第86話 最後の巨人
直史は執念深い性格であろうか。または恨みを忘れない性格であろうか。
執念は確かに、特定のものに対しては向けられているだろう。しかしそれはむしろ、没頭という言葉の方が近いであろう。
そして恨みは通り越して、敵として認識するか否かである。
たとえば大阪光陰、あるいは坂本。
敗北した相手に対して、なんとしてでも次は勝つ、というのは高校時代だからこそ重要であったことだ。
大学のリーグ戦も、プロのレギュラーシーズンも、そもそも自分とは無関係のところで決着する試合が多い。
そして、プロの試合では負けていない。
調整のために紅白戦などのオープン戦では、それなりにホームランを打たれたり、負け投手の立場になったりもする。
だがそれは全て、負けてはいけない試合で勝つため。
しかし大介に打たれて負けた試合では、悔しさはあったもののそれが恨みに転ずるということはなかった。
その次の年から、ずっと連覇したからというのもあるが。
七回の表が終わって、いまだにパーフェクト継続中。
考えてみれば、シーズンもこんな時期になれば、パーフェクトを達成しようと沢村賞になろうと、あまり時間的には関係ない。
重要なのは手術を実際にやってもらうことである。
その手続きなどを、もう具体的に進めていくしかない。
今回の場合は、アメリカにいたスーパードクターが日本に戻ってきているので、そこに手術をねじ込もう、という話になっている。
手術一度で、1000万円ぐらいを追加で払っても、それは惜しいものではない。実際にはその10倍以上の費用が必要となるが。
アメリカと違って日本では、金持ちが生活を維持するのに、それほどの金がかかるわけではない。
MLB時代の収入は、おおよそ半分は地元に投資した。
アメリカではあちらの企業などに投資すれば、金額で国籍をもらえたりもするのだが、直史にはアメリカ国籍など必要ない。
限りなく日本人的な、だが本質的には日本人と言うより、直史であるというのが直史である。
完全に試合が停滞した。
タイタンズの点が入らないのは普通だろうが、レックスも追加点がつかない。
ひたすら淡々と、アウトが積み重なっていく試合。
見ているほうは退屈ではないのかとも思うが、タイタンズの攻撃時、つまり直史のパーフェクトが続いている間は、客席を立つ者も圧倒的に少ない。
パーフェクトは難しいにしても、今季既に四度のノーヒットノーランを達成している直史が、またとんでもないピッチングをしていることは間違いない。
そして八回の表が始まる。
先頭打者の悟を抑えれば、この試合の最大の山場が終わる。
ただ悟は、MLBのバッターと違って、この状況では長打を捨てるという選択を取れるバッターだ。
二点差であるから、まずランナーとして出るというのは、揺さぶりの意味でも間違っていないのだろうが。
長打を狙っている気配を感じない。
三塁ランナー絶対返すマン。
そう言われていた悟は、ここで確実に単打を狙うことが出来る。
バットコントロールに関しては、打率だけを目指すなら、四割も狙えるというのが、本人の本音である。
単打ばかりでは点が入らない、というのも統計では確かなのだが。
大介のように、長打と打率を両立するのはさすがに無理だ。
直史はここでも、緩急をしっかりと使っていく。
球数は充分に節約できているので、フルカウントまでボール球を使ってもいい。
もちろん実際は、ストライクカウントを増やしていくのが先行する。
ツーツーの平行カウントから、直史はストレートを投げた。
空振りが取れるタイプのストレート。
しかし悟は、これを叩きつけるように打ったのであった。
ショートゴロ、間に合う。
だが左右田は、ここでボールをファンブルする。
投げるな、と直史は言うべきであったろうか。
タイミング的には、本当に微妙なところであったのだ。
だが大きく体を捻った左右田の送球は、明らかに外れていた。
ファーストの足が、ベースから離れてしまうほどに。
どちらだ、と観客の注意は集まっただろう。
ただ直史としては、もうどちらでもいい。
ランナーがセーフになってしまったことは確かなのだ。
記録としては、ショートの悪送球によるエラー。
もっともファーストが無理をせずに、捕球に専念して逸らさなかったことだけは幸いである。
この状況で最悪なのは、悪送球から一気にランナーが二塁にまで進むことであった。
とは言え、これでパーフェクトが途切れたのは確かである。
もう今さら、パーフェクトにこだわる必要はないから、逆にパーフェクトが達成出来るのでは、と直史は思っていた。
だがそうは上手くいかず、やはり運命は直史の敵のようである。
わざわざ嘆くのではなく、ノーアウトランナー一塁。
この状況をどうにかするように、頭を働かせないといけない。
ダブルプレイにでも出来れば、一番いいのは間違いない。牽制で殺してもいい。
ただそんな都合のいいことを、許してくれるような相手ではないと、直史も分かっていた。
面倒なランナーは、意識するとより面倒になる。
ただノーアウトのランナーといっても、進塁するごとに一つずつアウトをとっていけば、ホームを踏むことはない。
問題は守備の乱れなどで、二つベースを進んでしまうこと。
だがそれもよく考えれば問題はない。一点取られてもまだ、一点のリードがあるのだ。
直史がここまで、ホームランでしか点を取られていないことに、変にこだわりがあったならば、そこに問題として発生したかもしれない。
しかしここで、しっかりと割り切れるからこそ、直史は負けないのである。
あと六つアウトを取れば試合は終わる。
球数は充分に余裕がある。
バッターは五番で、長打の可能性が少しはある。
(けれど外野フライでも、さすがに二塁にタッチアップはしないかな)
大介なら状況によってはやってくる。
悟の情報は、そこまで調べていない。
このあたりはキャッチャーが知っていると便利なのだが、さすがに一年目の迫水にそこまで求めるのは無理だ。
どうすべきか、直史はもちろん分かっている。
より勝てる確率の高い選択をする。
つまり確実性の高いアウトを取っていく。
(盗塁はするかな?)
悟の足であると、直史からでも盗塁の成功はありうる。
もっとも直史も、それなりに工夫はしていくが。
直史はストレートはそれほど速くないし、遅い変化球も使う。
だがまず盗塁をされることがない。
一つにはクイックの速さがある。
また予備動作が少ないため、スタートを切るのが絶望的に難しい。
他には走られたとき、キャッチャーが投げやすいコースにしっかり外せる、などと要素は色々とある。
とにかくタイタンズが盗塁をしかけてきても、それをアウトにすることは充分に可能である。
この二点差の状況から、盗塁というのはリスクに対するリターンが少ないようにも思えるが。
タイタンズ首脳陣としては、とりあえずパーフェクトを阻止しただけでも、ある程度は安心している。
まだノーヒットノーランがあるが、今年はまだパーフェクトをしていない直史の、最初のパーフェクト相手にはなりたくなかった。
レックスを相手に戦う時の、そして勝つための大前提は決まっている。
直史の投げていない試合で勝つことである。
それはさすがに、直史も影響力を発揮することなど出来ない。
完全に割り切れれば、むしろ楽なのかもしれない。
だがいくらなんでも、同じ人間なのである。それを幽霊か何かのように考えていては、人間の敗北であろう。
大げさと思われるかもしれないが、直史はマウンド上の幻影のようなものだ。
ゴーストとかファントムとか言われても、あまりにも恥ずかしくて悶えたことがあるのはMLB時代のこと。
ただ人間じゃないと納得できたら、多くの心折られた者にとっては、幸いであるかもしれない。
ここから直史の行ったことは、見ていても意味が分からなかっただろう。
三者連続の三振。
それも無駄球を使ったのは、たったの一球だけ。
追い込んだらすぐに、ストレートで空振り三振。
直史の奪三振率は、どんどんと高くなっているのは確かだ。
しかしどうしてここまで打てないのか、それを分かっている者は少ない。
一応説明はされても、実感が出来ないのである。
角度、リリースポイント、回転軸、回転数。
直史としても完璧に操っているというわけではない。
だが完璧でなくても、充分には達している。
別に毎試合百点満点でなくてもいいのだ。
要するに相手より、一点だけでも上回っていればそれで済む。それで勝てるのだ。
八回の裏、レックスはさらに一点を追加。
3-0で最終回を迎える。
タイタンズは八番打者からで、当然のように代打が出てくる。
ただここからヒットが出ても、得点に結びつくとは思えない。
内野安打にも近いような、そんなエラーが一個あったのみ。
直史のノーヒットノーランを妨げるには、タイタンズの力はあまりにも不足している。
しかしもし悟が一番打者であれば、という想像は出来るだろう。
タイタンズは特に、四番打者を重視する傾向にあるが、この試合を見ればそれが、いかに間違いであるか分かるだろう。
正確には、四番打者重視が間違いなわけではない。
ピッチャーが直史である場合に、とにかく打てるバッターを前に持ってくるのが、正解であるのだ。
実際にライガースが大介を四番になど置いておけば、直史はもっと楽に勝てることであったろう。
合理的な思考を、伝統だとか固定観念で変えられないチームが、本当の意味で常勝軍団になるはずがない。
直史はそこで比較的、楽に試合に勝つことが出来る。
レックスもセイバーがいた頃に比べれば、データの活用が上手くできているとは言い切れない。
だが少なくとも、ピッチャーの運用は完全に合理的だ。
合理的でいながら、そこに直史という劇物を放り込むと、とんでもない効果を発揮する。
ただし直史を上手く活用するのは、それなりの慣れが必要とはなる。
今は直史ももう、自分で自分を管理できてはいるが。
それでもいまだに、もう少し楽をしたいと思っている。
そして、九回のマウンドに登った。
奇跡は起きない。起こさせない。
感情でも執念でもなく妄執でもなく、純粋に冷静に計算して投げる。
代打のバッターは直史の情報は知っていても、体験していることは少ない。
なので不利にも思えるだろうが、同時に直史としても布石を打っておくことが出来ない相手ではある。
ただそういった相手でも、過去のデータを見てそれを参考にしてくることはあるだろう。
145km/hのストレートが、初見では打てない。
いくら分析されて正体が分かっていても、現実でアジャストしていかないと、実際には打てないものだ。
なのでこれを決め球にするか、効果的な見せ球にして、アウトを取っていく。
ストレートを一つ見せ球に使うと、決め球のストレートはまず打てない。
平均的なストレートと、直史の投げる決め球のストレートは、大きく差がある。
これを効果的に使うのが、コンビネーションというものである。
全く同じように見えて、違う種類のストレートを使う。
これもコンビネーションであり、微妙な違いを言うのであれば、投球術である。
そして投球術なら、相手が混乱したところで、同じ球を連続で投げたりもする。
連続して出てきた代打も、データが通用しないピッチャーを、打つことなど出来ない。
それでもホームランを、このシーズンでは三人に打たれている。しかもそのうちの一本は、自軍の四番である悟なのだ。
どうにか打てないはずはない。
そう頭で分かっていても、バッターボックスに入るともう、さっぱり対応できなくなる。
球種がとてつもなく多いと分かった上で、特定の球種に限って、一発を狙っていく。
おそらくそれが正解なのだが、ここまで全く結果が出ていない。
そしてそれが本当だとしたら、大介だけは二打席連続で賭けに勝ったのか。
あるいは完全に、実力によって上回って打ったのか。
しかし大介にしても、他のピッチャーから二打席連続で打つことなど、まずないことだ。
実力と結果が比例していない。
もちろん大介と、まともに勝負するようなピッチャーが直史と上杉しかいないこと、他の一打席目は勝負したピッチャーも、ホームランを打たれれば普通に逃げ腰になることは、当たり前のことだ。
実はNPB時代、大介からホームランを打たれているピッチャーの上位に、上杉の名前があったりするのだ。
もちろん抑えた回数が多い順番でも、上杉がトップではある。
勝負した回数と、勝った割合を考えれば、直史がトップではあるのだろう。
これをもって直史の実力を判断するのは間違っている。
逆に直史を打っている大介の実力を、評価するのは正しいだろうが。
直史は逃げることなく、バッターをとにかくアウトにしまくっているのだから。
最後まで、もう一人が出ない試合であった。
悟を一番にしておけば、あと一打席は回ってきた。
そしてもう一度バッターとして対戦すれば、どういう結果になっただろうか。
ランナーとして出れば、あるいは結果は変わっていたかもしれない。
ともあれ3-0にて試合は終了。
直史はNPB一年目に記録した、23勝に到達した。
九回28人に対して94球。
エラー一つによる、今シーズン五度目のノーヒットノーランである。
そして当然ながら、マダックスも同時に達成。
NPBの一年目も、ノーヒットノーランはパーフェクトも含めて五回達成していた。
特にもう嬉しくはないが、そろそろバックの守備も、ノーヒットノーランに慣れてきて、変に緊張しなくなったのは分かる。
ノーヒットノーランに慣れる。
そう感じているレックスのメンバー、特にスタメンは直史のピッチングに確信を持っている。
エースが投げれば絶対に負けない。
実際には負けることもあるのが普通だが、チームに自信を持たせるのがエースという役割であろう。
こいつが投げるなら絶対に勝てる。勝たなくてはいけない。
なおエースにはもう一つのタイプがあって、こいつで負けるなら仕方がない、というものである。
直史はノーヒットノーラン達成について、当然ながらインタビューを受けている。
この試合では味方のエラーで、パーフェクトが未達成となっていた。
ただあの打球を打たれた時点で、それはもうピッチャーの責任であるだろう。
直史は味方について注文はつけても、批判などはしない。
優等生というわけではないが、無難な対応を心がけている。
マスコミに対しては基本的に、嫌悪感を抱いている。
ただそれを敵に回そうとはしていない。
今、考えるべきは次の試合のこと。
中五日となるが、ライガースとの二連戦の二戦目。
今日の試合は勝てたが、ここからのライガースとの試合は、全て落としたくないものとなる。
もちろん向こうとしても同じことで、総力戦となってくるだろう。
第一戦は三島が投げることになる。
そこまでにまず、フェニックスとの連戦がある。
ここは百目鬼とオーガスに任されるが、ローテに回った序盤こそ好調であった百目鬼は、この数試合は内容が悪化している。
それでもレックスは、先発から外すことなど出来ない。
今季のオフの課題は、先発だとは今の時点で分かっていた。
日程の確認をすればするほど、レックスには不利な残りのペナントレースだと分かる。
五試合も多く残っているというのは、それだけ勝てば勝率を上げていくことが出来るということなのは確かだ。
しかし残りの試合数が多いと、試合間隔も狭まってくるところがある。
休みが多い部分もあるが、詰まってしまっている部分もある。
具体的には16日から25日までが、10連戦となっている。
レックスの安定したリリーフ陣を、ここで消耗させるのはどうなのか。
直史が投げる試合が二回ある予定となっており、ここで完投してもらって、少しは休んでもらうという計算にはなっている。
だがここからは本当に、捨てる試合をはっきりと判断し、取捨選択することが重要だ。
かつての樋口を正捕手としていたレックスであれば、ほとんどの試合で勝算が立っていたものだが。
いない人間に期待するわけにはいかない。
そもそもレックスは、首位争いをするだけのチーム力はある。
その大きな割合を占めるのが、先発ローテの一人である直史というのは無茶苦茶な話だが。
ペナントレースの勝者は、レックスとライガースのどちらかに絞られた。
その後をどう戦って、日本シリーズ進出を目指すのか。
それが問題ではある。
ここから二日、他のチームの日程の関係で、試合がない。
その後はフェニックスにライガースと、二連戦が続く。
日程的に嫌なのは、一試合だけして移動、というパターンも出てくることだ。
直史はかなり、先発としても特別扱いをされているが、この佳境に入ってくると、ある程度はチームメイトと交流し、士気などを確認していかないといけない。
(ペナントレースに負けるとしたら、この日程のせいになるかもな)
言い訳でしかないが、有利と不利はお互いにある。
二日間の休みの間に、東京の直史が常宿しているマンションに、瑞希がやってきた。
今後の予定の確認のためである。
23勝した直史が、沢村賞に選ばれることは必然。
ただ散文的な思考で事実を列挙する瑞希でも、一つだけこれを覆す要素があると考えている。
慎重になっている直史ではあるが、いくらなんでもここから他の誰かが選ばれるというのは、ありえないと思っている。
しかし瑞希は散文的でありながら、叙情的な思考も捨てているわけではない。
たとえば今年、まだもう少し登板数が足らない段階でも、直史が沢村賞に選ばれる方法はあった。
それは選出の条件を満たさなくても、誰もが納得する理由。
故障による引退という、ドラマチックな要素だ。
沢村賞の選考は、人気投票ではない。
あくまでもその年の、最高のピッチングをした先発投手に送られるものだ。
ただそれでも20勝したあたりで、無敗のまま故障してしまえば、直史が選ばれてもおかしいと思う者はいなかっただろう。
そしてそれをやるのに、相応しいと言えるピッチャーが一人だけいる。
上杉がこの成績のまま壊れれば、直史がいくら上回っていても、上杉を選んでそれほどの不満が出るとも思えない。
日本は判官贔屓の国でもあるのだ。
なるほど、と直史は感じた。
上杉は直史の目から見ても、もう最後の輝きを放っているような、特別な雰囲気を感じる。
歴代最多の沢村賞を受賞し、もうこれは上杉賞に変えるべきでは、などとも言われた上杉は、NPB史上最高のピッチャーだ。
直史の方が上回る部分は多いが、それでもNPBに対する貢献という意味では、たったの二年しかいなかった直史より、はるかに巨大なものである。
直史は自分が、球界のお偉方の多くに、嫌われていることを知っている。
正確には嫌われているというのは、かなり違うと思うのだが。
野球という世界にある、巨大な異物。
はっきり言うと、嫌われるというよりは畏れられているのだ。
多くの実績を、長年の活躍で築いてきた自分たちの球歴。
それを本業が弁護士の男が、ことごとく否定してくる。
直史としては否定するつもりなどなく、ただ自分がするべきことをしているだけなのだが。
巨大すぎる存在は、あるいは信仰を受ける対象にもなるが、迫害を受けたりもする。
これまでの直史の言動などを見ると、かなり注意深い発言をしているのは分かる。
だが直史はやはり、わざとらしい持ち上げ方は出来ないというか、そもそも野球を特別視していない。
それが野球に全てを捧げてきた人間から見ると、苦々しく見えるのは仕方がないだろう。
価値基準は人それぞれだ。
ただ選考委員は、己の誇りにかけて、そんな感情は排してくるだろう。
しかし感情が許されるとしたら、上杉がもし今季で引退が確定的となった場合、逆に上杉を選出するかもしれない。
そしてこの選出理由なら、沢村賞候補第二位の上杉が選ばれても、世間の反発は一番少なくなるだろう。
上杉は昔から、悲劇の英雄という印象があるのだから。
またもう一つ、理由があるとしたら、直史が今季唯一、勝てなかった試合。
あの試合で上杉は勝ち投手となっているのだ。
チームを勝たせたのは、直史ではなく上杉。
その後に一度も投げ合っていないため、それは確かに事実であった。
実際のところ、上杉が壊れて引退を宣言したとして、それで沢村賞を送るということになるのだろうか。
なんらかの賞を送るか、あるいは勲章が贈られる可能性は充分にあるが、沢村賞はないだろうと思う。
ただ言っているのが瑞希であるので、彼女のような野球を理解している者まで、上杉をそのように評価しているのか、という気分にはなる。
沢村賞を上杉が受け取らない、という選択肢はない。
そもそも歴史を見てみれば、辞退した者などいないし、一方的に送られるものであるからだ。
辞退出来るものならば、1981年のあの騒動はなかっただろう。
もっとも上杉であれば、あえて辞退するということはあるだろうか。
なんだかんだ言いながら保守的な上杉が、そんな過去の事例を覆すことはないと思うが。
もし選出されたとしても、むしろ侮辱と感じるか、純粋に困惑するであろう。
瑞希としてもそんなことが、現実で起こる確率はないと思っている。
沢村賞はあくまで成績に対して送られるもので、微妙な判断はあったとしても、明らかにおかしいというのはほぼなくなっている。
だが0ではないと思ってしまうのが、沢村賞を必要としている当事者である。
完全に個人的な事情なので、これを斟酌しろなどとはもちろん言えない。
どんな理由があろうと、結果は関係なく出る。
野球はそういうスポーツであり、イデオロギーなども入ってはいけないはずだ。
ただ結果の前に公正であれ。
直史もそう思っている。
二日間の休みの中で、久しぶりにゆっくり瑞希と仲良くした直史だが、次の日はもう移動日である。
ここから名古屋ドームでフェニックスと、そして次に甲子園でライガースと対戦するのだ。
直史はこの、ライガースとの第二戦に登板予定である。
心配なのは天気で、第一戦は大丈夫だろうが、第二戦は雨にたたられるかもしれない。
そうなるとまた、雨天延期ということになる。
残りの試合数が多いというのは、自力で勝率を上げていけるという、有利な要因であるはずだった。
しかしここに来て逆に、日程が詰まりすぎるという負の要因になっている。
残りの試合数から、一試合ごとに移動という日程にもなっていたりする。
MLBの過密スケジュールに比べれば、まだマシだとも言えるだろうが。
軍隊でもそうだが、人間はその限界を知って初めて、その限界に対処することが出来るようになる。
ただ直史の場合は、限界であろうという部分を、普通に越えてしまっているが。
あの頃は若かった。
今の体で、あの頃のようなスケジュールで投げれば、絶対に故障しているだろう。
その意味では日本に戻ってきたというのは、悪いことではない。
MLBで同じような注文をつけられたら、相当に難しいことになっていたであろうからだ。
ただあちらなら、サイ・ヤング賞は二つのリーグにあるので、その点では少しだけ楽だったかもしれない。
高すぎる難易度を比べたものだが、移動の新幹線の中では、直史は音楽など聞きながら、色々と考えていく。
ここまで達成した、五回のノーヒットノーラン。
五試合のうち四試合は、味方のエラーによってパーフェクトに届かなかった。
それぞれ難しい打球であったりして、また一本だけヒットを打たれたという試合にしても、もはや運命的にパーフェクトに嫌われている。
運命論などは嫌いな直史だ。
ただ野球に関してのみは、そういったものを感じざるをえない。
一度も勝てなかった時代があったからこそ、その後の直史があったとは言える。
だが同時に野球は、ひたすら直史の人生にまとわり続けた。
大学の進学に、まさかと思っていたプロへの道。
そしてプロの中でさえわずかにしかいない、MLBへの移籍。
NPBでは二年しかしなかったのに、MLBでは五年もやってしまったということ。
確かに負けたまま去るのは嫌だ、と考えたことはある。
だがそこに都合よく、年金制度の仕組みがあったりもした。
そして今、手術が必要と言われた肘は、全く問題なく動いている。
誰が、なんのために。
野球の神様のしわざとしても、このやりようは面倒すぎる。
直史一人を引き出すために、どれだけの因果を生み出しているのか。
もちろんや上杉や大介など、世界に対する影響力の、巨大な選手は他にもいる。
ただ直史ほどには、野球に呪縛されていないとは思う。
直史は祝福されると同時に、逃れられない呪縛をも受けている。
それが直史だけならいいのだが、呪いは間違いなく子供たちにまで及んでいる。
直史としては、なぜという気持ちが強い。
因果応報という言葉はあるが、直史への報いというのはなんなのか。
野球の世界で生きていく力があるのだから、野球の世界で生きていけと、強制されているイメージはある。
どこかでこの因果は断たなくてはいけない。
むしろ直史が野球を続けていることで、悪い因果にはつながらないのかもしれないが。
おそらくそのきっかけとなるのは、完全な直史の故障。
一度目の引退の時も、故障自体は本当であったのだ。
条件さえ満たせば、あとは壊れてしまってもいい。
枷を外すことが、ようやく可能になるのだ。
×××
次話「雨の甲子園」
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