だ。
お互いに一発が出れば終わる。
それを承知した上で、全力を出していく。
ラストバッターの上杉がバッターボックスに入る。
まだ試合は終わらないだろう。
なので当然ながら、上杉に代打などは送らないのだ。
上杉としてもさすがに、直史から都合よく打てるなどとは思っていない。
ホームラン以外であればおそらく、得点にはつながらない。
分かってはいるが、フルスイングしていくしかない。
とにかく振らなければ、何も起こらないのは確かなのだから。
そう考えて、ボール球を二つ振らされてしまった。
(こんな時でも、完全に冷静に組み立ててくるんだな)
上杉のバッティングでは、当てることすら難しい。
どこか一点に絞っても、そこ以外に投げられたら終わりだ。
直史から打つのはほぼ不可能。
それでも最後のボールは、ゾーンに投げられてくると予想。
そしてどこで空振りや見逃しを取ってくるか。
(インハイかアウトロー)
あるいは直史なら、こんな上杉の思考すら、読んでしまっているのかもしれない。
だからといって何か、他のものにまで注意するわけにはいかない。
上杉のバッティングで打てる範囲というのは、かなり限定的なのだ。
直史としても、上杉に関しては油断をしない。
もうバッターとしては怖くない存在と、数字は教えてくれている。
だが上杉もまた、運命に導かれたような存在であるのだ。
お互いの持つ、技術やフィジカルではなく、純粋に個体としての力の勝負。
そう考えるならば、上杉を警戒しないはずはないのだ。
直史はここで、投げるボールを決めていた。
ある程度は上杉の予想の範囲であるかな、とは思う。
だがその予想を少しだけ上回って、封じていくのだ。
セットポジションから投げるのは、ストレートである。
上杉の予想していたコースに、そのストレートは投げられる。
ホームラン狙いのフルスイング。
だがボールはそのバットの上を通り過ぎる。
ゾーンから外したボール球。
それをスイングして、上杉は三振したのだ。
スタンドにざわめきが戻ってきた。
九回を81球19奪三振で、ランナーは一人も出していない。
しかしパーフェクトは成立していない。
パーフェクトはあくまでも、その試合を勝利した時点で記録されるのだ。
もちろん参考記録としては残るであろうが。
直史はベンチに戻ると、すぐに水分や糖分を補給した。
九回の裏は、直史に打順が回ってくるのだ。
下位打線でサヨナラホームランでも出ないかな、などと直史は思ったりする。
しかしこの試合の流れは、どうしたら動くのか。
どうもエラーも出ないし、一発も出そうな流れではない。
外野にまでほとんどボールが届いていないのだ。
完全に膠着した状態なのは間違いない。
直史としてはもう、ここからどうすれば試合が動くのか分からない。
上杉にも動く気配がないのだ。
とりあえず、バッターとしての準備には入る。
さすがにレックス首脳陣もここで、直史に代打を送るようなことはしない。
今、神話の誕生に立ち会っている。
その喜びを感じているのであろう。
上杉は下位打線を、連続三振で片付ける。
(ここでまだ簡単に160km/hが出るんだもんな)
直史としては、その体力が羨ましい。
上杉は必要以上に直史のバッティングを警戒はしない。
ど真ん中に三球投げれば、それでいいのだ。
球数的にはむしろ、打ってきてくれた方がありがたいぐらいだ。
しかし直史は当然のように、バットを振らない。
マウンド上の上杉と視線は合わせるが、これは二人の勝負の形ではない。
それをお互いに了解しているのだ。
見逃し三振でスリーアウト。
延長戦に突入である。
理解不能の記録が、またも成立した。
史上二回目のことであり、そしてそのピッチャーは両者とも前回と同じであった。
これを見ていた観客や視聴者は、むしろ上杉の力に驚いたことだろう。
直史はシーズン終盤に二試合連続でパーフェクトなどを達成している。
だが上杉は、ノーヒットノーランさえもなかったのだ。
しかしここで、パーフェクトをしてくる。
上杉ならばやってもおかしくないと言えるのは、それなりに古参の野球ファンである。
既に全盛期が過ぎたことは、明らかであったのだ。
それなのにこの決戦において、パーフェクトを成立させてしまう。
そして一点も入っていないので、まだ正式なパーフェクトには至っていない。
こんな完璧な試合が、まだパーフェクトでない。
ピッチングが完璧すぎると、こんな事態が発生してしまうのか。
変な笑いが浮かんでしまう者もいるだろう。
勝利には近づいている。
奪三振は直史が19で上杉が17と、さほどの差はない。
昔ならこの数は、おそらく逆であったろうが。
それよりも重要なのは、球数の差である。
直史が81球で、上杉はもう107球に達している。
全盛期の上杉であれば、150球でもまだ限界は遠かった。
しかし今年はおおよそ、多くても110球程度で交代している。
果たして12回まで、上杉は投げきることが出来るのか。
直史にしても、12回まで投げるのは、球数だけを見れば厳しいかもしれない。
だが問題は数ではなく、その内容であるのだ。
直史は無理なストレートを投げず、主に下半身を使ってホップ成分を増している。
肩肘への負担はそれほどではないのだ。
対して上杉はどうであろうか。
もちろん上杉も、超人であることは間違いないが。
また参考記録になってしまった。
苦笑するでもなく、直史は10回の表のマウンドに登る。
勝負がつくまでパーフェクトを達成したことにはならない。
これで高校時代、二度のパーフェクトを逃している。
タイ・ブレークに突入したら、問答無用でパーフェクトではなくノーヒットノーランになるというのは、納得しづらいものがあった。
それに上杉とも同じように、引き分けでパーフェクトが不成立となっている。
今さらどうでもいいことではあるが。
四巡目ともなると、普通ならバッターもピッチャーのボールに慣れてくる。
たとえ相手が上杉であっても、試合も終盤となれば、少しはヒットが出るのだ。
しかし直史は違う。
むしろバッターに情報を与えることで、より打ち取りやすくする。
延長戦に入っても、その原則は変わらない。
(ここからどうなるか)
エラーなどのささいなことから、勝負は決まってしまうかもしれない。
一番末永の、カットしようとした打球が、内野のファールフライとなる。
少しだけ粘られたが、問題のない範囲だ。
呼吸を整えて、次のバッターに相対する。
スターズも粘ってはくるのだが、それなら試合の開始から、もっと徹底してくるべきであったろう。
しかし比較的粘ってきても、結局は軽々と投げてくるのが直史だ。
完投の数を思えば、そのスタミナを疑うのはおかしい。
実際はスタミナではなく、技術によるものなのだ。
球数を多くせず、そして抜いた変化球を上手く使う。
そうやって直史は、投げるボールにかける力も抑えて、ずっと投げてきた。
フィジカルエリートと戦うために。
柔軟性などのフィジカルについては、他の誰よりも上であったという、そういうフィジカルの強さはあったのだが。
事故を防ぐためには、三振が一番いい。
ただ伸びるストレートは上手く合わされると、かなり飛んでしまうことも確かだ。
内野ゴロを打たせると、イレギュラーバウンドと送球ミスの可能性があがるので、フライの方が危険性は少ない。
もっともフライはホームランにつながるが、ゴロはどうやってもホームランにつながらない。
そのあたりのことも計算して、考えなくてはいけないだろう。
ストレートは決め球として認識されつつある。
なのでここは、スルーを使う。
二番馬上に対しても、内野ゴロを打たせてツーアウト。
これであと一人封じれば、次はサヨナラチャンスの10回の裏である。
ただこういう場面でこそ、エラーなどが出たりするのだ。
ここで直史は、三球連続でストレートを投げた。
最初の二球はファールであったのに、三球目は空振り三振。
150km/hは出ているが、単純にそんな、球速だけの話ではないだろう。
20個目の三振であるが、球数を11球も使ってしまった。
打たせるなら打たせるで、三球目までにどうにかしないといけない。
それに追い込んだのだから、すぐに三振を奪いにいけばいいのだ。
ただ直史は、確かに球数は多くなったが、それでもまだ許容範囲内。
(92球か……)
甲子園でパーフェクトをした決勝は、150球を投げていた。
MLBで唯一負けた時は、14回まで投げている。
(あの時はどれぐらい投げてたかな)
連投で投げていたので、単純に比較も出来ないのだが。
そんな球数よりも重要なのは、疲労度である。
上杉が疲労していなければ、結局は0-0のままで試合は終わりかねない。
それならそれはそれで、レックスの有利になるのだが。
怪物と怪物の戦い。あるいは超人と悪魔の戦い。
本格と技巧の戦い、というのは間違っているだろう。
ピッチャーの到達点として、どちらがより高いところにいるか。
いや、人間として肉体的、思考的、精神的にどれだけ、人外に近いところにいるか。
そんなでたらめな勝負を、二人はしているのだ。
だがそこに現れる登場人物が、全てただのモブなわけもない。
いくら高みにいようと、同じ人間であるのだ。
レックスの一番左右田は、今年がプロ入り一年目で、チーム事情からシーズン途中から一軍のスタメンとして使われ始めた。
そして長くショートを守っていた緒方から、その座を譲られたのだ。
ショートでありながら、さらに先頭打者でもある。
一年目でこれは大成功であり、来年の年俸は三倍にはなるだろう、と見られている。
一年目が安すぎたというのはあるが。
初回の先頭打者として、不甲斐なく三球三振をしてしまった。
その後の緒方は、あれほど粘ったのに。
(ただでは倒れないぞ)
正直なところ、クリーンヒットは狙えない。
だが左右田は、打率も三割ぎりぎりのところであるが、それ以上に出塁率が高いのだ。
上杉のコントロールは悪くない。
むしろNPB全体の中でも、上位に入るであろう。
ただそれはストレートなどの速球であって、チェンジアップとカーブは基本的に、緩急差を活かすためにしか使わない。
ならばそれを狙えばいいのだろうが、やはり速球がイメージにあると、腰の入ったスイングは出来ない。
小手先のパワーだけでは、遅い球をスタンドにまでは持っていけない。
速球にとにかく食らいつく。
左右田のその姿勢は、球数を増やす。
だが上杉としては慣れた手合いであるし、ひたすら粘る姿は嫌いではない。
そしてチェンジアップを落としてボール判定されても、それは当然のことである。
最後に全力のストレートを投げれば、かすることもなく三振が奪える。
延長に入ってなお、165km/hが出せているのだ。
最後には三振になった左右田であるが、その肩をぽんと叩いて、緒方はバッターボックスに向かう。
自分なら打てるという自信があるわけではない。
ただもう四打席目ではあるのだ。
粘ってくれたおかげで、上杉は110球を超えた。
それでもまだまだ、完投の可能な範囲であろうが。
(ここで勝っても、まだ先があるんだ)
12回引き分けなど、直史に負担がかかりすぎる。
ライガースに勝つためには、直史の最低二勝は絶対に必要だ。
ここで削られすぎていては、ライガース戦で使えなくなる。
もっともそれは、スターズも同じなのであろうが。
戦略的に考えれば、直史と上杉は当てるべきではなかったのだ。
一勝一敗で、第三戦で決着をつける。
結果論になるが、そうすれば二人はファイナルステージでももう少し、楽に投げられただろう。
この10回も、既にワンナウトになっている。
緒方としても、自分のバッティングの一振りで決着がつくとは思っていない。
だがやれることは全てやるべきだ。
ただでさえレックスは、裏の攻撃なので少し有利なのである。
つまるところ、12回に直史の打席が回ってきたら、そこに代打を出すことが出来る。
しかしスターズにはそういうことは出来ない。
(ここで削りきる!)
緒方の執念は、あくまでも現実的なものであった。
これまでの人生でどれだけ、上杉は待球策に遭って来たであろう。
結果的にはそれが原因で、敗北につながったことは確かにある。
球数制限によって、マウンドから降ろされてのことだ。
(プロのマウンドに球数制限はないぞ)
そう思って投げるのだが、緒方のバッティングは相当に粘ることに特化していた。
ここであっさりと歩かせて、次のバッターでアウトを取ってもいい。
緒方は本当に、昔から粘り強いバッターではあるのだから。
しかしここで、全力で投げていくのが上杉だ。
緩急をつけられたそのボールに、緒方は当てるのが精一杯。
だが幸いなことに、その当てるだけで精一杯のボールが、ファールグラウンドに飛んでいる。
あまりの球威に手が痺れるが、それでもどうにか当てていくのだ。
ここでツーアウトになったとしても、次のバッターには少しだけ弱体化された上杉が相手をするというわけだ。
10球投げさせた。
もう緒方の手のほうも、痺れてまともにバットを押し込めない。
だが上杉もいい加減に、スタミナを消耗しているだろう。
歩かせた方が楽だと、分かっているはずなのだ。
それでも上杉は、力で対抗する。
その結果、かつては肩を壊してしまったのだが。
ここが直史と上杉の、究極的な違いであったかもしれない。
上杉にはピッチャーの美学があるが、直史には勝利への執念がある。
どちらが上というのは言いにくいが、勝つためのピッチャーとしては直史の方が上であるのだろう。
だが人々は上杉のピッチングに対しては、敗北したとしても満足感を得る。
上杉がそこまでやって駄目だったのなら、他の誰がやっても駄目なのだ。
そういった敗者の美学が、上杉の背中にはある。
11球目、167km/hのストレートを空振りして三振。
緒方は天を仰いだが、これでもう充分だろう。
少なくとも直史はそう思ったし、首脳陣もそう思った。
今のレックスの首脳陣が考えているのは、12回の裏で決着をつけるということ。
12回の裏には、もうレックスのサヨナラしか勝つ方法はない。
もちろんそれまでに、直史が点を取られる可能性はあるが。
12回で引き分けなので、その裏には下位打線に代打を全て送ればいい。
これはもう守備をする必要がない、12回裏のレックスのみに許された手段だ。
もちろん直史にも代打を送る。
既にベンチの裏では、そのための準備が始まっていた。
この10回の裏も、おそらく無得点どころかランナーなしに終わる。
11回はまだしも、クリーンナップからの攻撃ではある。
しかし12回はおそらく下位打線なのだ。
レックスは結局この回、上杉に20球も投げさせることに成功した。
これはレックスのバッターがカットに専念しだしたと言うよりは、上杉の球威が落ちてきたのではないか。
しかしそれでも165km/hオーバーを出して、まともに前には飛ばさせないのだ。
(引き分けで充分だと思おう)
直史はもう、そうやって割り切っている。
上杉相手にこの試合展開から、一点を取れるイメージが湧かない。
ならばあとは、先発としての対決のみだ。
11回の表は四番から始まる。
当たり前だ。一人のランナーも出ていないのだから。
(12回にはスターズも代打を出して、裏には守備固めの選手を出してくるかな?)
ただ上杉には代打を送れないだろうが。
その点ではやはり、直史に代打を送れるレックスの方が、ほんの少しだけ有利だ。
(ただ、ここでランナーを出すのもまずい)
四番から始まるこのイニングなのだ。
下手に球数を節約することを考えたりはしない。
上杉は直史より、30球以上も多く投げているのだ。
(やっぱり球数を多くしないピッチャーの方が、三振をばんばん取るピッチャーよりは上なのかな)
もっともその直史は、ここまで上杉より多くの三振を奪っている。
果たしてどういう決着がつくのか。
打たせたボールは、セカンドの名手緒方の守備範囲。
わずかに気を抜いた直史だが、まさかのことが起こった。
緒方の送球ミス。ファーストが横っ飛びに取ったので、完全な悪送球ということにはならなかった。
だが明らかな送球ミスで、四番のボーナムがランナーとして出てしまった。
(何が起こった?)
緒方が今の、簡単なボールの処理をミスする?
ありえないであろう。
それはベンチもそう思ったらしく、タイムがかけられる。
そして緒方の状態が分かった。
あの上杉のボールをカットしまくっていたせいで、手の痺れが完全には取れていなかったのだ。
本人もそれを認めて、首脳陣は難しい顔をする。
多少の痺れはあっても、まさか送球ミスするとは、緒方も思っていなかったのであろう。
改めて確認しても、それ以上の深刻な事態にはなっていない。
交代させるか否か。
ともかくこれで、エラーによって直史のパーフェクトは途切れてしまった。
だがそれはどうでもいいことで、スターズは代走を出してきたのである。
ノーアウトから、四番が出塁し、そして代走の切り札を出す。
五番六番と、まだそれなりに打てる選手が並んでいる。
スターズはここを、最初で最後のチャンスと見たのだろう。
確かにどうせ、もう一度四番には打席は回ってこない。
ならば代走も使いどころだ。
分水嶺である。
×××
次話「落果」
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