第83話 魔術師の呪い
大介は首を傾げる。
上杉の投げた、三球目のストレート。
158km/hのストレートは、それほど速くもなかったのだ。
あれは少し掬い上げるような意識で打てば、普通にスタンドまで飛んでいったはずなのだ。
なのに結果としては、内野フライで凡退。
まだ外野まで飛んでいったなら、理解出来るのだ。
むしろ今のボールは、ライナー性の打球で野手の正面に飛ぶ、という方が理解できた。
しかし手の中に残っている感覚が、全てを裏切っている。
(っかしいな)
ボールから目を切ったのが早かったのか。
ただそれでも、いつもならこんなことはない。
スターズはホームゲームということもあり、また上杉が見事に大介を初回に抑えたため、スタンド満員のファンの声援が大きい。
上杉の先発する試合で負けるわけにはいかない。
それは士気を高めるのか、それともプレッシャーを高めるのか、どちらかは微妙なところである。
しかしこの試合に限っていうなら、間違いなくプラス方向に働いていた。
初回から連打となり、スターズは二点を先取する。
上杉から二点を取るのは、かなり難しい。
去年までは2を越えていた防御率は、今年はまた再び下回っている。
ライガースの打線は確かに強力だが、大味なところもある。
もはやベテランの中でもベテランと言える上杉が、そういった甘いところを見逃すはずもない。
力だけで勝負していた上杉は、確かにもういない。
あのピッチングを懐かしむ者もいるだろう。
だが何を優先するかというと、上杉も色々と考えてはいる。
確かに上杉は、直史よりもはるかに美学を持った人間だ。
いや、美学は直史にもあるが、それが他人と共有されやすいか否かで、かなりの差があるのは間違いない。
今の上杉はフォアザチームで投げている。
愛する息子のために投げている直史と、どちらの方が強いかなど、そこは比べるものではない。
ただ、大介としては直史の方が、共感はしやすい。
二回以降も、上杉は三人でライガースの攻撃を抑える。
もちろんライガース側は、次の打席には大介がなんとかするだろう、という意識がうっすらとあったりする。
ここが甲子園であれば、あるいはそういう応援での逆転もあったかもしれない。
しかし直感に優れた者は、何かがおかしいと感じている。
大介が珍しくも、ショートの近くの打球を逃してしまったのも、普段なら充分にキャッチ出来たであろう。
大介はショートいうポジションを守っていながら、エラーらしいエラーがない。
エラーと記録されるようなものがあっても、他のショートなら追いつかないだろうという打球であることが多い。
無理な送球をしても、肩の力だけでファーストには届く。
レフトから中継をする時も、その精度とスピードは完璧とも言えるものだ。
それらが少しずつ、今日は狂っているように思える。
大介は自分の不調を自覚し始めている。
守備において、エラーにはならなかったものの、追いつけない打球があった。
普段ならば追いつけていた、と思う。
だが追いつけなかったのは、いったいなぜなのか。
ライガースは三回までに、内野安打一本に抑え込まれていた。
しかしここ四回は、大介が先頭打者である。
ここまでに点差は、3-0と広がっている。
大介が先頭打者のここで、一点も取れないとかなり厳しい。
(う~ん? なんだ?)
バッターボックスに入る前に、軽くスイングをしてみる。
違和感はわずかに残るが、決定的なものは感じない。
この打席、集中して確かめるべきだろう。
直史は確かに打たれた。
試合に勝って勝負に負けた、と多くの者は思っているだろう。
別にそう思われても、直史としては問題はない。
「場外ホームランの代償は大きかったか?」
他に誰もいないホテルの一室で、直史は小さく呟く。
この二打席目、大介はボールを良く見ながら、カウントが進んでからはカットしている。
上杉のボールであっても、カットに徹すればどうにかなる、というのが今の大介の状態であるのか。
ただ大介の本来の信念としては、不本意なことであろう。
打てるボールはフルスイングして、絶対にスタンドに放り込む。
そんな信念を持って、いつもはスイングをしているのだ。
ただこの状況においては、上杉のボールでバッティングの調整を行っている。
相手のボールが強いだけに、こういったことには最適なのだ。
しかし上杉が、追い込んでからは手を抜いているのは、はっきりと分かった。
単純に球速が遅い。
だから打ってカットする分には、特に問題がないのだ。
大介は見抜かれていることに気づきながらも、自分の状態の把握に努める。
(体に毒を注ぎ込まれたような感覚か?)
もちろんこれは比喩表現である。
わずかな、それでいて致命的なズレが、体の中に存在する。
状況は分かったが、解決する方法が分からない。
だが試合前の練習などでは、何も問題はなかったのだ。
(普通にスタンドに放り込んでたぞ? 違いはどこにあるんだ?)
練習と実戦、という違いはある。
だがその理由では、しっくりとはこない大介であった。
バッターには必ず、好調と不調の波がある。
それはバッターだからという理由ではなく、本質的には人間はそういうものであるのだ。
バッティングという繊細な作業においては、わずかな違和感が問題のある結果を引き起こす。
そもそも1mmの違いがあれば、打球は大きく変わってしまう。
それが100m先のわずかな狂いとなる。
これがまだアッパースイングのフライを打つバッターであれば、パワーだけでわずかな違いを無視してしまう。
大介もスイングスピードで、レベルスイングのわずかな違いを、スタンド入りという同じ結果に導くことが出来る。
普段であれば、だが。
(何かおかしいけど、次は打つ)
呼吸を整えて、次のボールを待つ。
上杉がどれだけこちらを洞察しているか分からないが、ストレートを待つ。
そして上杉は、やはり決め球にはストレートを使ってきた。
大介の体は、トップで一瞬バットを止めて、そこから全身を加速させていく。
バットは見事にボールを捉えた。
しかしバッティンググローブをしていない手に伝わってきた感触は、大介を満足させるものではない。
フライ性の打球はセンターがやや後退して、問題なくキャッチしてしまった。
最初から深めに守っていた、ということもあるだろうが。
何かがおかしい。どこかがおかしい。
色々とおかしいし、何もかもがおかしいかもしれない。
そう思った大介は、まずバットを確認する。
予備の物と取り替えて、ベンチ裏に引っ込む。そして素振りを始めた。
(どういうことだよ)
何かが狂っていて、力がしっかりと伝わっていない。
ただ素振りをする限りでは、何も問題など感じない。
それでも大介は直感的に、このままではまずいと気づいていた。
天才と凡人の差というのは、結局は直感だけであるのかもしれない。
大介は天才であるがゆえに、今の自分の状態がおかしいことに、早々に気づいた。
しかしその理由と解決方法にまでは、思い至ることが出来ない。
直感だけで全てが解決するわけではないのだ。
そういう時にはどうすればいいか。
(元に戻るんだ)
最初からやり直す。
スイングの基本からやり直していくのだ。
野球の基本はキャッチボールと素振り。
この二つを疎かにする人間は、絶対に大成しない。もっともピッチャーの場合、バッティングはもう必要とされなくなったりしているが。
最初にスイングをしたのは、果たしていつだったのか。
野球を奪われながらも、大介の野球を許した父。
恐れはあっただろうに、母もそれを止めなかった。
おかしな期待をかけられたことはない。
子供の頃、バットに振り回されていたことを思い出す。
今もまたその通りに、バットを止めずにぐるりと回転してみせた。
「おい、白石」
それを見ていたコーチは、思わず声をかける。
まるで素人同然のスイングは、バッティングコーチとして当然、止めなければいけないものであった。
しかし一回転して転がった大介は、天真爛漫な笑みを浮かべていた。
「やべえ、楽しい」
そのあっけらかんとした様子に、それ以上何も言えない。
そして大介は、スイングを再開する。
最初からやり直す。
それは野球を一から、また楽しみ始めるということである。
ただこの試合中には、元に追いつくことは出来ないな、とも感じていた。
(小学校の頃にまで、なんとか戻さないとな)
それはまだ、足を活かして野球をしろと言われていた時代。
ただプロのレベルでは、単純に転がしていっても、簡単に内野はアウトにしてしまうだろう。
だがいいのだ。また最初から、野球を始め直す。
(ナオのやつ、こんな楽しいことしてたのかな)
大介はひたすら、一人の野球小僧であった。
今日は負ける気配がない、とはスターズのベンチも選手も、そして応援団も感じていた。
ライガース打線が完全に沈黙している、というのがその理由である。
そしてライガースは、打線が沈黙していると、ピッチャーも調子を落としてしまう。
勢いだけでやっている、とはよく言われることだ。
そんな勢いでやる野球を、大介は嫌いじゃない。
守備の方は、間違いなく戻っている。
体の方が憶えている。逆シングルから踏ん張って、ファーストの胸元へと。
ピッチャーをやらせたら150km/h出るボールが、ファーストミットに収まる。
(修正してきたか)
上杉は次の打席、難しい対戦になるかな、と考えている。
ただそれはさすがに過大評価で、大介としてはまず一本ヒットを打ちたい。
三打席目、バッターボックスに入った大介を見て、上杉は怪訝に感じた。
使っているバットは、あの規格外の大介スペシャルである。
しかし指一本ほど、バットを短く持っている。
バットコントロールには定評があり、あの長いバットを自由自在に操る。
そんな大介が、長打を捨ててくる?
悪い冗談だ、と上杉は思った。
ただ大介から感じていた、あの謎の違和感は薄くなっている。
何かを捨てたから、いらないものも捨てることが出来る。
背負っていたものを、大介は捨てたのだ。
それはプロ生活、21年間の栄光であるかもしれない。
そしてまた、新しくゲームを始めるのだ。
上杉のボールを打っていく。
トップの位置が定まらず、スイングに力はなく、ただ当てるだけのスイングになっていた。
ただ何か、試行錯誤をしているのは、マウンド上の上杉にも分かった。
(どういうことだ?」)
不調に苦しんでいたはずで、今もまだまともに前には飛ばせていない。
だがそこに、焦った様子などは全く見えない。
上杉をして不気味と感じさせるほど、大介は苦しみを楽しんでいる。
まだ夏の暑さが、そして熱さが、大気中には残っている。
(そうだ、もっと純粋に楽しんだらいいんだ)
直史が相手だからとか、上杉が相手だからとか。
そういうものに限定するのではなく、野球というものを全て愛し、楽しむべきなのだ。
プレイボール。
野球の試合開始を告げる言葉。
野球を楽しめと、いちいち最初に告げられているではないか。
上杉に伝わっているこの大介の感情を、上杉が理解することはない。
強烈な義務感と、責任感によってエースをやってきたのが上杉だ。
多くの人の声援が、力となってボールに伝わる。
だが大介はもっとも無責任に、自分が全力で楽しむ。
嫁が現実的に二人いて、シーズン中は家事も育児も任せっきり。そしてサポートをさせている。
ただそれを、望まれているということもあるが。
男は外で金を稼ぐ。
そして家では安らぐ。
大半の男に恐れられるツインズが、大介にそれを望んでいるのだ。
ちなみに直史などは「あの二人を一人で抱えてくれて、本当に頭が下がる」などということを言っていたりする。
(当たれ!)
そんなスイングは当たらず、大介の三打席目は三振で終わった。
思い出していく。
166km/hのストレートに三振した大介に、過去の経験の蓄積。
スイングの仕方を思い出していく。
完全にストレートで抑えられた記憶。
あの夏の日の、はるか遠くに感じた背中。
野球は難しくて、だからこそ楽しい。
(俺一人でやってるわけじゃないんだからな)
大介がいくら点を取っても、ピッチャーがそれ以上に打たれては、勝てるはずがないのだ。
チームを率いていくとか背負うとか、そんなことは考えていない。
だが野球は、皆で楽しむものだろう。
(最初を思い出すんだ)
この年齢になってもまだ、基礎の必要性が分かる。
力を入れすぎてはいけない。ジャストミートを狙う。しっかりと振り切る。
最も原初的な、素振りというトレーニング。
それをもう一度繰り返していく。
大介はそれを楽しんでいる。
三打席連続で、大介は凡退している。
今年の大介は、一試合において一度も出塁出来なかったという試合は、これまで一試合しかなかった。
それは直史とのプロレス試合で、他はヒットが打てない試合はあっても、必ず出塁はしている。
だが今日の様子を見ていると、四打席目がやってきても、おそらく打てないのではないかと思ってしまう。
だからといってライガースの首脳陣が、大介を下げるなどということはない。
単純にショートの守備力の問題もあるが、不調になったものは試合の中でしか復調しないこともある。
大介を下げるなどという選択はない。
そもそも三打席打てないだけで不調なら、他のバッターは全員不調だ。
だがそのバッティングがおかしいのは、さすがに見ていても分かる。
なにせそれで飯を食っているのが、ベンチの首脳陣であるのだから。
しかし点差がさらに広がって、逆転が難しくなってきたのは確かだ。
5-0と点差が広がり、七回が終了した。
そしてここで、上杉は降板である。
2イニングあればライガース打線なら、逆転する可能性はある。
しかし今日のライガースには、爆発の気配が全く見えない。
ヒットが出ないわけではないが、単打ばかりで連打もない。
やはり大介が塁に出ないと、打線も動きにくいのか。
まだあと一打席、大介の打順は確実に回ってくる。
だがこの五点差で満足せず、念のために上杉に完投などさせれば、残りのシーズンが難しくなっていく。
ピッチャーを消耗させることなく、確実に星を拾っていく。
スターズはスターズで、タイタンズとの三位争いが熾烈なのだ。
Aクラス入りしてクライマックスシリーズに進出する。
球団の運営としても大切なことだ。
上杉本人は、八回の大介の打席まで、投げた方がいいかなと思っていた。
しかしたとえ打たれても、それが経験になることはある。
また今日の大介は、おそらく打ったとしても、致命的なことにはならないだろうと、上杉も感じているのだ。
(二日前と、まるで別人だ)
二打席連続ホームランに、場外ホームラン。
ピッチャーの上杉であっても、人間離れしたパフォーマンスだと分かる。
分からないのは、その後にあっさりと直史が抑えてしまったことだ。
もちろん上杉としても、後続を抑えるという覚悟はある。
しかしただのホームランでない完敗から、どうやってメンタルを立て直したのか。
(メンタルでは、一番ということだな)
メンタルに関しては他からも讃えられる上杉でさえ、直史のパフォーマンスは意味が分からない。
ただそんなことはともかく、この試合はスターズが勝つ。
直接対決した上杉のみならず、スターズは今日の大介の調子の悪さに気づいている。
大介に限ったことではなく、バッターには突然に、絶不調に陥ることがある。
これは本当に原因が分からなかったり、また対処法も分からなかったりする。
ただ上杉は、なんとなく分かっている。
それは前の試合のホームランの結果だ。
あの場外ホームランを、直史から打ってしまったというところにある。
大介が意外とというか、人並とまでは言わないが、それなりの繊細さを持っていることは、多くの人間が知っている。
ただその繊細さというのは、家族が事故に遭ったら普通に動揺するとか、そういうものである。
上杉が考えているのは、大介にとって直史というのは、特別な存在過ぎたのだろうということだ。
そんな相手からあのホームランを打ってしまったため、その成功体験が無意識のうちに体を動かしてしまっている。
肩に、そして体全体に無駄な力が入っていて、結局はスイングスピードが落ちてしまっている。
これは自分で理解しても、そうそう元に戻すことは出来ないであろう。
理想のスイングというのは、たどり着いてしまえば逆に、それに囚われることとなる。
追い求めれば遠ざかり、掴んだと思えばすり抜ける。
上杉はピッチャーであるが、バッターのその気持ちは分かる。
大介はポストシーズンになれば、状態が決戦仕様に変わる。
だがレギュラーシーズン中から、その状態になって直史と対戦してしまった。
それをまたギアを落として、レギュラーシーズンを戦おうとしている。
そこで不具合が起こってしまったのだ。
ならばずっとその状態でいればという話にもなるのだろうが、上杉にもその状態であることは難しいと分かる。
トーナメントなどでも言えることだが、コンディションが一番になるタイミングというのは調整が必要となる。
張り詰めすぎていれば、切れてしまうのと同じだ。
人間というのは機械のようには、そう簡単に出力の調整は出来ない。
ただローテーションのピッチャーは、ある程度それが可能であるのかもしれない。
上杉はライガースと対戦する時だけ、正確に言えば大介と対戦する時だけ、明らかにパワーを上げてきている。
だがそれをずっと続けていけば、壊れてしまう。
リミッターを解除すれば、肉体へのダメージが出てしまうのは仕方がない。
大介の場合も、これにほぼ近い。
ただ大介は、直史と対決する時は、これまで相当に削った状態でもなければ、勝つことは出来なかった。
ここで完勝とも言うべき結果を残したことで、リミッターが上手く元に戻らなくなっている。
なのでしばらくはスランプになるであろうし、かといって二軍に落としておくほどライガースにも余裕はない。
スランプを脱出する方法は、人によって違うし状況によって違う。
またそのスランプの原因によっても違うのだ。
四打席目の大介は、代わったピッチャーに対して普段どおりにバットを握って対応する。
普通のピッチャーが相手なら、不調であっても打てるのでは。
そんな甘い見通しがあったのも確かだろう。
ただ大介としては、他にも試すことはある。
本当ならこの負け試合は、色々なことを試しておくべきなのかもしれない。
だが先にこちらを試して、駄目なら次の試合で試すのだ。
重要なのは、まだこの先に試合が残っているということ。
ただし二軍に落ちて調整をしている暇はない、ということだ。
そう考える大介は、それなりにいい当たりであったがショートゴロに倒れた。
今年二度目の、未出塁試合となったのである。
最終的なスコアは6-1であった。
上杉が降りたスターズから、一点は取れたライガース。
しかし大介が爆発しなかったため、全体的に打線が低調に終わった。
レックスとの二連戦で、大介の打撃が爆発しているために忘れているかもしれないが、これでライガースは四連敗しているのだ。
ただ幸いと言うべきか、レックスもこの日の試合には負けていた。
なので差をつけられたわけではないが、それで安心していられるはずもない。
スターズは上杉を投げさせたので、これで勝つことは計算していただろう。
タイタンズとの差は埋まって、Aクラス入りの可能性はまだまだ充分にある。
問題はクライマックスシリーズからである。
今年のスターズの戦力は、優勝は厳しいとシーズン前から言われていた。
だが若手がある程度は伸びてきて、何より上杉が全盛期近くにまで調子を戻している。
実際の全盛期は、こんなものではなかったのだが。
翌日の第二戦に向けて、大介はその夜から、ホテルの自室で素振りを始めた。
左ではなく、右で。
かつてもこうやってスランプから脱出した経験があるのだ。
ただそう簡単にスランプから脱出出来るものかということと、脱出すべきかということの二つの疑問がある。
ライガースの打線は、一応は上杉が降りたあとに一点を取った。
しかしそれまで、上杉からはまともに打つことが出来なかった。
(俺一人じゃ勝てない)
残された短いレギュラーシーズンで、誰かが上がってくること。
それを大介は期待しているのだ。
ペナントレースはひょっとしたら、レックスの方が有利かもしれない。
そう思う人間がそれなりに出てきている。
理由としては単純なものである。
レックスの方が残っている試合数が多いのだ。
もちろんそれは負ける可能性もあるということだが、自力での優勝があるならば、試合数は多い方がいいだろう。
もっとも見方は色々とあるのだ。
たとえばホームゲームの数。
レックスは残り、9試合がホームゲームとなっている。
ライガースは残り試合数が少ないというのに、ホームゲームが8試合も残っている。
在京球団であるレックスとしては、移動の負担を考えれば、タイタンズやスターズとの対戦数も調べないといけないだろうが。
甲子園でのライガース戦が残っているというのが、なんとも不安要素である。
せっかくライガース相手に連勝し、さらにライガースは連敗している。
なのにレックスはカップスを相手に、二連戦の初戦を落としていた。
本拠地神宮であるのにだ。
残りの対戦相手などを見ていっても、どちらが有利とも判断出来ない。
直史からすると、もう選手の差でペナントレースの優勝は決まらないと思う。
ここまで試合数が減ってくると、短期決戦に強い指揮官を持っている方が勝つ。
(いやいや、するとライガースが有利になる)
ライガースは去年の成績を見る限り、レギュラーシーズンとポストシーズンでは、かなりピッチャーの使い方が違う。
通常戦闘と決戦戦闘で、ドクトリンが違うと言うべきか。
レックスの首脳陣は、本来育成用であったはずだ。
それがここまで優勝争いをしてしまっているため、かなり判断ミスがある。
判断ミスと言うよりは、勝つべき試合に確実な一点を取ることができない、とでも言うべきか。
いっそのこと自分がプレイングマネージャーでもすればいいのかな、と直史は思わないではないが、さすがにそれなら豊田に任せたい。
直史が狙っているのは、優勝ではないのだから。
大介には完膚なきまでに負けた、と世間に思われているのは別にいい。
しっかりと勝ち星を増やし、それに爆弾を仕掛けるのにも成功したようである。
確かにホームランで、あそこまで飛ばされるとは思わなかった。
だが勝った試合の失点で、甘い毒を仕込んだのだ。
大介のスイングのメカニックを狂わせる、麻薬のような成功体験。
実際にそんなものが生まれるのかは微妙で、当初の予定としてはストレートがどれぐらい通じるかを見るだけであったのだが。
次に投げるのは、中五日のタイタンズ戦。
ここでは直史は、後続のリリーフ陣に頼ることが出来る。
もちろん自分で投げた方が、より確実ではあるのだろうが。
残り試合数も少なくなってきて、試合間隔がそれなりにあると、先発はローテの中でも強いピッチャーだけが優先され、そしてリリーフは単純に出番が減る。
ビハインド展開でも勝ちパターンのリリーフが使えるなら、逆転勝ちの試合も多くなってくる可能性はある。
このあたりのピッチャー事情を考えると、確かにレックス有利かな、とは思う。
ただレックスの首脳陣の判断力、特に勝負師としての感覚に、疑問を持っているのが直史だ。
(どちらにしろ俺には構わないんだが)
沢村賞の選考と発表日程が決まった。
そこで選ばれるかどうかだけが、直史にとって重要なことだ。
直史は次で24試合登板、そして200イニングに到達する。
このままのペースで投げたら26先発は間違いないだろうし、全ての基準が沢村賞の基準を満たす。
それこそ薬物で逮捕でもされて、それどころじゃないとでもならない限りは、決まったようなものであろう。
……フラグではない。
沢村賞が決まってしまえば、もう直史に未練はない。
選手生命を全て使い果たしても問題はないのだ。
そう、大介が望んでいる、本当の真剣勝負。
そちらに力を全て使ってしまえる。
チームの優勝だとか、そういうものはもうどうでもいい。
個人同士の対決に、力を注いでもいいのだ。
随分と待たせたものだ。
直史と、とにかく戦いたがっていた大介。
MLBではむしろ対戦の機会は少なくなり、ほとんどワールドチャンピオンを争うぐらいとなっていた。
だからこそ今年、事情を知っていてもなお、大介は帰ってきたのだが。
色々と世話になったな、と思う。
それに大介はキャリアの最後を、直史との対決のために使うことにした。
あるいは来年はまた、MLBに行ったりするのかもしれない。
そのあたりはもう、直史の関与できることではない。
直史が出来るのは、このクライマックスシリーズで大介と対決することぐらい。
そんなことを言っていて、どちらかがファーストステージで負けて、対決が実現しなかったら大笑いなのだが。
おそらく、そこまでの道は用意されている。
だがその先は、もはやシナリオはない。
あくまで感覚的なことであって、直史としては非科学的なことだな、と自分に呆れないでもない。
ただ直感というのは、時に科学的な分析を凌駕する。
実例を多く体験している直史としては、このインスピレーションに従って動くことが正しいだろうな、と思っていた。
×××
次話「追いつけ追い越せ」
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