第105話 エースの形

 五回の表、スターズの攻撃。

 四番のボーナムからの打線であるが、直史は初球のストレートで空振りが取れる。

 ボーナムとしては高めの球を狙ったつもりであったのだが、実際には高すぎるストレートであった。

 ホップ成分が高い、というボールなのであろう。

 しかしボーナムはしっかりと説明を受けたが、それでもこのホップ成分の意味が分からない、

 正確には直史が、何種類かのストレートを使い分けているという点であるが。


 スピードは確かに、目で追えるものなのだ。

 しかしスイングすれば、ボールの下を振ってしまうことがほとんど。

 ただ時折、内野ゴロになりそうなストレートも投げている。

(ミスターパーフェクト……)

 アメリカ人であるボーナムは、当然ながら直史のピッチングを知っている。

 MLBでの対戦などはないが、それでもあの時代、MLBでは最強と言われたピッチャーであったのだ。


 五年連続サイ・ヤング賞受賞というのは、当時は最多連続記録であり、現在でも受賞回数では歴代三位タイだ。

 ただ五年のキャリアの全てでサイ・ヤング賞を受賞したというのは、もちろん直史だけである。

 たった五年のキャリアでありながら、特例として野球殿堂入りを認めなければいけないという存在。

 間違いのないレジェンドと、自分は戦っている。


 そして全く歯が立たない。

 それが悔しいということではなく、感動してしまっているあたり、もうどうしようもないのだろう。

 こんなピッチャーを打てるバッターがいるはずない。

(いや、一人いたのか)

 そう、大介がいる。

 あちらはあちらで、たったの12年間で、ホームランの記録を塗り替えてしまった。

 二試合に一本以上の割合で打っていたシーズンもある。

 そんな化物でないと、これには勝てないのか。

 いやそんな化物でも、勝率はよくなかった。




 ボーナムをキャッチャーフライで打ち取った直史は、続くバッターたちもあっさりと打ち取っていく。

 ただこのイニングは、10球投げてしまった。

 もちろんピッチャーとしては、1イニング15球ぐらいで普通、という常識は知っている。

 だが普通にやっていたら、上杉には勝てないであろう。

(勝たなくてもいいけど、引き分けには持ち込む)

 あるいは延長戦まで投げれば、さすがに上杉もパフォーマンスが落ちてくるだろうか。

 やってみないと分からない、というのが正直なところだ。


 ベンチに戻ってくると、やはり変な目で見られてしまう。

 もう慣れたが、化物を見るような目だ。 

 見られる方が慣れているのだから、見る方もそろそろ慣れてほしい。

 補給をしっかりと済ませると、こちらの攻撃の状況を見る。

(困ったな……)

 レックスの選手は、もう直史のノーヒットノーランなどには慣れてきて、変な緊張はしにくくなっている。

 それに比べればスターズは、もうちょっと緊張してもおかしくないはずだ。

 今の状況は、あの12回パーフェクトをなぞっているのだから。


 しかし上杉の背中を守るチームメイトに、そんな緊張は見られない。

 いや、いい意味での緊張に満たされていると言うべきか。

 つまり集中しているのだ。

 このあたり人望の差と言うか、人間の格の差と言うべきか。

 純粋な技術や能力ではない、上杉の直史を上回る点だ。


 お互いに完全な全盛期ではない。

 直史の場合は、ほとんど劣化していない、などと言われるかもしれないが。

 上杉は明らかに衰えはしたが、今年は復活し、特にシーズンが進むごとによくなってきた。

 この上杉に、果たして勝てるのだろうか。

(勝ちたいかな?)

 直史は思った。




 直史は試合に勝つことばかりを考えていた。

 そして肝心の上杉と戦うということは、上杉に勝つことだとは思っていなかった。

 この二つは別のものとして考えていたのだ。

 削りに削って、そしてどうにか点を取ってもらう。

 あるいは上杉が降板するまで自分も完封を続ける。

 上杉という存在に勝つというのは、ちょっと自分の中でも良く分からない。


 投げ合いであるのだから、結果はちゃんと出るはずなのだ。

 しかしそれは、お互いの援護事情も違う。

 これをピッチャーの対決というのとは、少し違うような気はする。

 だがお互いにずっと、無失点に抑えている間は、ある程度比べてもいいと思う。

 直史は試合に勝ちたいと、つまり勝たなくてはいけないとは思っていたが、上杉との勝負を意識していなかった。


 現役にして既に伝説のピッチャーではある。

 だが復活したと言われる今年にしても、全盛期からはほど遠い。

 それに勝ちたいのか、勝って何か名誉になるのか。

(全盛期ではないのは分かってるけど……)

 これは、乗り越えるべきものだ、と直史は思った。


 思えばあの伝説の一戦以来、今年も対戦はしていたが、お互いが調整中であった。

 野球の全てを終わらせるのなら、上杉との決着もつけるべきだ。

 全盛期は過ぎている、などということを理由にしてはいけない。

 直史にもブランクはあるのだから。

(勝って、終わろう)

 直史の意識に、より強い目標が設定される。

 上杉に勝つのだ。




 四番から始まった打順であっても、上杉もまた関係ないとばかりに投げてくる。

 163km/hぐらいは普通に出してくるので、なかなかミートするのは難しい。

 これにムービングとチェンジアップがあるので、粘ることさえ難しい。

 特にこの回は、チェンジアップを決め球として使って、三振を二つ奪う。

 直史よりは球数は多いが、この程度ならば誤差だろう。

 しかし五回が終わって、もう試合の半分は終わっているのだ。

 それなのに一人もランナーが出ていない。


 グラウンド整備の間に、集中力を切らすような殊勝な人間らしさを持つ二人でもない。

 パフォーマンスが行われているが、直史はただじっとしている。

 そして肉体がどういう状態にあるか、わずかな筋肉の痙攣から確認することが出来る。

 まだ疲労はない。

 充分に考えたとおりに体を動かすことが出来る。

 だがどれだけこれを維持することが出来るか。


 忘れてはいけないのが、この試合に勝ったところで、シーズンはまだ先があるということだ。

 かつての黄金期レックスであれば、横綱として迎えうつ立場であった。

 しかし今年は、ライガースからの下克上を狙う立場であるのだ。

 六試合で四勝しなければいけない。

 少なくとも二試合は投げる必要があるだろう。

 かつての日本シリーズよりも、ずっと日程的には辛いのだ。あちらは移動日が休養日を兼ねている。


 先のことを考えすぎである。

 さすがにライガース相手には、自分だけで勝てるとは思わない。

 そもそも他のピッチャーでも、大介には打たれながらもなんだかんだ、それなりに勝っているのだ。

 だから今は目の前のことに集中しなければいけない。

 上杉に勝って、ファーストステージはなんとか突破する。

 あまり先のことを考えすぎていては、勝てない相手であるのだ、上杉は。




 六回の表が始まる。

 ここは下位打線からであるが、もちろん気を抜いたりはしてやらない。

 バッター上杉に対しても、ここで圧倒しておけば、少しはピッチングに影響が出るかもしれない。出たらいいな!

 あまり期待は出来ないが、七番バッターも三球三振で打ち取る。

 上手く打たせて球数を抑えたいのだが、フェアグラウンドに情けないゴロを打つことはなく、しっかりとカットはしてくるのだ。

 ただその後のストレートにはついてこれなかったが。


 八番バッターに対しても、ここは大きな変化球を使って、空振りを取っていった。

 連続で三球三振を取り、そしてバッター上杉である。

 バッターボックスの中の上杉は、さすがにマウンドの上ほどの威圧感はない。

 だが下手にバットに当たってしまえば、それだけでスタンドに持っていく力はある。

 いっそのこと歩かせて、走らせて体力を削ろうか、などとも思ったりする。

 しかし上杉は、直史を信頼して、自分が進塁できないことを悟るだろう。

 このあたり国際大会などで、一緒のチームになったので分かるのだ。


 お互いを理解している。

 もっとも直史は上杉を理解しているが、上杉は直史のことを、理外の存在として考えている。

 どれだけ優れたピッチャーであったとしても、直史のようなピッチングをするのは異常なのだ。

 活躍期間が短いと言っても、MLBでの五年間があれば、それだけでもう充分だ。

 上杉でも年によって、何試合かは負けることがある。

 だが直史が負けたのは、本当にあのたった一試合だけ。


 あれだけの日程で投げれば、ベストピッチが出来ないのも当たり前だ。

 上杉はそう判断して、一発だけを狙う。

 ストレートならば打てる。

 そう思っていたところに、本当にストレートがきた。

 だが上杉のバットには当たらず、ミットの中へ。

(ストレートも打てんのか)

 結局はカーブをひっかけて、内野ゴロに終わった。




 いい感じになってきた。

 上杉が下手にボールを見てくることなく、打ってきたのが良かった。

 これで六回が終わった時点で、球数は52球。

 全てを三振で打ち取った時の54球よりも、少ない球数である。

 もっともそういった数字や、はたまたパーフェクトを継続中であるというのも、全ては試合に勝たなければ意味はないが。


 この調子で投げていけば、10回を終わってもまだ、球数は100球に達しない。

 12回で引き分けにはなるのだから、およそ120球ぐらいまでに抑えることが出来るか。

 相手の打順次第だが、あるいは最後は、オースティンに任せてしまってもいいかもしれない。

 もっともオースティンは、明日以降の試合にも出番があるだろうが。


 レックスも六回は下位打線。

 そして直史の目の前で、三振に倒れるバッター。

 だがとりあえず、三球で終わることはなかった。

(緒方も二打席目以降も、三球では終わってないしな)

 直史だけは三球で終わっても仕方がない。


 下手に打ちにいって、バットに当たるのが怖い。

 右手が少しでも痺れたら、そこで次のピッチングが心配になる。

 だからバッターボックスの中では立つだけで、上杉を見上げていた。

 自分にはこういった威圧感は、どうしても身に付かないだろうなと思いながら。

 実際には氷のような威圧感があるのだが。




 全く打つ気のない直史を相手にしても、上杉はしっかりと投げてくる。

 もちろん普段よりもさらに速い、などということはないが。

 バッターボックスの中で完全に気配を消していても、存在感がある。

 完全にバッティングを放棄していても、打てないわけではないというのは、高校時代の成績には出ている。

 もっとも戦力が整ってくると、やはり打たない打順になったが。


 自分の役目を、自分でしっかりと認識している。

 打つのを免除されている代わりに、相手の打線を完全に抑える。

 まさに生まれながらのピッチャーだ。

 実際はピッチャーを出来るような人間は、本来バッティングも優れてはいるのだ。

 単純にピッチングにかかる労力が大きすぎるため、バッティングにかける時間を減らすため、打てなくなるだけで。 

 そもそも年間に25試合程度しか出場しないのがピッチャーで、経験も積まれることがない。


 プロテクターをしっかりと装着し、バッターボックスに入っている直史だが、もし当たりそうなボールが投げられた時に、避けることに集中している。

 上杉は故意に当ててくるような人間ではないが、直史でさえコントロールミスはたまにあるのだ。

 それが本当に危険なコースで、退場を食らった経験もある。

 今から考えれば、人種差別か自分へのアンチか、不当なものであったとも思う。


 当てる方が悪いのは当たり前だが、バッターボックスに入る限りは、自分も精一杯に準備はしておくべきだ。

 デッドボールは単純なダメージ以外に、メンタルを乱す場合がある。

 直史のようなピッチャーには効果的だと、考える者も多かったかもしれない。

 その点では報復上等のMLBでピッチャーはバッティングをしないだけ、ありがたかったとは思う。

 客観的に見れば、あっさりと三振でスリーアウト。

 双方共に、二巡目まではパーフェクトピッチングである。




 上杉はここまで、球数が一桁だったイニングがない。

 それに対して直史は、多くても10球まで。

 なのに三振の数は直史が多いという、不思議なことになっている。

 同じパーフェクトピッチングではあっても、その内容はかなり違う。

 直史は完全にバッターを掌の上で遊ばせている。

 そしてツーストライクになれば、ほぼ次で勝負を決めている。


 遊び球が極端に少ない。

 ゾーンで積極的に勝負しているのに、時々投げるボール球で空振りのストライクを取る。

 バットを止められても、それが次のボールへの布石になっている。

 落ちるボールを投げられた後のストレートを、ほとんど当てることが出来ていない。

 スターズ首脳陣はさすがに焦っているが、焦ったぐらいで打てれば苦労はないのである。

 一応は待球策は考えているのだが、初球にほぼど真ん中に投げてくるなど、あまりそれが通用する相手ではない。

 好き放題にされて、全く打つ手がない。

 せめてこの三巡目に、どうにかしなければ。


 直史は味方が点を取ってくれないということに慣れている。

 それこそ中学時代からそうだ。

 高校生になってからも、真田を相手にすると、左の大介とアレクがかなり厳しいので、延長までずっと完封し続けたりした。

 他のピッチャーからなら、おおよそ大介が打ってくれたのだが。

 もっとも上杉も、そういった試合には慣れているはずだ。

 高校時代、甲子園において負けた試合は、ほとんどが1-0であったはずだ。


 プロ入りして以降も、二人は1-0で勝っている試合がかなり多い。

 もっとも12回で引き分けになるので、そこは楽になったと言うべきか。

 逆に決着がつくまでやらないので、そのあたりはどう考えるか。




 直史は七回の表にも、変わらないピッチングを続ける。

 既に二打席目までに、様々な情報を撒いている。

 これを下手に参考にすると、逆に打てなくなってくる。

 試合前に集めていた、それまでの情報の統計の方が、よほど頼りになる。

 もっともその情報量が多すぎて、まともに運用するのは難しいのだが。


 直史のストレートが、異質であることは分かってきている。

 ただその異質さが、いくつかに分かれている。

 その異質なストレートを、本人が意図的に投げ分けている。

 ならば読み合いで一度ぐらいは当たるのではないか、とも思う。

 しかしそうすると、変化球を投げてくるのだ。


 カーブであるとタイミングを取るのが難しく、強振することが出来ない。

 当ててしまってかえって、フライやゴロになる。

 またゾーンにばかり気をつけていると、ボール球を投げてくる。

 高めのストレートなど、打てると思って振ったら高すぎのボール球、という例がかなり多い。

 しかしバッターボックスの中では、打てると思うように見えるのだ。


 ボールの回転数は、確かに平均より優れている。

 それに指先の感覚により、上手く回転軸も合わせているのだろう。

 しかしスリークォーターのフォームながら、わずかにそれを変えてきてもいるのだ。

 リリース位置が変わっていけば、当然ながら軌道も変わる。

 そんなストレートであると、やはり空振りしてしまうのだ。

 ストレートもまた変化球である。




 チャンスの七回、ラッキーセブンなどと野球では言う。

 確かに先発が完投していた時代は、このあたりで一度疲労のピークが来る。

 現在では球数にもよるが、六回ぐらいまでが先発を代える一つの基準となっている。

 ただ直史の球数は、まだ52球。

 一つの目安である100球にも、まだ全然届いていない。

 また直史は確かに、現時点でも体力はそれほど傑出していない。

 しかし精神力は、単純な体力の限界を凌駕する。


 集中力が途切れない限り、直史のピッチングが乱れることはない。

 先頭打者の末永は、またも二球でツーストライクに追い込まれていた。

 日本で直史はこれまで、ほとんど全てのバッターから、ホームランは一度しか打たれていない。

 例外は大介だけで、なので自分はまず塁に出ることを考える。

 ただその投げてくるボールは、また前の打席とは質が変わっている。


 疲労などは全く見えず、厄介なストレートを投げてくる。

 そしてカウントを取るのには、遅いシンカーなども左打者の末永には効果的だ。

 内角にも平然と投げてきて、それもゾーンすれすれ。

 当ててしまうかもしれない、という心配を全くしていない。

 プロのキャリアを通算しても、一度しかデッドボールを与えていないのが直史だ。

 当てないことは、直史にとってのプライドになっている。


 どうにか出塁出来ないか、などと考えている。

 そこに打てそうなストレートが入ってきても、手元でわずかに変化するのだ。

 ストレートと同じ速度なので、対応しきれない。

 内野ゴロから内野安打を狙っても、わずかに間に合わない。

 レックスの守備は二遊間が強いが、それ以外もしっかり中間守備で守っているのだ。




 三振を取る力がありながら、粘られそうだとすぐに打たせて取る。

 これもカットしてしまえばいいのだろうが、瞬間的に判断することは難しい。

 カットにばかり注意がいっていると、伸びるストレートで三振を取りに来る。

 それに意識がいっていると、スローカーブやチェンジアップでやられる。

 なんでも出来るピッチャーというのは、その試合の中でもパターンを切り替えて、また一球ごとに球質まで変えてしまう。

 そんなピッチャーが、これから増えていくのだろうか。


 新たなピッチャーのスタイル。

 だが直史の追随者というのは、今のところ出てきてはいない。

 そもそもどんなコーチであっても、これは止めるようなピッチングだ。

 常識的な肉体であれば、この出力を様々なフォームで投げるなど、故障の原因でしかない。

 直史の場合も、一応は肘の故障というものが過去にある。

 それでもスタイルを変えないどころか、さらに変化させていく。

 あるいは進化とさえ言えるだろう。


 この回も、残る二者に対しては、最後はストレートを投げた。

 空振り三振で、三者凡退。

 いまだにパーフェクトは続いている。

 それにしてもこの、高めのストレート。

 受けているキャッチャーの迫水が思うのもなんだが、いくらでも空振りが取れる。

 確かに球速以上に速く見える、何かを持ってはいる。

 だがその謎は、解明されても対応のしようがない。


 直史のピッチングには、不純物がない。

 その目的はひたすら、勝利することを優先する。

 強打者であっても抑えることが出来る。

 しかしそれはバッターとの対決ではなく、試合に勝つために必要なことだからだ。

 氷のように冷たく、最適解を求めていく。

 ずっとそんなピッチングを続けてきたのだ。




 七回の表も、全く試合が動かなかった。

 レックスのベンチは、これ自体には驚いていない。

 直史であれば、これぐらいのことは何度もやっている。

 ただ上杉相手に、ここまで手が出ないのは予想外であった。

 最終戦でも完封されたが、ここまでランナーが出ないということはなかった。

 いったい何が起こっているのか。


 本気の上杉が、さらに本気を出している、ということなのだろう。

 ただそれでも、前にそこそこ打球は飛んでいるので、ヒットなりエラーなりでランナーが出ないのは不思議と言えるかもしれない。

 もっとも上杉のボールは芯を外すと、バットの方が粉砕される。

 これは直史のボールにはない特徴である。


 直史は何も期待していない。

 チームメイトを信じていないのではなく、同じピッチャーとしてより強く上杉のことを信じてしまっているからだ。

 国際大会などでは、同じチームとして戦っている。

 その中で上杉は、ピンチの時にほど強いピッチングをしていた。

 たとえ衰えたとしても、大介相手には限界を超えるようなピッチングをしていた。

 今もそれと、ほぼ同じようなものであろう。

 この試合のために、燃え尽きるかもしれない。


 直史には、上杉の美学や価値観は分からない。

 だが同じピッチャーとして、エースとしてならば分かることもある。 

 自分が打たれたら負ける、という絶対的な責任感。

 そして自分が打たれなければ、敗北だけは絶対にありえない。

 失点さえしなければずっと、試合は続いていく。

 もっともスターズとしては、条件がレックス有利になっているので、ここはどうしても勝ちたいであろう。




 単純に考えればスターズは、上杉を直史に当てるべきではなかったのだ。

 上杉で勝って、直史に負ける。

 そこからあと一つ、どうにかして勝てばよかった。

 上杉で勝ち星を得られないというのが、致命的である。

 そこまで割り切って考えることなど、とても出来なかったであろうが。


 引き分けてしまえば、どちらか一つを勝てばレックスはファイナルステージに進める。

 この事実を果たして、しっかりと検討していなかったのか。

 もっとも上杉で直史に勝つことが出来れば、それはスターズが圧倒的に有利になる。

 単純な勝ち負けの問題ではなく、心理的な優位さというものであるが。

 それも計算してと言うか、上杉を信じて、スターズは上杉を第一戦に投げさせたのだろう。

 中四日などにリリーフもして、一年の疲れがたまっているだろう上杉に。


 もはやスターズの上杉に対する信頼は、信仰近いものである。

 もちろん実績からすれば、それも間違いではないのだが。

 ここ二年は、そこまでの圧倒的な存在ではなくなっていた。

 しかし二人のライバルが戻ってくると共に、元の力を取り戻している。

 まったく、少年漫画の主人公のような人間である。

 直史などはそう考えて、確かにそう思われても無理はないかな、などと思ったりしていたが。


 とにかく上杉の人生は劇的で、しかも日本人の好きな判官贔屓も入っているのだ。

 高校時代はついに全国の頂点に立つことはなく、しかし後に覇権を獲得するための戦力を残した。

 そして春日山が優勝したそのシーズン、プロ一年目の上杉は、プロの世界で日本一となり、多くの栄冠を手にすることとなった。

 そこから上杉の時代が続き、大介との勝負は全て名勝負となっていった。

 直史が乱入して、故障してしまったこともあったが。

 さらに復活したあたり、まさに主人公である。




 多くの人間は、上杉に憧れるだろう。

 直史に関しては、おそらく理解が出来ていない。

 ただ信者とも言えるおかしなファンは、直史の方に多い。

 上杉のファンに比べると、かなりクセがある。

 単純に応援するのではなく、その分析をして興奮する。

 直史の完全に文化系の経歴に、特殊な性癖を刺激された者もいるのかもしれない。

 ナオフミストという言葉はあるが、上杉には普通に熱烈なファンなどがいるだけである。


 ただ直史はそういった、ファンの声に対してはかなり冷淡である。 

 基本的には球場に足を運ぶ人間をファンとして重視していた。

 もちろんテレビ対応なども普通にしてはいたが。

 マスコミ対策として、言葉などは選んでいたが、とにかく事実しか口にしない人間であった。

 そして一番多かったのが「運がよかった」という言葉。

 MLB時代も神に感謝をだの、そういったキリスト教的価値観からは遠く離れていた。日本人ならたいがいはそうだが。


 こと野球に限って言えば、直史を神様扱いする日本人はいる。

 相手にとっては祟り神であろうが。

 だが日本の場合、死者を神とすることは珍しくない。

 戦没した人間などは、特にその傾向がある。

 そして性質が悪いことに、直史はそういった信者の祈りに、応えてしまうことが多いのだ。

 上杉があくまでも人間の英雄であるのに対し、直史は妖怪扱いとでも言えばいいのか。


 しかしこの七回の裏も、全く試合は動かない。

 上杉はこれまでよりやや力を入れて、165km/hのストレートを記録。

 奪三振二つを含む、三者凡退でイニングを終える。

 つまるところいまだに、この試合はパーフェクトが続いているのだ。

 完封はしても、今年はノーヒットノーランもしていない上杉。

 だが追い込まれれば、これだけの力を発揮する。




 八回の表が始まる。

 自分がどれだけ三者凡退を繰り返しても、上杉も同じことをやってくる。

 追いかけられるような気分がするが、上杉としてもあちらの視点から見れば、直史がどんどん先行しているように見えるのかもしれない。

 考えすぎるのをやめて、直史はマウンドに立つ。

 これはもう、先にランナーを出した方が負けるのではないか。

 そんなありえないことさ、頭の片隅では想定する。


 ここでレックスが負けるのは、チームとしてなら仕方がない。

 だが自分は絶対に負けない。

 負けてしまうことを、許されていない。

 直史はそれこそ非科学的であるが、そんな信念を今は持っている。

 自分は今、勝つためにここにいるのだ。


 四番から始まる、スターズの打線。

 一発の可能性は確かにある。

 なので基本はゴロを打たせるためのピッチングを行っていく。

 たまに投げる高めを、あちらは狙っているのだろう。

 それを承知の上で、高めに投げると、ボール球でも振ってくれる。

 どういう理屈でこうなるのか、直接対決してみても、ほとんど意味は分からないだろう。


 思ったコースよりも高めに投げられている。

 単純に言えばこれだけなのだが、なぜそれをゾーンに入ってしまっていると見るのか、そういったことをフォームのわずかな違いから読み取るのは難しい。

 リリースからの軌道を、調べてみれば理屈は分かる。

 だが実際にはボールはちゃんと落ちているのだ。

 それが浮き上がるように見えて、結局は三振。

 15個目の奪三振である。



×××



 次話「完璧であるが、完璧ではない」

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