第82話 継承の行方
体が重いと感じている。
それはこの数年、ずっと感じていたものだ。
何よりもまず、回復力が落ちている。
一瞬の馬力などは、まだどうにかなるのだ。
しかしフルイニング投げることは、もうかなり苦しくなっている。
それでも投げなければいけない時は、力を振り絞って投げる。
体に無理をかけてでも、チームの柱として弱音を吐くわけにはいかない。
もちろん首脳陣やチームドクターには、現状を正しく説明してはいるが。
上杉は八月の頭ぐらいまではまだ、逆転の沢村賞もありうると思われていた。
だが直史が故障せずに九月を迎えたことで、ほぼそれはなくなったと言える。
ここでシーズン限りの引退などを宣言したら、少しばかりの忖度は入る。
だがそれでも、ここまでの圧倒的な差をつけられていれば、上杉の単独受賞はないであろう。
直史がここで故障をして登板数が少なくなっても、両者受賞というぐらいか。
一応過去には、リーグを別にしてはいるが、複数受賞者の例がないわけではない。
しかしそんなものは、どうでもいいのだ。
自分はもう、チームのためにAクラス入りを狙う。
そこで大介との対決があろうが、直史との対決があろうが、全力を尽くす以外にはない。
余力を残したままとか、花道を飾るとか、そういうことは考えない。
ただ、野球は全て、マウンドに埋めて引退したい。
もちろん人脈などは残るが、上杉は野球に積極的に関わることは、もうなくなっていくだろう。
あるいはこれは、上杉の長すぎるモラトリアムであったのかもしれない。
もちろん金を稼ぎ、妻子を養い、子供に教育を受けさせ、多くの人々と交流するということは、立派な仕事である。
だが高校時代からずっと続く、責任感の流れで行っていたという感じはする。
最初は父親の地盤を継いで政治家になるはずだったのに、あまりにも社会的な知名度が高くなりすぎたために、そちらの地盤は正也に譲ることになってしまった。
将来的にはこの周辺の地区から、保守系政党で立候補することになるだろう。
上杉という存在は、おそらく日本の野球史において、選手としては最大のものとなるだろう。
それは同時代の選手の多くが、MLBに移籍していったということとも関連している。
スター選手が消えていく中で、たとえMLBの試合がネットで観戦出来たとしても、会いにいけるスーパースターは上杉であった。
正直なところ、直史があっさりと引退した時などは、治療してNPBでやれと思ったことも確かである。
だがその後の直史の活動を見ていると、あれはあれで仕方がないのか、と理解したつもりでいた。
それなのに直史が復帰して、大介が戻ってきた。
確実に衰えていた自分の後に、日本の野球を背負うかのように。
ただ二人もまた、年齢は40歳に達している。
これからの球界を支えていくというには、いつ引退してもおかしくはない。
わずかな故障が、致命的な年齢になってきているのだ。
もっとも若手のさらに下、今のアマチュア層には、面白そうな人材が育ってきているという。
上杉の耳にも、大介の息子のピッチングについては、聞こえてきている。
七回までしかないシニアの試合で、平気で15奪三振ぐらいはしてくるという。
中学生の時点で150km/h台半ばを投げるというのは、昔の自分と同じぐらいである。
ただ信じられないのは、利き腕でなくても同じく、150km/hを投げるということだ。
野球における夢というのは、プロでも四番でピッチャー、などというものもある。
だがもっと非現実的なのは、プロのレベルで両利きで投げられるピッチャーというものではないか。
故水島新司の語っていた、野球における最大のファンタジーというのは、両手投げ投手であったという。
右で投げたのは一度だけであったそうだが、この先の成長次第では、現実に実現する可能性があるかもしれない。
ピッチャーは別に肩肘だけを消耗するわけではないが、やはり故障しやすいのはそちらである。
たまにでも片方を休ませることが出来たら、あるいは短い登板間隔で投げることが出来るのではないか。
それでなくとも、右に弱いバッターや左に弱いバッターに、チェンジして投げることが出来る。
上杉も非現実的であると思って、そんなことは試してもいない。
肩を壊した時も、あくまで壊した肩を治療することを考えた。
だが両利きであれば、そもそも故障になる確率が減るのでは。
直史が体のバランスを取るために、左手でのキャッチボールをしているという話は有名だ。
あれは自分も取り入れるべきであったかな、と今さらながら考えることはある。
しかしもう、新しいことを取り入れるには、自分は若くない。
残るキャリアは、体を削りながら投げていると言ってもいい。
引退したら一年ぐらいは、どこかで静養したいものだ。
そんなことを考えるぐらいには、上杉の肉体はもう具体的に、休みたいと願っているのだ。
古く巨大な神木が、朽ちて倒れるまで、残された時間は少ないであろう。
「それじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
玄関口で明日美が見送る。それは普段通りの光景。
横浜に上杉は、大きな家を建ててしまった。
夫婦と子供たち五人なので、充分な部屋数を確保したつもりであったが、長男は埼玉の学校に進学し、そちらの寮に住んでいる。
それでもまだ子供たちが多いので、騒がしいことではある。
上杉が後輩や友人を連れてくることもあるし、明日美の友人が来ることもあるのだ。
上杉は地元愛の強い人間であるが、もう住んだ時間で言うならば、この神奈川も相当に長くはなってしまった。
第二の故郷と言えるだろうし、あるいはこちらに骨を埋めるのかもしれない。
正也が先に引退してしまったので、それはもう仕方がないのだ。
明日美の実家は、西東京にあるのでこちらの方が近い、というのもある。
(こんなことを考えるのは、もう残された時間が少ないからだろうな)
プロ入りする時とは、全く違った感覚だ。
あれは階段を昇っていくイメージがあったが、引退後は違う部屋を訪れるような。
グラウンドで戦い、マウンドに置いていく。
自分の野球に対する力は全て。
それは敵も味方も区別なく、誰かに伝わってくれたらいい。
(とりあえずは白石か)
大介は二試合連続で二本のホームランを打っている。
それなのに試合では負けているのだから、野球とは不思議なものである。
ブルペンで軽く投げたが、やはり昔に比べると、肩が出来るのも遅くなった気がする。
ただ今日は相手が相手なだけに、八分のピッチングなどは出来ないだろう。
しかし確認すればするほど、大介の成績はでたらめだ。
九月に入ってから、試合数は少ないものの、OPSが2を超えてしまっている。
もっとも高校時代は甲子園でさえも、打率が八割を超えていたのが大介だ。
それに重要な試合になればなるほど、普段よりも大きな力を出してくる。
先日の直史との対決などがまさに、その一例なのであろう。
上杉の意識には、やはり長くNPBで対決した大介の印象の方が強い。
だが直史との投げ合いは、それとは全く別次元での死闘であったことは間違いない。
今季は一度だけ対戦し、その時には途中で直史が降板したため、チームとしては上杉が勝った。
その直史が、大介が相手とはいえ、二打席連続でホームランを打たれる。
そこまで衰えていたのか、とは思わない。
今季のピッチングを見ていれば、そんな今が全盛期でもおかしくないのだ。
ただひたすら、この数試合の大介がおかしい。
六試合でホームラン六本。
一試合一本ペースというのは、誰がどう考えても普通ではない。
ただ上杉の知る大介の、能力の上限はそれぐらいはある。
そんな大介であっても、直史ならばさらに高いステージに上がって、互角以上の戦いが出来るはずなのだ。
(次の世代が、どうなるのか)
そう考える上杉は、試合前の練習が終わって、クラブハウスに戻る大介に声をかけていた。
大介と上杉が、他の誰もいない通路で、壁に背中を預けて語り合う。
それだけでも、美しい写真の被写体となったであろう。
「なぜ佐藤は打たれた?」
「おそらくは、全力をまだ出せなかった。それに出す必要もなかった」
「考えていることが分からん」
直史の事情を知るには、上杉はわずかに距離が遠い。そして大介も語るつもりなどはない。
「試合には勝って、首位に立った。本気で投げるのは、ペナントレースが終わってからのはずだけど、今年は沢村賞の選考が早いって、上杉さん聞いてる?」
「いや。だが候補など一人しかいないだろう」
一応選考基準に、登板試合数はまだ達していない。
だが他の項目全てで大きく上回っている。
直史が慎重なのは知っているが、今さら沢村賞にこだわるのか。
直史は二度の沢村賞と、五度のサイ・ヤング賞を獲得している。
それこそ特例として、活躍期間が短くても、殿堂入りが確実視されるレベルだ。
もっともMLBの場合、大介の言っていた「ナオのいない野球殿堂に入るつもりはない」などという発言も大きかったのだろうが。
ただMLBも、五年しかやっていない直史は、原則を満たしていないとして殿堂入りさせない可能性はあった。
身も蓋もない現実的なことを言えば、差別的に扱われる可能性があった。
アメリカ社会は白人と黒人のパワーバランスが問題視されるが、アジア人は明らかにこれより下、という価値観がある。
ない、などと綺麗ごとを言ってはいけない。現実にあるのをまず、認めなければいけない。
もっとも名誉白人、などという皮肉は今でも通用したりするが。
ただ直史は、心底そんなことはどうでもいい。
わざわざ復帰して、一軍最低年俸で仕事をして、そして沢村賞を狙う。
確かにこの成績なら、来年は一気に年俸は上げざるをえないだろう。
ただ直史は、金だけで動く人間ではないはずなのだ。
そのあたり上杉も、直史の人格を把握しているわけではない。
しかし樋口を通じて、その人物像はかなり分かっていると思うのだ。
大介は何かを知っている。
だがそれを口にしないだろうな、ということも感じられた。
上杉に誘われて、二人きりで話す。
そんな大介が訊かれたのは、直史のことであった。
いくら大介が全力であっても、直史があんなに打たれるのはおかしい。
「でも結局、試合はレックスの勝ちでしたよ」
そうも言ったが、上杉は納得していない。
大介としては、直史の掌の内であった、というのは間違いないと思っている。
直史は基本的には、勝利を最優先する。
そのためには点を取られない方がいいし、点を取られないためにはランナーを出さない方がいい。
当たり前の思考を貫いていった先に、パーフェクトという非常識な記録が量産される。
上杉も数回やっているが、直史の頻度は異常なのだ。
MLBの歴史に残るパーフェクトの、半分以上の達成が直史によるものなど、悪夢を見ているか奇跡を見ているかのどちらかに思える。
スーパースターがやがて衰え引退しても、また新たなスーパースターが現れ、時代の熱狂を継承していく。
それがなくなった時こそ、スポーツに限らずそのジャンルの終焉なのだろう。
スポーツではなく国家の話になるが、王朝で最盛期を築いた君主の後に、国家自体の力が急落するということはある。
野球のようなチームスポーツは、本来は一人の選手がそこまで、圧倒的な存在感を示すことはない。
だが上杉から大介、そして直史に至るスーパースターの登場は、野球の人気を復権させ、新たなファンの獲得にも貢献した。
NPBを支えた上杉、投打でMLBを蹂躙した直史と大介。
これがいなくなった時に、その代わりを務まる人間などいるのか。
大介はプロ野球の今後のことなど考えていない。
衰退すれば寂しいが、それが時代の流れなら仕方がない。
そもそも日本では、数少ないプロが成立する競技。
しかし問題を抱えているのは事実で、つい先日もそれが原因で、息子が面倒に巻き込まれた。
見る者に勇気を与えるとか、夢を背負っていくとか、そういうものではない。
怪我によって選手生命を絶たれた父親、野球を続けさせてくれた母親、適切なメニューを作ってくれた指導者、共に戦う仲間に、勝敗を賭けて戦う対戦者。
試合を見て盛り上がってくる観客たち。
ネット配信で全試合中継も可能になり、老害は無視されるようになって、アマチュアレベルから科学的なトレーニングや効率的な練習をするようになっている。
野球は別に、誰かにやらされるものではない。
それだけに他の選択肢が増えるなら、そちらを選ぶ人間が出てきても仕方がない。
大介の息子である昇馬すら、野球だけではなく他のスポーツもやっている。
常識的に考えれば、わずかなトッププロしか野球で食っていくことなど出来ない。
若いうちは色々な可能性を試す方が健全なのだ。
日本の場合は何か一つに打ち込むことが美徳、と思われている傾向が強い。
ただ人間には向き不向きがあるので、それを親や周囲が強制するのは愚かである。
基本的には本人の意思が一番重要なのだ。
その意思に反するほどの才能でもあれば、世界が自然とその道に誘導する。
たとえば直史のように。
上杉は日本のエースであった。
その重さに耐えられるだけの、精神的な強さもあった。
それに比べると大介は、ただの野球小僧である。
精神性はおそらく、ずっと変わることはない。
今はただ、直史との対戦を楽しむのみ。
しかし本当の勝負は、ポストシーズンにこそ実現するであろう。
沢村賞の選考が、今年は早い時期に行われる。
つまり直史の条件が満たされれば、あとは自由に投げられるのだ。
大介も昔に比べれば、かなり体に無理がきかなくなっている。
パワーやスピード、反射神経などは落ちたが、経験の蓄積がそれをカバーする。
だが耐久力と回復力だけはどうしようもない。
肉体の基礎代謝が、それだけ落ちているのだ。
身体能力に頼っている大介は、本来ならば選手寿命は、直史よりも短いはずである。
ただ直史に、長くやる気がないだけで。
自分たちの次の世代、というのがまだ育っていない、というのが上杉の見方らしい。
しかし実際は、上杉以前と上杉以降で、野球のレベルというのは根本的に変わっている。
そしてその上がったレベルに、最近の若手は育ってきていない。
そこまで上がらなくても、上杉が衰えてきたからだ。
だからこそ今年は、直史と大介が無双しているとも言える。
上杉は球界の未来を見ている。
しかし彼は、政治の世界に入っていく。
別に政治の権力者が、同時に球界の権力者であっても、おかしくはないと思うのだが。
ただ上杉の中では、その時には大介にも力になってもらいたい、とでも思っているのだろうか。
大介は別に反対はしないが、自分はたとえプロで通用しなくなって、50歳ぐらいから60歳ぐらいになっても、まだ草野球を楽しんでいると思う。
そんな野球人がいてもいいだろう。
対決する試合の前にするには、随分と未来志向の話になった。
難しいことを考えているのだな、と大介は感じる。
だが今の大介は、今年最後になるかもしれない上杉との勝負を、純粋に楽しむつもりであるのだ。
大介は上杉の衰えと、そして老いを感じている。
老いと言うには、まだその力は充分なものであるが。
ただかつてのような、圧倒的な力はない。
今季はある程度、上手く大介を抑えてはいる。
しかしかつての上杉であれば、力の勝負だけで大介と戦えたのだ。
技巧派ピッチャーと対決するのが嫌なわけではない。もしそうならわざわざ直史と対決するために、日本に戻ってくる必要などなかったのだ。
それでも上杉の本質が変わってしまったというのは本当であり、そしてそれは残念なことである。
人がやがて老いて死ぬのは、もう分かっている大介である。
老いて死ぬ代わりに、誕生と成長がある。
やがて自分にも訪れるもの。そして誰にも、これだけは平等なもの。
人はやがて死ぬ。
大介はプロ野球を引退したとしても、それで自分の人生が終わる、などとは考えていない。
ただ野球をしていない自分を想像するのも難しい。
監督やコーチ、解説者などというのも、ちょっと違うと思う。
他の人間がやっているのを見ると、自分がやりたくなるだろうと予想できるのだ。
大学を卒業した時の直史のように、クラブチームなどで野球をやるのだろうか。
だがどちらにしろ、まだそれには数年の猶予があるとは思う。
これから楽しい上杉との対決であるのに、そんなことを考えてしまってややブルーな大介。
動揺させるのが目的としたら、上杉も策士である。
もちろんそれはありえない。上杉はそういう人間ではないのだと、大介はしっかり理解している。
(背中を見せていたら、勝手に目指してくるもんだろ)
大介はそう考えているが、それでは足りない、と考えてしまっているのが上杉なのだとしたら、世間は彼に背負わせすぎている。
大介が野球をやっている理由、それはとてつもなくシンプルである。
野球をやっているのが楽しいからだ。
楽しむことをもって、励むよりも学ぶよりも、さらに上達することが出来る。
そんな言葉をどこかで聞いたな、と思う大介の本日の打順は二番である。
直史相手には、そもそもランナーが出ることさえ微妙であったし、出たとしてもダブルプレイで殺されるという事例が多すぎた。
それに比べればまだしも、上杉からは数人のランナーは出る。
出塁率の高い和田が一番に戻って、大介は二番。
今日のライガースは先発が津傘であるので、ロースコアになることも承知の上で戦うつもりだ。
上杉も勝ち星ではリーグ二位と、防御率やWHIPの数字も突出している。
おそらく直史がいなければ、今年の沢村賞ではあったろう。
もっとも直史と、そして大介が戻ってきたからこそ、上杉もここまで復調していると言える。
ダイヤを磨くのはダイヤだけ。
そして才能は衝突して巨大な衝撃を発する。
上杉も大介も、お互いの存在がなかったら、ここまで絶対的な存在にはならなかっただろう。
直史は別だな、と大介などは考えたりするのだが、直史も当然ながら、この二人の影響を受けている。
そんな直史は今日、東京のホテルでライガースとスターズの試合を見ている。
セイバーから直史は、沢村賞の選考日程の決定を教えられた。
レギュラーシーズン終了後、クライマックスシリーズ開始前ということだ。
例年よりも早い選考に発表となるが、むしろ直史としてはそれがありがたい。
彼女が動いてくれたのかな、とは推測する。
セイバーは直史がただ投げるよりも、全力で投げるのを見たがるからだ。
強打のライガースではあるが、上杉が相手ではそうそう点は取れない。
ただ大介を二番に置いているというのは、ランナーならどうにか出せる、と考えているからだろう。
直史は先日の試合を思い出す。
結果的に大介には、ホームラン二本を含む三本のヒットを打たれた。
だが試合には勝っている。
ライガースのピッチャーに、レックスの打線を確実に抑えられるピッチャーはいない。
エースクラスの畑などでも、二点は取られるであろう。
取れた点数以内に、取られる点数を抑えればいい。
問題はそれが、確実ではないことであろう。
パーフェクトが途切れたようなエラーはともかくとして、試合の勝敗を決定していしまうエラー。
そういったものはそれなりに存在するのだ。
直史は今まで、ホームランでしか失点していないという事実は変わらない。
ただこれにエラーが絡むことだけが怖い。
野球は統計と確率のスポーツだ。
なので必ず、運が勝敗に関係してくる。
そこを否定してしまっては、大前提が崩れる。
他のスポーツと比べても、おそらくは実力差よりも運の割合が大きい。
それでも勝つために、直史は研究をしている。
今日の試合はライガースが先攻である。
上杉は直史と違って、ストレートの球速がある。
今季も対決していて、直史と同じようにライガース相手には勝っている。
ただ大介に打たれているということは同じで、対策は色々と考えているはずだ。
(一度しか使えないような切り札でもあるかな?)
ポストシーズンに進み、そこで既に沢村賞を獲得できていれば、もう何も制限する必要はない。
試合に勝っても勝負に負けたことを、直史は忘れていない。
上杉は慎重に、先頭打者の和田を打ち取った。
160km/hのストレートは、本気のストレートではないのだと、今では全員に知られている。
大介のみに投げる、165km/hオーバーのストレート。
だがそれでも打たれる時は打たれるのだ。
単純なスピードであれば、170km/hオーバーでも打たれる。
なのでパワーだけではない、テクニックが必要になる。
大介を二番打者に置いているのは、悪くない選択なのだろうと上杉も思う。
三番を打っていたNPB時代に比べて、MLBでは試合数の違いを別としても、明らかに打席数は増えた。
ただそれはMLBが、統計で最善の打順などを決めていたからだ。
NPBはそこまで細かく、統計学を駆使していない。
だが確かに一番いいバッターは、少しでも打順が回ってくるようにしたいと思うのも、首脳陣にとっては当然であろう。
ただどうしても、固定観念というものは抜けない。
それでもライガース時代、大介を三番に置いていたのは、様々な記録の更新に役立ったであろう。
そしてMLBで実績を残したため、大介は二番にいる。
上杉としては、大介を研究している。
しかし先日の直史との対決が、果たして今はどういう影響を残しているか。
大介が打ったのはストレートであった。
場外まで飛んでいくというのは、明らかに異常だ。
上杉が投げたのは、内角へのストレート。
ゾーンに入っているそれを、大介は当てた。
だが打球はジャストミートとはならず、一塁線を切れていくのみ。
その速度も恐ろしいものではなかった。
(予想は正しいのか?)
上杉がこれまでの経験から、学習してきたことがある。
それはバッターというのは絶好調の試合の後、調子を落としてしまう者が多いということだ。
大介が直史に圧勝した形になったあの試合。
上杉は直史を買っているので、何か布石を打っていたのでは、と予測していた。
あんな記録的なホームランを打たれたのに、その後のバッター二人をあっさりと片付けている。
あのホームランを打たれても平気なわけではないだろうが、事前に何かの覚悟があったのは確かだろう。
(ペナントレースを優勝するための手段)
大介の調子が今のままであると、おそらくライガースはレックス以外で勝ち星を稼いで、優勝するだろう。
レックスが優勝するには、ライガースに負けてもらわなくはいけない。レックス以外のチームとの試合においても。
そのために重要なのは、打線の心臓である大介の調子を落とすこと。
ならばどうすればいいのか?
それは間違った成功経験を教え込むこと。
あんなホームランを打ってしまって、バッターが忘れることが出来るだろうか。
しかも打った相手は、おそらく大介が最もライバルとして意識している相手。
上杉の考えが正しければ、本当は今日の試合は、上杉が投げない方が良かった。
だが他の誰かに、この推測を確認してもらうというのも、それはそれで無責任なものだ。
なので上杉は、自分の役割として、大介と勝負をする。
そして初球、得意の内角球を、大介は引っ張りすぎていた。
そう、大介は本来、内角を打つ方が得意なのだ。
二球目、投げたのはチェンジアップ。
上杉のスピードがあるチェンジアップは、ボールゾーンに落ちていく。
大介はそれを、バットを止めて見送った。
ただ打とうと思えば、それも打てたのではないか。
(集中力はどうなっている?)
上杉はそれを見抜こうとしているのだ。
理想のバッティングをしてしまうと、それを追い求めてしまう、という矛盾が存在する。
バッティングというのは、結果であって特定の条件によるものではない。
もちろんホームランというのは、その最良の結果ではあるだろう。
しかしホームランの打ち方というのは、果たしてどういうものであったのか。
大介は冷静になりながらも、上杉との対決には燃えている。
チェンジアップは見逃し、これでワンボール。
かつての上杉であれば、決め球はほぼストレートであった。
しかし今の上杉は、ムービングを多用するようになっている。
大介としてもここで、単純にストレートを投げてくるとは思っていない。
だが三球目、上杉が投げてきたのは、普通のストレートであった。
やや高めで、完全にホームランボール。
大介はそれに対して、全力のフルスイングをする。
打球は高く上がった。
レベルスイングの大介の打球が、高く上がってしまうということ。
それは即ち、完全にボールの下を叩いていたということ。
しかもとんでもない飛距離のフライというわけでもなく、普通に内野が前進してキャッチする程度の、単純なフライである。
完全に当て勘が狂っていた。
内野フライに倒れたその手には、あまりしっかりとした感触がない。
(なんだ?)
この間の、完全にバットが肉体と一緒になったような、とんでもない飛距離を出した感覚に近い。
だが決定的に何かが違う。
(何かミスったぞ)
それは分かっているのだが、いったい何をどう間違ったのか、それが分からない。
そして一回の表、ライガースは無得点に終わる。
大介は首を傾げながらも、ショートの守備位置につくのであった。
×××
次話「魔術師の呪い」
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