第75話 究極の新たな形
これまでのカップスは幸運であったのだ。
ノーヒットノーランはともかく、マダックスに抑えられてはいたが、それでも幸運であったのだ。
この試合は単純に、その幸運が途切れたに過ぎない。
七回にも三球三振を含む、一桁の球数での三者凡退。
出塁率の高い上位打線が倒れたところで、嫌な予感をカップスは感じていた。
ノーヒットノーランは早々に途絶えていた。
なのでその点だけは安心していたのだが、その後の三振が多すぎて、そのくせ球数が少なすぎる。
球速も出ていないのに、どうして三振するのか。
変化球狙いにすればストレートがきて、ストレート狙いにすれば変化球がくる。
こちらの作戦を盗聴しているのか、などとありえないことまで考えてしまったりした。
直史は読唇術が使えるわけではないが、カップスのベンチの様子は窺っている。
今のカップスが勢いを増しているのは、上手くチームが全体として有機的に機能しているからだ。
だからどこを突いてやれば、すてんと転がるのか分かりやすい。
ただこの過程で思うのは、直史はやはりカードの最初に投げた方がいいなというものである。
直史に完全に封じられたチームは、確かにある程度のダメージが打線に残る。
それならばカードの最初に投げれば、残りの二試合か一試合を、有利に展開出来るのだ。
ただもう一度中五日を挟むのは辛い。
後で確認して、調整出来るものならしてもらおう。
そう考える直史は、今季最多となる18個目の三振で、27個目のアウトを、27人目のバッターから奪ったのであった。
調子が悪いという直史を、本当に信用していいのだろうか。
レックスの首脳陣は深く悩む。
確かに球速が出ていなかったし、ブルペンでの報告や豊田もそう言っていた。
その事実に対して、球数が78球の完封という真実が、同時に存在する。
間違いなく調子は悪かったのだろうが、それでもこういうことはやってしまえる。
もう直史はそういう存在なのだと、諦めて受け入れるしかないのか。
しかしそうすると、もう野球の常識の敗北のような気もする。
カップスは完全に調子を落とすだろう。
ライガースはどうにか大介が打ったが、カップスにはそんな救える部分もまるでない。
ベテランが多ければどうにか立ち直るが、若手が多いと立ち直る手段をあまり持たない。
どのみち今年は、ほぼ最下位は確定していたのだ。
あとは直史を経験してしまったバッターの代わりに、二軍の有力株などを試せばいいだろう。
カップスの今年は終わった。
もっとも日程を考えれば、あと一度か二度は直史と当たりそうなのだが。
直史のオーバーキルっぷりには、同じ野球選手であれば引くものがある。
ただインタビュアーは、普通に内容に質問していく。
それに対して直史は、さすがに調子が悪かった、などと空気を読まないことは言わない。
今日は実験的なピッチングが多かった、とやや濁していったのであった。
それは事実でもあるのだ。
メンタルが問題だと自分で認めてからは、直史は元の通りに投げられるようになった。
それでも今日のスタイルのまま通したら、いい感じで終わることが出来た。
出力を上げることは出来なくても、まだまだ組み合わせを考えたなら、ピッチングには向上の余地があるのだ。
この試合も見ているはずの明史は、いったいどう思っているだろうか。
直史は確かに、条件を満たすために投げている。
そして約束は必ず守らせる。
だが息子に対して、父親としてやってやりたいのは、それだけではない。
自分のピッチングで、明史が勇気を持ってくれたらいい。
ただ直史のピッチングは、対戦相手から見たら、絶望しか感じないものでもあるのだろうが。
テレビを見ていた明史は、直史のインタビューまでしっかりと見てから風呂に入った。
直史の投げる試合というのは、平均よりもかなり早く、試合が終わってしまう。
ただ今日は、レックス打線がかなり点を取ったため、そこそこの時間は経過していたが。
こんなことならレックスの攻撃している間に、さっさと入っておくべきだった、とは思ったりする。
なお瑞希と真琴は、パーフェクトが途切れた時点で、既に入浴を済ませた。
明史は自分の父親のことを、直接本人と接するよりも、むしろ周囲から聞いたり、自分で調べたりして知ったことが多いかもしれない。
調べれば調べるほど、本当にこんなことが出来るのかな、などと思ったものだ。
手術の条件については、確かに怖かったということは否定しない。
だが父の本気というのが、まだ見られるのだろうか、という期待もあった。
40歳のピッチャーが故障引退の後、五年のブランクを経て復帰する。
普通なら戦力になるだけで、充分に凄いことだ。
それなのに直史は、圧倒的なピッチングを見せてくれる。
もう沢村賞は確実であろう。
なにせこれで、20勝に到達したのであるから。
20勝して沢村賞が取れないなら、それは評価がおかしい。
明史は勇気がほしい。
その勇気を、直史との約束に求めていたのだ。
反省点が多い試合であった。
「悪かった」
試合後インタビューも終わり、ベンチから退散するという時点で、直史は迫水にそう声をかけていた。
何人かはそれを聞いたが、いったい何が悪かったのか、さっぱり分からなかった。
直史の調子が悪いと聞いていたのは、首脳陣とブルペンを除けば、迫水だけであったからだ。
迫水にしても、少し考えなければ分からなかった。
おそらく無駄に心配をかけた、ということなのだろうと理解したが。
直史の言動は、本人の中ではちゃんとしたロジックがあって、普段の雑談などの中では、異質なものを感じることはない。
だが野球IQとでも言うべきものが必要な場面では、理解できなかったり、考える必要があったりする。
とてつもなく高いレベルと言うよりは、異次元の段階でやっているため、根本となる部分から違っているのだ。
それでも説明を求めれば、分かりやすく説明はしてくれるのだが。
直史はいつものタクシーで、宿泊中のホテルに向かう。
明日からはスターズ相手の三連戦なので、他のメンバーも飲みになど出ない。
最近のプロ野球選手はお行儀がよくなったなどと言われるが、単純にプロ意識が強くなってきただけだ。
プレイの精度の一つ一つが上がっているため、昔のような不摂生をしていては、ほとんどが潰れてしまうというものだ。
それでもチーム自体がそれを禁止するわけではないが、直史のようなベテランが節制していれば、それがチームに影響する。
こういった点での貢献も、直史は大きい。
ホテルに戻ると、ゆっくりと風呂に入った。
次の登板は、アウェイでのタイタンズ戦。
アウェイと言っても同じ東京なので、遠征の必要などはない。
こういった有利な点がなければ、自分はどれぐらいの成績が残せるだろうか、などと思ったりはする。
しかしそれは、他の在京球団のピッチャーに、直史に匹敵する者がいないため、無意味な仮定となる。
入浴後はストレッチなどをしながら、連絡のメールなどを確認していた。
瑞希からは毎日、子供たちの様子を記したものが届く。
それはありがたいのだが、自分がその場にいないことが超さみしい。
早く家族の元に帰りたい。
ただそれは同時に、明史に勇気の必要な決心をさせることにつながる。
手術は早ければ早いほど、成功率も高く予後もよくなる。
出来ることなら早々に、パーフェクトを決めてしまいたかった。
だが壊れてでもパーフェクトを狙う、という無謀に近い選択肢を取ることは出来なかった。
直史はなんだかんだ言いながら、やはり安全策を取っている。
そしてそれは間違いなわけではない。
明史に突然の発作でも起これば、問題になってしまうが。
もうここまで来れば、沢村賞を狙っていくべきだ。
今日の勝利で、直史は20勝に到達した。
他のピッチャーを見回しても、追いつけそうな者はいない。
あとは気をつけるべきは、登板数の問題ぐらいであろう。
沢村賞の選考基準はいくつかあるが、まだ直史が満たしていないものがある。
その登板数がまずはそうであり、そしてもう一つはイニング数だ。
完全に全てを満たしていなければ、沢村賞に選出されないというわけではない。
だがケチをつけるとすればそこであるだろう。
選考基準の登板試合数は、25試合を目途としている。
現在の直史は、21試合に登板している。
またイニング数の目途は200イニング。
直史は171.1イニングしか投げていない。
それでも勝ち星、防御率、奪三振などはとうに基準を超えている。
なので怖いのは、該当者なしになることだ。
いくら登板数とイニングをクリアしても、直史ではないピッチャーに与えるのは無理があるだろう。
なので直史が取れないとしたら、該当者なしとなる可能性が一番高い。
それをやってしまえば、おそらく世間は大きく騒ぐが、一度発表されればそれが覆ることはない。
(あと四試合と29イニング)
日程的に直史は、あと五試合には投げることになっている。
充分に基準は突破出来るはずだ。
怪我も出来ない、長い一ヶ月になりそうではある。
直史は果たして、本当に球界のお偉方に嫌われているのか。
正面から選考委員に聞いたとしても、もちろん正直な答えは返ってこないであろう。
ただ実際のところ、直史は別に嫌われてはいない。
レベルが違いすぎると、もう憧れるしかないのである。
もちろんそこには、嫉妬の感情はあるだろう。
だが試合ごとに与えてくる、圧倒的な衝撃。
これを無視するには、少年時代の自分の、野球に対する感情が揺さぶられて、もうどうしようもない。
今年は佐藤直史の三度目の受賞で問題はないだろう、というのはほぼ全員の共通認識である。
ただ故障でもして、残りを全休とかになれば、選考基準から大きく外れるので、それは逆に困るな、と思われていたりする。
そんな選考委員に、ある筋から要望が入った。
今年の沢村賞の選考は、レギュラーシーズン終了直後にしてほしい、というものである。
時期の指定だけで、他には特に要望などない。
首を傾げたが、全員が同意して、それは問題にすらならなかった。
27人で試合を終わらせても、パーフェクトにならないケースがあるのが、今年の直史のピッチングで確認されていっている。
また準完全試合というものもあるが、これはヒットや四球、エラーの走者を1人だけ出した完封試合のことで、直史のランナーを二人出した試合などは準完全試合にも当たらない。
27人で試合を終わらせるピッチングのことを、何か別の名称をつけるべきではないか。
ネットの海の中から、そんな意見が生まれてきている。
下手をすればノーヒットノーランよりも難しい。
ただ直史は出したランナーを、ダブルプレイで消してしまう場合が多く、そのためこれを何度も達成している。
プロ一年目から、ポストシーズンも含めれば三度。
今年は七度目の達成であった。
日本では使われてないというか、そもそも直史以降発生していないので、MLBで「サトー」と言われる80球以内の完封は、直史が復帰するまで使われることがなかった。
今年の活躍を受けて、MLBではそう呼ばれているのだ、と周知されるようになった。
ただ、確かに80球以内で試合を終わらせるというのは、まずありえないものなのだ。
100球以内で完封すれば脅威、これとはまた別に、27人で試合を終わらせるのも異常なことである。
ただこれに名前をつけることは、日本ではないだろう。
日本人はあまり、そういうことを行わないし、行うとしても本人が死んだ後に名前を使うことが多い。
サトーなどというのもMLBで使われているから、日本でも限られた人間やネットが使っているだけである。
27人で終わらせる試合に、この先名前がついてしまうのか。
それはもちろん、やっている本人でさえも分からないことである。
直史をカードの頭に持ってくるということは、当然首脳陣も考えている。
だが直史はローテが崩されるのを嫌うタイプだ。
また繊細でも神経質でもないが、精密な人間であることは間違いない。
なので九月に入って自然と、変更するタイミングを考える。
そもそもNPBは、雨などの順延がなければ、九月の半ばには全日程が終了するスケジュールであることが多いのだ。
このあたり、雨でもなんとか試合を成立させるMLBとは、雨天中止の割合が全く違う。
日本には梅雨がある、というのも理由であるが。
九月からは三連戦ではなく、二連戦のカードがそれなりに多くなる。
ここで直史を、カードの最初に持ってくることが出来る。
一番大切なのは、シーズンの最後まで壊れないように投げてもらうことだが。
次のタイタンズ戦、第三戦を動かすのは難しい。
ただ中六日以上を守るなら、次は中七日でのカップス戦となる。
中五日で投げるなら、ライガース戦に登板できるのだが。
レックスは残り30試合、ライガースは25試合。
天気のせいもあるが、消化した試合数にやや差がある。
現在の勝率からして、最後のラストスパートでペナントレースの結果は変わるかもしれない。
そこまでに直史を消耗させておくわけにはいかない。
ライガースとの直接対決は、あと六試合。
ただ二連戦であって、三連戦のカードはない。
上手くローテを調整して、直史を三試合に投げさせることは出来ないか。
大介に打たれたとしても、直史は勝利投手であったのだ。
今年、直史が投げた試合で、負けたのは上杉との対決だけ。それも直史が失点したわけではない。
大介に打たれても、他を抑えて打線が援護をする。
現在の戦力では、これで勝つのが現実的に思えた。
ライガースはスターズとの三連戦、上杉相手には敗北したが、残りの二つで勝利している。
上杉にはほ大介以外ほぼ完全に抑えられたが、その影響を引きずらなかったというわけだ。
実際のところ、上杉はもう、直史ほどに派手なピッチングをしているわけではない。
支配力が弱まっているのは確かだ。
しかしこの二試合、大介はホームランが出なかった。
まだ九月を丸々残した時点で、大介は56本のホームランを打っている。
25試合で10本というのは、大介からしたら無理な数字ではない。
むしろ勝負してくれるかどうかが、大介が打てるかどうかの大前提となる。
ただNPB時代に打った自分による最多ホームラン、72本にはやはり届かないだろう。
打順が二番になったとはいえ、既に今の時点で、NPB最終年のフォアボール数を超えているのだ。
勝負しなければ打たれない、というのは確かな真実ではあるが、見ている方からするとしらけるだけだ。
そもそも大介と勝負した直史と上杉は、ホームランを打たれても試合には勝っている。
シーズン中にあと、何試合直史と対決するだろうか。
大介はそんなことを考えているが、実際のところあのホームランを打った試合でさえ、直史には勝てたとは思っていない。
二点差で大介に回ってきたあの状況は、直史にとっては消化する打席であったのだ。
直史は本気が出せる状況ではない。
絶対に壊れてはいけないという縛りが、直史のピッチングを限定させている。
それでもカップス相手の試合を見てみると、相変わらずひどいことをしているなあと、素直に思ってしまったのも確かである。
直史はもう、八月の登板はない。
対して大介とライガースは、五試合を残している。
レックスも同じだけ試合はあるが、直史が登板しない、つまり確実に勝てるわけではない試合だ。
やはり直史は、カードの最初の試合に投げてもらうべきであったのでは、と首脳陣は今さら考えたりもする。
ただその判断が本当に正しかったのか、分かるのはシーズンが終わってからになるだろう。
とにかくライガースとの直接対決を、一試合でも確実に勝ちたかったというのも確かなのだから。
甲子園は終わったが、まだ季節的にも気温的にも完全に夏。
直史は体調が回復するまでに、一度千葉に戻った。
改めて昇馬の起こしたというか、昇馬の対応した問題を確認するためである。
少し日常のルーティンを崩してでも、先にこれは行っておくべきであったのだ。
その結果、分かったのは昇馬の防衛本能の高さ。それと真琴の用心深い部分である。
問題の起因したのは、先に手を出したのは向こうであった。
だがダメージを受けたのも、一方的に向こうである。
もちろん軽傷で済んでいるので、大事にせずに済んだ、ということはある。
さすがはあの妹の子供であるだけに、一方的に暴力で制圧し、しかも相手にまで問題のある負傷をさせていない。
元々昇馬は白富東に行く予定であったので、これで完全に縁が切れても問題はない。
真琴自身はこのことについては、何かショックを受けているということはなかったようだ。
女性は自分に対する攻撃的なことに、トラウマを抱えやすい。
それは純粋に、肉体的に脆弱な存在だからであろうか。
アナハイムというか、アメリカに住んでいたころは、直史は自分もそうだが、家族が安全に暮らせるように、セキュリティのしっかりしたマンションを選んでもらったものだ。
もっともどこに住んでいても、外に出れば危険度は上がり、それこそ日本でも通り魔事件などは起こったりするのだが。
イリヤは殺されたし、恵美理も銃口を向けられた。
そこで育った昇馬の、危険を排除しようとする意思は、日本人には理解しづらいものであるのかもしれない。
いや、今では日本でも、かなり危険にはなっているのか。
全体で見れば犯罪率自体は、どんどん減っているというのが統計であったりする。
それでも増えている、などという印象を持ったりするのは、それがかつてはなかったタイプの犯罪であったりするからだ。
直史も弁護士として、金にならない国選弁護をしたことはある。
昇馬にも会おうとしたが、また山の中に入っているらしい。
夏場に山に入って、今は川の清流でも飲めないものが多かったりする。
祖父や父の代までは問題なかったが、エキノコックスなどの寄生虫が、よほど水源に近い場所以外は飲まない方がいい、という理由になっているのだ。
もっとも昇馬はナイフさえあれば、あとはどうにかしてしまうらしいが。
この暑い八月に、平然と山の中で行動をする。
肉体のスペックが高いのは分かっているが、それ以上に生物としてのサバイバビリティが高い。
ただ昔と比べると大介とは全く違う方向で、人間離れはしている。
おそらく精神性は、より一緒にいる母親たちに似たのだろう。
もっともボーイスカウトなどの類に積極的に参加し、しばらくは盆と正月も日本に戻っていなかったのだが。
直史はアメリカという国が、嫌いと言うよりは怖かった。
地元が一番という意識が強いし、あとは東京もなんとなく生きるのが楽だなとは感じていた。
ただあの国は、間違いなく世界の動静の中心の、多くが集まった国ではある。
日本などはいまだに、文化的な影響はずっと受けている。もちろん相互的な関係でもあるが。
もっとも、勝負となったら絶対に勝ちにいくあたり、直史も負けず嫌いが過ぎる。
野球発祥の国などと言っても、少なくとも直史たちが訪米した時点では、その人気は三大スポーツの中では一番低下していた。
大介がアジア系という枠でありながら、あれだけ活躍したのが、ニューヨークでは面倒なことになったりもしたらしいが。
明史の容態は、幸いなことに安定している。
本人も別に死にたいわけではないので、今は無理をしないことを第一に考えているのだ。
直史との約束について、本人が何か言及することはない。
ただここまでくれば、沢村賞の受賞はおそらく確定である。
故障や事故にだけ気をつけて、四試合投げればいい。
瑞希に確認しても、明史のメンタルにおかしなところは感じないという。
「結局、真琴も明史も、お父さんのことが大好きなんだから」
瑞希はそんな風に言うが、あまりいい父親をしているという認識はない直史である。
直史の中にある父親の形というのは、古い家父長的なものだ。
実際は亭主関白なわけではないが、家族のことを守るために戦うという点では、やはり古い考えを持っているとは言えるのであろう。
そして外で金を稼いでくる、という役割を主に担っている。
ただ遠征がひたすら多いのが嫌で、プロからは引退したのだが。
来年にはまた、一緒にすごせるようになればいいというのが、正直なところである。
八月の終わりに、夏の終わりを感じる。
実際のところ日本の夏は年々暑くなり、九月の気温も普通に30℃は超えてくる。
昔は環境問題の温暖化が、などとも言われていたものであるが、実際には単純に人間の営みが原因であるわけではないし、そもそも現在の文明を捨てることなども不可能であろう。
と、そんな複雑なことを、大介は考えない。
ただ今年も、夏が終わったなと感じるだけである。
今年は日本にいたので、近場の花火大会を見に行くことが出来た。
ただ椿と二人だけ、というのが変な感じではあったが。
今まではずっと、遠征で家を空けることはあっても、大家族で過ごしていたのであるから。
もちろん今後、大介は数年でプロを引退するだろうし、その後は千葉に住む予定であるから、子供たちの環境をあちらに合わせておくというのは、悪いことではない。
ただ、大介も少し寂しかった。
母子家庭で育ち、高校入学後は愉快で騒々しい仲間たちと、世間をおお騒がせしていて、こういう寂しさは忘れていたというか、今初めて感じたと言えるかもしれない。
さすがにこれを不幸だ、などとまでは言わないが、賑やかなことに慣れてしまうと、寂しいことは間違いない。
野球を楽しむのとは全く別の次元の問題として、早くシーズンが終わらないかな、などとは思ったりもする。
ホームを使った甲子園大会も、武史の息子である司朗が、ジンの率いるチームで全国制覇を果たしたりしていた。
ただあれだけのピッチャーから、バッティング寄りのセンスの持ち主が生まれるというのは、遺伝子の不思議を思ったりする。
ピッチャーとしても甲子園で二試合に投げていたので、そちらの才能もあるのだろうが。
ただピッチングの傾向は、父親よりも伯父に似ているのでは、と感じたものだ。
典型的な打たせて取るタイプであったので。
時を巻き戻すことは出来ないので、大介は一年の夏に甲子園を経験するというのが、どういうことか分からない。
そもそも白富東の後輩たちは、一年の時点で既に、即戦力が数人はいたものではあるが。
あの頃よりもさらに、平均気温は上がっているという。
それでも、もしもう一度生まれ変われるなら、やはり自分は甲子園を目指すのだろうな、と思ったりした。
ライガースが残る八月に対戦するのは、フェニックスとカップスである。
カップスがひどかっただけで今年もよくはないフェニックスと、せっかく調子を戻してきたところに、直史に公開処刑されたカップスは、共にひどい有様である。
ただここでしっかり、勝ち星を拾っておかなければいけない。
同じ時期にレックスは、スターズとタイタンズとの対戦となる。
相手の強弱からして、ライガースは差を付けるチャンスだ。
まずはフェニックスが相手となり、舞台はアウェイの広い名古屋ドーム。
ここは完全にホームランが出にくいスタジアムとして知られているが、大介は9試合で5本のホームランを打っている。
そもそも名古屋ドームほどではないが、甲子園も本来はホームランが出にくい球場であるのだ。
そこで毎年ホームラン王になっていた大介に、球場ごとの不利などあまり関係はない。
ライナー性の打球を叩き込むので、風や空調などの影響を受けにくいのだ。
フェニックスは今年も、Aクラス入りはほぼ絶望的である。
なのでこの時期には、せっかく観客動員も伸びるライガース戦なので、遠慮なく新戦力を試したりしにきている。
そういった新人ピッチャーに対して、大介は殺気を殺して対決する。
プロに入ってくるような人間は、大なり小なり自信を持っている。
自信過剰なぐらいでないと、特にピッチャーは務まらない。
内心は小心者であっても、結局マウンドから逃げないという時点で、それは立派な自信家であるのだ。
そんなピッチャーの自尊心を、一度粉々に砕いてやるのが大介の役目である。
第一打席から容赦なくソロホームラン。
名古屋ドームのバックスクリーンビジョンを、またしても破壊してしまった。
直史がその投球内容に名前をつけられるのなら、大介のこの破壊神っぷりにも、何かの名前をつけていいのかもしれない。
MLBでは現地で「またも場外」などというあだ名をつけられたりはしたものだが。
大介は直史が本気を出してくるのは、ポストシーズンであると見込んでいる。
レギュラーシーズン、故障でもして登板数が減ったら、ひょっとしたら該当者なし、などという可能性があると思っているのは一緒なのだ。
沢村賞はあくまでも、レギュラーシーズンの結果に対して与えられる。
そして沢村賞が確定したら、直史は今度こそ本当に、枷を外して投げてくるだろう。
カップスを虐殺した試合を見れば、まだ進化の余地を残していたのかと、さすがに呆れるところがある。
それでこそ、と期待してしまう自分にも呆れてしまうが。
そんな大介はセイバーの暗躍を知らないので、沢村賞の選考時期が変更されるのも知らず、確定前に直史が本気を出してくるか、少しだけ心配はしているのであった。
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