第75話 究極の新たな形

 これまでのカップスは幸運であったのだ。

 ノーヒットノーランはともかく、マダックスに抑えられてはいたが、それでも幸運であったのだ。

 この試合は単純に、その幸運が途切れたに過ぎない。

 七回にも三球三振を含む、一桁の球数での三者凡退。

 出塁率の高い上位打線が倒れたところで、嫌な予感をカップスは感じていた。


 ノーヒットノーランは早々に途絶えていた。

 なのでその点だけは安心していたのだが、その後の三振が多すぎて、そのくせ球数が少なすぎる。

 球速も出ていないのに、どうして三振するのか。

 変化球狙いにすればストレートがきて、ストレート狙いにすれば変化球がくる。

 こちらの作戦を盗聴しているのか、などとありえないことまで考えてしまったりした。


 直史は読唇術が使えるわけではないが、カップスのベンチの様子は窺っている。

 今のカップスが勢いを増しているのは、上手くチームが全体として有機的に機能しているからだ。

 だからどこを突いてやれば、すてんと転がるのか分かりやすい。

 ただこの過程で思うのは、直史はやはりカードの最初に投げた方がいいなというものである。


 直史に完全に封じられたチームは、確かにある程度のダメージが打線に残る。

 それならばカードの最初に投げれば、残りの二試合か一試合を、有利に展開出来るのだ。

 ただもう一度中五日を挟むのは辛い。

 後で確認して、調整出来るものならしてもらおう。

 そう考える直史は、今季最多となる18個目の三振で、27個目のアウトを、27人目のバッターから奪ったのであった。




 調子が悪いという直史を、本当に信用していいのだろうか。

 レックスの首脳陣は深く悩む。

 確かに球速が出ていなかったし、ブルペンでの報告や豊田もそう言っていた。

 その事実に対して、球数が78球の完封という真実が、同時に存在する。

 間違いなく調子は悪かったのだろうが、それでもこういうことはやってしまえる。

 もう直史はそういう存在なのだと、諦めて受け入れるしかないのか。

 しかしそうすると、もう野球の常識の敗北のような気もする。


 カップスは完全に調子を落とすだろう。

 ライガースはどうにか大介が打ったが、カップスにはそんな救える部分もまるでない。

 ベテランが多ければどうにか立ち直るが、若手が多いと立ち直る手段をあまり持たない。

 どのみち今年は、ほぼ最下位は確定していたのだ。

 あとは直史を経験してしまったバッターの代わりに、二軍の有力株などを試せばいいだろう。

 カップスの今年は終わった。

 もっとも日程を考えれば、あと一度か二度は直史と当たりそうなのだが。


 直史のオーバーキルっぷりには、同じ野球選手であれば引くものがある。

 ただインタビュアーは、普通に内容に質問していく。

 それに対して直史は、さすがに調子が悪かった、などと空気を読まないことは言わない。

 今日は実験的なピッチングが多かった、とやや濁していったのであった。

 それは事実でもあるのだ。


 メンタルが問題だと自分で認めてからは、直史は元の通りに投げられるようになった。

 それでも今日のスタイルのまま通したら、いい感じで終わることが出来た。

 出力を上げることは出来なくても、まだまだ組み合わせを考えたなら、ピッチングには向上の余地があるのだ。

 この試合も見ているはずの明史は、いったいどう思っているだろうか。

 直史は確かに、条件を満たすために投げている。

 そして約束は必ず守らせる。

 だが息子に対して、父親としてやってやりたいのは、それだけではない。

 自分のピッチングで、明史が勇気を持ってくれたらいい。

 ただ直史のピッチングは、対戦相手から見たら、絶望しか感じないものでもあるのだろうが。




 テレビを見ていた明史は、直史のインタビューまでしっかりと見てから風呂に入った。

 直史の投げる試合というのは、平均よりもかなり早く、試合が終わってしまう。

 ただ今日は、レックス打線がかなり点を取ったため、そこそこの時間は経過していたが。

 こんなことならレックスの攻撃している間に、さっさと入っておくべきだった、とは思ったりする。

 なお瑞希と真琴は、パーフェクトが途切れた時点で、既に入浴を済ませた。


 明史は自分の父親のことを、直接本人と接するよりも、むしろ周囲から聞いたり、自分で調べたりして知ったことが多いかもしれない。

 調べれば調べるほど、本当にこんなことが出来るのかな、などと思ったものだ。

 手術の条件については、確かに怖かったということは否定しない。

 だが父の本気というのが、まだ見られるのだろうか、という期待もあった。


 40歳のピッチャーが故障引退の後、五年のブランクを経て復帰する。

 普通なら戦力になるだけで、充分に凄いことだ。

 それなのに直史は、圧倒的なピッチングを見せてくれる。

 もう沢村賞は確実であろう。

 なにせこれで、20勝に到達したのであるから。

 20勝して沢村賞が取れないなら、それは評価がおかしい。

 明史は勇気がほしい。

 その勇気を、直史との約束に求めていたのだ。




 反省点が多い試合であった。

「悪かった」

 試合後インタビューも終わり、ベンチから退散するという時点で、直史は迫水にそう声をかけていた。

 何人かはそれを聞いたが、いったい何が悪かったのか、さっぱり分からなかった。

 直史の調子が悪いと聞いていたのは、首脳陣とブルペンを除けば、迫水だけであったからだ。

 迫水にしても、少し考えなければ分からなかった。

 おそらく無駄に心配をかけた、ということなのだろうと理解したが。


 直史の言動は、本人の中ではちゃんとしたロジックがあって、普段の雑談などの中では、異質なものを感じることはない。

 だが野球IQとでも言うべきものが必要な場面では、理解できなかったり、考える必要があったりする。

 とてつもなく高いレベルと言うよりは、異次元の段階でやっているため、根本となる部分から違っているのだ。

 それでも説明を求めれば、分かりやすく説明はしてくれるのだが。


 直史はいつものタクシーで、宿泊中のホテルに向かう。

 明日からはスターズ相手の三連戦なので、他のメンバーも飲みになど出ない。

 最近のプロ野球選手はお行儀がよくなったなどと言われるが、単純にプロ意識が強くなってきただけだ。

 プレイの精度の一つ一つが上がっているため、昔のような不摂生をしていては、ほとんどが潰れてしまうというものだ。

 それでもチーム自体がそれを禁止するわけではないが、直史のようなベテランが節制していれば、それがチームに影響する。

 こういった点での貢献も、直史は大きい。


 ホテルに戻ると、ゆっくりと風呂に入った。

 次の登板は、アウェイでのタイタンズ戦。

 アウェイと言っても同じ東京なので、遠征の必要などはない。

 こういった有利な点がなければ、自分はどれぐらいの成績が残せるだろうか、などと思ったりはする。

 しかしそれは、他の在京球団のピッチャーに、直史に匹敵する者がいないため、無意味な仮定となる。




 入浴後はストレッチなどをしながら、連絡のメールなどを確認していた。

 瑞希からは毎日、子供たちの様子を記したものが届く。

 それはありがたいのだが、自分がその場にいないことが超さみしい。

 早く家族の元に帰りたい。

 ただそれは同時に、明史に勇気の必要な決心をさせることにつながる。


 手術は早ければ早いほど、成功率も高く予後もよくなる。

 出来ることなら早々に、パーフェクトを決めてしまいたかった。

 だが壊れてでもパーフェクトを狙う、という無謀に近い選択肢を取ることは出来なかった。

 直史はなんだかんだ言いながら、やはり安全策を取っている。

 そしてそれは間違いなわけではない。

 明史に突然の発作でも起これば、問題になってしまうが。


 もうここまで来れば、沢村賞を狙っていくべきだ。

 今日の勝利で、直史は20勝に到達した。

 他のピッチャーを見回しても、追いつけそうな者はいない。

 あとは気をつけるべきは、登板数の問題ぐらいであろう。

 沢村賞の選考基準はいくつかあるが、まだ直史が満たしていないものがある。

 その登板数がまずはそうであり、そしてもう一つはイニング数だ。

 完全に全てを満たしていなければ、沢村賞に選出されないというわけではない。

 だがケチをつけるとすればそこであるだろう。


 選考基準の登板試合数は、25試合を目途としている。

 現在の直史は、21試合に登板している。

 またイニング数の目途は200イニング。

 直史は171.1イニングしか投げていない。

 それでも勝ち星、防御率、奪三振などはとうに基準を超えている。

 なので怖いのは、該当者なしになることだ。


 いくら登板数とイニングをクリアしても、直史ではないピッチャーに与えるのは無理があるだろう。

 なので直史が取れないとしたら、該当者なしとなる可能性が一番高い。

 それをやってしまえば、おそらく世間は大きく騒ぐが、一度発表されればそれが覆ることはない。

(あと四試合と29イニング)

 日程的に直史は、あと五試合には投げることになっている。

 充分に基準は突破出来るはずだ。

 怪我も出来ない、長い一ヶ月になりそうではある。




 直史は果たして、本当に球界のお偉方に嫌われているのか。

 正面から選考委員に聞いたとしても、もちろん正直な答えは返ってこないであろう。

 ただ実際のところ、直史は別に嫌われてはいない。

 レベルが違いすぎると、もう憧れるしかないのである。

 もちろんそこには、嫉妬の感情はあるだろう。

 だが試合ごとに与えてくる、圧倒的な衝撃。

 これを無視するには、少年時代の自分の、野球に対する感情が揺さぶられて、もうどうしようもない。


 今年は佐藤直史の三度目の受賞で問題はないだろう、というのはほぼ全員の共通認識である。

 ただ故障でもして、残りを全休とかになれば、選考基準から大きく外れるので、それは逆に困るな、と思われていたりする。

 そんな選考委員に、ある筋から要望が入った。

 今年の沢村賞の選考は、レギュラーシーズン終了直後にしてほしい、というものである。

 時期の指定だけで、他には特に要望などない。

 首を傾げたが、全員が同意して、それは問題にすらならなかった。




 27人で試合を終わらせても、パーフェクトにならないケースがあるのが、今年の直史のピッチングで確認されていっている。

 また準完全試合というものもあるが、これはヒットや四球、エラーの走者を1人だけ出した完封試合のことで、直史のランナーを二人出した試合などは準完全試合にも当たらない。

 27人で試合を終わらせるピッチングのことを、何か別の名称をつけるべきではないか。 

 ネットの海の中から、そんな意見が生まれてきている。


 下手をすればノーヒットノーランよりも難しい。

 ただ直史は出したランナーを、ダブルプレイで消してしまう場合が多く、そのためこれを何度も達成している。

 プロ一年目から、ポストシーズンも含めれば三度。

 今年は七度目の達成であった。


 日本では使われてないというか、そもそも直史以降発生していないので、MLBで「サトー」と言われる80球以内の完封は、直史が復帰するまで使われることがなかった。

 今年の活躍を受けて、MLBではそう呼ばれているのだ、と周知されるようになった。

 ただ、確かに80球以内で試合を終わらせるというのは、まずありえないものなのだ。

 100球以内で完封すれば脅威、これとはまた別に、27人で試合を終わらせるのも異常なことである。


 ただこれに名前をつけることは、日本ではないだろう。

 日本人はあまり、そういうことを行わないし、行うとしても本人が死んだ後に名前を使うことが多い。

 サトーなどというのもMLBで使われているから、日本でも限られた人間やネットが使っているだけである。

 27人で終わらせる試合に、この先名前がついてしまうのか。

 それはもちろん、やっている本人でさえも分からないことである。




 直史をカードの頭に持ってくるということは、当然首脳陣も考えている。

 だが直史はローテが崩されるのを嫌うタイプだ。

 また繊細でも神経質でもないが、精密な人間であることは間違いない。

 なので九月に入って自然と、変更するタイミングを考える。

 そもそもNPBは、雨などの順延がなければ、九月の半ばには全日程が終了するスケジュールであることが多いのだ。

 このあたり、雨でもなんとか試合を成立させるMLBとは、雨天中止の割合が全く違う。

 日本には梅雨がある、というのも理由であるが。


 九月からは三連戦ではなく、二連戦のカードがそれなりに多くなる。

 ここで直史を、カードの最初に持ってくることが出来る。

 一番大切なのは、シーズンの最後まで壊れないように投げてもらうことだが。

 次のタイタンズ戦、第三戦を動かすのは難しい。

 ただ中六日以上を守るなら、次は中七日でのカップス戦となる。

 中五日で投げるなら、ライガース戦に登板できるのだが。


 レックスは残り30試合、ライガースは25試合。

 天気のせいもあるが、消化した試合数にやや差がある。

 現在の勝率からして、最後のラストスパートでペナントレースの結果は変わるかもしれない。

 そこまでに直史を消耗させておくわけにはいかない。

 

 ライガースとの直接対決は、あと六試合。

 ただ二連戦であって、三連戦のカードはない。

 上手くローテを調整して、直史を三試合に投げさせることは出来ないか。

 大介に打たれたとしても、直史は勝利投手であったのだ。

 今年、直史が投げた試合で、負けたのは上杉との対決だけ。それも直史が失点したわけではない。

 大介に打たれても、他を抑えて打線が援護をする。

 現在の戦力では、これで勝つのが現実的に思えた。




 ライガースはスターズとの三連戦、上杉相手には敗北したが、残りの二つで勝利している。

 上杉にはほ大介以外ほぼ完全に抑えられたが、その影響を引きずらなかったというわけだ。

 実際のところ、上杉はもう、直史ほどに派手なピッチングをしているわけではない。

 支配力が弱まっているのは確かだ。

 しかしこの二試合、大介はホームランが出なかった。

 まだ九月を丸々残した時点で、大介は56本のホームランを打っている。


 25試合で10本というのは、大介からしたら無理な数字ではない。

 むしろ勝負してくれるかどうかが、大介が打てるかどうかの大前提となる。

 ただNPB時代に打った自分による最多ホームラン、72本にはやはり届かないだろう。

 打順が二番になったとはいえ、既に今の時点で、NPB最終年のフォアボール数を超えているのだ。

 勝負しなければ打たれない、というのは確かな真実ではあるが、見ている方からするとしらけるだけだ。

 そもそも大介と勝負した直史と上杉は、ホームランを打たれても試合には勝っている。


 シーズン中にあと、何試合直史と対決するだろうか。

 大介はそんなことを考えているが、実際のところあのホームランを打った試合でさえ、直史には勝てたとは思っていない。

 二点差で大介に回ってきたあの状況は、直史にとっては消化する打席であったのだ。

 直史は本気が出せる状況ではない。

 絶対に壊れてはいけないという縛りが、直史のピッチングを限定させている。

 それでもカップス相手の試合を見てみると、相変わらずひどいことをしているなあと、素直に思ってしまったのも確かである。




 直史はもう、八月の登板はない。

 対して大介とライガースは、五試合を残している。

 レックスも同じだけ試合はあるが、直史が登板しない、つまり確実に勝てるわけではない試合だ。

 やはり直史は、カードの最初の試合に投げてもらうべきであったのでは、と首脳陣は今さら考えたりもする。

 ただその判断が本当に正しかったのか、分かるのはシーズンが終わってからになるだろう。

 とにかくライガースとの直接対決を、一試合でも確実に勝ちたかったというのも確かなのだから。


 甲子園は終わったが、まだ季節的にも気温的にも完全に夏。

 直史は体調が回復するまでに、一度千葉に戻った。

 改めて昇馬の起こしたというか、昇馬の対応した問題を確認するためである。

 少し日常のルーティンを崩してでも、先にこれは行っておくべきであったのだ。

 その結果、分かったのは昇馬の防衛本能の高さ。それと真琴の用心深い部分である。


 問題の起因したのは、先に手を出したのは向こうであった。

 だがダメージを受けたのも、一方的に向こうである。

 もちろん軽傷で済んでいるので、大事にせずに済んだ、ということはある。

 さすがはあの妹の子供であるだけに、一方的に暴力で制圧し、しかも相手にまで問題のある負傷をさせていない。

 元々昇馬は白富東に行く予定であったので、これで完全に縁が切れても問題はない。


 真琴自身はこのことについては、何かショックを受けているということはなかったようだ。

 女性は自分に対する攻撃的なことに、トラウマを抱えやすい。

 それは純粋に、肉体的に脆弱な存在だからであろうか。

 アナハイムというか、アメリカに住んでいたころは、直史は自分もそうだが、家族が安全に暮らせるように、セキュリティのしっかりしたマンションを選んでもらったものだ。

 もっともどこに住んでいても、外に出れば危険度は上がり、それこそ日本でも通り魔事件などは起こったりするのだが。


 イリヤは殺されたし、恵美理も銃口を向けられた。

 そこで育った昇馬の、危険を排除しようとする意思は、日本人には理解しづらいものであるのかもしれない。

 いや、今では日本でも、かなり危険にはなっているのか。

 全体で見れば犯罪率自体は、どんどん減っているというのが統計であったりする。

 それでも増えている、などという印象を持ったりするのは、それがかつてはなかったタイプの犯罪であったりするからだ。

 直史も弁護士として、金にならない国選弁護をしたことはある。




 昇馬にも会おうとしたが、また山の中に入っているらしい。

 夏場に山に入って、今は川の清流でも飲めないものが多かったりする。

 祖父や父の代までは問題なかったが、エキノコックスなどの寄生虫が、よほど水源に近い場所以外は飲まない方がいい、という理由になっているのだ。

 もっとも昇馬はナイフさえあれば、あとはどうにかしてしまうらしいが。


 この暑い八月に、平然と山の中で行動をする。

 肉体のスペックが高いのは分かっているが、それ以上に生物としてのサバイバビリティが高い。

 ただ昔と比べると大介とは全く違う方向で、人間離れはしている。

 おそらく精神性は、より一緒にいる母親たちに似たのだろう。

 もっともボーイスカウトなどの類に積極的に参加し、しばらくは盆と正月も日本に戻っていなかったのだが。


 直史はアメリカという国が、嫌いと言うよりは怖かった。

 地元が一番という意識が強いし、あとは東京もなんとなく生きるのが楽だなとは感じていた。

 ただあの国は、間違いなく世界の動静の中心の、多くが集まった国ではある。

 日本などはいまだに、文化的な影響はずっと受けている。もちろん相互的な関係でもあるが。

 もっとも、勝負となったら絶対に勝ちにいくあたり、直史も負けず嫌いが過ぎる。

 野球発祥の国などと言っても、少なくとも直史たちが訪米した時点では、その人気は三大スポーツの中では一番低下していた。

 大介がアジア系という枠でありながら、あれだけ活躍したのが、ニューヨークでは面倒なことになったりもしたらしいが。

 

 明史の容態は、幸いなことに安定している。

 本人も別に死にたいわけではないので、今は無理をしないことを第一に考えているのだ。

 直史との約束について、本人が何か言及することはない。

 ただここまでくれば、沢村賞の受賞はおそらく確定である。

 故障や事故にだけ気をつけて、四試合投げればいい。

 瑞希に確認しても、明史のメンタルにおかしなところは感じないという。

「結局、真琴も明史も、お父さんのことが大好きなんだから」

 瑞希はそんな風に言うが、あまりいい父親をしているという認識はない直史である。


 直史の中にある父親の形というのは、古い家父長的なものだ。

 実際は亭主関白なわけではないが、家族のことを守るために戦うという点では、やはり古い考えを持っているとは言えるのであろう。

 そして外で金を稼いでくる、という役割を主に担っている。

 ただ遠征がひたすら多いのが嫌で、プロからは引退したのだが。

 来年にはまた、一緒にすごせるようになればいいというのが、正直なところである。




 八月の終わりに、夏の終わりを感じる。

 実際のところ日本の夏は年々暑くなり、九月の気温も普通に30℃は超えてくる。

 昔は環境問題の温暖化が、などとも言われていたものであるが、実際には単純に人間の営みが原因であるわけではないし、そもそも現在の文明を捨てることなども不可能であろう。

 と、そんな複雑なことを、大介は考えない。

 ただ今年も、夏が終わったなと感じるだけである。


 今年は日本にいたので、近場の花火大会を見に行くことが出来た。

 ただ椿と二人だけ、というのが変な感じではあったが。

 今まではずっと、遠征で家を空けることはあっても、大家族で過ごしていたのであるから。

 もちろん今後、大介は数年でプロを引退するだろうし、その後は千葉に住む予定であるから、子供たちの環境をあちらに合わせておくというのは、悪いことではない。

 ただ、大介も少し寂しかった。

 母子家庭で育ち、高校入学後は愉快で騒々しい仲間たちと、世間をおお騒がせしていて、こういう寂しさは忘れていたというか、今初めて感じたと言えるかもしれない。


 さすがにこれを不幸だ、などとまでは言わないが、賑やかなことに慣れてしまうと、寂しいことは間違いない。

 野球を楽しむのとは全く別の次元の問題として、早くシーズンが終わらないかな、などとは思ったりもする。

 ホームを使った甲子園大会も、武史の息子である司朗が、ジンの率いるチームで全国制覇を果たしたりしていた。

 ただあれだけのピッチャーから、バッティング寄りのセンスの持ち主が生まれるというのは、遺伝子の不思議を思ったりする。

 ピッチャーとしても甲子園で二試合に投げていたので、そちらの才能もあるのだろうが。

 ただピッチングの傾向は、父親よりも伯父に似ているのでは、と感じたものだ。

 典型的な打たせて取るタイプであったので。


 時を巻き戻すことは出来ないので、大介は一年の夏に甲子園を経験するというのが、どういうことか分からない。

 そもそも白富東の後輩たちは、一年の時点で既に、即戦力が数人はいたものではあるが。

 あの頃よりもさらに、平均気温は上がっているという。

 それでも、もしもう一度生まれ変われるなら、やはり自分は甲子園を目指すのだろうな、と思ったりした。




 ライガースが残る八月に対戦するのは、フェニックスとカップスである。

 カップスがひどかっただけで今年もよくはないフェニックスと、せっかく調子を戻してきたところに、直史に公開処刑されたカップスは、共にひどい有様である。

 ただここでしっかり、勝ち星を拾っておかなければいけない。

 同じ時期にレックスは、スターズとタイタンズとの対戦となる。

 相手の強弱からして、ライガースは差を付けるチャンスだ。


 まずはフェニックスが相手となり、舞台はアウェイの広い名古屋ドーム。

 ここは完全にホームランが出にくいスタジアムとして知られているが、大介は9試合で5本のホームランを打っている。

 そもそも名古屋ドームほどではないが、甲子園も本来はホームランが出にくい球場であるのだ。

 そこで毎年ホームラン王になっていた大介に、球場ごとの不利などあまり関係はない。

 ライナー性の打球を叩き込むので、風や空調などの影響を受けにくいのだ。


 フェニックスは今年も、Aクラス入りはほぼ絶望的である。

 なのでこの時期には、せっかく観客動員も伸びるライガース戦なので、遠慮なく新戦力を試したりしにきている。

 そういった新人ピッチャーに対して、大介は殺気を殺して対決する。

 プロに入ってくるような人間は、大なり小なり自信を持っている。

 自信過剰なぐらいでないと、特にピッチャーは務まらない。

 内心は小心者であっても、結局マウンドから逃げないという時点で、それは立派な自信家であるのだ。

 そんなピッチャーの自尊心を、一度粉々に砕いてやるのが大介の役目である。


 第一打席から容赦なくソロホームラン。

 名古屋ドームのバックスクリーンビジョンを、またしても破壊してしまった。

 直史がその投球内容に名前をつけられるのなら、大介のこの破壊神っぷりにも、何かの名前をつけていいのかもしれない。

 MLBでは現地で「またも場外」などというあだ名をつけられたりはしたものだが。


 大介は直史が本気を出してくるのは、ポストシーズンであると見込んでいる。

 レギュラーシーズン、故障でもして登板数が減ったら、ひょっとしたら該当者なし、などという可能性があると思っているのは一緒なのだ。

 沢村賞はあくまでも、レギュラーシーズンの結果に対して与えられる。

 そして沢村賞が確定したら、直史は今度こそ本当に、枷を外して投げてくるだろう。

 カップスを虐殺した試合を見れば、まだ進化の余地を残していたのかと、さすがに呆れるところがある。

 それでこそ、と期待してしまう自分にも呆れてしまうが。

 そんな大介はセイバーの暗躍を知らないので、沢村賞の選考時期が変更されるのも知らず、確定前に直史が本気を出してくるか、少しだけ心配はしているのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る