第93話 より高く
マウンドのピッチャーは孤高の存在。
対戦するバッターがいて、バッテリーを組むキャッチャーがいる。
それでもやはり、たった一人の存在であるのだ。
お山の大将であるなら、とても幸福な立場であろう。
だが直史は、強烈な自我を持ちながらも、お山の大将ではいられない。
勝利にこだわる性格は、己のピッチングに執着する、エースの姿としては珍しい。
チームの勝敗ではなく、自分の成績が重要というのは、ピッチャーというポジションでは普通にありうることだ。
直史は違う。
チームを勝たせて、自分も勝つ。
そんな直史の変化を、大介は敏感に感じている。
一打席目のあのスルーには、復帰してからはあまり感じられなかった、直史の哲学的な存在感が含まれていると感じた。
なんだそれは、と他の人間なら意味が分からないだろう。
だがごく少数、それこそツインズや、樋口にであれば分かるだろう。
直史の存在は他の誰とも大きく違う。
それが分かってようやく、戦う舞台に立てる。
大介だけではなく、多くの人間が理解していること。
それは直史が、己の存在を過小評価しているということだ。
大介が出ている試合、確かに大介の貢献度は、とてつもなく高い。
しかし大介の貢献度の方が直史よりも高いのは、それは彼が野手だからである。
大介の存在がバッターとしては最高のものであったとしても、大介のおかげで勝った、大介がいなければ負けていた、という試合は限られる。
だが直史の場合は、直史だからこそ勝てた、という試合が極端に多くなる。
たった一点の援護で完封してしまうピッチャーは、もうほとんどいない。
上杉でさえ無失点完封は難しくなっているのだ。
体力的にはプロの世界から離れていた直史に、フルイニング投げる体力がある理由。
おそらくほとんどの選手は、その時点で不思議に思っている。
ただ本人と、近しい存在は分かっている。
体力や耐久力を、消耗しないように、上手くコントロールする。
それが直史のコントロールだ。
伸びるストレートが、低めいっぱいに入った。
審判はストライクとコールするが、これは正確にはボールだ。
そう判定するかもしれないな、と大介は思っていたが追い込まれていないので見逃した。
決め球としては使えないと、直史も分かっているのだろう。
そのくせカウントを取るために、しっかりと使ってくる。
(今日のナオはすごいな)
大介はベンチからも、そのピッチングをしっかりと観察していた。
これまでの試合とは、異質の緊張感と言うのだろうか。
何か吹っ切れたというか、拘束具を外したというか。封印が解けたというか。
とにかく大介にも伝わってくるのは、この間の試合と一緒にしてはいけない、ということだ。
本気でやらなければ勝てない。それは今までも同じである。
だがここは、死ぬ気でやらないと勝てない。
肉体がしっかりと感じている。
本当の意味での全力を出さないと、ここでまともに勝負することは出来ないと。
その本当の意味の全力というのは、まさに命を削っていくことであろう。
スポーツは健康にいいと言うが、トップレベルのスポーツ選手など、誰だって肉体への負荷は故障とぎりぎりの境界で行っている。
それをまた一歩、故障に向って進んでいくのだ。
おそらくこれは、単純な肉体の損傷の話ではない。
人間の臓器の中でも、極めてエネルギー消費量の激しい器官。
脳をフル回転させることで、ようやくその境地にたどり着く。
肉体的にはトップレベルにはほど遠い、直史が出来ること。
それは読みとか駆け引きではなく、情報処理だ。
直史の見ている景色は、自分たちとは違う。
おそらく一番近くにいたのは、坂本か樋口であろう。
大介はそう考えつつも、挑むことをやめることはない。
勝負というのは、いくら負けても、諦めてしまうまでは本当の負けではないのであるから。
二球目に投げられたのは、高速のシンカーであった。
大介のバットは届いたが、当ててファールにするのが精一杯であった。
今シーズンにここまで投げていた、ツーシームよりも大きく曲がり、普通のシンカーよりもはるかに速い。
かつて投げていたシンカーに近く、ストレートとの球速差があまりない。
速球二つであっという間に追い込まれてしまった。
だが追い詰められてやっと、大介の集中力も増していく。
バットの届くところに投げられたら、全て打ってやるという気迫。
それが空回りしないように、しっかりと抑えて構える。
ここで投げるなら、普通ならばチェンジアップであろう。
直史はセットポジションから構えて、高速の動きでクイックのタイミングで投げる。
しかしそのボールのスピードは、大介が想像していたよりも、はるかに遅いものである。
(スローカーブ!)
90km/hのスローカーブは、球速差が50km/h以上。
速球の後のこれを、果たして何人が打てるというのか。
しかし大介は、慣性の働く自分のバットを、上手くヘッドだけを走らせる。
かろうじて当たった打球が、ファールゾーンに転々と転がった。
ツーストライクまでは、比較的簡単なのだ。
そこからアウトにするのが、また大変なのである。
難しいわけではないが、カットの上手いバッターというのはいる。
さすがにツーナッシングからフォアボール狙いは難しいし、大介はそもそもそういった細工をすることはない。
だがここではどう判断するだろうか。
直史の体力を削るのは、ほぼ不可能。しかし精神力や集中力なら可能かもしれない。
結局は削らないと、打つことは出来ないのか。
大介としては、そんな思考をしてしまう。
もちろんそれは作戦として当然のものだ。
だがそんな暢気な試合を、自分たちはやりたいのか。
そもそも温いことを言うならば、直史は大介を敬遠すれば、もっと楽に勝つことが出来る。
バッターとしてはカットなどせず、全てのスイングで長打を狙う。
それがフォアボールで逃げない、直史と同じ舞台に立つということであろう。
バッターボックスの中で構える、大介の気配が変わる。
それは気迫と言うよりはもう、ほとんど殺気とさえ言えるものであった。
魂の熱量を燃やし、より肉体を活性化させる。
読みや駆け引きで勝負するのは間違いだ。
直史に対するには、とにかく圧倒的な何か、を持たなければいけない。
その何か、というのがなんであるのかは、大介もはっきりとしない。
だが一つには、決死の覚悟であろうか。
野球の試合では、まず死人が出ることはない。
他の何と基準にすべきかは分からないが、基本的に接触の少ないプレイであるからだ。
そんなスポーツで、命を賭けることなど普通はない。
だがそれだけ追い詰められた状態で、脳のリミッターを切ってしまう必要がある。
体が壊れるかもしれない。
それでも、勝つためにはやる。
大介が直史の本気を知っているのは、別にこの状況だけから判断したわけではない。
沢村賞の候補は、もう完全に直史なっている。なので最悪、ここで壊れてしまっても問題はない。
決まっているならば、あとは少しでも日程を縮める、と考えるのが直史ではないか。つまり直史はここからはもう、パーフェクトを狙ってくる。
ほんの数日の差がどれだけ、手術に影響を与えるのか。
ただ沢村賞を確信した直史が、本気で投げてきているということだ。
実際はそこまで論理的ではないのだが、大介は直史が本当の本気を出す理由を、自分なりに見つけた。
そして一打席目は打ち取られている。
あそこまで伸びながら沈むスルーは、今シーズンは見ていない。
つまり最大出力で、肩や肘が壊れてでもいいから、投げてきているということだ。
直史がチームの優勝のために投げている、ということに思い至らないのが、悲しいと言えば悲しい。
どのみち本気では勝負しないといけない。
まさかマウンドの上で死んでしまうことはないが、それでも選手生命のぎりぎりを、既に踏み越えていってしまっているかもしれない。
大介もまた、同じ領域に入っていかなければいけない。
だが今度は、大介の方にこそ迷いがある。
ライガースの優勝を、大介も考えている。
そして戦力分析をすれば、大介の力はポストシーズン以降にこそ必要になる。
レギュラーシーズンでも怪物の領域の大介だが、これがポストシーズンとなると、OPSが余裕で2を超えてくる。
つまりは確率的には、全打席で出塁する以上の力を発揮する。
いくら直史との対決のためとはいえ、ここで自分が壊れてしまってはいけない。
大介にしては、随分と小賢しいことを考えてしまったものである。
直史を相手に勝つのは、本当に難しい。
あと三試合のうち、この試合を含めて、おそらく二試合に投げてくる。
ただそれでも、勝率は等しくなるのみ。
カップスとスターズ、残る試合をレックスは全勝出来るであろうか。
正直なところ、それは無理だろうと分析されていて、大介もレックスの首脳陣では無理だと思う。
本来なら育成型の指揮官が揃っているのだ。
ただそれとは別に、最も勝ち方を知っている人間がいるではないか。
直史が比較的ベンチに出ているのを、大介は確認している。
そう、勝つための方法は、直史が知っている。
ただその知っている技術を、他の選手が遂行可能だとは思わないが。
(これだけ厳しいシーズンは、初めてかもな)
ワールドシリーズやWBCなどでも比較的必勝体制が取れることが多かったので、甲子園を思い出してしまう。
あるいはもっとも最初の、一つ勝つのに必死になっていた頃だろうか。
直史の投げるボールに、原初の欲求を感じる。
(勝ちたがってやがる)
もっと冷静に、燃えるときも氷のように、高音すぎる炎のように、静かなのが直史のはずであった。
だがここで目にするのは、あの一番最初の試合のような光景。
静かに、それでいてはっきりと分かる。
勝ったことのないピッチャーが、初めての勝利を求めるように。
直史は勝利に飢えている。
大介はボールをカットしていく。
だがボールカウントが増えない。
ぎりぎりの、どちらとも取られてもおかしくないコース。
普段であれば、普通に打ってしまっているのに。
(面白いよな)
本当に、野球は面白い。
一球ごとに心臓が止まりそうになる。
直史と大介、二人の対決は周囲を熱狂と、そして緊張の渦に巻き込む。
ここまではこの二人の対決も、比較的すぐに決着がついていた。
だが直史が投げるボールを、大介はなんとかカットしている。
かといってフェアゾーンに上手く飛ばせているわけでもない。
両者の実力が拮抗しているというのか。
いや、拮抗していても、わずか一瞬の、または髪の毛一筋ほどの差で、勝負は決まるはずだ。
実力が拮抗しているとか、そういう問題ではない。実際に第一打席は、比較的あっさりと勝負がついた。
ならばこの事態はいったいどういうことなのか。
マウンドの直史は、ひたすら静かに見えて、それでいて大介の目からは、はっきりと高温での燃焼が見える。
そしてバッターボックスの大介は、それに対抗するように力を使う。
心臓の鼓動を激しくするような、圧倒的な力の消費。
お互いがお互いに共鳴して、同じだけの力を使ってしまっている。
先に気づいたのは、直史であった。
強く叩けば強く叩くほど、同じ強さで反射してくる。
お互いが強いからこそ、高めあってしまっている。
この強さとは、単純に出力を上げるということではない。
技術やパワーだけではなく、読みや駆け引きだけでもない。
人間力の対抗が、二人の対決をお互いに過酷なものとしてしまっている。
これを終わらせてしまう手段は、つまり同じだけの強さをぶつけ合うというものではない。
二つある。圧倒的な上回る力で押し通るか、あるいは完全に相手の力をいなすか。
直史であれば後者を選ぶのが、今までであった。
ただ、今は前に打たれたものとは違う、本物のストレートが使える。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
(野球選手の平均寿命は少し短いんだったかな)
野球に限らず多くのスポーツ選手は、平均より寿命が短い。
ただ中距離の陸上選手は、むしろ長いという統計がある。
運動の内容が、その長さに影響があるのだろうか。
それともかつての野球選手の、試合間の不摂生が原因であったのか。
少なくとも無茶な食生活などをしている、相撲取りの平均寿命は極端に短い。
直史は常に節制している。
そうしなければ素材的天才たちには、とても勝てなかったからだ。
今の自分は、そうやって節約してきた命を、炎に換えている。
とても静かに冷たく、同時に高温で燃える炎だ。
(上回る!)
セットポジションから、呼吸を完全に消す。
心臓の鼓動さえ、おそらくは弱く小さくなっている。
(子供たちの心臓は……)
三人目はともかく、上の二人が生来の心臓奇形。
遺伝があるのでは、と思ったことも何度かある。
瑞希は心臓病ではないが、少し珍しい遺伝的特性を持っていた。
直史はその弟妹も含めて、持病の類は全くない。
さらに弟妹の子供たちを見ても、遺伝的な疾患は全く見当たらない。
そういったことを考えなかったわけではない。
だが遺伝子というのは、そう単純に子供に遺伝するわけでもないだろう。
瑞希は子供の頃は虚弱であったというが、手術を終えた真琴はとんでもないお転婆だ。
(なぜこんなことを考えている?)
大介との対決に集中しながらも、思考の中に無駄な計算が含まれている。
ただ、分からないでもない。
他の記憶なども、脳の奥から湧きあがって来ている。
これは走馬灯に近いものだ。
ありとあらゆる過去の経験から、無作為に大介を封じる方法を考えている。
だが出てきた結論は、単純なものであった。
足をゆっくりと上げる。
なぜあんなことを考えたのか、わずか数秒後の今なら分かる。
(俺は証明してみせる)
そう、全ては逆なのだ。
(お前たちがいるからこそ、俺は戦える!)
守るために、戦うのだ。
ただ戦いたいだけではないのだ。
守るために、より強大な力を必要とし、それを行使する。
自分のためだけに戦うよりも、ずっと限界に近づいていける。
自分のために戦うだけなら、その限界は自分の限界。
誰かの心を背負っていれば、限界はさらに遠ざかる。
己の肉体の破壊は、常に想定されている。
だがそれでも、限界自体は遠ざかっていくのだ。
理想的なピッチングフォームではない。
これは体に負担がかかりすぎる。
だがそれでも、ここで大介に勝つ。
そこまでやってもまだ、最低あと一回は、この試合だけでも大介と対戦しないといけないのだが。
嫌になるが、立ちはだかる者がいるなら、それは戦わなければいけないだろう。
直史の指先から、最後の一押しを受けて、ボールがリリースされた。
それはストレートであった。
肩や肘、それを含めた全身を、庇ったものではないストレート。
間違いなくゾーン内に入っているストレートを、大介はフルスイングで迎えうつ。
だがボールは、そのバットの上を通過した。
チップすることすらなく、迫水のミットに収まった。
10球目にしてようやく、三振で大介を三振にすることに成功。
152km/hのストレート。
直史が右手を上げて、全員に見えるようにガッツポーズをする。
ほとんどの人が初めて見る、直史のガッツポーズであった。
この状況で、今季最速のストレートで三振を奪う。
いったいどこのスーパーエースだというのか。
スタンドや味方ベンチは、大きく盛り上がっている。
大してライガースベンチやその少ない応援団は、沈痛な顔をしている。
大介があれだけ粘ったのに、それを上回られたのだ。
ただベンチに戻ってきた大介は、楽しそうに笑っていたが。
「やっと本気になりやがったよ」
その言葉を聞いて、なお笑みを浮かべる大介を見て、多くの人間が戦慄した。
この回もまた、ライガースは三者凡退する。
ただこれは、覚悟していたものだ。
また大介が10球も粘ってくれた、というのも大きい。
大介としても、粘ろうと思って粘ったものではないのだが。
直史が本気で勝ちにきている。
もちろんこれまでもずっと、直史は勝とうと思って投げていた。
だがそれでも、かなりの計算がそこにはあったのだ。
大介は直史が、壊れるわけにはいかないことを知っていた。
壊れるほどの全力を出せないため、プロレス提案などもしたのだ。
しかしそれは、結局は悪い結果しかもたらさなかった。
以降は大介も本気で対決し、前の試合では実質勝利、とさえ言える結果を出していた。
それが勝利でもなんでもないと分かっていたのは、やはり大介が一番である。
直史のストレートで、何度も空振りを取られていたのが大介だ。
その大介が、あのストレートは違うと判断した。
盛大に空振りをしたが、おかげで直史が本気だと分かった。
これまで対戦してきた中でも、特別のストレートだ。
なんだかんだと打ち上げてしまって、打ち取られてきた大介であるから、その脅威が分かる。
本当の意味での本気、それを知っている大介だ。
義務的なピッチングではなく、大切なものを背負ったそれ。
そしていまや、それからもすら直史は解放されている。
四回の裏、レックスは無得点。
二点のリードがあるが、さすがに安全圏ではない。
ランナーが一人出て大介に回れば、ホームラン一発で同点だ。
もちろんそんな都合のいいことは起こりにくいし、たとえ起こったとしてもまだ同点で、それまでにまたレックスが点を追加する可能性もある。
そういったことを全て含めてもなお、危険な状況だと判断される。直史への負担は少しでも少なくしたいのだ。
直史の本気度の違いが分かっていない首脳陣の判断であるが、直史もまた今の自分を過信してはいない。
大介を三振で打ち取ったが、大介がそれにアジャストしてくるかもしれない。
何よりもまた、10球も球数を使いたくはない。
五回の表、ライガースの攻撃は四番からの打順であるが、積極的に振ってくるわけではない。
直史が相手であっても、初球攻撃は充分に有効なのだが、それで単打にしかならないのなら仕方がない。
今日の直史のデータを少しでも取って、大介に活用してもらわなければいけない。
そして一人でもランナーが出て、大介の第四打席を作らなければいけない。
しかし直史は、その意図を完全に読んでいる。
力を上手く抜いていても、生きたボールが走っていく。
打ちにくいコース、打ちにくい配球を繰り返していく。
三球ずつでバッターを打ち取れればいい。
今日はもう、少しぐらいなら大介に苦しめられるのは覚悟の上だ。
そしてこんなピッチングをしていても、楽しくて仕方がない。
三振が続いていく。
五回の表も、直史は一人のランナーも出さない。
もしもランナーが出たら、上手くダブルプレイを狙う。
ただライガースは、ひょっとしたらダブルプレイになるぐらいなら、無駄死にするかもしれない。
そんなことも考えていた。
ぴりぴりと皮膚が痛い。
マウンドで投げているときは問題ないのに、ベンチに入るとこうだ。
体の限界が近いのかな、と思わないでもない。
だが直史の無意識下の、脳の奥深い部分は把握している。
今の自分の肉体の状態と、そして限界までのあと少しの距離を。
(まだ壊れないな)
壊れることを覚悟したからこそ、逆にその領域が見える。
いや、それは迫ってきているというよりも逆に、自分の背後にある穴であろうか。
バッターボックスでは完全に案山子となり、ピッチャーの奪三振数に貢献してしまっている。
だが誰も、直史にバッティングでの貢献など求めていない。
ツーアウト満塁であっても、無事に三振しろというぐらいであろう。
実際に直史も、点を取るのは味方に託している。
重要なのは、点を取られない限りは負けない、という厳然たる事実である。
五回の裏もレックスに追加点はない。
出来れば六回の裏に、もう一点ぐらいは援護がほしいかな、とは思う。
そうなれば一点を取られたとしても、二点のリードがある状態で、四打席目の大介と対戦する状況に持っていけるからだ。
直史は体に突き刺さる空気を感じながら、六回の表のマウンドに登る。
そしてアウトを積み重ねる。
(こんなことをしても、まだ試合は終わらない)
この試合に勝ったとしても、シーズンはまだまだ終わらないのだ。
分かっていても絶対に打たれない。
覚悟を決めて、直史は投げている。
六回の表が終わった。
直史の発する静かな、狂気にも近い殺気について、大介以外の選手も感じている。
特に対峙したバッターは、それを強く感じているだろう。
たとえば上杉のような、剛速球とは違う。
確かに上杉のストレートが直撃すれば、骨折ぐらいは普通にする。
しかし直史は、その針の先に猛毒を塗っているのだ。
もっと原始的な恐怖に近いのかもしれない。
それを上手く感じ取れる人間はいない。
大介でさえ、この恐怖から完全に脱するのは難しいのである。
だが実は身近に、これを感じ取れる人間はいる。
ツインズであり、また司朗や昇馬といった子供たちも、これを感じ取ることは出来るであろう。
ツインズは元々、生まれてからすぐに直史が、そういうものだと分かっていた。それが二人が、直史を家長として認める理由である。
そして司朗と昇馬。
二人はそれぞれ、生来の直感と、野生で育てた感性で、これを感じ取ることが出来る。
もっともそんな本気の直史と、二人が対戦する機会はないが。
(あと一点あればな)
ベンチの中で、味方の攻撃を見つめる直史。
ただその拡大しすぎた知覚は、試合の流れをも把握している。
そしてその流れを破壊することの出来る、唯一の相手も。
そして七回の表が始まる。
直史と大介の、三度目の対決。
迫水が戻してきたボールを、注意深く触れる直史。
縫い目にかかる指先が、今日はいい感じである。
(これを今日最後の対戦にしたい)
そう考えていて、おそらくそれは不可能ではないと、直史は感じている。
ホームランだけは打たれては困るが。
大介もまた、肌を刺す空気を感じている。
そしてその空気は、自分と直史の対決によって発生している。
より強くそれを発散させているのは、間違いなく直史だ。
大介の気配を察知する能力は、ある意味においては天性のもの。
それはフィジカルの才能よりも、さらに珍しいものであったかもしれない。
あるいはその二つを備えていたことが、大介をこの体格をして、トッププレイヤーに押し上げたのであろうか。
バッターボックスに入ると、直史の投げようとしているボールの気配がする。
だがその確信が得られる直前に、その気配が霧散する。
直史の投げるボールは、その気配が消えた状態から投ぜられるものだ。
まるで不意打ちのようにも思えるが、どうしてここまで気配を消せるのか。
それでいて投げられるボールには、はっきりとした意思を感じる。
必ず打ち取るというよりは、もはやバッターの心を折るというか、尊厳を破壊するようなボール。
ああ、なるほどと大介は納得する。
こんなピッチングを相手にすれば、明日の試合までも、打線はショックを引きずるのだろうな、と。
アウトローに決まったストレートは、もう白い線にしか見えなかった。
スピードは150km/hと、確かに速いがこの程度なら、それなりにいるのがプロの世界。
MLBであればむしろ、最も遅いレベルであったろうに。
ただストレートの強さというのは、スピードだけでは決まらない。
この150km/hを打てるバッターは、ほとんどいないだろうな、と大介には分かる。
続いて投げられたボールは、スピードのあるカーブであった。
スローカーブでの緩急差ではなく、変化によってカウントを取りに来る。
ゾーンを通っていたので大介は手を出したが、ライト側のファールスタンドに入っただけである。
たったの二球で追い込まれた。
先ほどの打席は、ここから粘っていってものである。
三球目、直史のボールには相変わらず、強い意志を感じる。
このボールは打たれない、という直史の強烈な意思だ。
もちろんそれを感じた上で、大介は打っていく。
ゾーンから沈んだスルーを、上手く掬ってレフト側のスタンドに運ぶ。
ただしこれも、ファールに切れるボールであった。
ツーナッシングからカウントは変わらない。
今のボールなど、本来は見逃すべきであったのだ。
しかし直史の意思を感じすぎたため、手を出すしかなかった。
普通ならボール球に、あれだけの魂の熱量は感じないのだ。
(フェイクが上手いな)
そしておそらく、次が本命である。
直史としても、もう大介相手に球数は使いたくない。
単純な球数以上に、大介に対して投げるのは疲れるのだ。
(ここで決めるぞ)
呼吸をしっかりと整え、相手の呼吸を読む。
投打の対決は常に、主導権はピッチャーにある。
これを勘違いするピッチャーは、本物のピッチャーとしては通用しない。
たとえ相手が大介であっても、だ。
直史の足がゆっくりと上がり、そこからスムーズに体重移動がされていく。
大介が見たのは、この軌道からのストレートなら、おそらくさっきよりもさらに、ホップするという軌道である。
指先からリリースされるボールは、ピッチトンネルを通ってきた。
(高め!)
スイングの軌道の範囲内だ。打てる。
そしてスイングに入った大介は、その直史の意思を強く反映したボールが、全く違う意図を含んでいることに気づいた。
(こいつ!)
もはやコースも緩急も間に合わない。
スルーチェンジが大介のスイング軌道の、下を通り過ぎていく。
バウンドしたそれを、迫水はしっかりと前に落として捕球した。
タッチアウトしたが、大介は振り逃げする余裕など残っていなかった。
×××
次話「」
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