第93話 より高く

 マウンドのピッチャーは孤高の存在。

 対戦するバッターがいて、バッテリーを組むキャッチャーがいる。

 それでもやはり、たった一人の存在であるのだ。

 お山の大将であるなら、とても幸福な立場であろう。

 だが直史は、強烈な自我を持ちながらも、お山の大将ではいられない。

 勝利にこだわる性格は、己のピッチングに執着する、エースの姿としては珍しい。

 チームの勝敗ではなく、自分の成績が重要というのは、ピッチャーというポジションでは普通にありうることだ。

 直史は違う。

 チームを勝たせて、自分も勝つ。


 そんな直史の変化を、大介は敏感に感じている。

 一打席目のあのスルーには、復帰してからはあまり感じられなかった、直史の哲学的な存在感が含まれていると感じた。

 なんだそれは、と他の人間なら意味が分からないだろう。

 だがごく少数、それこそツインズや、樋口にであれば分かるだろう。

 直史の存在は他の誰とも大きく違う。

 それが分かってようやく、戦う舞台に立てる。


 大介だけではなく、多くの人間が理解していること。

 それは直史が、己の存在を過小評価しているということだ。

 大介が出ている試合、確かに大介の貢献度は、とてつもなく高い。

 しかし大介の貢献度の方が直史よりも高いのは、それは彼が野手だからである。

 大介の存在がバッターとしては最高のものであったとしても、大介のおかげで勝った、大介がいなければ負けていた、という試合は限られる。

 だが直史の場合は、直史だからこそ勝てた、という試合が極端に多くなる。


 たった一点の援護で完封してしまうピッチャーは、もうほとんどいない。

 上杉でさえ無失点完封は難しくなっているのだ。

 体力的にはプロの世界から離れていた直史に、フルイニング投げる体力がある理由。

 おそらくほとんどの選手は、その時点で不思議に思っている。

 ただ本人と、近しい存在は分かっている。

 体力や耐久力を、消耗しないように、上手くコントロールする。

 それが直史のコントロールだ。




 伸びるストレートが、低めいっぱいに入った。

 審判はストライクとコールするが、これは正確にはボールだ。

 そう判定するかもしれないな、と大介は思っていたが追い込まれていないので見逃した。

 決め球としては使えないと、直史も分かっているのだろう。

 そのくせカウントを取るために、しっかりと使ってくる。

(今日のナオはすごいな)

 大介はベンチからも、そのピッチングをしっかりと観察していた。


 これまでの試合とは、異質の緊張感と言うのだろうか。

 何か吹っ切れたというか、拘束具を外したというか。封印が解けたというか。

 とにかく大介にも伝わってくるのは、この間の試合と一緒にしてはいけない、ということだ。

 本気でやらなければ勝てない。それは今までも同じである。

 だがここは、死ぬ気でやらないと勝てない。


 肉体がしっかりと感じている。

 本当の意味での全力を出さないと、ここでまともに勝負することは出来ないと。

 その本当の意味の全力というのは、まさに命を削っていくことであろう。

 スポーツは健康にいいと言うが、トップレベルのスポーツ選手など、誰だって肉体への負荷は故障とぎりぎりの境界で行っている。

 それをまた一歩、故障に向って進んでいくのだ。


 おそらくこれは、単純な肉体の損傷の話ではない。

 人間の臓器の中でも、極めてエネルギー消費量の激しい器官。

 脳をフル回転させることで、ようやくその境地にたどり着く。

 肉体的にはトップレベルにはほど遠い、直史が出来ること。

 それは読みとか駆け引きではなく、情報処理だ。




 直史の見ている景色は、自分たちとは違う。

 おそらく一番近くにいたのは、坂本か樋口であろう。

 大介はそう考えつつも、挑むことをやめることはない。

 勝負というのは、いくら負けても、諦めてしまうまでは本当の負けではないのであるから。


 二球目に投げられたのは、高速のシンカーであった。

 大介のバットは届いたが、当ててファールにするのが精一杯であった。

 今シーズンにここまで投げていた、ツーシームよりも大きく曲がり、普通のシンカーよりもはるかに速い。

 かつて投げていたシンカーに近く、ストレートとの球速差があまりない。

 

 速球二つであっという間に追い込まれてしまった。

 だが追い詰められてやっと、大介の集中力も増していく。

 バットの届くところに投げられたら、全て打ってやるという気迫。

 それが空回りしないように、しっかりと抑えて構える。

 ここで投げるなら、普通ならばチェンジアップであろう。


 直史はセットポジションから構えて、高速の動きでクイックのタイミングで投げる。

 しかしそのボールのスピードは、大介が想像していたよりも、はるかに遅いものである。

(スローカーブ!)

 90km/hのスローカーブは、球速差が50km/h以上。

 速球の後のこれを、果たして何人が打てるというのか。

 しかし大介は、慣性の働く自分のバットを、上手くヘッドだけを走らせる。

 かろうじて当たった打球が、ファールゾーンに転々と転がった。




 ツーストライクまでは、比較的簡単なのだ。

 そこからアウトにするのが、また大変なのである。

 難しいわけではないが、カットの上手いバッターというのはいる。

 さすがにツーナッシングからフォアボール狙いは難しいし、大介はそもそもそういった細工をすることはない。

 だがここではどう判断するだろうか。

 直史の体力を削るのは、ほぼ不可能。しかし精神力や集中力なら可能かもしれない。


 結局は削らないと、打つことは出来ないのか。

 大介としては、そんな思考をしてしまう。

 もちろんそれは作戦として当然のものだ。

 だがそんな暢気な試合を、自分たちはやりたいのか。

 そもそも温いことを言うならば、直史は大介を敬遠すれば、もっと楽に勝つことが出来る。

 バッターとしてはカットなどせず、全てのスイングで長打を狙う。

 それがフォアボールで逃げない、直史と同じ舞台に立つということであろう。


 バッターボックスの中で構える、大介の気配が変わる。

 それは気迫と言うよりはもう、ほとんど殺気とさえ言えるものであった。

 魂の熱量を燃やし、より肉体を活性化させる。

 読みや駆け引きで勝負するのは間違いだ。

 直史に対するには、とにかく圧倒的な何か、を持たなければいけない。

 その何か、というのがなんであるのかは、大介もはっきりとしない。

 だが一つには、決死の覚悟であろうか。


 野球の試合では、まず死人が出ることはない。

 他の何と基準にすべきかは分からないが、基本的に接触の少ないプレイであるからだ。

 そんなスポーツで、命を賭けることなど普通はない。

 だがそれだけ追い詰められた状態で、脳のリミッターを切ってしまう必要がある。

 体が壊れるかもしれない。

 それでも、勝つためにはやる。




 大介が直史の本気を知っているのは、別にこの状況だけから判断したわけではない。

 沢村賞の候補は、もう完全に直史なっている。なので最悪、ここで壊れてしまっても問題はない。

 決まっているならば、あとは少しでも日程を縮める、と考えるのが直史ではないか。つまり直史はここからはもう、パーフェクトを狙ってくる。

 ほんの数日の差がどれだけ、手術に影響を与えるのか。

 ただ沢村賞を確信した直史が、本気で投げてきているということだ。


 実際はそこまで論理的ではないのだが、大介は直史が本当の本気を出す理由を、自分なりに見つけた。

 そして一打席目は打ち取られている。

 あそこまで伸びながら沈むスルーは、今シーズンは見ていない。

 つまり最大出力で、肩や肘が壊れてでもいいから、投げてきているということだ。

 直史がチームの優勝のために投げている、ということに思い至らないのが、悲しいと言えば悲しい。


 どのみち本気では勝負しないといけない。

 まさかマウンドの上で死んでしまうことはないが、それでも選手生命のぎりぎりを、既に踏み越えていってしまっているかもしれない。

 大介もまた、同じ領域に入っていかなければいけない。

 だが今度は、大介の方にこそ迷いがある。


 ライガースの優勝を、大介も考えている。

 そして戦力分析をすれば、大介の力はポストシーズン以降にこそ必要になる。

 レギュラーシーズンでも怪物の領域の大介だが、これがポストシーズンとなると、OPSが余裕で2を超えてくる。

 つまりは確率的には、全打席で出塁する以上の力を発揮する。

 いくら直史との対決のためとはいえ、ここで自分が壊れてしまってはいけない。

 大介にしては、随分と小賢しいことを考えてしまったものである。




 直史を相手に勝つのは、本当に難しい。

 あと三試合のうち、この試合を含めて、おそらく二試合に投げてくる。

 ただそれでも、勝率は等しくなるのみ。

 カップスとスターズ、残る試合をレックスは全勝出来るであろうか。

 正直なところ、それは無理だろうと分析されていて、大介もレックスの首脳陣では無理だと思う。

 本来なら育成型の指揮官が揃っているのだ。

 ただそれとは別に、最も勝ち方を知っている人間がいるではないか。


 直史が比較的ベンチに出ているのを、大介は確認している。

 そう、勝つための方法は、直史が知っている。

 ただその知っている技術を、他の選手が遂行可能だとは思わないが。

(これだけ厳しいシーズンは、初めてかもな)

 ワールドシリーズやWBCなどでも比較的必勝体制が取れることが多かったので、甲子園を思い出してしまう。

 あるいはもっとも最初の、一つ勝つのに必死になっていた頃だろうか。


 直史の投げるボールに、原初の欲求を感じる。

(勝ちたがってやがる) 

 もっと冷静に、燃えるときも氷のように、高音すぎる炎のように、静かなのが直史のはずであった。

 だがここで目にするのは、あの一番最初の試合のような光景。

 静かに、それでいてはっきりと分かる。

 勝ったことのないピッチャーが、初めての勝利を求めるように。

 直史は勝利に飢えている。


 大介はボールをカットしていく。

 だがボールカウントが増えない。

 ぎりぎりの、どちらとも取られてもおかしくないコース。

 普段であれば、普通に打ってしまっているのに。

(面白いよな)

 本当に、野球は面白い。




 一球ごとに心臓が止まりそうになる。

 直史と大介、二人の対決は周囲を熱狂と、そして緊張の渦に巻き込む。

 ここまではこの二人の対決も、比較的すぐに決着がついていた。

 だが直史が投げるボールを、大介はなんとかカットしている。

 かといってフェアゾーンに上手く飛ばせているわけでもない。


 両者の実力が拮抗しているというのか。

 いや、拮抗していても、わずか一瞬の、または髪の毛一筋ほどの差で、勝負は決まるはずだ。

 実力が拮抗しているとか、そういう問題ではない。実際に第一打席は、比較的あっさりと勝負がついた。

 ならばこの事態はいったいどういうことなのか。


 マウンドの直史は、ひたすら静かに見えて、それでいて大介の目からは、はっきりと高温での燃焼が見える。

 そしてバッターボックスの大介は、それに対抗するように力を使う。

 心臓の鼓動を激しくするような、圧倒的な力の消費。

 お互いがお互いに共鳴して、同じだけの力を使ってしまっている。

 先に気づいたのは、直史であった。


 強く叩けば強く叩くほど、同じ強さで反射してくる。

 お互いが強いからこそ、高めあってしまっている。

 この強さとは、単純に出力を上げるということではない。

 技術やパワーだけではなく、読みや駆け引きだけでもない。

 人間力の対抗が、二人の対決をお互いに過酷なものとしてしまっている。

 これを終わらせてしまう手段は、つまり同じだけの強さをぶつけ合うというものではない。

 二つある。圧倒的な上回る力で押し通るか、あるいは完全に相手の力をいなすか。

 直史であれば後者を選ぶのが、今までであった。

 ただ、今は前に打たれたものとは違う、本物のストレートが使える。




 心臓の鼓動が跳ね上がる。

(野球選手の平均寿命は少し短いんだったかな)

 野球に限らず多くのスポーツ選手は、平均より寿命が短い。

 ただ中距離の陸上選手は、むしろ長いという統計がある。

 運動の内容が、その長さに影響があるのだろうか。

 それともかつての野球選手の、試合間の不摂生が原因であったのか。

 少なくとも無茶な食生活などをしている、相撲取りの平均寿命は極端に短い。


 直史は常に節制している。

 そうしなければ素材的天才たちには、とても勝てなかったからだ。

 今の自分は、そうやって節約してきた命を、炎に換えている。

 とても静かに冷たく、同時に高温で燃える炎だ。

(上回る!)

 セットポジションから、呼吸を完全に消す。

 心臓の鼓動さえ、おそらくは弱く小さくなっている。

(子供たちの心臓は……)

 三人目はともかく、上の二人が生来の心臓奇形。

 遺伝があるのでは、と思ったことも何度かある。


 瑞希は心臓病ではないが、少し珍しい遺伝的特性を持っていた。

 直史はその弟妹も含めて、持病の類は全くない。

 さらに弟妹の子供たちを見ても、遺伝的な疾患は全く見当たらない。

 そういったことを考えなかったわけではない。

 だが遺伝子というのは、そう単純に子供に遺伝するわけでもないだろう。

 瑞希は子供の頃は虚弱であったというが、手術を終えた真琴はとんでもないお転婆だ。


(なぜこんなことを考えている?)

 大介との対決に集中しながらも、思考の中に無駄な計算が含まれている。

 ただ、分からないでもない。

 他の記憶なども、脳の奥から湧きあがって来ている。

 これは走馬灯に近いものだ。

 ありとあらゆる過去の経験から、無作為に大介を封じる方法を考えている。

 だが出てきた結論は、単純なものであった。




 足をゆっくりと上げる。 

 なぜあんなことを考えたのか、わずか数秒後の今なら分かる。

(俺は証明してみせる)

 そう、全ては逆なのだ。

(お前たちがいるからこそ、俺は戦える!)

 守るために、戦うのだ。

 ただ戦いたいだけではないのだ。

 守るために、より強大な力を必要とし、それを行使する。

 自分のためだけに戦うよりも、ずっと限界に近づいていける。


 自分のために戦うだけなら、その限界は自分の限界。

 誰かの心を背負っていれば、限界はさらに遠ざかる。

 己の肉体の破壊は、常に想定されている。

 だがそれでも、限界自体は遠ざかっていくのだ。


 理想的なピッチングフォームではない。

 これは体に負担がかかりすぎる。

 だがそれでも、ここで大介に勝つ。

 そこまでやってもまだ、最低あと一回は、この試合だけでも大介と対戦しないといけないのだが。

 嫌になるが、立ちはだかる者がいるなら、それは戦わなければいけないだろう。

 直史の指先から、最後の一押しを受けて、ボールがリリースされた。


 それはストレートであった。

 肩や肘、それを含めた全身を、庇ったものではないストレート。

 間違いなくゾーン内に入っているストレートを、大介はフルスイングで迎えうつ。

 だがボールは、そのバットの上を通過した。

 チップすることすらなく、迫水のミットに収まった。

 10球目にしてようやく、三振で大介を三振にすることに成功。

 152km/hのストレート。

 直史が右手を上げて、全員に見えるようにガッツポーズをする。

 ほとんどの人が初めて見る、直史のガッツポーズであった。




 この状況で、今季最速のストレートで三振を奪う。

 いったいどこのスーパーエースだというのか。

 スタンドや味方ベンチは、大きく盛り上がっている。

 大してライガースベンチやその少ない応援団は、沈痛な顔をしている。

 大介があれだけ粘ったのに、それを上回られたのだ。

 ただベンチに戻ってきた大介は、楽しそうに笑っていたが。

「やっと本気になりやがったよ」

 その言葉を聞いて、なお笑みを浮かべる大介を見て、多くの人間が戦慄した。


 この回もまた、ライガースは三者凡退する。

 ただこれは、覚悟していたものだ。

 また大介が10球も粘ってくれた、というのも大きい。

 大介としても、粘ろうと思って粘ったものではないのだが。

 直史が本気で勝ちにきている。

 もちろんこれまでもずっと、直史は勝とうと思って投げていた。

 だがそれでも、かなりの計算がそこにはあったのだ。


 大介は直史が、壊れるわけにはいかないことを知っていた。

 壊れるほどの全力を出せないため、プロレス提案などもしたのだ。

 しかしそれは、結局は悪い結果しかもたらさなかった。

 以降は大介も本気で対決し、前の試合では実質勝利、とさえ言える結果を出していた。

 それが勝利でもなんでもないと分かっていたのは、やはり大介が一番である。


 直史のストレートで、何度も空振りを取られていたのが大介だ。

 その大介が、あのストレートは違うと判断した。

 盛大に空振りをしたが、おかげで直史が本気だと分かった。

 これまで対戦してきた中でも、特別のストレートだ。

 なんだかんだと打ち上げてしまって、打ち取られてきた大介であるから、その脅威が分かる。

 本当の意味での本気、それを知っている大介だ。

 義務的なピッチングではなく、大切なものを背負ったそれ。

 そしていまや、それからもすら直史は解放されている。




 四回の裏、レックスは無得点。

 二点のリードがあるが、さすがに安全圏ではない。

 ランナーが一人出て大介に回れば、ホームラン一発で同点だ。

 もちろんそんな都合のいいことは起こりにくいし、たとえ起こったとしてもまだ同点で、それまでにまたレックスが点を追加する可能性もある。

 そういったことを全て含めてもなお、危険な状況だと判断される。直史への負担は少しでも少なくしたいのだ。

 直史の本気度の違いが分かっていない首脳陣の判断であるが、直史もまた今の自分を過信してはいない。

 大介を三振で打ち取ったが、大介がそれにアジャストしてくるかもしれない。

 何よりもまた、10球も球数を使いたくはない。


 五回の表、ライガースの攻撃は四番からの打順であるが、積極的に振ってくるわけではない。

 直史が相手であっても、初球攻撃は充分に有効なのだが、それで単打にしかならないのなら仕方がない。

 今日の直史のデータを少しでも取って、大介に活用してもらわなければいけない。

 そして一人でもランナーが出て、大介の第四打席を作らなければいけない。

 しかし直史は、その意図を完全に読んでいる。


 力を上手く抜いていても、生きたボールが走っていく。

 打ちにくいコース、打ちにくい配球を繰り返していく。

 三球ずつでバッターを打ち取れればいい。

 今日はもう、少しぐらいなら大介に苦しめられるのは覚悟の上だ。

 そしてこんなピッチングをしていても、楽しくて仕方がない。


 三振が続いていく。

 五回の表も、直史は一人のランナーも出さない。

 もしもランナーが出たら、上手くダブルプレイを狙う。

 ただライガースは、ひょっとしたらダブルプレイになるぐらいなら、無駄死にするかもしれない。

 そんなことも考えていた。




 ぴりぴりと皮膚が痛い。

 マウンドで投げているときは問題ないのに、ベンチに入るとこうだ。

 体の限界が近いのかな、と思わないでもない。

 だが直史の無意識下の、脳の奥深い部分は把握している。

 今の自分の肉体の状態と、そして限界までのあと少しの距離を。

(まだ壊れないな)

 壊れることを覚悟したからこそ、逆にその領域が見える。

 いや、それは迫ってきているというよりも逆に、自分の背後にある穴であろうか。


 バッターボックスでは完全に案山子となり、ピッチャーの奪三振数に貢献してしまっている。

 だが誰も、直史にバッティングでの貢献など求めていない。

 ツーアウト満塁であっても、無事に三振しろというぐらいであろう。

 実際に直史も、点を取るのは味方に託している。

 重要なのは、点を取られない限りは負けない、という厳然たる事実である。


 五回の裏もレックスに追加点はない。

 出来れば六回の裏に、もう一点ぐらいは援護がほしいかな、とは思う。

 そうなれば一点を取られたとしても、二点のリードがある状態で、四打席目の大介と対戦する状況に持っていけるからだ。

 直史は体に突き刺さる空気を感じながら、六回の表のマウンドに登る。

 そしてアウトを積み重ねる。

(こんなことをしても、まだ試合は終わらない)

 この試合に勝ったとしても、シーズンはまだまだ終わらないのだ。

 分かっていても絶対に打たれない。

 覚悟を決めて、直史は投げている。




 六回の表が終わった。

 直史の発する静かな、狂気にも近い殺気について、大介以外の選手も感じている。

 特に対峙したバッターは、それを強く感じているだろう。

 たとえば上杉のような、剛速球とは違う。

 確かに上杉のストレートが直撃すれば、骨折ぐらいは普通にする。

 しかし直史は、その針の先に猛毒を塗っているのだ。


 もっと原始的な恐怖に近いのかもしれない。

 それを上手く感じ取れる人間はいない。

 大介でさえ、この恐怖から完全に脱するのは難しいのである。

 だが実は身近に、これを感じ取れる人間はいる。

 ツインズであり、また司朗や昇馬といった子供たちも、これを感じ取ることは出来るであろう。

 ツインズは元々、生まれてからすぐに直史が、そういうものだと分かっていた。それが二人が、直史を家長として認める理由である。


 そして司朗と昇馬。

 二人はそれぞれ、生来の直感と、野生で育てた感性で、これを感じ取ることが出来る。

 もっともそんな本気の直史と、二人が対戦する機会はないが。

(あと一点あればな)

 ベンチの中で、味方の攻撃を見つめる直史。

 ただその拡大しすぎた知覚は、試合の流れをも把握している。

 そしてその流れを破壊することの出来る、唯一の相手も。


 そして七回の表が始まる。

 直史と大介の、三度目の対決。

 迫水が戻してきたボールを、注意深く触れる直史。

 縫い目にかかる指先が、今日はいい感じである。

(これを今日最後の対戦にしたい)

 そう考えていて、おそらくそれは不可能ではないと、直史は感じている。

 ホームランだけは打たれては困るが。




 大介もまた、肌を刺す空気を感じている。

 そしてその空気は、自分と直史の対決によって発生している。

 より強くそれを発散させているのは、間違いなく直史だ。

 大介の気配を察知する能力は、ある意味においては天性のもの。

 それはフィジカルの才能よりも、さらに珍しいものであったかもしれない。

 あるいはその二つを備えていたことが、大介をこの体格をして、トッププレイヤーに押し上げたのであろうか。


 バッターボックスに入ると、直史の投げようとしているボールの気配がする。

 だがその確信が得られる直前に、その気配が霧散する。

 直史の投げるボールは、その気配が消えた状態から投ぜられるものだ。

 まるで不意打ちのようにも思えるが、どうしてここまで気配を消せるのか。

 それでいて投げられるボールには、はっきりとした意思を感じる。

 必ず打ち取るというよりは、もはやバッターの心を折るというか、尊厳を破壊するようなボール。

 ああ、なるほどと大介は納得する。

 こんなピッチングを相手にすれば、明日の試合までも、打線はショックを引きずるのだろうな、と。


 アウトローに決まったストレートは、もう白い線にしか見えなかった。

 スピードは150km/hと、確かに速いがこの程度なら、それなりにいるのがプロの世界。

 MLBであればむしろ、最も遅いレベルであったろうに。

 ただストレートの強さというのは、スピードだけでは決まらない。

 この150km/hを打てるバッターは、ほとんどいないだろうな、と大介には分かる。


 続いて投げられたボールは、スピードのあるカーブであった。 

 スローカーブでの緩急差ではなく、変化によってカウントを取りに来る。

 ゾーンを通っていたので大介は手を出したが、ライト側のファールスタンドに入っただけである。

 たったの二球で追い込まれた。

 先ほどの打席は、ここから粘っていってものである。




 三球目、直史のボールには相変わらず、強い意志を感じる。

 このボールは打たれない、という直史の強烈な意思だ。

 もちろんそれを感じた上で、大介は打っていく。

 ゾーンから沈んだスルーを、上手く掬ってレフト側のスタンドに運ぶ。

 ただしこれも、ファールに切れるボールであった。


 ツーナッシングからカウントは変わらない。

 今のボールなど、本来は見逃すべきであったのだ。

 しかし直史の意思を感じすぎたため、手を出すしかなかった。

 普通ならボール球に、あれだけの魂の熱量は感じないのだ。

(フェイクが上手いな)

 そしておそらく、次が本命である。


 直史としても、もう大介相手に球数は使いたくない。

 単純な球数以上に、大介に対して投げるのは疲れるのだ。

(ここで決めるぞ)

 呼吸をしっかりと整え、相手の呼吸を読む。

 投打の対決は常に、主導権はピッチャーにある。

 これを勘違いするピッチャーは、本物のピッチャーとしては通用しない。

 たとえ相手が大介であっても、だ。


 直史の足がゆっくりと上がり、そこからスムーズに体重移動がされていく。

 大介が見たのは、この軌道からのストレートなら、おそらくさっきよりもさらに、ホップするという軌道である。

 指先からリリースされるボールは、ピッチトンネルを通ってきた。

(高め!)

 スイングの軌道の範囲内だ。打てる。

 そしてスイングに入った大介は、その直史の意思を強く反映したボールが、全く違う意図を含んでいることに気づいた。

(こいつ!)

 もはやコースも緩急も間に合わない。

 スルーチェンジが大介のスイング軌道の、下を通り過ぎていく。

 バウンドしたそれを、迫水はしっかりと前に落として捕球した。

 タッチアウトしたが、大介は振り逃げする余裕など残っていなかった。




×××




 次話「」

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