第102話 栄光

 やはりこちらの方がしっくりくるな、と直史はユニフォームではなくスーツに着替えた。

 本日は沢村賞の選考と発表の日。

 もっとも誰が取るかなど、誰の目にも明らかであったが。

 パ・リーグも20勝に到達したピッチャーなどいないし、上杉でさえ防御率が1を切っていないのだ。

 沢村賞の選考基準を全てクリアしたピッチャーが、直史しかいない。

 そのためか発表は、選考が始まってすぐに出た。

 12年ぶり、三回目の受賞。

 歴代でも二位タイの受賞回数である。

 一位の上杉ははるかに遠いが。

 もっとも12年ぶりというのは、さすがに初めてのことである。


 スーツの似合う男だな、とホテルで準備された記者会見場に現れる直史。

 まずは一言、と言われたが直史も困るのだ。

「シーズンの終盤からは、どうでもよくなっていました。まだ戦いは終わっていませんので」

 ざわついた会見場であるが、直史としては本音である。

 たださすがに、このコメントだけで終わるはずもない。

 具体的に沢村賞を意識し始めた時期はいつか、という質問が飛ぶ。

「今年はシーズン序盤以外は全てパーフェクトを、沢村賞はシーズンの始まる前から目標としていました」

 このあたりの非常識さは、記者の言葉を失わせるものがある。

 だが事実だ。


 直史は完全に、自分の都合で野球をやっていた。

 ただ最後には、沢村賞も確定したであろう状況からは、ひたすらチームを勝たせることだけを考え始めたが。

 目標を途中で変更するのは、あまりいいことではないと言われる。

 しかし直史の場合は、目標を達成したので、そこから変更したわけである。

 戦略がブレブレなわけではない。


 記者側もなんとか上手くまとめようとはする。

 ここから全力で下克上を狙っていくのか、という質問が出た。

「それ以外は考えていません」

 これまでの論理的で冷徹な、一歩引いた感じの直史とは、明らかに違うという印象を受けていた。

 なおこれを野球チャンネルで見ていた大介は、苦笑するだけであったが。




 沢村賞の選考委員は、選考の過程について質問されたりもした。

 だが返答はほぼ全て一緒である。

「他に誰を選べというんだい?」

 確かにその通りで、直史以外を選べるはずがないのだ。

 ただテレビ中継などを見ていて、直史の態度に顔をしかめたものと、それでこそと思った者に分かれたりはした。


 直史は沢村賞を得たことについて、何も感慨を抱いていない。

 名誉だとも、光栄だとも、そういった言葉は何も出てこない。

 だがそれは、まだ戦闘体制を全く解いていないからだ。

 ここからが本当の戦い。

 チームの優勝を考えれば、自分自身の栄誉のことなど、考えるべきではないとすら思っているのではないか。

 確かに直史は昔から、チームの勝利を重視していた発言が多い。

 しかし今年は印象が違う、というのは多くの者が感じていた。


 この中継などは、瑞希は後に目にすることになる。

 そして単純に、パーフェクトを達成したからどうでも良くなっただけなのに、とある程度雑な受け取り方をしたものだ。

 同時に見ていたセイバーは、直史が久しぶりに本気になっているのだな、と感じたりした。

 以前にここまで直史が闘志を見せるのはいつのことか。


 ライガース相手のパーフェクト、直史は吼えていた。

 ライガース相手に、ようやくシーズン当初の目標を達成したから、というのはあるだろう。

 しかし次の試合も続いた圧倒的なピッチングは、誰のためのものだったのか。

 少なくとも明史だけのためのものではなかったと思う。




 この直史の沢村賞の記者会見は、おおよそのレックスの選手も見ている。

 自軍のエースが何を言うのかは、当然ながら気になっていたからだ。

 だいたい何を言うのか、予想していた選手もいたが。

 そこで明らかになったのは、想像以上の直史の闘争心である。

 何人かはスターズ戦のベンチの中で、直史が何を言ったかを知っている。

 ここまでの栄光を手にした人間が、満足など全くせずに、この先の勝利を強くイメージしているのだ。


 これだけの強い意志があってこそ、あの成績を残すことが出来るのか。

 マウンド上で咆哮した男が、既にもうそんなものは忘れてしまっている。

 あの冷徹な仮面の下にある、強烈な闘争心。

 考えてみればそういうものがなければ、それほどの結果など残せないだろう、とは思えるのだ。

 もちろん直史との付き合いが長ければ、これに違和感を抱くものも多いが。


 三日後にはクライマックスシリーズのファーストステージが始まる。

 舞台は二位通過のレックスのホームである神宮。

 先に二勝するか、レックスが一勝一分となった時点で通過するチームは決まる。

 そしてこの直史の言葉は、間違いなく味方を鼓舞するものであった。

 慣れないことをしているなとは、本人が一番思っている。

 だが普段はやっていない人間がやるからこそ、効果があるというものもあるのだ。


 不良が捨て猫に優しかったりするのと同じである。

 ……いや、違うであろう。

 ただ意外性の影響力というのは、それなりに強いのは確かであった。




 沢村賞の記者会見は終わった。

 ただ沢村賞受賞の言葉などはほとんど聞くことが出来ず、直史は残る試合に意識を向けているのだと、多くの人間が理解した。

 まだ今年のシーズンは終わっていない。

 むしろこれからが始まるのだ。

 レックスは直史が投手五冠を達成し、オースティンがセーブ王を獲得した。

 だがそれは全て、レギュラーシーズンの成績だ。

 ポストシーズンに、そういったものは持っていけない。


 確かに個人成績は大事だ。

 だがポストシーズンで優勝することは、それとは全く別の話。

 直史のMLB時代の年俸などを知っていれば、もう稼がなくてもいい人間の道楽などと思ったかもしれない。

 しかし直史は今年、一軍最低年俸でやっていることを、多くの者が知っている。なにせ本人が公言し、球団もそれを否定しなかったため。

 五年間のブランクと、40歳の年齢というのはそういうものだ。


 もっとも来年は20倍以上にはなるであろうし、あるいはMLBにまた行くのかも、などと思う人間もいるかもしれない。

 この一年、直史は自分の肉体の調整のために、家族とすら離れてすごしていた。

 元は家族と過ごすために、平気でMLBの高額年俸を捨てたのだから、いかに世間の評価軸がずれているか、というものであろう。

 直史が実業家としても、それなりに成功しているということを、世間は知らないし興味もない。


 プロ野球に限らず、スポーツの興行は虚業である。

 ただそういったものを全て排除していけば、そこから人間性は失われるだろう。

 音楽もそうだし、絵画や彫刻といった芸術もそうだ。

 直史が重視しているからといって、虚業が実業に劣るものだとは言えない。

 人間の魂に触れるものであることは確かだからだ。

 だからもう、これは好みの問題でしかない。




 沢村賞の記者会見の後も、直史はホテル暮らしをやめない。

 一度はマンションに戻ったが、今は瑞希の母が来て残った子供たちの世話を焼いてくれている。

 もうあとわずかだけ、この好意に甘えよう。

 自分が随分と極端な仕事をしてしまっているため、家族には不便な生活をさせてしまった。

 だがそれもあと少しで終わる。

 直史に期待してくれている人々の、期待通りには終わらないかもしれないが。


 沢村賞の記者会見の日も、直史は練習に出ていた。

 たださすがに、投球練習はキャッチボール程度にしている。

 中五日で登板とはいえ、その前が中四日であるのだ。

 上杉ほどのひどい日程ではないと言っても、九月は六試合に先発しているのだ。

 そして全ての試合を完投している。

 大介に二本のホームランを打たれたが、それ以外にはノーヒットノーラン一度にパーフェクト二度。

 結局月間MVPは全て直史が獲得してしまった。

 もっとも上杉の全盛期などは、年に五回は普通に獲得していたらしいが。


 積み重ねていくタイプの記録は、当たり前だが直史に不利である。

 またピッチャーの場合は、昭和のおかしな記録があるので、なかなかそこでも更新は難しい。

 だが同時代における傑出度は、直史はついに上杉より明確に高いと出てしまった。

 昔のレックス時代は、樋口の貢献度などがよく言われた。

 また同時代と言っても、直史の三年間と上杉の20年以上を、比べることは乱暴すぎる。

 それでも、と言うべきだろう。

 直史のパーフェクトとノーヒットノーラン、さらに完封などは、わずか三年とは言っても、この40歳のシーズンで結果を残したことで、上杉よりも上だということが数字的には明確になったのだ。




 直史としては、上杉よりピッチャーとしては上と評価されても、別に喜ぶわけではない。

 むしろそんな話題を振ってきた記者を、冷たい目で見るだけである。

「上杉さんがいなかったら、日本の野球のレベルはかなり今も低かったと思う」

 上杉が最初に出てきて、そこから多くの人間が続いたのだ。

 そして上杉がNPBにとどまったことによって、目標はすぐそこにあり、多くの選手を触発することになった。

 上杉の功績というのは、先に誕生したことである。

 彼がいなければ、大介はあそこまでのバッターにはならなかっただろう。

 もっともそれは、直史にも言えるが。


 大介の力は、遠くに見える上杉と、すぐ隣を進む直史によって育てられた。

 もちろん実際の技術やフィジカルなどは、それぞれのコーチやトレーナーが教えたわけであるが。

 人を成長させるのは意思の力である。

 プロに入った時点で、既に最高の投手であった上杉は、目標もなくあそこまで登りきった。

 目標を見ながら進んだ後進とは違う。


 直史は上杉から、あまり影響を受けていない。

 そもそも自分には不可能なスタイルであると思ったからだ。

 しかし40歳にして復帰した直史は、ストレートを決め球として使うことが多い。

 ピッチャーの一番最初の位置に、今さら立ったと言えなくもない。


 上杉を上回る、ということは直史は考えない。

 大事なのは試合に勝つということ。

 上杉を相手にしても、勝つということなのだ。

 そこに下手な雑念があれば、目的はぶれてしまうであろう。




 結局直史は、パーフェクトと沢村賞、二つの条件を満たした。

 どちらか一方だけでも、明史との約束は果たしたことになる。

 だが直史が考えるのは、これで運勢の天秤がより傾いたであろう、という非論理的なことだ。

 直史が頑張れば頑張るほど、見返りは大きなものとなる。

 全く根拠などはなく、普段の直史であればこんなことは考えない。

 しかし今は、もう神頼みしかない。

 野球の神様が、ここまで直史を野球の世界に引き止めるなら、こちらもその力を逆に利用してやろうではないか。


 直史が力投すればするほど、明史の手術の成功率は上がる。

 非科学的であるが、純粋に事象の因果関係だけを見れば、充分にありうる話だ。

 因果関係ではなく、現象だけと言うべきであるか。

(俺が全部勝てば、手術は成功する)

 そんなことはありえないが、直史の心にはしっくりとくる。


 直史の放つ空気が、ぴりぴりとしたものになる。

 これがいいのか悪いのか、首脳陣にも微妙に判別がつかない。

 直史は今シーズン終盤まで、常に冷静に試合を処理していた。

 堅実なピッチングとかそういうものですらなく、ひたすら作業的に試合を一方的に終わらせていたという印象だ。

 しかしシーズン終盤、勝つために変化した。

 それを首脳陣も望んだのだが。


 エースの持つ空気の変化を、首脳陣も感知している。

 さすがに勝負師型の指揮官たちではないと言っても、元はプロで実績を残してきた人間だ。

 優勝を経験した人間もいるわけで、その中で直史の闘志をどう活かすか。

 直史自身は、ほとんど優勝にしか縁がないというか、最後まで優勝争いを続けるような選手である。

 自分で優勝を決定付けたり、自分が負けて優勝させてしまったり。

 U-18、甲子園、日米大学野球、WBC、NPB、MLB。

 大学では8シーズンの中で7シーズン優勝し、優勝できなかったシーズンでも自分は負けていない。

 二年夏の甲子園と、大学一年秋のリーグ戦だけは、直史とは無関係のところで敗退している。

 もちろんチーム力というのも関係しているが。



 

 ファーストステージは直史に上杉との投げ合いで勝ってもらう。

 あとは第二戦を全力で取りに行って、二連勝で終わらせよう。

 あるいは第一戦が、延長引き分けになる可能性もあるが。

 かつてのNPBにおいて、直史と上杉が投げ合った試合は誰もが知っているものであり、だからこそありうると思っている。


 目の前の試合に集中するのと同じぐらいに、勝ち進んだ先のことも考えないといけない。

 つまりファイナルステージのライガース戦だ。

 本気になった直史が、ライガースを完封出来るのは分かった。

 だが第一戦と第六戦で投げてもらうにしても、それでも中四日。

 もう一度投げてもらうというのは、酷使が過ぎるというものだ。


 普通に戦って、普通に勝つ。

 状況によって大介を敬遠するのは当然だが、下手に塁に出すと逆に面倒でもある。

 直史以外で、あと二つ勝つことを計算しなければいけない。

 レギュラーシーズンの成績を見れば、難しくはないと思う。

 だがレギュラーシーズンとポストシーズンでは、戦い方が違うのだ。


 具体的にどう違うか、というのを完全に理解した上で、采配を取ることが出来ない。

 今のレックスの首脳陣の限界であるが、それでも勝たなければいけない。

 育成型のベンチなどと言っても、ここまで勝てたし、ここまで勝ってしまったのだから。

 勝利を目指さないなどという指揮官はいらない。

 その点では直史が強すぎたのは、むしろ困ったことであろう。




 予告先発の投手が発表された。

 レックスは中五日で直史、スターズは中四日の上杉。

 誰もが当然と思うエース対決である。

 去年はもう、さすがに上杉も終わったと言われていたのに、今年の復活は鮮烈である。

 ただやはり、五年ぶりの、NPB時代から数えれば10年以上いなかった直史の復帰の方が、ニュースとしては大きかった。

 もちろん当初は、懐疑的な意見が多かったが。


 大介が戻ってきて、直史が復活。

 そして上杉がシーズンの進むごとに、調子を上げてきた。

 昔ほどの完投能力はなかったが、それでも20勝に到達したのだ。

 若手にも出てきた選手はいるのだが、これらのベテランがそれを粉砕してきた。

 一番割を食ったのは、三人の活躍に話題を取られたパのチームかもしれないが。


 練習が終了すれば、当然ながら記者が群がってくる。

 上杉との投げ合いという視点から、やはり注目度は高い。

 結局今年、レギュラーシーズンでは最初から最後までガチンコ、という試合はなかったのだから。

 だが直史の返答としては決まっている。

「対決する相手はバッターですから」

 とにかく点を取られないことを考えて、上杉をどう攻略するかは打線に任せる。

「点を取ってくれるまで、点をやらない覚悟で投げますけどね」

 それはまあ、そうなのだろう。


 直史としても、上杉とこういった舞台で、全力で投げ合うのは初めてかな、と思わないでもない。

 WBCの壮行試合や、引退試合とはまた違ったものであろう。

 プロでも二年目は上杉は離脱していたし、MLBでも投げ合いはなかった。

 これが、本当の最後かもしれない。




 上杉との因縁は薄い。比較対象されることは多いが、旧家の長男という点では、なんとなく通じることもあるのが直史だ。

 一つの時代を作ったというよりは、後の時代を作ったと言った方がいい、偉大なピッチャーであることは間違いない。

 音楽で例えれば、ビートルズが出てきたからこそ、後の時代のバンドが多く出てきたといったところか。

 まあ全然違うことは確かだが、後世への影響は大介が散々に口にすることからも確かである。

 むしろ直史ではなく、大介こそが上杉のライバルには相応しいだろう。


 その大介相手の対戦成績を見れば、直史の方が優れている、と言えるだろう。

 そもそも直史は、打たれてたまるかと真っ向勝負する上杉とは違い、単打までならOKと考えたり、点差があるから打たれても問題はない、などと考える効率重視のピッチャーであったということもある。

 上杉の肩の故障は、大介との限界を超えた勝負が原因である、とも言われている。

 直史はだいたいその事情も知っているので、大介相手にパワー勝負は無茶だと思っている。

 ストレートで打ち取っていることが一番多いのだが。


 明日の試合を思う。

 長いシーズンであったかと思えば短かったとも感じるし、やっと終わると思えるのと同時にもう終わってしまうのかとも感じる。

 感傷的になっている。

 そんな自己分析をしながらも、不快だとは感じない。

 上杉に勝って、次は大介と戦う。

 勝負するのはスターズ打線だと言ったのは、あくまでも建前である。

 どちらが先に点を取られるかのレースになるのだから、上杉が勝負の相手でも間違っていないのだ。




 アメリカに到着した瑞希とも連絡をする。

 PCの画面の向こうでは、元気そうな明史の様子も見えた。

『パーフェクトを達成して、沢村賞も取っちゃうんだからなあ』

 明史は画面の向こうで呆れていた。

 どちらも大変に難しいことなのに、両方を取ってしまったのだから。

 もっともシーズン序盤を見れば、ここまで力を戻してくるとは、さすがに思わなかったであろう。

 年齢による衰えは、仕方がないが寂しいものがある。

 年を重ねてより経験や技巧で勝負、というのもあるだろう。

 だが直史のやったことは、三振をバンバンと取っていく本格派に近い。


 結局最後はストレートなのか。

 そのストレートを活かすために、全ての球種があるというのか。

 なんだか日本では好まれそうな言説だな、と直史は思う。

「そちらも元気そうだな」

『元気だけど、検査が色々と面倒だよ』

 そのあたりの説明は、事前に聞いていたことだ。

 万全の体制を作って、手術は行われる。

『けれど思っていたよりずっと、状態はいいの』

 横から瑞希が言ってきて、そう補足してくれる。

 直史としては、もちろん周囲の人間はいるが、瑞希一人で行かせることには申し訳なさがあったのだが、検査も早ければ早いほど、準備も整えられる。


 明史は明るくなっているが、無理にはしゃいでいるようにも見えない。

 自分の状況を、ちゃんと理解しているはずだ。

『姉さんとまーくんはどう?』

「ああ、お婆ちゃんが見てくれているからな」

 思えばこの高校受験を控えた時期、真琴は優先順位を後回しにされている。

 仕方がないのだが、仕方がないのまま済ませてもいいことではない。

「手術が終わったら、お父さんも真琴の勉強は見てやろうかな。でも昔と今とでは随分と変わっているとも聞くしな」

 こうやって未来の話が出来るというのは、本当にいいことなのだ。

「全部が終わったら、旅行か遊園地にでも行こうか」

『姉さんが受験に失敗してなかったらね』

 このあたり明史は、やはり辛辣なところがある。

 自分に似ているかなと思うが、叔母の影響が強いのかもしれない。




 そちらの電話が終わったら、次は千葉のマンションに電話をかける。

 末子については心配はしていないが、真琴についてはある程度心配している直史である。

 女の子にしてはちょっとやんちゃなところはあるが、赤ん坊の頃を思えばいい子に育ったと思う。

 ただ明史の症状が悪化したあたりで、少し親子関係は険悪になりつつあった。

 真琴も同じように優先されていた時代はあったのだが、それは彼女が物心もつかない赤ん坊の頃である。


 真琴は普通に勉強していて、電話がかかってきたと言われても、のっそりと姿を見せるだけである。

 髪が伸びたな、とわずかな変化を感じたりする。

 真琴に関してはもう受験生。

 あと少しすれば生活のフォローもしてやれるが、どうしても今は明史を優先してしまう。

 ただ一時期ほど、直史との関係も険悪ではない。

 いや、あれは関係性を否定しようとしていたのか。


 真琴は模試の結果なども問題なく、このまま普通に合格しそうだ。

 本番に強いあたりは、自分の娘なのかなと思わないでもない。

 もちろん本人の資質が一番なのだが。

「明史が帰ってきて、受験も終わったら旅行にでも行こうか」

『無理しなくてもいいよ。わたしは自分で友達と遊ぶし』

「友達って、聖子ちゃんか?」

『他にもいるけどね。ボディガードにしょーちゃんも連れて行くし』

 なるほど。




 改めて引退したら、コーチなどはしてみてもいいのかもしれない。

 どうも自分が野球から離れすぎると、悪いことばかりが起こる。

 いや、そんなはずもないのだが、結局は野球で解決することを強制される。

 今年で引退すれば、また指導資格を回復して、母校のコーチや応援をする。

 それぐらいでこの呪いは消えてほしい。

 

 そもそも最初の引退は、肘を軽く痛めたものであった。

 アメリカでは普通にトミージョンを勧められたが、結局は今年一年投げきることが出来た。

 レギュラーシーズンを終えることが出来たのだから、あとはもうボーナスタイムとでも考えよう。

 誰にとってのボーナスタイムか、は考えようによるだろうが。

(俺がいなくなったら大介はどうするのかな)

 ふと、今までそれを深刻に考えていないことに気づいた。

 またMLBに行くのか、そういう契約を結んでいるのか。

 単純にとんでもないピッチャーと対決するだけなら、MLBの方がその数は多い。


 NPBのピッチャーもおおよそ、FA前にはポスティングで移籍することが一般的になってしまっている。

 ただかつての真田のように、どうしてもボールが合わなかったり、生活自体が合わなかったりする人間も多いが。

 直史にしても五年もMLBにいたのは、ちょっと長すぎたなと思っているのだ。

 将来の年金のためには必要な時間であったが。


 旅行は国内ではなく、国外に行ってもいいだろうか。

 フロリダならある程度の土地勘はあるし、ガイドなどにも心当たりがある。

 瑞希と子供たちと話し合ってからのことになるが、悪いことではないだろう。

 ただアメリカとなると、どうしても危険だという意識が強い。

 もちろんアメリカと一括りにするのは乱暴だと分かっているのだが、友人が殺されて、義妹が殺されそうになった国。

 直史にはあまり、いい感情がない。




 来年のことを考えるのは楽しいな、と直史は考えている。

 もちろんこれからまだ、明史の手術は控えている。

 だが今のところの検査では、事前に分かっていた以上の悪化などは見られない。

 一ヶ月もしない間に、自分も海の向こうだ。

 ただ今度は出来るだけ、早く帰ってきたい。

 明史のことを最優先にしているが、他の子供たちのことも心配でないはずはないのだ。


 思えば波乱万丈な人生だが、素直に野球の道だけを進んでいればどうなったか。 

 意外と早くに故障してしまったのではないか、と今は思う。

 高卒でもプロの注目は高かったが、まだフィジカルは発展途上と思われていたのだ。

 もっともフィジカル自体は、大学でもそれほど爆発的に向上したわけではない。

 それに大学のリーグ戦は、せいぜいが春と秋に五試合ずつやれば良かっただけだ。


 プロに入った時も、普通に故障するのでは、と思いながらプレイしていた。

 それがオールドルーキーであったが、一年目から沢村賞の他、多くのタイトルを受賞している。

 その頃自分はアメリカにいるだろうが、今年の各種受賞も、ピッチャーは自分になることは間違いない。

 未練をなくすためにも、ここからの試合はまだ重要になる。


 スターズと対戦し、ライガースと対戦し、日本シリーズではどこが勝ちあがってくるだろうか。

 福岡が最有力であろうが、それは結果が出るまでなんとも言えない。

 それよりも自分は、あと何試合投げることになるのか。

(ライガース戦が一番まずいな)

 自分一人で投げても、あの日程ではさすがに勝てない。

 士気を高める必要があるだろう。




 スターズとの決戦の日である。

 もちろんあと、二試合が残っている可能性はある。

 だがこの第一戦で、上杉を破ったならば、おそらくその時点でスターズとの対決は終わる。

 中四日の上杉であるが、九月に入ってからは直史よりも、さらにタイトなローテで投げていた。

 それを相手に一点も取れなかった、というのもレックスの限界であったろうが。


 クローザーとしての上杉が、今年の終盤も活躍した。

 そのためまた、セーブ数が増えている。

 あるいは第一戦で投げても、第三戦でクローザーとしてなら投げてくるかもしれない。

 非常識であるが、上杉は鉄人なのである。

 直史も先を見据えれば、球数には注意しなければいけない。

 ライガースとの対戦も考えれば、第一戦はなんとか完封程度に抑えたい。

 ノーヒットノーランやパーフェクトではなく、マダックスをしておきたいところだ。


 上杉と自分で差がつくとしたら、そこであろう。

 元から恵まれたフィジカルであったため、上杉はパワーで解決しようという気持ちがずっと残っている。

 対して直史は、もっと総合的に考えているのだ。

 上杉は頭が悪いわけではないが、体質として脳筋だ。

 そこが直史との一番の違いであろう。


 最後には結局、精神力の勝負になるかもしれない。

 上杉の周囲に与えるカリスマは、同時にバッターを凍らせるプレッシャーともなる。

 ただそんな上杉と、直史は引き分けた。

 あの頃に比べれば自分よりもずっと、上杉の方が衰えたはずだ。

 もちろん油断するつもりはないが。

(最後の対戦か)

 いい試合になるか、それとも死闘となるか。

 出来れば楽に勝ちたいなとは思うが、過剰な期待はしない直史であった。



×××



 次話「二つの孤影」

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