第98話 1-0

 一点を先制したレックス。

 やはりホームランの一発は怖い。

 自軍が打ってくれたものの、その意識は常に直史の中にある。

 大介ならば打つ力はある、と思っているからだ。

(そもそもピッチャー以外なら、ほとんど毎年何本かは打ってるからな)

 追加点を得ることはなく、三回の裏となる。

 先頭の七番を三振に打ち取り、これでもう今日は六つ目の三振。

 前回をも上回る、奪三振のペースである。


 ネクストバッターズサークルには、津傘が送られている。

 さすがにゲームの序盤で、先発は代えないということか。

 ただ短いイニングなら、中三日の畑も投入しておかしくはない。

(でもプロに来るようなピッチャーなら、どうせ高校ぐらいまでは四番を打ってるんだろうしな)

 ピッチャーが打席に立っても、油断はするつもりのない直史である。


 八番がキャッチャーフライに倒れて、その津傘がバッターボックスに入る。

 今日の直史相手に、打てないバッターを送るということが、どれだけの問題になるのか。

 ただライガースの監督もピッチャー出身であるため、ここで代えるのは得られる結果に対して消費するリソースが大きいと判断したのだろう。

 直史にとっては、万一出塁でもされたら、ランナーがいるという状況で大介に回るので、それは凄く嫌な選択であったのだが。


 ピッチャー相手にも、直史は油断しない。

 ボールゾーンに逃げていく変化球で、まずは空振りさせてストライクカウントを取る。

 気負っているバッター相手に、ストライクを投げる必要などない。

 出来れば内野ゴロか内野フライを打たせて、球数を減らしたいなと思うのが直史である。

 ただこの打席では、ストレートが150km/hを記録した。

 変化球と速球の緩急で、何もさせずに三振。

 三回が終了の時点で、既に七個目の三振を奪っていた。




 四回の表、レックスはまたもランナーを出すことに成功。

 しかし進塁まではさせるが、ホームに帰ってくるのが遠い。

 ここまで三者凡退で終わった回はないが、点を取ったのも左右田のホームラン一つ。

 試合の流れはレックスにあるような気がするが、決定的なものではない。

 そして四回の裏、一気に視聴率が上がる状況となる。

 大介の二打席目が回ってきたのだ。


 大介の打席であると、ライガース応援団は「夏の嵐」を演奏する。

 イリヤの作ったこの曲は、基本的に白富東の応援歌ともなっている。

 つまりテンションが高くなるのは、大介だけではない。

 以前にNPBにいた時は、イッパツマンであったのに、時代は変わるものである。

 個人的にはテンションが高くなっても、あまり意味はないのだが。

(集中だ)

 バッターボックスに向かうまでに、一歩ずつ集中力を高めていく。

 そして構えた瞬間には、ゾーンに入っていた。


 大介がその領域に入ってきたのが分かる。

 心臓の鼓動が、お互いを感じている。

 直史の頭脳が、どうすればいいのかを計算していく。

 だが最終的に答えを出すのは、計算ではなく直感だ。

 初球に選んだのはカーブ。

 しかし特別性の、二段階に落ちると錯覚する、あの魔球である。


 大介はこれを、投げられた瞬間に動きを止めていた。

 そして軌道を完全に確認する。

 落差のあるカーブは、ストライクと判定された。

(こいつまで使ってくるのか)

 直史はもう、全ての球種を解禁している。

 さらには、おそらくあのカーブも使ってくる。

 大介の名付けた、消える魔球である。




 消える魔球を打つのは、ある意味では単純である。

 普段から他のボールに対しても、やっていることだ。

 消える直前までの軌道をしっかりと見ていて、そこから消えた後の軌道を推測する。

 160km/hレベルのストレートであると、普通にもう直前までなど見ていない。

 ある程度離れた場所で、ボールから視線は切るのだ。

 そしてその先を推測して打つ。

 ただこれは、直史のような普通ではない軌道のストレートを投げるピッチャーには、あまり通用しない。


 次はスルーを投げてくるか、スルーチェンジを投げてくるか。

 投げた瞬間に数種類には絞れるのだが、直史の場合はさらに数mボールが進まなければ、選択肢が多すぎる。

 判断までに使える時間が短すぎる。

 これもまたストレートを打てない理由の一つではある。

 他にも色々と打てない理由はあるのだが、結局はその他の色々な理由のほとんどを、直史のピッチングは含んでいるから、とは言える。


 二球目に投げてきたのはスルーチェンジであった。

 動き始めていたバットを、大介は止めて引く。

 ベースの手前で落ちて、これはボール。

 もうちょっと高くバウンドしてくれるなら、それを打ってスタンドに叩き込むという選択肢もあるのだが。


 そして三球目に投げられたのがストレート。

 バットはボールの下をこすり、ファールボールがバックネットに突き刺さる。

 先ほどのストレートよりも、鋭いストレートではあったような気がする。

(150km/hか)

 ただ直史の場合は、あまり球速が参考にならないのだ。

 球速よりも、あまりにも球質に幅があるためである。




 ストライク先行で、追い詰められてしまっている。

 ここで一つぐらいボール球を、ということは直史は考えないだろう。

 高めに外してくることは考えられるが、低めなら打ってしまってもいい。

(追い詰められると、ワクワクするよな)

 このメンタル構造こそが、大介の最も強い部分であるかもしれない。

 普通なら高校一年生の夏、上杉に勝負してもらった時点で、心が折れてもおかしくないのだ。


 遠いところまできてしまった。

 そしてもう、この先に見えるのは一人しかいない。

(気づかないうちに、いつの間にか先に行ってるんだよな)

 直史がその力を、より野球に注いでいたらどうなっていたか。

 そんなことは何度も考えたが、おそらく直史はあのペースで良かったのだ。

 積み上げてきた実績が、とにかく人外の領域。

 確かに味方に強力なメンバーもいたが、それでもピッチャーは孤高の存在。

 あれだけ打たれないピッチャーは、もう二度と出てこない。


 その直史が投げた四球目。

(スライダー?)

 遠いかと思ったが、バットの先でカットした。

 あの角度で曲がってくれば、キャッチャーのフレーミング次第では、ストライク判定される可能性があったからだ。

 さすがに外過ぎるだろうとは思ったが、審判は直史のコントロールを信じすぎている傾向にある。


 そして五球目、これはアウトロー。

(ツーシーム)

 速度とわずかなボールの軌道から、はっきりとそれを判別する。

 だが大介が思っていた軌道より、ホップ成分が高い。

 打球はレフトのファールスタンドへと入っていく。

(MLBでも最近やってたな)

 ツーシーム回転を上手くかけることによって、むしろバックスピンよりもホップ成分を高くするという。

 直史はこれまで、使わなかったはずなのだが。




 おそらく初見であろうに、簡単にカットまではしてくる。

 大介は去年までMLBにいたので、確かに対策は出来るのだろう。

(切り札をバンバン切っても、普通に対応してくるのか)

 直史は直史で、大介のことを化物だと思っている。

 そもそも短期間だけ活躍した自分と、その三倍ほども活躍している大介では、残してきた実績が断然違う。

 それでも比較が可能であるぐらい、直史はおかしなことをやっているのだが。


 ここで投げるボールは、直史は決めている。

 普段通りのセットポジションから、ややクイック気味に足を移動させる。

 体重移動の速度に比べて、最後にボールをリリースするタイミングは遅い。

 スローカーブが完全に、タイミングを外して投げられる。

 ただし大介も、これは腕だけで打って、どうにかカットはするのだ。


 ボールカウントは増えないが、思ったよりも粘ってくる。

 今のスローカーブなら、器用にヒットには出来たのではないか。

 やはりしっかりとスイングさせて、それを内野ゴロなり内野フライにしなければいけない。

 直史はボールを受け取ると、手の中でその具合を確認する。

 縫い目の高さまでも、しっかりと感じなければいけないのだ。


 バットにも当てられないようなボール。

 そんなボールを、確実に投げることなど出来ない。

 そもそも大介は、単純に速いだけのボールなら、少し慣れれば180km/hでも打ってしまうのではと思われている。

 実際に上杉の180km/hに近いボールまではホームランにしているのだ。

 それを、150km/hのストレートで空振りに取る。

 そこがピッチングの面白い部分であろう。




 力を抜く。

 本当のスピードは、脱力から瞬発的なパワーを発揮するところから始まる。

 足を上げて、それを地面に下ろし、逆の足で地面とプレートを蹴ってから加速していく。

 柔らかな全身を、一気に硬直させながら、弓を引くような感じで矢を放つ。

 ボールはストレートであり、またも大介の内角に向かう。

 そう思った大介だが、それは違った。

(スルー!)

 それも球速がしっかり出ながらも、変化がそれなりに大きい。


 腰から下の力を抜いて、その軌道を追う。

 だがそれでも、バットはボールに届かない。

 体が一回転して、大介はそこに膝をついた。

 迫水はボールを捕り切れなかったのだが、それでも前に落とすことには成功。

 ボールを大介の背中に当てて、アウトとした。


 二打席連続の三振。

 それを屈辱とは感じず、大介は球速表示を確認していた。

 147km/hというのは、今年の直史としては、かなり出ている方だと思う。

 ただこの間の試合からは、明らかにリミッターを切っている。

 完全にもう、勝つためにしか投げていない。

(いや、そういうことでもないのか?)

 この先も戦い抜いていくつもりなら、ある程度は抑えて投げてもおかしくない。


 直史は目標を達成してしまった。

 パーフェクトによって、息子との約束は果たしたのだ。

 ならばあとは、何を求めるのか。

 引退してもなお、自分を野球に引き戻そうとする、巨大な運命の力。

 それから逃れるためには、いったいどうすればいいのだろう。

(完全に燃え尽きるつもりか)

 それは充分に理解出来ることだ。

 肩や肘を壊してでも、もう充分なのだ。

 つまり、本気の直史が、壊れるまで投げてくる、ということである。




 直史は祝福されていると同時に、呪縛もされている。

 あれだけの力を持っていながら、野球から離れようとすると、野球の方から引き込もうという力が働く。

 無理に条件を出した自分が、今さら何を、と大介も思うのだが。

(けれどあれは、本当に俺の意思だったのか?)

 今さら他人のせいにするつもりはないが、自分の思考に雲がかかったように、あの頃のことを思い出す。

 もっとも直史も、やろうと思えば他の選択肢もあったはずだ。

 それに二年間、延長を決めたのは直史だ。


 おそらく完全に、野球が壊れるまでやらないと、この呪縛からは逃れることは出来ない。

 圧倒的な力は、野球の全てを与えてくれると共に、野球に直史を縛り付けた。

 これを呪いと言わずして、何を呪いと言うのか。

「おいおい……」

 大介が考えている間にも、試合は続いている。

「ちょっと待てよ……」

 ライガースベンチを、完全に恐慌状態に陥らせる。

 大介の後の二人を、二者連続で三球三振で打ち取っているのだ。


 まだ試合は四回が終わったばかり。

 それなのに既に、奪三振は10個となっている。

 このままのペースで三振を奪われていけば、この間の試合と同じような、ひどいことになりかねない。

 大介がそれより気にしたのは、直史が上位打線から三振を奪っていることだ。

 六番以降は、普通に打たせてアウトにもしている。


 クライマックスシリーズでも、ライガースと当たる可能性は極めて高い。

 その時のために上位打線の心を念入りに折っているのか。 

 明日の試合ではスターズの登板が上杉であるため、レックスが勝てる可能性は低い。

 そしてクライマックスシリーズのファイナルステージは、ペナントレースを制した側の六連戦で行われる。

 そうなった時に、直史以外のピッチャーでも勝てるようにする。

 そんな意図でもあるならば、この無茶苦茶なピッチングも理解出来る。

 壊れる覚悟と、勝つ覚悟。

 二つがそろってしまって、これはもう最強に見える。




 五回の表、レックスの攻撃。

 一点でも追加されたら、急激に勝率は落ちていく。

 一応はまだ、ライガースは負けても優勝の可能性はある。

 だが自力優勝は、ここが最後のチャンスなのだ。

 せめて引き分けでも、勝率でライガースは上回る。 

 今日も明日も勝たなくてはいけない、レックスの方が不利なはずである。

 だがそんな冷静な思考は、この熱狂の中では蒸発してしまっていた。


 この回のレックスの攻撃は、この試合初めての三者凡退。

 もっとも直史の自動アウトがあったので、そこは仕方がないだろう。

 次のイニングは緒方からなので、上手くチャンスを作って追加点が得られるだろうか。

 安全圏とまでは言えないが、二点差になればソロホームランを浴びても問題はない。

 大介はそんなことを考えながらも、自軍の攻撃を見守る。

 クリーンナップの攻撃なので、一点ぐらいは取ってもおかしくないだろう。

 そう思ったのだが、二者連続で三球三振となる。


 このおかしさに大介は気がついた。

 直史は明らかに、上位打線から狙って三振を奪っている。

 いや、狙うというか、より注意して投げていると言うべきか。

 ただ前回のパーフェクトをされた時より、やや球数は少ない。

 結局はいつも通り、球数が少ないことは意識しているのだろう。

 上位は上手くカットして追い込まれ、下位はそのまま打ってしまっている。

 なので下位打線の部分で、球数が少なくなっている。


 ここでも六番は内野ゴロで打ち取られた。

 この間のひどかったパーフェクトと、かなり内容は似通ってきている。

(津傘のところで代打が出てくるだろうな)

 悪い内容ではないが、球数がかなり多くなっているので。




 津傘としてもこのイニングまでだろうな、という予想はついている。

 失点はホームランによる一点のみであるが、それよりも重要なのはこちらが一点を取ることだ。

 津傘のところでもし代打がランナーとして出られたら、次の大介がランナーのいる状況で打順が回ってくることになる。

 もしもホームランが出たら逆転であるし、おそらく代走も出すので長打で一点取れる可能性は高い。


 それにしても重要なのは、まずこの回の攻撃をしのぐこと。

 ホームラン一本ならば許容範囲内であるとは、計算の上では分かっている。

 先発は六回まで三失点でクオリティスタートと言われるが、六回で一失点ならば仕事はしたと言えるだろう。

 だが相手が相手であるのが問題だ。

 どれだけランナーを出しても、失点さえしなければ良かったのだが。


 この回もランナーを一人出してしまった。

 緒方は第一打席も出塁している。

 ベテランだけに、嫌な出塁の仕方を知っている。

 フォアボールによって津傘は余計に球数を使わされた。

(それでも後続を絶つ)

 いくらランナーが進塁しても、ホームさえ踏ませなければいい。


 やはりホームランが一番重要なのだ。

 たったのワンプレイで、一点が入ってしまう。 

 その一点が決勝点になってしまったら、後悔するしかないだろう。

 実際にこの試合も、その通りになる気配がしてきている。

 緒方を三塁までは進ませてしまったが、それでも失点は防いだ津傘であった。




 六回の裏はライガースは下位打線から。

 ここで息を抜けない理由は、ただ一つである。

 それは一人でもランナーを出したら、そのランナーがいる状態で、大介に回ってくる可能性が高いからである。

 そんな直史を、どうしてここまで打てないのか。

 技術的な理由や、投球術というのはあるだろうが、直史はかなり窮屈なピッチングをしている。

 とにかく球数を減らすというのは、当てる程度のボールは投げるのだ。

 それが少しでもミートされてしまえば、普通に内野の頭は越える。

 実際にそういうヒットもないではない。


 前回もそうだったが、この試合もまた単純に、これまでよりも球速の上限が上がっている。

 その球速の増加だけを見ていたら、おそらく直史は打てない。

 160km/hのストレートでも、カットだけなら出来るのがプロのバッター。

 それなのにどうして、直史のストレートが打てないのか。

 分析していても、そこに答えは出てこないだろう。

 なぜなら、答えが毎回違うからだ。


 変幻自在というよりは、もう森羅万象。

 何をどうしたら、どうやってアウトが取れるのか。

 結果が全て分かっているように、ボールを投げてくる。

 もちろん本当なら、全てのバッターを一球で終わらせたいのだろうが。

 ピッチングの極致というのは、今の直史がいる場所ではない。

 ただその極致が、直史の場所からなら見えるかな、というものだ。


 一番その場所に近い者である、という認識は間違っていないであろう。

 本人がいくら否定しても、他の誰もが肯定する。

 目の前のことだけを見てみるなら、試合に勝つのがいいピッチャーだ。

 ただチーム事情もあるので、試合を壊さないのがいいピッチャーだとうあたりがいいピッチャーの現実的な路線だろう。

 だが直史のピッチングは、試合に勝つだけではなく、試合を支配してしまうものである。




 味方の士気を鼓舞し、相手の士気を失わせる。

 たった一度の試合だけではなく、絶対にもう勝てないと思わせる。

 そこまでやれたら初めて、本当に支配的なピッチャーと言えるだろう。

 要求が高すぎる。

 だが直史はかなり、これに近しい存在だ。

 もっとも一人の傑出した選手が出ると、それに呼応するように、同時代にまた優れた選手が出てくる。

 順番的に言えば、まず上杉が出てきて、その一つ下がスタープレイヤーの多い世代であり、そのもう一つ下が直史や大介である。


 そこからの数年は、MLBで活躍する選手が、大量に排出される黄金時代となった。

 それがややまた落ちてきたのは、やはり上杉が衰えて、国内のスーパースターが軒並MLBに移籍してしまったからか。

 ただ逆に言えば、NPBのトップクラスが、MLBでも戦えるという証明がされたことでもある。

 今でも武史は、トップクラスのピッチャーとして活躍している。

 39歳でも、MLBのトップクラスなのだ。


 直史はもうMLBではさすがに、日程の体力的に苦しいな、と考えている。

 NPBでのホテル暮らしにしても、わずかな移動などの時間を、全て休養に充てたいからだ。

 それでどうにか、今年一年を壊れることなく、シーズン最終盤まで戦ってこれた。

 その直史が、もう完全にリミッターを切って、勝つためだけのピッチングをする。

 もしもう一度対戦しても、二度と勝てないと思わせるために。


 この六回の裏もそうであった。

 下位打線ではあるが、津傘のところには代打が出てきた。

 それをあっさりと三球三振。

 三人に10球を使い、全て三振で打ち取った。




 6イニングが終わった時点で、15奪三振。

 前に奪った22奪三振を、上回る可能性があるペースである。

 代打で散ったバッターは、球速表示を見て怪訝な顔をする。

 球速よりもずっと速く感じていたのだろう。

 それは直史と対戦した、ほとんどのバッターが感じることだ。

 少なくとも155km/hはでていて、場合によっては160km/hぐらいは出ているように感じると。


 ベンチに戻ってきた直史は、すぐに糖分と水分を補給する。

 肉体をコントロールする脳が、多大な糖分を必要としている。

 わずかながらそこに、塩分も摂取する。

 だいたい体重は、一試合が終われば1kgは落ちていたのが普段の直史のピッチングだ。

 しかしこの終盤は、2kg以上の体重が落ちている。

 それを次の試合までに戻さなければいけないのだから、肉体の代謝も大忙しである。


 七回の表は、主にレックスも下位打線。

 ただ一人でもランナーが出れば、直史に打順が回ってくる。

 仕方なくネクストバッターズサークルで待つが、ライガースも一点ビハインドながら、勝ちパターンのピッチャーを送り込んでくる。

 これが最終戦のライガースだからこそ、出来る芸当である。

 三人でスリーアウトとなり、直史の予定通り。

 そして七回の裏が始まる。


 先頭打者は、当然ながら一番の大介。

 ここを抑えてしまえば、一気にレックスの勝利の可能性が高まってくる。

 直史はベンチからグラブを取って、マウンドへ向かう。

 その背中に向ける首脳陣の視線は、熱いものがあった。




 三度目の対決である。

 今日は先に二打席、大介が三振してしまっている。

 ただ大介相手には、三球以上の球数を使っている。

 他のバッター相手には、かなりの部分が三球以内で抑えてしまっているのに。

 大介相手に全力を出すために、球数を節約していると言えるのかもしれない。

 もっともストレートが普通に150km/hをポンポンと出している今日は、明らかにそんなはずもない。


 今年はずっと、150km/hが一度出ただけで、ずっと最速でも147km/h程度がほとんどの試合であった。

 しかしこのぎりぎりになって、その150km/h台をポンポンと出してきた。

 レギュラーシーズン中はとにかく、勝てばそれでいいという考えで、発言も常にそのようなものであった。

 結局のところ、やはり球速をはじめとして、全盛期からは衰えたのだ、と多くの人々が思っていた。

 この前のパーフェクトを見るまでは。


 ポストシーズンに備えて、レギュラーシーズンは流していたのだ。

 その流した状態で、何度もノーヒットノーラン、マダックス、完封を続けてきた。

 そしてシーズン無敗を達成しようとしている。

 ポストシーズンの行方を見てから、ようやく本気で投げ始めた。

 こんなピッチャーを相手にどうすればいいのか、ほとんどのバッターは戦意喪失に近い。

 だが大介一人は、むしろこれを楽しんでいる。


 相手が強ければ強いほど燃える。

 これは大介の人生において、ずっと変わらない性質である。

 だからこそ相手が強ければ強いほど、大介はさらにそれを上回る成長をしてきた。

 それによって前人未到、空前絶後の記録をいくつも作ったわけだが、直史に対してはやはり総合的に見て負けているし、なかなか上回ることが出来ていない。

 ようやく二本のホームランを打ったと思ったら、次の対戦ではパーフェクトをされる。

 これは直史が、大介より強いわけではない、からこそ出ている結果であろう。




 この決戦は千葉でも、そして兵庫でも見られている。

 そしてアメリカでも普通に見られていたりする。

 MLBを蹂躙していった二つの巨大な才能。

 一方は故障引退したのだが、ライバル不在を嘆いたのか、怒りのままに大介はバットを振るった。

 12年間のキャリアでホームラン王連続12回というのは、ベーブ・ルースと並んで最多であり、連続記録としては最長。

 ほぼ毎年のように、首位打者と打点のタイトルも取っていった。

 出塁率が最高になるのは、シーズン前から普通に予想されている。

 小さな怪獣と呼ばれて怒った姿が、何度も映像に残っている。


 キャリアの最後には日本に戻るとは、何度も言っていたことだ。

 だがMLB最後の一年も、ほとんどの打撃タイトルを獲得していった。

 そんな最強のまま、日本に戻ったのだ。

 大介を見たいと思うちびっ子たちは、確かにアメリカには多かった。

 小さくても諦めなくてもいいのだ、という希望になったのだから。

 大介としては、勝手に希望にしてほしくなかったが。


 そんなスーパースターが、悪夢の化身のようなピッチャーに、ようやく打ち勝った。

 試合では負けていたが、ホームランを二本も打っていれば、それはバッターの勝ちと言えるだろう。

 だがお返しとばかりに、次はパーフェクトに抑えられた。

 その生涯で何度目のパーフェクトなのだ、と言われるものだ。

 MLB時代もレギュラーシーズンだけで、いったい何度達成したというのか。

 ひどい時は、二試合連続で達成というのもある。




 不思議なことだが、MLBは日本ほどピッチャーの人気がない。

 もちろん評価されないというわけではないのだが、やはりホームランこそが野球の華という空気がある。

 そんな中で直史は、ヒール扱いをされることが多かった。

 これは対する大介が、明るいイメージであったこともあるだろう。

 二人はそもそも同じチームの出身であり、義理の兄弟であったのに。


 ただこのピッチャーとバッターの価値観を、かなり変えてしまったのが直史だ。

 毎試合のように何か、記録に残るようなことをする。

 バッターと違って毎試合出るわけでないというのが、逆にレア度を上げたということもある。

 直史が投げる試合とそうでない試合では、明らかにチケットを買える確率が変わっていた。

 そのためにアナハイムは、この時期ファンクラブの会員が増えたという。


 どちらが優れているかという議論は、そもそも不毛である。

 対戦成績からすると、直史と言ってもいいのだろう。

 だが投打の違いという以上に、直史がやっていることは本当に野球なのか、という疑問が湧いてくる。

 他の何かの基準でやっていなければ、これだけの記録は残せないであろう。

 その何かを解明するために、多くの者が時間を尽くす。

 そして答えは出ない。


 直史がマウンドに登る。

 あるいはこれが、今日最後の大介との対決となるかもしれない。

 もしヒットでも打たれれば、次の打席は申告敬遠となる可能性は高い。

 直史としては、試合に勝つためにはそれも仕方がないと思う。

 だがこの試合で重要なのは、明日の試合のために勢いをつけることだ。

(そのためにはまず、ここで一度絶望を相手に与える必要がある)

 マウンドのロージンで、直史は指の湿度をコントロールしていた。



×××



 次話「遠く彼方へ」

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