第80話 複雑すぎる勝利と敗北

 下位打線とピッチャー大原を、直史は三振でアウトにした。

 やや力を入れて、確実に三振を奪ったのだ。

 球数が今日は、やや多めになっている。

 もしもこのペースなら、完投に110球ほどはかかるだろう。

 大介に球数を使うのと、その前後にもある程度の球数を使っているからだ。

 一人のバッターの存在が、その前後のバッターをもどうにかしないといけないという、プレッシャーになっている。

 これは直史が投げることによって、その試合だけではなくリリーフ陣の休養になるのと同じ系統の貢献なのかもしれない。


 そしてツーアウトから、三打席目の大介。

 精神的には、直史は優位を取り戻した。

 残り二打席、ホームランを打たれても3-2でレックスは勝てる。

 そんなことを考えていたら、大介の前にランナーがたまって、ホームランを打たれたら逆転、などという状況になるのがフラグなのかもしれないが。

 直史は運命を信じるようにはなってきたが、これまでフラグを叩き折って生きてきた人間である。


 とりあえずツーアウトなので、ホームラン以外はどうにか無失点で終わることが出来ると思う。

 ならば最初にどう入っていくか。

 大介は、得意なコースというわけではないが、アウトローのコースが一番ホームランは多い。

 普通なら一番少ないコースで、ここの出し入れが一般的なピッチャーの技術ではある。

 だが長く重いバットを使っている大介は、上手くヘッドを走らせたら、逆方向に上手く放り込めるのだ。


 先ほどの外したボールを、強烈に打たれたことは忘れていない。

 わざわざボール球を打ってきたのは、溢れる戦意でもあろうが、同時に威嚇でもあると思う。

 それでも直史は、初球にそこを選んだ。

 ツーシームではなく、ストレートを投げ込んだのだ。




 来た球を打つ。

 大介ははっきりとそう考えていた。

 初球からしっかりと、打てるものは打ってしまう。

 直史のパターンなどを考えると、今度はいきなりスローカープかチェンジアップという可能性もある。

 そういったゆっくりのボールも、ゾーンであれば飛ばす。

 全力で打って、自分のパワーだけでスタンドに持っていく。


 そこに投げられたのが、アウトローのストレートであったのだ。

 大介ならば完全にホームランに出来るボール。

 しかしわずかに、力が入ってしまっていた。

 脱力からの一気の加速が、大介には足りていなかった。

 ストレートを詰まらせそうになって、大介は左手の力を抜く。

 当たった打球は珍しくもフライ性のものとなり、レフト側スタンドに落ちていった。

(心理戦に負けた)

 初球で打てるストレートであったのに、肩に力が入って打てなかった。

 絶好球すぎて力んだ、というものに似ているだろう。


 ストレートは147km/hという数字が出ているが、それよりもおそらくはホップ成分が高かった。

 先ほどまではむしろ、わずかに落ちるような感じのストレートを投げていたので、それを引きずってしまったのだ、とは思う。

 ストレートだけでここまでの球質の違いがあると、球速などどうでも良くなってくる。

 実際に160km/hのストレートならば、簡単に打てるのが大介なのだ。

 その大介がこんな調子なのであるから、他のバッターが打てないのも仕方がない。


 初球でストライクカウント。

 まず前提条件は作れた。

 直史にとってもこの対決、簡単に勝てるとは全く思っていない。

 大介の周囲が、発光して見える。

(いくらなんでもそれはない)

 だがバットを構えるその姿からは、繰り出されるスイングが見える気がするのだ。

 二球目はスローカーブ。

 大介は悠々と見逃す、ボール球であった。




 ワンボールワンストライク。

 直史としてはまず、どうにかしてストライクカウントをあと一つ増やさないといけない。

 最後の勝負球として自信を持って投げられる球など、単体では持っていない。

 だからそこまでに、コンビネーションで布石を打っていく。

 スローカーブは外れたが、それは別にいいのだ。


 初球でストライクカウントを取れたというだけで、充分に直史にとってはありがたい。

 ただ三球目をどうすればいいのか。

 今日の大介には、正直何を投げても打たれる気がする。

(弱気になっている? いや、前の二打席を見れば、それは分かる)

 直感的と言うよりは、もはや野生的と言うべきか。

 

 試合と言うよりは戦いで、それも単純な殺し合いなどではなく、己の存在を賭けた生存競争。

 野球というものにどれだけ真摯に打ち込んできたか、それがはっきりと差になっている。

 直史が野球に対して捧げてきた時間と熱量は、明らかに大介には劣るものだ。

 もちろん時間と労力だけでどうにかなるほど、この世界は単純ではない。


 身体能力の絶対的な差。

 そして経験においても、大介が上回る。

 さらに言うならば、直史はここで本当に、全てを出しつくしてしまうわけにはいかない。

 マイナスの要素が強すぎるが、それを言い訳にするわけにもいかない。

 直史は大きく息を吐いた。

 前提条件などはどうでもいいし、言い訳にもならない。

 今、出来ることの全てをするのだ。




 出来ればボール球を振らせたい。

 どこに投げても打たれるという気はするが、さすがにその気配が薄くなる部分はある。

 それにこれは、残るボールへの布石ともなる。

 前にホームランを打たれたスルー。

 だがここで投げるのは、低目から外れていくスルーだ。

 それでも大介ならば、上手く打てるかもしれない。


 呼吸を整え、丹田のあたりに力を入れる。

 そこから足へ、足からは全身を通して全ての力を指先へと。

 ボールを切るように、ライフル回転を与える。

 その回転軸は、ほんのわずかにずれていた。


 膝元に変化してくるカッターに対し、大介はスイングする。

 間違いなくボール球であるが、しかしこれはゴルフスイングで打てる。

(大根を、引っこ抜く!)

 完全に体軸が斜めになっていながら、それでも踏み込みと腰の回転が連動していた。

 飛ばすという意思を持ったバットが、ボールを粉砕する勢いでぶつかった。

 わずかにヘッドが地面をこすったが、それでもスイングスピードは落ちない。


 振り抜いた。

 ボールは飛距離は充分。

 だが方向は引っ張りすぎたか、ポールに当たるかどうか。

 いや、当たらない。

 当たらないまま、スタンドに入った。

 それを見届けてから、大介はゆっくりとバットを置く。

 そして高らかとガッツポーズをしながら、ダイヤモンドを一周するのであった。




 失投であった。

 スルーの投げそこないのカットボール。

 これがあるからまずいのだ。分かっていたはずなのだ。

(ここのところは、ちゃんと投げられてたからな)

 スルーであればもっと落ちていたはずで、大介の長いバットではヘッドが地面に当たるぐらいのコースに入っていたはずなのだ。

 いや、それでも膝の力を抜いて、上手く打っていたかもしれないが。

 ともかく失投からのホームランであるというのは、間違いなかった。


 ベースを一周する大介の姿を見つめる。

 拳を天に突き上げて、勝者への喝采を浴びている。

(シーズンで同じバッターに二本打たれたのは、これが初めてか……)

 MLBの二年目、ポストシーズンならばやはり、大介に二本打たれているのだが。

 しかし動揺はない。

 打たれた原因はしっかりしているし、まだ点差はしっかりとあるのだ。

 さすがは、と思うべきなのだろう。

(俺は、今日は勝てないかもな)

 既に三打数二安打で、アウトになったボールも確実に捉えられていた。

 そしてそのうちの一つがホームランとなれば、これは対戦としては間違いなく直史の負けである。残りの一打席をどう抑えてもだ。

(ただ、チームは負けないぞ)

 ここからまた、計算をしなおす必要がある。


 大介に打たれた直史に対して、今日は二番の和田が、気合を入れて向ってくる。

 直史の血液が、凍るような冷たさを発散する。

 クリアになっていく意識の中で、ストレートを三度投げた。

 その三球目はアウトローのボールであり、これを和田は振ることすら出来ない。

 見逃しの三球三振で、スリーアウトチェンジである。


 ベンチに帰る途中、直史は計算を始める。

 このまま三人ずつで終わらせてしまえば、大介の第四打席は九回の裏のワンナウトからである。

 打順調整をするべきであろうか。

 いや、たとえヒットでランナーとなっても、直史が後を抑えればいい。

 大介一人がホームを踏んでも、まだ3-2にしかならないのだ。

 強がりでもなく、直史はそう考えている。

 注意すべきは大介ではなく、むしろその前後であると。




 ホームランを打たれたばかりのエースに、そうそう簡単に言葉をかけることは難しい。

 だが直史は指で数えながら、何事かを考えている。

「迫水、今で球数は74球で合ってたか?」

「そう……ですね」

 六回を投げたところで74球というのは、直史にしてはかなり多い。

 このペースなら110球を超えてしまうだろう。

 今年の直史の、一試合の最多投級数は、福岡相手に八回まで投げた110球。

 完投した試合に限るなら、まさにライガース相手に106球を投げている。


 今季は既に、15回のマダックスを達成している。

 18試合を完投した中で、15試合を100球未満の完封に抑えているのだ。

 これがいかに異常なことかは、まず説明されなくても分かる。

 そもそも完投数が二位の上杉でさえ、二桁には届いていない。

 ほとんどの先発はエースクラスでも、五試合に満ちていないというのが、今の完投事情なのである。


 直史は監督の貞本に言う。

「120球まではリリーフの必要はいりませんから」

「しかし、次の試合までの間隔を考えると……」

 既に日程は、順延した試合の消化を考える時期に入っている。

 直史は次に中五日で投げなければ、中八日の間隔が空いてしまうのだ。

 次の対戦相手は、中五日ならタイタンズ。

 直史がかなり警戒している悟を擁するチームである。


 しかしこの時、直史はその顔に、冷たさを感じさせる無表情を保っていた。

 普段は隠している、本人さえ気づいていない、圧倒的な実力からなる傲慢さ。

 それを見て貞本は、息を飲んだ。

 直史という人間の本質の一部に、初めて接したように思ったのだった。




 直史は今さらだが、試合に集中しはじめた。

 正確にはチームのことを完全に無視して、相手のバッターを打ち取ることだけに注意を向けだした。

 ベンチの中でどのように動いているのか。

 そんなところまで見て、いったい何が分かるのか、と思う者もいるだろう。

 直史にも言語化することは難しいが、数値化出来ない何かを、直感的に感じて対応するようになるのだ。


 七回の裏、ライガースは三番からの好打順。

 長打の打てるバッターが三人並んでいるため、運よく一発でも出れば、一点差に詰め寄ることが出来る。

 しかしマウンドに登った直史は、完全に己の気配を消していた。


 氷のような存在感。

 ライガースの三番アーヴィンは、これまでも直史のピッチングには翻弄されてきた。

 しかしこの打席は、バッターボックスに入った瞬間、背筋を凍りつかせるものがあった。

 もちろんそんな経験はないが、日本刀を喉元に当てられているような。

 温い日本の環境においては、一度も感じたことはない。

(なんだ、この細いピッチャーは)

 もちろんMLBを蹂躙した直史のことを、アーヴィンが知らないわけではない。

 ただこれまでとは、全く違う雰囲気を発しているのだ。


 投げられたボールは、まずは普通のカーブからであった。

 しかしなぜか、タイミングが取りにくい。まるで関節の間に、何かが挟まってしまったかのように。

 呪いをかけられたように、体が重たくスイングが窮屈に感じる。

 次に投げられた、ふわりとしたシンカーなどは、打とうとすれば打てるはずなのに、タイミングが合わない。

 何をされているのかも分からないうちに、チェンジアップを空振りして三振した。




 まるで魔法にかけられているような。

 アーヴィンは後にそう言ったが、どうにもアメリカ人の感覚は分からないな、と四番の大館は思ってバッターボックスに入る。

 照明に照らされた、激しく明るいグラウンド。

 だがそのマウンドの上だけは、何か黒いものがいた。 

 ただ黒いとしか感じられない、間違いなく人間の姿をしたもの。

 これはいったいなんなのだ、と大館は理解しようとする。

 それは無駄で無意味な努力である。


 まるで読みを、完全に読まれているような。

 ストライクゾーンをボールが三度通過して、大館のスイングは三度空を切った。

 自分のスイングが、まるで初めてバットを握った時に戻ったような、そんなふわふわとしたものになった感覚。

 訳が分からないが、結果としては三振である。

 首を傾げることすら出来ず、ベンチに戻ってくるしかない。


 大介はその背中を強く叩いた。

「あだっ」

「飲まれたな」

「え……そんなはずは……」

 プロの世界に来るまでに、どんな天才でもある程度の挫折があったり、障害に阻まれたことはある。

 そしてプロの世界では、自分がまだ初心者であることを思い知らされる。

 ある程度はもう形になったはずなのに、こうやって子供の頃に引き戻された気分。

「あいつの引き出しは多いからなあ」

 ホームランを打っている大介だから、こんな暢気なことが言えるのか。


 二人の会話を、周囲も聞いている。

「どうすれば打てますか」

 なんとかあと一打席、回ってくるかもしれない。

「それが分かってたら、もうちょっと俺も打てるんだけどな」

 大介としても、そうとしか言えないのだ。

「あいつのやってる野球は、俺たちのやっているそれとは、どこかが決定的に違うんだ。かといってMLBとも違うけど」

 大介としてもそうとしか言えない。

 単純なパワーや技術、経験の先にあるとは、ちょっと思えないのだ。

 他の人間には打てないのかもしれないし、打たれてほしくもない。

 チームの勝利を、全く考えていないという点では、今日の大介はとんでもないエゴイストであった。




 何かをやっているのは間違いないが、何をやっているのかは分からない。

 組み立ては基本的に、迫水も半分ほどは行っているのだ。

 なのに直史の投げてくるボールは、サイン通りでも感触が違う。

 ストレート一つでも、様々な感触がある。

 柔らかいストレート、鋭いストレート、甘いストレート。

 普通なら打たれてしまいそうなストレートが、バットに触れることなく、迫水のミットに収まるのだ。


 パワーでも、技術でも、読みでもないように思える。

 魔法でなければ、あるいは奇術の類だ。

 もちろん後から説明されれば、どういう理屈なのかは分かる。

 だがそんな投げ分けを正確にして、しかも実際に正しく通用するというのが、意味が分からない。


 コースに投げるのがコントロール。

 特に狙った場所に投げ込むのがコマンド。

 制球力というのはプロであっても、せいぜいがそのぐらいである。

 並外れたコントロールの持ち主でも、日によってはボールがばらつくこともある。

 それを超越した部分で、直史はコントロールを行っている。


 スピン軸のわずかなずれで、先ほどはホームランを打たれた。

 失投であったと知っているのは、直史と迫水だけだ。

 その後のバッターを、ショックもなくあっさりと打ち取ったこと。

 これもメンタルのコントロールには間違いないだろう。




 直史から学ぶべきは、表層的な技術ではないと迫水は思う。

 むしろどうやってその人間性というか精神性を培ったのか、そちらの方が重要ではないだろうか。

 ただそれを質問すると「詳しくは嫁の本に書いてあるから」と答えてしまうのが直史である。

 買って読んでみるにしても、基本的に体育会系の野球選手は本を読まない。

 マンガなら読んでいる選手は普通にいるが、本当に本を読む選手は少ない。

 いないわけではないというか、読むきっかけになったのがまさに、瑞希の書いた『白い軌跡』であったりする。

 映画にもなっているので、そちらから入った人間も多いだろうが、あれは書籍ほどの評価は得ていない。


 直史はじっくりとライガースベンチを観察するのをやめない。

 そして八回の裏が回ってくる。

 大原は降板したが、その後のピッチャーを打てていない。

 七回を投げて三失点というのは、先発としては充分な数字だ。

 及第点では勝てないというのは、味方の援護が少ないからで、指揮官の責任である。

 ただ大原としては、さすがにそれを言うのは酷だな、とも思っている。


 直史を相手に、そもそも勝ったチームが今年はない。

 一応オープン戦での紅白戦では、負け星というかそれに準じた試合もあったらしい。

 しかし公式戦のレギュラーシーズンでは、完全に負け星がついていない。

 一試合だけ五回無失点で抑えた試合は、リリーフが打たれて負けているが、もちろんこれは直史の負けとはならない。


 よほどライガースが幸運に恵まれても、直史はやはり負けはしないだろう。

 大介の前にランナーが出て、そして大介がホームランを打ってもまだ同点。

 あるいは負傷退場、というのが考えられるだろうか。

 大原としては大介の打球を、直史が必死で回避した姿を見ている。

 あそこからピッチャーが崩れてもおかしくはないのだ。




 ひょっとしたら、第三打席でホームランを打たれたのは、第二打席のあの打球で、萎縮してしまったからではないのか。

 そんな玉ではないと分かっているはずだが、あの打球が頭部に当たっていれば、死んでいてもおかしくはない。

 正直に、本当に正直に言うのならば、大原は後遺症がない程度に、直史に負傷してほしかった。

 スポーツマンとしては失格と言われるかもしれないが、それでも望んでしまうものは仕方がないだろう。

 大介などにしても、プロ入り後やMLB移籍後のすぐは、死球狙いの内角球が多かったものだ。

 そんなボールをピッチャー返しするようになってからは、内角の球自体が減っていったが。


 直史と大介の関係は、いくら真剣勝負といっても、そこまで陰湿に勝ちにいくようなものではない。

 そもそも二人は義理の兄弟でもあるし、オフは家族で一緒にすごしているとは、よく知られていることである。

 世界最強の野球一族。

 なんだか冗談のような響きだが、そう呼ばれていることもある。


 せめて一度追いついてから負けたら、大原の負け星は消えてくれる。

 ただレックスはライガースよりもリリーフ陣がいいので、延長になればやはりライガース不利であろう。

 クローザーのオースティンなどは、ほぼセーブ王が確定している。

 リードした試合でしっかりと勝つというのは、チームが強い証拠である。

 ライガースはそのあたり、やや先発に勝ち星がつきにくいので、ポストシーズンの勝算がはっきりとしない。




 八回の裏、またも三人でライガースは攻撃終了。

 いよいよ二点差のまま、九回の裏を迎えるのか。

 九回の表に、ライガースは勝ちパターンのリリーフを出していく。

 可能性は低いにしても、ここで直史を打ってレックスに勝ったら、その勝利の価値はただの一勝ではない。

 味方の攻撃を、ベンチにいる直史は見ていない。

 見ているのはライガースのベンチである。


 ラストバッターから始まるので、そこは確実に代打が出てくるであろう。

 普通に左を出してくるだろうが、直史は別にバッターが右でも左でも、ほとんど対戦成績に差はない。

 それでも良く曲がるスライダーを使う分、右打者相手の方が、組み立てるのは簡単であるが。

 正直なところ左打者の打率が良くなっているのは、大介と悟が原因と言えなくもないであろう。

 今季はここまで、左にしかホームランを打たれていない直史である。


 九回の表、レックスにも追加点はなし。

 いよいよライガースの、最後の攻撃が始まる。

(二点差か)

 ネクストバッターズサークルで、大介もまた直史を観察していた。

 視線が交わることはないが、直史もこちらを観察していることは分かる。

 少しでも注意を引ければ、それだけバッターに割く注意力が減る。

 そうは思うのだが、直史が下手なことをするはずもない。


 あっさりと三振で打ち取って、まずワンナウト。

 大介の第四打席が回ってきた。

(ここから二点差を、最低でも追いつく方法……)

 考えはするが、出した結論としては「ない」というものである。

 個人の対決としては、大介は勝つことが出来た。

 しかしチームとしては負けるだろう。

(せめて爪痕、しっかりと残させてもらうからな)

 大介はしっかりと地面を踏みしめながら、バッターボックスに入った。




 ホームランを打たれても、まだ一点ある。

 直史はもちろん手を抜くつもりはないが、最悪を想定はしている。

 一番いいのは凡退であるが、単打までなら完全にOK。

 長打で三塁まで行かれると、一点は入る可能性が出てくる。

 大介を相手にした後、自分に力が残っていないかもしれないからだ。


 一応ブルペンの準備はしているはずだが、当初の想定よりは球数は少なめになっている。

 ここで直史が最優先すべきは何か。

(チームが勝てばそれでいい)

 大介に点を取られても、まだ一点のリードがある。

 なんなら打たせてしまって、後を絶ってしまってもいい。

 完全に合理的に考えるなら、そこまで割り切ってしまってもいい。

 だが直史は、自分にそれを許さない。


 今シーズン、レギュラーシーズンで何度大介との対決が残っているか。

 またクライマックスシリーズに突入したら、またライガースと当たるのかどうか。

 既にレギュラーシーズンの数少ない対決で、大介に二本のホームランを打たれている。

 三本も打たれたら、それは直史の記憶にも刻まれるだろう。

 そもそも大介を相手に、全く逃げずに勝負というのが、他のピッチャーと比べたら明らかにおかしいのだが。


 首脳陣からしてみたら、一度ぐらいは歩かせてもいいではないか、と思えるのだ。

 直史もどうでもいい単なる強打者などなら、平気で歩かせて次をアウトにする。

 しかし大介と自分は、一度野球を裏切った。

 監督などが命令してきたら、それは選手として普通に従う。

 もっともそんなことをしてくるとは、直史も思っていない。

 大介をどうにか封じるというのは、レックスのみならず全ての対戦するチームの総意であるのだ。

 強打者過ぎるというのにも、限度というものがあるだろう。




 どうやってこの勝負を片付けるか。

 ストレートを上手く使いたい、というのが正直なところだ。

 第一打席と第二打席のように、低い弾道で打たせてなんとかする。

 しかしカップスもそうだったように、大介の打球を下手にキャッチすると、捻挫をしたり骨折をしたりと、本当にろくなことがない。

 ならば怪我人が出ない方がいい、という判断の結果が三打席目だ。


 試合に勝って、怪我人を出さない。

 それが実は一番の選択なのかもしれない。

 大介と、個人的に勝敗をつけることは諦める。

 自分が大介を打ち取るのと、チームが無事に勝つことの、どちらが重要であるのか。

 ここは意地を通す場面ではない。

(三振かフライアウトなら、問題なく終わる)

 沈む球を使うのは難しいな、と思う直史だ。


 三打席目は失投だが、カットボールが膝元に入ったのに、完全に打たれてしまった。

 わずかに掬い上げるような、そういうスイングになったのは、体軸を傾けたからだ。

 大介は通常、レベルスイングをしている。

 よくフライボール革命とアッパースイングを混同している人間がいるが、基本的にダウンスイングもレベルスイングも、ボールを遠くに飛ばすのを目的としてスイングする。

 なのでフォロースルーはアッパースイングをしたようにはなるのだ。


 まずはカーブから入ったが、落差はあるがスピードもそれなりにあるというボール。

 大介は見逃して、ストライクカウントが取れた。

(ツーシームじゃない高速シンカーが復活していれば、もっとやりようはあるんだけどな)

 明らかな肉体的な衰えを、組み立てや読みでカバーしてきた。

 だが大介の直感は、直史のそれをさらに上回る。


 


 直史はストレートを決め球にしたい。

 それまでにあと一つ、ストライクカウントを取る。

 そのためのボールを、打たれてしまったらどうする?

 以前に打たれたのが、そのパターンであった。

 他のバッターに対するよりも、大介の攻略難度が高すぎる。

 そして大介も直史の時にだけ、明らかにパワーアップしている。


 選手生命なり、あるいは本当の命なりを、削りながら対決する。

 だが直史の命は、自分一人のものではない。

 大介も守るものは、大切なものはたくさんある。

 しかしそういったものを忘れて、自分の限界で挑んでくるところが、本当に野球馬鹿なのである。


 チェンジアップを投げて、まずはボール球。

 緩急を考えるなら、次は速いボールである。

 しかし直史が選んだのは、さらに遅いスローカーブ。

 逆方向に緩急を使ってきたのだ。

 それを見る大介は、完全に脱力したまま、ボールを見送った。


 判定はストライク。

 落差から考えれば、ボール扱いされてもおかしくないのだが、球速が遅かったため打てると審判は判断したのか。

 ともあれこれで、ツーストライクまで取れた。

 ボール球も使うことは出来る。

 しかしボール球を使えば、逆に選択肢が狭められる。

(最後はストレート)

 遅い球二つ、その後に全力のストレート。

 無駄球を使う必要はない。

 ただ大介も、ストレートはある程度予想しているだろう。


 分かっていてもなお、打たれないボールを投げなければいけない。

 少なくとも他のバッターならば、確実に打ち取れてきたのだ。

(このストレートを、どう打つ?)

 完全脱力状態から、分かった上でのストレート。

 高めを狙ったそのボールへ、大介はタイミングを完全に合わせていった。

 ボールとバットは、完全に正面衝突した。




×××



 次話「いまひとたびの奇跡」

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