第91話 一本の糸

 スターズとの三連戦、仕方がないとはいえ、レックスは初戦を落としてしまった。

 ただ上杉も完璧というわけではなく、一点は許している。

 スターズ全体を見ても、疲労がそれなりにたまっている。

 そのあたり本拠地がドームで、雨天延期になりにくい、タイタンズの方が終盤は試合が詰まっていない。

 つまりタイタンズが有利なはずなのだが、九月に入ってからはスターズがタイタンズを上回り、勝ちを重ねていけば自力だけでもクライマックスシリーズに進出することが出来る。

 しかしそこに、同じくクライマックスシリーズの進出ではなく、ペナントレースの制覇を目指すレックスとの試合がある。


 スターズはタイタンズもあと少し負けてくれれば、比較的楽に三位確定となる。

 ただタイタンズとの直接対決もあるため、ここをどうするか。

 こんな厄介なスターズを相手に、勝たなくてはいけないという状況が既に、レックスにとっては不利なのだろうか。

 ペナントレース制覇へ至る道は、本当に細い。

 それでもまだ、可能性は充分に残っている。

 比較するのはなんだが、夏の甲子園などは、地方大会から全ての試合を勝たなければ、優勝できないのだ。


 日本の野球が短期決戦に強いと言われるのは、この散々に批判を浴びてもいる、高校野球に理由の一つがあるだろう。

 根性論は否定するが、ある種の精神論は否定しない直史は、一度負けたら終わり、というトーナメント制自体は否定しない。

 精神論でしか話さないことは軽蔑するが、この年代から精神論を否定していては、人間は弱くなるだけだと思うからだ。

 理不尽や不条理が、あっていいというわけではない。

 だがそれに立ち向かうための力は、実際に対面した時のために必要となる。




 対スターズ第二戦、レックスの先発は百目鬼。

 日程どおりならば、上杉のところに当てていた。

 だがレックス首脳陣の、この若手に対する期待は、かなり高いものとなっている。

 実際に負け星の数は、先発陣の中では直史の次に少ない。

 問題になりそうなのは、この一度負けたら終わるというプレッシャー。

 しかし百目鬼は若手だけに、まだ高校時代のトーナメントを忘れていない。


 試合前には直史も、首脳陣と一緒に百目鬼の投球練習を見ていた。

 調子は悪くなさそうだが、ピッチャーはマウンドに登ってみないと分からない。

 プレッシャーがかかった方がいいのか、かからない方がいいのか。

 どちらにしろそれは、最終的には選手自身が克服しなければいけない。

 ただ一言、声をかけるぐらいはいいだろう。


「百目鬼」

 試合前の集中に入る前に、直史は話かけていた。

 基本的に直史は、積極的に声をかけることはしない人間だ。正確には今年の直史は、そういうパターンで動いているというわけだが。

 百目鬼にとっては、雲の上の人間である。

 もちろんこれまでも、簡単なアドバイスなどは受けたことはあるが。

 ピッチングコーチよりも、フォームのメカニックの狂いなどには敏感なのだ。

「球数はあまり気にせず、とにかく五回が終わった時点で、一点でもうちが勝っていたらいい」

 それは、先発としてはもう1イニングは投げていた方がいいのではないか。

「状況によるが、俺がリリーフするから」

 息を飲む様子を見て、直史は隣に座った。

「無茶をするのは慣れているから、任せてもらって大丈夫だ」


 直史は三日後の先発である。

 ライガース戦の二連戦の初戦を投げる。

 そしておそらくは、中四日でまた、ライガース相手に投げる。

 日本シリーズの連投パーフェクトや、甲子園でのパーフェクト翌日の完封など、その伝説は枚挙に暇がない。

「それでも、俺一人じゃ勝てないからな」

 野球というのは、そういうものであるはずなのだ。




 神宮で投げる百目鬼は、スターズの先攻を無失点で抑えた。

 三者凡退の上々のスタートであるが、やや慎重になりすぎてもいるか。

 だがそれは、迫水もまた、直史から言われているからだ。

 数多くの奇跡を起こしてきたピッチャーが、なんとかすると言っている。

 普段は大口を叩かないだけに、余計にその言葉は強く響いた。


 ライガースとの試合、三試合のうち二試合は、厳しい間隔だが直史を使うことが出来る。

 しかし残る一試合まで、勝てるかどうか。

 そちらの先発予定は、完封をした三島である。

 中五日ではあるが、勢いを持っているのと同時に、そのさらにもう一つ前の試合で、ライガース相手に不甲斐ないピッチングをしてしまった。

 その事実が、果たしてメンタルにどう影響するか。


 野球がメンタルスポーツと言われるのは、こういったシーズン終盤において、もつれた試合で全力が出せるか、ということと関係するのだろう。

 甲子園を目指して、一つも負けてはいけないトーナメントを戦う。

 そしてこの状況はまだ、一つも負けてはいけないというわけではない。

(本当に、一歩だけなら外れてもいいけど、二歩外れたら終わりか)

 直史にとっては、いい感じの緊張感だ。

 WBCのクローザーとして、あるいはワールドシリーズなどで。

 散々に味わってきた感触である。




 人間は成功体験に弱い。

 弱いというのは、成功体験の味を忘れられず、何度もそれを求めてしまうという、欲望の面の弱さもある。

 だが肯定的な意味もある。成功体験を得たいがために、努力をするというものだ。

 ここには罠もあって、成功体験を得るために、不当な手段を取ってしまう人間も多いというものだ。


 野球の成功体験というのは、やはり試合に勝つことだろう。

 中でも一番強くそれを体感するのは、ピッチャーであることはまず間違いない。

 ピッチャーが一点も取られなければ、少なくとも負けることはない。

 打点を上げる選手の活躍も、それはもちろん重要なものだ。特に点が互いに入らないなら、ホームランで一点を取れるバッターは。

 しかしどんな相手でも意地で完封してしまうようなピッチャーの、えげつなさはそれどころではないだろう。

 常識的に考えて、無理なことであろうからだ。


 レックスの選手の中で、今年一番成長したのは、おそらくこの百目鬼ではないか。

 一軍のリリーフ要員としては、勝ちパターンのピッチャーではなかった。むしろビハインドなどで投げることが多かった。

 しかしその結果が良かったため、先発として使われる。

 ここまで素晴らしいピッチングをして、おそらく来年は年俸も一気に上がるだろう。

 ただそういった打算とは別に、目の前の試合に勝って優勝したい。


 プロ野球選手として、果たしてどれぐらい長く、投げることが出来るであろうか。

 そして現役で投げている間に、どれぐらい日本一のチャンスが回ってくるだろうか。

 プロは食っていくために、自分の成績をチームの成績より重視する、という本音を洩らす選手もいる。 

 だが実際のところ、本当に食っていくためだけに、こんな不確かな世界に入ってくるものだろうか。

 百目鬼はそのあたりのことを考えて、マウンドに立っている。

 確かなことは一つある。

 それは、優勝したくない選手などいない、ということだ。




 スターズもスターズで必死である。

 クライマックスシリーズに進出するかしないかで、シーズンの終わりが一気に変わる。

 それにチームとしても、より試合が多い方が、球団の露出が多くなる。

 個人的なことを言うなら、年俸の査定にもボーナスがつくだろう。

 クライマックスシリーズに進出すれば、まだ下克上して日本一になる可能性が残されている。

 さっさとシーズンが終わるよりは、まだ試合を戦っていたい。

 そう思うような野球バカでないと、プロにまでは到達しないものだ。


 初回から、一点を先制することに成功するスターズ。

 だがその一点のみに抑えて、追加点は許さない。

「百目鬼か。伸びてきたものだな」

 上杉ぐらいになると、相手チームの選手であっても、冷静に戦力として見ることが出来る。

 ピッチャーの力で言えば、今日の試合はレックス有利であろうか。

 だがそのわずかな差は、たやすくひっくり返るものだ。


 レックスもまた、初回から点を取ってくる。

 1-1の同点で、二回を迎える。

 圧倒的なスーパーエースの投げる試合ではない。

 どちらが勝つかなど、それこそ選択一つで変わってくるだろう。

 ただこの二回の表は、百目鬼はスターズを無得点に抑えた。


 スターズも二回の裏は、しっかりと抑えていく。

 完全な投手戦というわけではないが、ロースコアになりそうな試合。

 ただベンチの中から上杉は、百目鬼のピッチングにどこか余裕を感じる。

 いや、それは余裕と言っていいのだろうか。

 変に気負ってはいない、と言った方が正確なのかもしれない。




 まさに百目鬼は、集中しながらも変に力を入れず、熱が入りながらもリラックスしていた。

 ここまでのピッチングをするのは、確かにプロ入り後初めて。

 理由としては、やはり直史との会話であろうか。

 あれだけの才能、いや才能というのとはまた別の、とんでもない何か。

 そんなものを持っている人間が、そこまで執着して優勝を狙いにいくのか。

 ならば自分も、まだ先に進まなければいけない。

 限界は、まだまだずっと先にある。


 もちろん直史は、そこまで深く考えてなどいない。

 優勝できなければ、それはそれで仕方がないと思ってすらいる。

 ただチームのために、少しだけ貢献しようと思ったからだ。

 ペナントレースを制した方が、圧倒的に大介とは楽に戦うことが出来る。

 その程度の考えしかないのである。


 だが初回こそまだ、向かっていく気持ちが強すぎたものの、二回からはしっかりとアジャストしてきた。

 球数にしても、迫水のリードが冴えていることもあり、そうは増えていっていない。

 むしろこのペースであれば、充分に完投が狙えるのではないか。

(ここではまだ、無理したらいけないんだけどな)

 百目鬼にはレギュラーシーズンで、あと一度は投げてもらわないといけない。


 直史に三島、オーガス、百目鬼で回す。

 ただクライマックスシリーズにまで進めば、今度は百目鬼にはリリーフに回ってもらう可能性もある。

(アドバンテージがなくても三試合投げて、あと一つぐらいは誰か勝てるかな)

 直史は支配者の思考をしていた。




 ベンチの中から、両チームのエースが見ていた。

 しかし直史は途中からブルペンに移動する。

 豊田は複雑な表情をしているが、本当にいざとなった時も、もちろん直史を投げさせるつもりはない首脳陣である。

 直史は三日後の先発で、ライガース相手に投げることとなる。

 これが他のチームであったなら、首脳陣も考えたかもしれない。

 だが直史には次も、中四日でライガース戦に投げてもらう予定なのだ。


 今シーズン無敗と言うか、そもそもプロ入り後レギュラーシーズンで無敗。

 絶対に永遠に消えない記録であると、理解出来ない者はいない。

 ただそんな直史でも、削った後では負けるのだ。

 古くは高校一年秋、関東大会で負けている。

 もっともこれはスタミナ切れで、降板してからのものであるので、直史に負けが付いているわけではないが。


 プロレベルになると、MLBの二年目に負けた。

 ただプロ入り後、NPB一年目などは、一人で四勝して伝説を作ったが。

 大介が相手であると、直史でも負ける可能性がある。

 それだけは事実であるのだ。

 一人では勝てないというのは、正確ではない。

 一人では勝つのが難しい、というのが適当なところであろう。


 直史がブルペンに移動してからも、百目鬼のピッチングに大きな崩れはない。

 ただブルペンの方で、少し緊張が走る。

 この試合以前から、もうブルペンは試合開始と同時に、最低でも一人は次のピッチャーの準備は始めている。

 崩れた時に速やかに、交代させなければいけないからだ。

 肩肘を消耗させる、というのは確かにそうだろう。

 だが試合に負けることを考えれば、リリーフはここでこそ役割が重要になる。




 直史は豊田と話す。

「今日はなんとかいけそうだな」

「ああ、百目鬼はいい感じだ」

 まだ若手ではあるが、今年はしっかりと途中から、ローテを埋めるピッチングが出来た。

 来年はローテに完全に入って、レックスの先発を支える一人になるだろう。

 ただ豊田としては、ビハインドや同点の場面で出す、安定感のあるピッチャーをまた育てなければいけない。

 正確には育てるのは二軍の仕事であり、豊田は交代のタイミングを見計らって、ブルペンの準備をするのが最大の仕事だが。


 今年のレックスの投手事情は、直史一人のおかげで、かなり計算通りの運用が出来た。

 ただ今から思えば、やはり少し厳しい場面でも、使っていくべきではあったのだ。 

 結果論で物語るのは、愚かなことだとは分かっているが。

 百目鬼の翌日は、オーガスが登板する。

 そして次がいよいよ、神宮でライガースとの二連戦だ。

 それからカップスとの二連戦があり、移動してライガースと甲子園で対決。

 ここでは中四日で直史が投げる予定だ。

 最後に残っているのは、スターズとの一試合である。


 最終戦からクライマックスシリーズまでには、中四日が空いている。

 ファーストステージから投げるとすれば、最初に直史を持ってくる。 

 残り二試合のうち片方を全力で取っていく。

 スターズが来るかタイタンズが来るか、一応今はスターズが順位は上になっているが、そのスターズはレックスとの試合が残っているのだ。


 タイタンズはレックスともライガースとも、試合は全日程消化している。

 ただスターズとの直接対決が残っているので、やはりまだクライマックスシリーズ進出は分からない。

 上杉のいるスターズか、全体的な戦力では上回るタイタンズ、果たしてどちらが戦いやすいのか。

 もちろん一番いいのは、ペナントレースを制してアドバンテージを持った状態で、ライガースを含めた3チームのどこかが勝ちあがってくるかを待つことだ。




 試合は終盤にさしかかり、百目鬼はさすがに球威が落ちてきたようだ。

 ここでの一敗は致命傷になる可能性があるので、それでもリードした状態を保っているのなら充分だ。

 七回を投げて二失点のハイクオリティスタート。

 しかし味方の打線の援護もわずか三点と、リードはわずかに一点なのである。

 ここでしっかりと、勝ちパターンのリリーフを使っていける。

 それが今年のレックスの強さである。


 終盤に連戦が続くと、どうしてもリリーフ陣を酷使することになる。

 ただ今日は百目鬼が、六回までではなく七回まで投げてくれた。

 そして百目鬼もまだ、シーズンで投げてもらわないといけない試合が残っている。

 ここでピッチャーは交代だ。

 クローザーはここまで、0勝2敗48セーブのオースティンに任せれば充分であろう。

 間違いなくオースティンがセーブ機会の失敗が少なかったことは、レックスの安定した勝利につながっている。

 おそらく投手陣の中では、直史に次ぐ貢献度ではないだろうか。


 リリーフに交代した八回の攻防でも、得点の動きはない。

 そしてレックスは当然のように、クローザーのオースティンをマウンドに送る。

 今シーズンのレックスは、勝ちパターンのリリーフを、三日連続で使ったことはなかった。

 だが最後の最後で、その原則を破ることになるかもしれない。

 ペナントレースを制するための無茶が、この終盤でやってきたのであった。




 レックスが連戦のこの間、ライガースは試合がない。

 おかげで疲労は抜けるが、試合勘まで鈍る可能性がある。

 自分たちが勝たなくても、レックスが負けてくれれば、それでもペナントレースは優勝となる。

 負けても向こうがさらに負ければ、優勝がきまるというシーン。

 別にそれは珍しくないのだが、やはり勝って胴上げはしたい。

 相手の負けを期待していては、勝てる試合も勝てなくなる。


 レックスはこれで、スターズと二試合、カップスと二試合、そしてライガースとの三試合が残っている。

 対してライガースは、レックスとの三試合のみ。

 スターズ戦はおそらく上杉投げるローテではないので、勝てる可能性はそこそこ高い。

 対してカップス戦だが、完全にクライマックスシリーズの可能性が断たれたカップスは、ここ最近開き直っていい試合をしている。

 侮っていては、足元を掬われるだろう。


 結局はやはり、直接対決での決着となるのか。

 スターズとの第三戦、ここもまたベンチに入る直史は、色々と考えている。

 レックスの先発はオーガス。

 今季は相当に安定したピッチングをしていて、完投こそしないものの、六回まではまず投げられるし、そこからリリーフがつないで勝っている試合が多い。

 ただ五回で交代してしまった試合は、本人に負け星はつかなくても、結局は負けてしまっている。

 六回まで投げても、必ず勝てるとは限らない。

 だが五回で降りてしまった試合は、必ず負けている。

 ジンクスと言ってしまうには、再現性が高すぎる。




 オーガスは果たして、来年もレックスに残るのか。

 助っ人外国人の先発が、ここまで成績を残してくれているというのは、もちろんありがたいものだ。

 しかし直史はチームの中でも、オーガスとはあまり交流がない。

 他の選手とも積極的なコミュニケーションを取っていくタイプではないが、特にオーガスに対してはその傾向がある。


 別に他意はないし、普通に会話もする。むしろ英語が通じるだけ、直史には話しかけやすいはずだ。

 それなのに話しかけてこないというのは、ひょっとしたら直史のMLB時代が何か関係しているのでは、と思わないでもない。

 個人的な事情であるならと、ずっと尋ねることもなかったが。

 とりあえず確実なのは、この試合を落としてしまえば、やはり一気にレックスは苦しくなるということ。

 オーガスが七回まで投げてくれれば、レックスの勝率は上がる。


 一応直史はオーガスについて、表面的な情報は知っている。

 現在30歳で、アメリカではメジャーに上がったこともある。

 ただ好調と不調の波があり、マイナーに落とされることもしばしば。

 20代後半でもう、メジャーに上がることが少なくなってきて、そこをレックスのアメリカのスカウトが連れてきた、というものだ。


 去年もいい成績を残していたが、今年はそれをさらに上回る。

 単純な勝敗だけなら、ここまでに16勝4敗。

 もっとも完投が一つもないため、沢村賞の候補となるのは苦しい。

 直史と上杉がいなくても、該当者なしか、三島に取られている可能性が高い。

(MLBに戻って、今から通用するかは微妙だしな)

 直史が引退した年、23歳であったオーガスは、まだマイナーで燻っていたのだ。

 メジャーで投げた期間は、本当に短い。




 オーガスは直史に対して、敵意だとかそういうものを持っているわけではない。

 ただ彼はまさにプロ入りし、そしてメジャー昇格が現実的になった年齢で、直史のピッチングを見ているのだ。

 それはまさに悪魔的なもの、と言っていいだろう。

 どんなピッチャーであっても、一生に一度出来れば充分というパーフェクト。

 それを世界最高のリーグであるはずのMLBで、何度も達成している。

 そもそも投げた試合では負けない、というのが異常なことなのだ。


 ピッチャーではあるが、野球でもベースボールでもない、他の何かの基準で投げている。

 悪魔に魂を売ったのでは、というのは何度も言われたことだ。

 それに対して直史は何度も、同じように返していた。

「悪魔に魂を売った程度で、こういうピッチングが出来るのか?」

 それで出来るなら、MLBの歴史には、もっと傑出したピッチャーがたくさんいただろう。

 だが直史の場合は、そのフィジカルにしてからが、本来はMLBで通用するようなものではないとも言われた。

 いくら変化球が多くても、というのが最初の論調であったのだ。

 また直史の場合は、NPBで二年しか投げていない、というのも理由にはなっただろう。


 MLBの選手は、通常はルーキーリーグから始まって、数年かけてマイナーを上がっていって、やっとメジャーの舞台に達する。

 もちろん直史だけではなく、NPBから移籍する選手は、既に他のリーグで実績を残している選手なのだが。

 NPBのレベルはよく、4Aぐらいである、と言われることが多い。

 マイナーの最高の3Aよりは高いが、メジャーには達しないと。

 実際のところはそのNPBのトップが、MLBにやってくるわけだ。

 それに直史の前年にやってきた大介は、既にアメリカに大旋風を起こしていた。




 まさか生きた伝説と、同じチームになるとは。

 今がほぼ円熟期のオーガスとしては、10歳も年上の直史が、なぜブランクを経てなお、こんなピッチングが出来るのか意味が分からない。

 アンチキリストの存在である、などとはよく言われていた。

 実際のところ直史は、キリスト教にはあまりいい印象を抱いていないのは確かであるが、アメリカでそれを口にするような馬鹿ではなかった。

 白人も黒人もヒスパニックも、神を信じる愚か者たち。

 なおイスラムの神も本来は、ユダヤも含めて同じ神を信じている。

 そこに人間の解釈が挟まっているのが、1000年以上もの宗教の争いなのだろうな、とどうでもいいと思っているのが直史だ。

 ただ共産主義者よりは一億倍マシである、とも思っていたりするが。


 この試合は、スターズもかなり重要なものなのだ。

 もしも勝てば、一気にタイタンズに差を付け、三位確定に近づく。

 レックスとしてはライガース戦三試合のうち、二試合は無失点ではないにしろ、直史がなんとか勝ってくれる計算をする。

 するとその時点で負け星の数が同じになるため、残りの他のチームとの試合を全て勝てば、直接対決の成績で、ペナントレース優勝が決まる。


 どちらがより必死かというと、おそらくはレックスである。

 ただレックスは10月の3日に、スターズとの対戦が残っていて、それが最終戦となる。

 おそらくそれには、上杉は投げてこない。

 投げてくるとしたら、あと一勝絶対にしなければいけない、という状況であろう。

 中二日か三日で投げてくる上杉。

 直史はおそらく前日のライガース戦で投げるため、先発することは出来ない。

 ただこれまでの例を見れば、そこで勝てばペナントレース優勝となるなら、連投をしてもおかしくはない。

 少なくとも若い頃の直史であれば、それを行っているだろう。




 この試合、オーガスは安定した立ち上がりを見せた。

 オーガスにとって日本での優勝というのは、ある程度他人事であるのだ。

 それが上手く、緊張をほぐしてくれていると言えよう。

 ただ彼は純粋に、自分の価値を高めたい。

 MLBのスカウトは、普通にこの試合も見ているだろうし、メジャーに戻れなくてもよりよい条件で、来年を送ることが出来る。


 対するスターズは、初回から失点を許す。

 このあたりの心理状態は、個人によって違いがある。

 レックスの場合はもう、勝っていくしか優勝のルートがない。ただし負けたとしても、最悪クライマックスシリーズ進出は決まっている。

 対してスターズは負けたら、クライマックスシリーズ進出もなくなってしまう。

 勝てばよりクライマックスシリーズには近づくのだが。


 例外は色々とあるが、基本的に兵士というのは、退路が確保されていた方が、安心して実力を発揮出来るらしい。

 背水の陣というのが、名将だからこそ使えるのだ。

 この場合の退路とは、負けてもまだシーズンが終わらない、という心理状態であろうか。

 レックスは確かに、まだライガースとの直接対決が残っている。

 さらに言えば直史は、打たれても負けていない。


 試合の流れ全体が、今日もレックスの側にある。

 ベンチの中で直史は、最悪のことを想定しながら、流れが変わる瞬間を見逃すまいと思っている。

(スターズとタイタンズ、どっちが勝ち上がった方が楽かな)

 ライガースにペナントレースを制されたら、そこから自分はどう投げるか。

 六試合のうち、四試合に勝たなければいけない。

 今の自分の体力で、どこまでの無理がきくのか、直史は分かっていない。

 安全マージンを取りすぎたが、そうしなければ本来の目標を達成するのは難しかっただろう。




 直史は今季、一度も全力で投げていない。

 大介との対決の時でさえ、充分に勝てる状況を作ってから、全力の手前でピッチングをして、そして勝ってきた。

 もちろんそれは直史にとって、間違いなく正しいことだ。

 自分の伝説など、チームの優勝など、どうでも良かった。

 だがそんな直史がいなければ、レックスはこんな優勝争いを行えていなかっただろう。


 ひどく冷静と言うか、そもそもどうでもいいという、悪魔のような冷静さで、直史は現状を把握している。

 そのためこの試合も、おそらくはレックスが勝てるだろうと思っている。

 スターズは確かに、先頭の一番と二番が厄介なバッターだ。

 初回にその最初の攻撃を防いだ時点で、かなり勝率が上がっている。

 それはデータとして存在している。


 スターズはそれぞれのデータを総合的に見れば、Aクラスに入るのは難しいと分かる。

 今年の場合はフェニックスが弱かったのと、カップスの負傷者続出が、まず四位以上になる理由にはなった。

 だがそれ以上になったのは、上杉の復活というものが大きい。

 スターズはやはり、上杉のチームなのだ。

 上杉がいることで、チームとしての力が一回り大きくなる。


 その上杉がいる間に、せめてあと一回。

 優勝を一度も経験せずに、現役を去る選手は多い。

 そもそもチームの優勝に、執着しない選手さえ増えている。

 だがそれでも、上杉を勝たせたい。

 その気持ちが、スターズを強くしていたのである。

 

 


×××



 次話「決戦街道」

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