第78話 死亡遊戯

 予告先発が発表されて、色々なところで色々な騒ぎが起こった。

 日程的にありえなくはないな、とは思われていたものである。

 いつもなら直史は、東京に残っている場合が多い。

 それが帯同していたのだから、当然予想はされるものであった。

 予想が確定しただけで、ここまで騒がれるとは。


 これまでに二回、神宮と甲子園で対決が成立している。

 そして試合の結果だけで判断すれば、両方とも直史が勝利している。

 ただホームランを打っている大介を、単純に敗者とするのもおかしいだろうが。

 最初の対決では、甲子園で一安打完封という試合をされてしまった。

 もっともそれは大介の手抜きも原因であったのだが。

 野球の神様は、八百長を許さないし、プロレスにもそれなりの罰を与える。


 次の対戦、大介に打たれたホームラン一本が、結果的に直史のパーフェクトを阻止した。

 しかし試合では結局、直史がほぼ一人でレックスを勝たせている。

 高校時代から変わらない。

 味方が点を取ってくれるまでは、意地でも失点しない。

 その意識はもはや病的ですらある。


 実際のところ現在の直史の成績でも、沢村賞を与えないということはありえない。

 今の選考委員は、1981年のことを知っているからだ。

 もしも直史が取れなければ、それこそもうファン投票にでも変更するしかなくなる。

 あの時の事件は、野球のスポーツマスコミに対する、かなり深刻な不信感を抱かせるものであった。

 ただ直史の人間の悪意を信じる立場は、弁護士としては当然のものであろう。

 人の本性は悪、などとは言わない。

 だが人類の歴史には、多くの愚かな選択が成されてきたのだ。




 直史が投げる前に、まずは第一戦が行われる。

 先発は三島である。

 ここまで21先発の13勝3敗。

 勝ち星と勝率だけを見れば、彼も充分に沢村賞の候補になるであろう。

 ただ今年は直史を別格としても、上杉も復調している。

 また同じチームなら、オーガスは23先発の15勝3敗と、勝ち星では三島よりも上であったりするのだ。

 この二人を信用しきれないあたり、直史も警戒心が病的であると言うか、やはりキャッチャーへの信頼感が足りないのだろう。


 樋口だったらこの二人をはじめ、他のピッチャーも活かして、なんとかライガースを抑えたであろう。あるいはレギュラーシーズンをもっと勝っていたか。

 ただ二人の成績内容を見れば、さすがに樋口にひぐえもんを求めすぎている。

 レックスの弱点は、直史とこの二人以外の先発が弱いところにある。

 それでも百目鬼が飛び出てきたし、青砥もしっかりイニングを投げてリリーフにつなげている。

 あとはリリーフ陣が、かつての豊田、利根、鴨池という並びほどには強力でないというのも理由だろう。

 一人、オースティンだけはセーブ王を獲得する勢いでクローザーとして活躍しているが。


 直史が予告先発で告知されたことは、レックスとライガースの両方の選手に、それなりの影響を与えた。

 ここまでほとんど中六日で投げていた直史が、中五日で投げたのはライガース戦である。

 そしてここでも、中五日で投げる。

 首脳陣が勝負をかけてきて、それに直史も応えたということだ。

 静かな直史は、とてつもなく頑固であり、無茶なことはしない。

 それがここで中五日を受け入れたということは、ペナントレースの制覇を目指すということなのだろう。


 間違いなく士気は上がった。

 それは打線も、そして投げる三島もである。

 去年までの調子で、あと一年か二年すれば、MLBへのポスティングを考えていた三島だ。

 しかしそのレベルというのを、直史が圧倒的な実力で示してくれた。

 もちろん直史は、単純なメジャーリーガーというだけではなく、史上最強と言ってもいいぐらいのピッチャーではある。

 だがこれに圧倒されていては、それこそメジャーを目指すなど無理なのだ。




 直史は、あるいは大介は、巨大な障害となっている。

 ほとんど全ての人間にとっては、乗り越える手がかりさえない壁。

 それでも今さら、野球をやめて他のことをしよう、などという選手がぽろぽろ出てくるわけではない。

 野球がチームスポーツで助かった、というあたりだろうか。

 また主役だけでは、物語は展開しないのだ。


 この日の試合は三島が主人公であった。

 ただ主人公らしく、挫折や敗北も経験した。

 大介に二打席連続でホームランなどを打たれてしまったのである。

 だがそれでも、ソロホームランに抑えている。

 また三打席目には、見逃しの三振を奪った。


 このホームラン二本による二失点に抑えた三島の気迫は、後続のリリーフにも伝わっていった。

 大介のミスショットを誘ったのは、やはり投手陣の気力であろうか。

 この試合にさえ勝てば、明日は直史が抑えてくれる。

 久しぶりのペナントレース制覇が、現実的になってくるのだ。


 最終的なスコアは5-3でレックスの勝利。

 三島はこれで14勝目であり、去年の勝ち頭としての存在感をアピールした。

 間違いなくエースクラス。

 レジェンドの影に隠れているが、その貢献度は間違いなく高い。




 どうしてわざわざ、苦難の道を行くというのか。

 それは、そちらの方がしっかりと、険しくても高みが見えているから。

 直史は理性的な判断をしていない、愚かな自分を感じていた。

 だが直感的に、この判断が間違っていないと信じている。

 散文的であり、統計と確率を重視する自分が、この時期にこんな判断をしてしまう。

 この選択によって、ここから対戦するチームは、本来のものよりも、ずっと難しい相手となっている。

 それこそ上杉が合わせてくれば、またあの年のような投手戦になるかもしれない。


 両者12回延長パーフェクトにより、パーフェクト未成立。

 まさに完璧な試合、と当時は言われたものだ。

 おそらくNPB史上と言うより、世界野球史上、二度とないであろう記録。

 パーフェクトを狙って達成出来るピッチャーが二人存在し、しかもその力をしっかりと引き出したのだから。

 この先、直史がパーフェクトをするとしても、それに対抗してくるようなピッチャーはいない。

 そもそも完投するピッチャーですらも、現在では少なくなっているのだから。


 まずは今日の試合である。

 ライガースの先発は、今年二度目の直史との投げ合いとなる大原。

 終盤まで投げてたったの二失点なのに、敗戦投手になった可哀想な大原が、また直史の相手である。

 果たしてライガースの首脳陣はどういう作戦を立ててくるか。

 一応無失点記録は、大介のホームランで途切れさせている。

 おそらく大介を一番にするという打順は、またやってくるであろう。

 誰だってそーする。直史だってそーする。監督であれば。


 前回のホームランは、残念ながら神宮であった。

 ピッチャー有利の甲子園とはいえ、それでも大介は打ってくる。

 正直に言えば試合の勝敗は、打線がどれだけ頑張って、直史を楽にしてくれるかによるだろう。

 大介に対しては、下手にカウントを取りにいってもいけない。

 アウェイでレックスが先攻なだけに、なんとか立ち上がりの悪い大原からは、先に点を取ってほしいのだ。




 調整は上手くいっている。

 無理に日程を詰めた、という感じはしない。少なくとも普段どおりではある。

 大原も前回は上手くいきすぎ、というのが直史の感想である。

 普段は七回から八回を投げて、四点ぐらいまでに抑える、というのが大原のピッチングだ。

 ただ普通に五点ぐらい取られるのも珍しくはない。

 イニングイーターとしての素質が高いので、勝ち星はそう増えてこない。

 それでも現役では数少ない、200勝投手ではある。


 甲子園というピッチャー有利のホームスタジアムに、現役期間の大半でライガースは打撃成績がよくAクラス入りも多かったということもあって、ピッチャーとしての評価はそれほどでもない。

 同じ200勝投手なら、真田の方が上だというのは、確かに活躍期間以外の全てを比べても、あちらの方が上であるのは確かだ。

 しかし無事是名馬、ということわざもあるのだ。


 直史にとっては、高校時代から特に、気をつけるような相手ではない。

 NPBでの二年間で、大原に苦戦したという記憶もない。

 あの二年間では、真田との投げ合いがやはり苦戦であったと言えるが、それでも負ける気はしなかった。

 それはあの頃のレックスは、直史に外部計算装置が存在したからだ。

 だが樋口がいなくても、それでも負けるとは思わない。

 問題となるのは、大介との対戦だけであろう。


 たとえ味方が三点取ってくれても、全打席ホームランを打たれれば、四点取られて試合には負ける。

 さすがにありえない、とは直史は思わない。

 今の大介なら、充分ありうると思っているのだ。

 昨日の三島からは、二打席連続のホームラン。

 九月に入ってからは、OPSが1.8をオーバーしているのだから。




 甲子園での直史と大介の対決。

 今シーズンはこれで二度目である。

 一度目は直史のシナリオどおりの勝利。

 だが今度はセメントである。


 プロ入り一年目も、一試合だけ甲子園では対戦している。

 その時は直史が、ノーヒットノーランで完勝している。

 クライマックスシリーズでは神宮での対戦となったため、甲子園の観客は、二人の対決に飢えているのだ。

 このままであれば、今年こそクライマックスシリーズを甲子園で行うことになる。

 二人の対決を、おそらくは二試合は見ることが出来るであろう。


 直史としては、チームの優勝は自分の目標ではない。

 だがこの展開は、おそらく勝つことを求められているのだろう、とも感じている。

 自分と大介との間に、感情的なしこりは全くない。

 むしろ友人として、義兄弟として、強い絆を感じている。

 恩もあるし、逆に貸しもある。

 ただ憎しみ合う必要は一切ないのは間違いない。


 変な感情がないだけ、逆に真摯に対決することが出来る。

 上杉が衰えた今、大介が本気で相手をするのは、直史だけであるのか。

 少なくともMLBには、結局大介を脅かすようなピッチャーは登場しなかった。

 それは最初から勝負の舞台に上がらない、武史も含めてのことだ。

 だからつまり、これは運命なのであろう。




 現在の日本人男性の寿命は、80歳に少し届かないぐらい。

 だが直史の家系は、比較的長命である。

 もっともプロ野球選手というのは、実は平均寿命が一般より短い。

 それが現役中の肉体の酷使によるものなのか、それとも暴飲暴食の多かった昭和時代の野球選手が平均を下げているのか、それは分からない。

 直史も自分では節制をしているつもりだが、MLBの日程などは殺人的なものであったと思う。

 よくもまあ、あそこで五年もやっていたな、と今ならば思う。

 いまだに頑張っている武史などは、基礎体力がそもそも直史よりも上であった。

 それに大介も、野球をやっていれば勝手に健康になる男であったのだ。


 人間はただ生きているだけで、己に残された時間を削っていっている。

 その人生の中で何かを残そうとすれば、さらに肉体を痛めつけることもある。

 また人生において、本当に全力で働けるというのは、特にスポーツの分野では、若い頃だけであろう。

 ゴルフは比較的高年齢プロもいるし、また弓道などは80過ぎの達人などが本当にいたりするが、野球はおおよそ40歳が限界で、45歳まで出来たら超人だ。

 実際に上杉は、42歳でもう衰えている。

 50歳まで一軍で現役を張っていた選手も、いないわけではないのだが。


 若くなくては出来ないこと、というのは確かにある。

 だが若さから経験を取り出し、円熟を重ねなければ出来ないこともあるのだ。

 直史の場合はもう、明らかに若くない。

 そして経験にしても、プロ入りは遅かったし、一度は引退している。

 それなのにこうやって、優位に立つことが出来る。

 才能、センス、なんとでもいいが、特別なことは間違いない。


 寿命を削りながらでも、投げていかないといけない。

 逃げることも避けることも、それが必要なタイミングはある。

 しかし今の自分は、そんな選択をしてはいけないのだと分かる。




 元々首位攻防戦なだけに、甲子園は満員である。

 以前に客席は増設したが、さらに改築の計画は出ているという。

 ただこの野球人気が、また凋落することも考えられる。

 そもそも今のこの人気は、数人のスタープレイヤーによるものだ、となんとなく誰もが分かっているのだ。

 たとえば上杉がMLBに行ってしまっていたら、ここまでの熱狂を得ることはなかっただろう。


 試合の前から既に、甲子園が揺れている。

 ロッカールームで直史は、波の立たない気持ちで聞いていた。

 体を震わせる、圧倒的な熱狂。

「白石はまた一番だ」

 豊田の言葉に、直史は軽く頷いただけであった。

 ヘッドフォンで音楽を聞いているらしいが、声は聞こえているらしい。

 こんな直史の姿は、珍しいなと思った豊田である。

「何を聞いてるんだ?」

「イリヤの曲を」

 豊田は複雑な顔をする。


 直史たちが高校生であった頃から、そしておおよそ大学生になった頃までに、彼女は野球の応援に使えるような曲を何曲か作った。

 歌詞のあるものもあって、そちらは野球だけではなく、夏の定番曲になっているものもある。

 思えばあそこには、野球の才能だけではなく、他の才能も多く集ったのだ。

 ノンフィクション作家、あるいはライターとして活躍する瑞希。

 双子でツインボーカルの歌手などをしたツインズ。

 世界への影響力という点では、早くに死んでしまったイリヤが、今も一番影響力は大きいのかもしれないが。

 伝説は非業の死によって成立する。




 高校生の夏休みが終わったこの時期、少しは観客が減るかと思えばそんなこともない。

 また今年の甲子園は、名門一年生の鮮烈なデビューもあり、甲子園という舞台自体にまだ熱気が残っている。

 まだ日が没しない間から、試合は始まる。

 その事前練習中にも、スタンドのざわめきは空気を揺らす。


 あと何度、大介との対戦があるのか。

 ただ今日はまだ、壊れることを覚悟したピッチングは出来ない。

 考えてみれば沢村賞が確定するまでは、直史は壊れてはいけないのだ。

 あと一年、今年のようなピッチングが出来るかというと、それも難しいであろうが。

 今年の直史は、人間関係すらある程度制限して、全てを野球に捧げてきた。

 そのために問題が起こったこともある。


 子供のためになら、父親は限界など考えずに頑張ることが出来る。

 もっとも直史の場合は、限界を超えて壊れれば、全ては水泡に帰すことになるので、実際はそんなこともなかった。

 真琴の思春期による、直史との微妙な関係というものもある。

 かつては真琴のためにも、直史は己の人生を捧げた。

 ただ彼女には、そんな記憶が残っているはずもない。


 野球は直史に富や名声だけではなく、幸福までももたらしてくれた。

 だがその対価として、直史も人生を切り取って捧げている。

 あくまでも野球は、幸福までの道の一つでしかない。

 そう考えるあたりが、直史と大介の決定的な差だ。

(それでも、限界はもう近いだろうな)

 軽々とプレイする大介などを見ていると、自分との肉体的素質の差が良く分かる。

 ただ、それがそのまま勝敗の結果につながらないところが、野球というスポーツではあるのだ。




 熱気にあふれた甲子園で、いよいよ試合が始まる。

 大介の日本球界復帰は、それ自体は歓迎された。

 ただMLBに移籍するときに言っていた、キャリアの最後は日本で送りたいという言葉を考えれば、残された時間が少ないと思うのが普通だ。

 確かにそれも間違いではないのだが、大介としては直史との対決のために、帰ってきたというのが大きいのだが。


 レックスの先攻から始まり、ライガースは200勝投手の大原。

 こちらは勝ち星こそあまり伸びなくなったが、いまだにイニングイーターの面があるので、先発のローテからは外されずに済んでいる。

 ピッチャーとしての実力は、それこそ長く続けたという以外、全て直史の方が優っている。

 だが優っているピッチャーが、必ず勝つというわけでもない。


 大原は自分の200勝というのが、味方の打線や守備の援護があってこそ、ということはよく分かっている。

 タイトルを取った時でも、チームのエースなどとは思われていなかったし、それは確かにそうだと、自分でも思うのだ。

 自分の実力からすると、この間の試合は出来がよすぎた。

 この試合はライガースの負けだろう。

 大介一人で直史を打ち崩すのは、やはり無理があるのだ。


 かつては大介の後に西郷がいたし、黒田や毛利といった好打者がいた。

 今のライガースの選手たちも、それより完全に劣るというわけではない。

 だがあの時代の主力たちは、高校時代から直史と対戦しているバッターが多い。

 それなのに折れずに、プロの世界に入ってきたのだ。

 覚悟が違うと言えばいいだろうか。

 もちろんそれは精神論だけだ、と言えばそれまでだが。




 レックス首脳陣は、直史に投げてもらうといっても、確実に勝てるなどと甘いことは考えていない。

 ライガースは二枚看板ではないと言っても、前回は好投している大原だ。

 直史がホームランを打たれ、わずか一点差で2-1のスコアで勝利した。

 これで甘い見積もりをすることなど、出来るはずもない。

 初回から積極的に、だが確実に点を取っていく。

 もちろん狙い通りにいくはずなど、ないということも分かっている。


 大原はスロースターターの傾向が強いから、初回から狙っていくというのは間違っていない。

 ただその大原も、この試合の重要度は分かっている。

 ブルペンでしっかり投げ込んで、肩を作っている。

 もっともスロースターターというのは、事前に投げ込んでおいても、アジャストするのに時間がかかるのだが。


 先頭打者の左右田は、大原のボールをよく見ていって、さっそくフォアボールを引き出した。

 続く緒方は、大原の狙いを読みにいく。

 まだ試合の序盤で、肩が完全には暖まっていない。

 ここは際どいコースと、そして変化球を使ってきた。

 そして緒方は、それを完全に読んでいる。


 打ったボールは、見事に進塁打の方向、そしてセカンドの頭を越えていった。

 これで左右田は二塁に進み、ノーアウトから一二塁と、いきなり先制のチャンスである。

 ただ出来れば、今のヒットで左右田には三塁まで行ってほしかった。

 そうすれば次は内野ゴロでも、ライガース側は一点を捨ててでも、ダブルプレイなどを取りにいったかもしれない。

 また三塁でアウトを取られる可能性も低くなったはずだ。




 ノーアウト一二塁からなら、なんとか一点ぐらいは取ってくれるか。

 直史は思わず期待してから、頭を軽く振った。

 下手な期待などをしては、自分を甘やかしてしまう。

 一点も取られないピッチングをしなければ、勝てないと思って投げるべきだ。

 それでも大介は、一点ぐらいは取ってきそうだ。

(ホームラン以外を打たせるなら、どうにかなるかな)

 直史は現実的に、試合に勝つ方法を考えている。

 だが大介もそのあたりは、もう分かっているだろう。


 ここまで直史は、ホームラン以外で失点をしていない。

 大介が塁に出て足でかき回そうとしても、結局は後続を抑えてしまう。

 このホームラン以外での失点がない、というのもどこかの記録ではないだろうか。

 もっともわざわざそんなものに、注目している人間はいないだろうが。

 ただ失点からホームランの数だけを引いても、ツーランホームランなどの失点が計算出来ない。

 直史の、失点イコール被本塁打というのは、マイナーというか今後は誰も達成しないだろうが、珍しい記録ではある。


 期待をしないと、いい結果が導き出されるということはある。

 続く三番が内野ゴロを打って、あるいはダブルプレイという打球。

 しかし二塁でアウトを取った後の送球が、逸れてしまったのだ。

 一塁はセーフとなり、三塁へ進んだランナーも本塁へ向う。

 ここでまず一点が入った。


 シビアな試合というのは、実力の勝負というよりもむしろ、一発やこういったエラーからの失点で勝負が決まることが多い。

 特にピッチャーの緊張の糸が、エラーからの失点で途切れてしまうことがある。

 もちろんベテランである大原は、なんとかメンタルを建て直し、これ以上の失点を防いだ。

 ただ、直史を相手に先制点を取られる。

 裏の先頭が大介といっても、圧倒的にライガースは不利になったと思われて間違いない。




 ランナーが二人でて、しかもエラーまであったのに、一失点というのはむしろ幸いであったのかもしれない。

 大介がホームランを打てば、それだけで追いつける点数だ。

 久しぶりの先頭打者である大介だが、MLB時代などはシーズンをほぼ通して一番を打っていたこともある。

 長打力と走力が、完全にチームで飛びぬけていたからだ。

 もっともあれとこれとでは、打順の意味は全く違うだろう。


 おそらく今日は、第四打席が回ってくる。

 いや、自分の力で、第四打席を引き寄せるのだ。

 大介はバットを持って腰を回し、全身の筋肉を伸ばす。

 直前まで脱力し、そして一瞬で打っていく。

 前回は直史の油断とでも言うか、上手く読みがハマって打つことが出来た。

 しかし本質的には、読み合いでは直史には勝てないのだ。


 打てるボールは全部打っていく。

 それが直史への基本戦略である。

 下手の考え休むに似たり。

 おそらく単純に知能指数だけで比較したら、今のNPBに直史より頭のいい人間はいない。

 ただそれを上回る、直感で打ってしまうしかない。

 MLBには意外にインテリもいたものだが。


 結局紅白戦ぐらいでしか対決はなかったが、樋口が直史と読み合いをすれば、それなりに打てたのかもしれない。

 ただ直史に関しては、その手の内を知れば知るほど、さらに裏をかいてくるような傾向がある。

 だからこそデータを参考に球種を絞っても、全く打てなかったりするのだ。

 そして直史は逆に、データだけを参考にはせず、そこから心理的死角を突いてくる。

 まったく始末におけないピッチャーであるのだ。




 初球打ちが、一番勝率は高い。

 直史はその初球への反応で、そこからのコンビネーションを構築してくるからだ。

 だが逆に完全に見逃せば、バッターの狙いを読ませないことになる。

 もっとも初球からストライクに入れてくるので、カウントは不利になってしまうが。

 大介ならば初球からある程度絞っていく。

 スピードボールに絞って、なんとか変化球にも対応出来るようにする。

 ただそれだと、スタンドにまでは届かないのだ。


 初球はカーブに絞っておく。

 ストレートの可能性も高いが、大介相手ならボール球を投げてくれるだろう、という自分自身の評価をこめての推測だ。

 直史はカーブがいいと、散々に言われてきたのだ。

 確かにそれは、高校時代もおおよそは間違っていない。

 セイバーはそんなことは言っていなかったが。


 ストレートの割合が増えている直史だが、それでもカーブは必ず投げてくる。

 それなのにここで投げてきたのは、逃げていく曲がりの大きいシンカーであった。

 ツーシームではなく、打とうと思えば打てるシンカー。

 だがボール球であったので、大介はバットを握る手に力は入れたが、スイングはしなかった。

 カウントは、これで有利になったのだ。


 二球目、ストレートを予測しておく。

 カーブはどうしても、落差が大きいとストライク判定を外されてしまうことがある。

 そしてこの大介の予想は正しかった。

 外れていたのは、そのストレートの球質だ。

 打ったのはフェアグラウンドの範囲。

 だが痛烈なゴロであり、直史のすぐ横を通り過ぎて、センター前へと運ばれていった。

 完全なセンター返しに成功。

 だが一塁に到達した大介の表情に笑みはなく、マウンドの直史も特に動揺した様子は見せなかった。




 単打までならば勝利。

 直史が大介に対して考えているスタンスである。

 それもこれは、完全に弾道が低い打球を打たせることに成功した。

 ちょっとだけ怖かったのは、直史に当たる打球だったら、というあたりであろうか。

 いくらフィールディングのいい直史でも、大介の打球には反応しきれない。


 今の直史が投げたのは、ストレートはストレートでも、ふだん使っているのとは全く逆の方向性のストレート。

 つまり角度が上から下にかけてある、フラットの逆のストレートであったのだ。

 アッパースイングであれば、あるいは飛ばせたかもしれない。

 だが大介のレベルスイングでは、上手く打ってもフェンス直撃、までだと計算していたのだ。


 結果としてはセンター前の単打と、完全に計算の想定内。

 もちろん内野正面のゴロにでもなれば、さらに良かったことは確かだ。

 しかし大介としては打たされた、という意識が強いだろう。

 一塁ベースの上で、不満そうな顔をしている。

(いきなりパーフェクトもノーヒットノーランも消しておいて、不満に思ってもらうと困るんだがな)

 それでも、これは計算内。


 ノーアウトでランナーが大介というのは、普通なら失点は覚悟するところだ。

 だがここから直史は、速球系だけでカウントを重ねていく。

 最後には内野フライを打たせて、まずはワンナウトを取る。

 あるいはここは、バントで送っていてもよかったのかもしれない。

 もっともそういうことは、全て結果論でしか話せない。

 続く三番と四番に対しては、もっとひどかった。

 ボール球になる変化球とゾーン内の変化球を組み合わせ、最後にはあっさりとストレートで空振り三振。

(それでもこれで、四打席目は回ってくるぞ)

 ベンチに戻りながらも、大介はわずかに直史の様子を窺っていた。

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