第74話 メンタルスポーツ

 直史がことの経緯を聞いたのは、大介とほぼ同じ時期である。

 昇馬と真琴がスカウトを受けていた高校の見学に行って、性質の悪い不良部員に絡まれたというのが発端である。

 どうしてそうなった、というのが直史の感想である。

 既に事件は完全に解決しているのだが、直史が気にしたのは本当に真琴に何もなかったのか、ということである。

 あまりに必死な問いに、電話で伝えてきた瑞希は、父親らしい感情だなあと久しぶりに直史の人間らしさを感じたものだ。

 ……最愛の嫁にさえこう思われているあたり、直史はちょっと悲しい人間である。


 西方では大介も、この話を聞いたらしい。

 そして五試合連続で打っていたホームランが、途切れてしまった。

 ただしライガース自体は勝っている。

 スターズが相手であるので、上杉以外には勝っておきたいところなのだろう。

 あのバックスクリーンビジョン破壊弾には、直史も呆れたものである。

 しかしちょっとしたことで、大介はそれなりに調子を狂わせる。

 人間らしいと言えばそれまでなのだが。


 直史の次の登板は、神宮でのカップス戦三連戦の最終戦だ。

 相手のピッチャーもたいしたことはないので、ここは手堅く勝っておく試合でしかない。

 そんなことを考えていると、敗北フラグになったりもする。

 ただ直史は、フラグなどは考えないが、不意の事故などには気をつけている。

 日々のルーティンをしっかりとこなし、コンディションを保つ。

 ただ直史は、自分が前回何をしたのか、しっかりと認識していない。


 大介に打たれた後、特に最後の二回は、完全に三振だけで試合を終わらせた。

 そこでわずかではあるが、普段よりも力を使っている。

 深刻なダメージなどは受けていないが、そんなピッチングをしていて何も影響がないものか。

 中六日で投げるわけだが、前日になってようやく、わずかな違和感に気づいた。




 球が走らない、と言うべきか。

 わずかではあるが、肩から肘を通じて、指先へ伝わる力が落ちている。

 回復しきっていないと言うよりは、そもそもダメージを受けている。

 致命的であるかどうかは、チームドクターの判断を待たなければいけないが。

 それよりも信頼できる筋に、確認してもらう。

「特に気になる異常は見られません」

 セイバーに手配してもらった医師に、しっかりと確認してもらった。

「ただ違和感が残るなら、疲労していることは間違いないでしょう」

 明日になれば回復しているかもしれない。

 だが明日になってもまだ回復していないのなら、この医師でも発見できない、微妙な故障があるということだろうか。


 セイバーはさすがに同行してくれなかったが、トレーナーは一緒に診断結果を聞いて、マッサージに入った。

 本人が異常を感じているのだから、何かはあると思った方がいい。

 だがその何かが分からないのであれば、治療の方針も立てられないし、どう休めばいいのかも分からない。

 酸素カプセルに入って、あと一日を待つ。

 それでも回復しなければ、いったいどうするのか。


 直史は誰にも黙って一人で背負う、という昭和のエースではない。 

 自分がここで無理をすることは、レックスのペナントレース脱落を意味する。

 なので首脳陣にも話すこととなった。


 第一戦、レックスは三島が好投しながらも、リードできずにリリーフ陣が打たれて負けている。

 この夜の第二戦は、二軍落ち前の最後のチャンスとして、上谷が投げることとなっている。

「具体的な故障は分からず、違和感があるだけか……」

 だが実際に球が走っていないのは、ブルペンのキャッチャーも確認していた。

 ここで一度、ローテを飛ばすべきであるのか。

 難しい問題は、結局翌日の調子を見てから決めよう、と先送りにされた。




 カップス相手の三連戦のカード。

 今年は大介のせいで、故障者続出で、最下位がほぼ確定していたカップス。

 しかしその怪我人が復帰し、またその間に活躍していた若い力も、引き続いてポジション争いをしている。

 つまり最下位ではあるが、今は勢いがあるのだ。


 その勢いに、まず第一戦は飲まれてしまった。

 そして第二戦も、上谷は平均的なピッチングしか出来ない。

 上谷に望まれているのは、ローテをなんとか回すことなので、それでも本来なら満足するべきなのだ。

 だが今のレックスは、優勝を争う立場にある。

 ならばそれ以上の力が出てくるのを、下からの突き上げに期待するしかない。

 しかし直史が離脱するとなると、上谷を二軍に落とすわけにはいかないが。


 翌日、直史は目覚めて散歩をし、体を動かしてから午前中のブルペンに入る。

 そして投げてみれば、昨日よりはボールが指にかかる。

 球速自体は、145km/hほどで安定している。

 また肩や肘への異常ではないと思う。

 全体的な肉体の疲労が、やや回復してきたというものだろう。


 昨日よりは状態がいいのであるから、投げてみるというのは悪くない。

 そもそも直史は、調子が普通の時に完封をしているピッチャーだ。

 不調ならばどうなのか、という疑問は首脳陣にあった。




 投げられるだろう、とは思う。

 だがその結果がどうなるのか、直史には分からない、というのが率直なところである。

 故障の前兆、という感じはしない。

 だが完全な調子と言えないのは、はっきりと分かるのだ。

(コントロールも悪いわけじゃないが)

 古い記憶を辿れば、あの大学時代の乱調試合を思い出す。 

 だが今は、コントロールが悪くなっているわけではない。


 スピードが出ていないのは間違いないが、他を計測したところ、どうやらスピン量が減っているらしい。

 なので伸びが少ない、とキャッチャーにも認識されているのだろう。

 神宮で事前に確認出来たことは大きい。

 そして状態が分かれば、直史はそれに応じたピッチングをするだけだ。


 本当に大丈夫なのか、と思うのは首脳陣である。

 直史がいなければ、クライマックスシリーズ進出まではともかく、そこから勝ち抜いていって日本一を手にするのは不可能だ。

 野球というチームスポーツにおいて、直史はあまりにも絶対的すぎる。

 豊田としては、リリーフが今日は必要だ、と言われて逆に安心した。


 この二試合、レックスは連敗してしまったため、クローザーのオースティンも含めて、勝ちパターンのリリーフは休めている。

 直史が自分の弱さをはっきり認めるのは、珍しいことだ。

 つまりそれだけ、本当に調子が悪いのだろう。

 いい時も普通の時も、出す結果は同じという直史。

 しかし悪いと本人が言うのであれば、どういうピッチングになるのか。

 豊田はおかしな方向の期待をしていたりした。




 レックスとライガース、それぞれが勝ったり負けたりするごとに、順位が入れ替わる。

 ここまで圧倒的な二つのチームが、首位争いをしているのはいつ以来か。

 直史が以前にいた頃は、レックスは常に優位を維持していた。

 スターズとライガースが対決していた、つまり大介と上杉が対決していた頃は、それなりに競った勝負になっていたか。

 そう思うとあの時代のレックスの、隙のない強さは不思議なものだ。

 MVPをもらうのは自分ではなく樋口であるべきだったな、と直史は思う。


 カップスとの第三戦、レックスを相手に連勝して、カップスは勢いに乗っている。

 対戦相手が佐藤直史であっても、なんとかなるのではないか、などと考えている選手もいたりする。

 下から上がってきて、実際に対戦してみなければ、あの絶望感は分からない。

 ただ今年のカップスは、直史にノーヒットノーランをされていないし、四本もヒットを打った試合がある。

 球数が増えて途中でリリーフに交代させた試合もあるのだ。


 直史としてもカップス相手には、不思議な相性の悪さがあると思っている。

 マダックスをしっかりしている相手に、相性が悪いというのも不思議なものだが。

 たださすがに今年は無理だが、オフに上手く戦力補強などが出来れば、来年のカップスは強くなるかもしれない。

 その程度のことは、直史も考えている。


 そういったことは、だが来年の話である。

 今日の直史は、やや球数を多く使ってでも、しっかりと相手を抑えて、リリーフ陣につなげることが役目だ。 

 七回一失点ぐらいで済めば、レックスの打線次第ではあるが、充分な仕事をしたと言えるであろう。

 その程度に抑えるため、直史はこの試合で解禁することがある。

 それはボール球をもっと意識的に使うということだ。

 ほとんどがゾーン内での勝負で、ボール球はまず空振りを取ることが目的。

 そんな直史がボール球を使うということは、意外性が高いであろう。




 ブルペンでの投球練習は、普段よりも少なめにしておいた直史である。

 ミーティングでは迫水と一緒に、今日は変化球を主体で使うぞ、と話し合っておいた。

 直史の調子が悪いと、迫水も聞いてはいる。

 ただ普段は100点を取っている人間が、98点しか取れないことを不調と言うなら、それはただの嫌味ではないのか、などとも思ったりする。


 一回の表、カップスの攻撃。

 直史から出たサインは、いきなりストレートであった。

(変化球主体では?)

 そうは思ったが、直史が投げるというなら、それはそれでいいのだろう。

 ミットを真ん中に構えて、ストレートを待つ。

 そして第一球、直史が投げたのは、まさにど真ん中のストレートであった。

 しかしこれを、カップスの先頭打者は空振りした。

 またいつもの、不思議ストレートである。


 二球目もまた、ストレートのサインが出る。

 そしてアウトローに構えた迫水のミットを無視して、またもやストレートはど真ん中へ。

 今度こそ打たれるかと思ったが、これもまた空振りとなる。

 ただボールは、ほんのわずかに高くに投げ込まれていた。

 何が起こっているのか、迫水には分からない。


 直史としては、今日は変化球主体でいくというのは、嘘ではない。

 だが変化球を効果的に使うためには、まずはストレートを見せておくべきなのだ。

 145km/hしか出ていないストレートの後に、144km/hしか出ていないストレート。

 それなのに空振りなのである。

 続くスローカーブを泳いで空振りし、まず先頭打者は三振。

 変化球で三振を奪ったのである。




 今年の直史のストレートは恐ろしい。

 スイングさえ出来ない、というかつての上杉や武史とは違い、振っても当たらないボールなのだ。

 その理屈自体は、ちゃんと分析されている。

 様々な要素から、ホップ成分が多くなっているのだ。

 ただその要素が、それぞれ違う。

 ある日は回転数が高く、ある日は回転軸がはっきりバックスピンしている。

 またある日はリリースポイントが低いと思えば、同じ試合の中で違うストレートを使っている。


 ストレートなどという球種は、ほぼ全てのピッチャーにとっては基礎のボールである。

 それこそリトルでは変化球禁止などと言われているぐらい、ストレートの投げ方をまず教え込まれる。

 直史にしても、自分のストレートの最適なフォームなどは分かっている。

 だが体の柔軟性と体幹の強さを使って、無理にフォームを微調整しているのだ。


 それぞれ微妙に軌道の違うストレートを、普通のバッターは見抜けない。

 ストレートを打つためだけでも、どのストレートなのかを狙わないといけない。

 高校時代に使っていたフラットストレートは、いまやここまで発展していた。

 複数の種類のカーブを使っていた直史。

 複数の種類のストレートを使い始めて、カーブとストレートだけでコンビネーションが作れることになった。

 普通はそんな微妙な変化は、つけられるものではない。

 またつけようとしたら、どこかに無理がかかって故障する。

 それなのに直史は、肩も肘も引退する怪我まで故障することがなかった。


 二番打者は内野フライに打ち取り、三番打者はまた三振。

 このイニング、使った球数は8球。

 ボール球を使って、球数も多くなるというのはなんだったのか。

 だがベンチに戻るまでに、迫水は気づいていた。

 今日の直史のボールは、構えたミットから少し外れたところに決まっているのだと。




 調子が悪いと言ったのは誰かしら?

 混乱するベンチの首脳陣であったが、実際にベンチに戻ってきた直史は、調子が悪いなと思っている。

 ボールが走らないし、コントロールもコマンドがいまいち。 

 だから小手先の技術を使わざるをえない。

 首脳陣は七回までと言ったが、リードした状態で後ろのつなげなければ、負けがついてしまう。

 誰も文句の言えない成績で、沢村賞を取らなければいけない。

 これは直史の、今年の至上命題である。


 レックスの打線は先取点を取れなかった。

 二回の表、直史は重い体をベンチから引き抜く。

 マウンドへ向う足取りも重いものだ。

「あれは、大丈夫なのか?」

「一回の表は三人で終わらせていますし」

 ベンチの中でも、珍しく考えることが多い。

 それよりはまず、点を取ってもらわないと困るのだが。


 四番打者から始まる二回の表、直史はまずアウトハイのボール球を振らせることに成功。

 そして次はインハイのゾーンを、振らせることなくツーストライクへ。

 最後はチェンジアップで、空振り三振にしとめた。

(調子、確かに悪いはずだよな?)

 それぞれのボールのクオリティは、確かに悪いと思える。

 だがコンビネーションは、複雑怪奇になっている。


 なぜ普段はこんな、圧倒的なピッチングをしないのか。

(いや、普段からしてるか)

 必要ないから、ここまでは使っていない。

 迫水はだが、大介に対してはこういった組み立てはしていないな、と思い出す。

 こういった駆け引きの強いものが、大介には通用しないのだろうか。

 確かに直史は、高校時代にチームメイトだったため、そのあたりのことは知っているのかもしれないが。




 二回の表も、二桁に球数が届かなかった。

 そしてボール球を振らして、もう一つ空振り三振を取っている。

 キャッチャーをしている迫水は、背筋が寒くなってきた。

 今日の直史は、ファールを打たせてカウントを稼ぐ、ということをほとんどしていない。

 見逃しや空振りで、ストライクを取ってくることが多いのだ。

(今まで俺が見ていたのは、いったいなんだったんだ?)

 完璧に最も近いピッチャーだと、それは分かっているつもりであった。

 新しい引き出しを見せられて、驚くことはあった。

 だが今日のスタイルは、またステージが違う。


 ベンチの中では直史は、下を向いてタオルで表情を隠している。

 今日はさすがに、自分も考えなくてはいけないだろう、と迫水は思っていた。

 もちろん普段も、しっかりと考えてはいるのだが。

 今日の直史の配球は、これまでとは違いすぎている。

 正直なところ、ついていくことが出来ない。


 三回の表、ここでまた直史のスタイルが変わった。

 先頭打者は三振で、二人目は初球を内野ゴロにしとめる。

 そしてラストバッターのピッチャーは三振。

 七球でチェンジである。


 いや、本当にどこが調子が悪いのか、と言いたくなる。

 だが球速が出ていないのは確かで、コマンドの能力もやや精密さに欠ける。

(パーフェクト出来るスタイルが、もう一つあるってのか?)

 迫水はまだ、直史の限界を知らなかったようである。

 本当にこの人に限界はあるのだろうか、あるいは本当に人間なのか。

 味方からさえ人間扱いされない悲しい直史であった。




 三回の裏は、先頭打者の直史がスイングすらすることなくワンナウト。

 だがここからレックスの打線がつながった。

 左右田がボールを見て出塁し、緒方もまた同じくフォアボールの出塁。

 ここで一球目からストライクを入れてくるというのは、あまりにも当然の選択である。

 それをクリーンヒットで、まずは一点。

 そして四番の近本が、一発スタンドに放り込む。

 4-0と一気に点が入って、神宮のレックスファンは大喜びである。


 直史もまた喜び、そして安心していた。

 これでもっと手を抜いても、少なくとも試合には勝てるだろうと。

 凡退してベンチに戻ってきた迫水に、直史は軽い感じで言った。

「ここからは打たしていくぞ」

 その直史の言葉を、もう迫水が信じることはない。


 四回の表は、カップスも二巡目である。

 その先頭打者が、初球のカーブを狙い打ちした。

 迫水が呆気に取られる中、打球はライト前へ。

 本当に打たれてしまった。 

 マウンド上の直史は、特に残念そうにも見えず、戻ってきたボールを受け取っていた。


 打たしていくと言って、打たれてしまった。

 これは本当に打たせるつもりなのか、と思ってゴロを打たせるようなボールを要求してみる。

 すると直史は、それに対して頷いた。

 確かにここは、ダブルプレイを狙う場面ではあるのだが。

 そして投げられた球は、思ったよりも真ん中寄り。

 ひやりとした迫水の目の前で、バットはそのボールを捉える。


 打球はセンター方向へ、と思われた。

 だが軌道の低いそのボールは、直史が出したグラブの中に吸い込まれる。

 そのまま回転しながら投げて、二塁でまずフォースアウト。

 そこから一塁に投げられて、ダブルプレイとなった。




 迫水は間違いなく戦慄している。

 ヒットを打たれて、割と早くにノーヒットノーランも消えてしまった。

 だがこのイニング、結局投げたのは5球だけ。

(四回が終わって、まだ29球かよ)

 単純にこの調子でいくなら、70球以内で試合が終わってしまう。

 確かに二球でダブルプレイが取れた、さっきのようなプレイがそうそう、また出来るとは思えないが。


 プロ野球の完封、もしくは完投記録で、最少投球数というのはどんなもんだったろうか、と迫水は考えたりする。

 もちろん試合中にそんなこと、考えるようなものではない。

 だが直史が今年、76球で試合を終わらせたのは記憶に新しい。

 少なくとも80球未満で試合を終わらせたことは、何度もあったはずだ。


 MLBでサトーと呼ばれるピッチング内容は、現在の規定によると、80球以内での完封となっている。

 もちろん完投すら珍しいMLBで、しかも80球以内というのは不可能に近い。

(確かナオさん以降はナオさんしかやってないはずだよな)

 全打者を三球三振でしとめても、81球かかるのが野球である。

 理想は27個のアウトを、27球で取ってしまうこと。

 そんなことを技巧派の人間は言うが、さすがにこれは不可能である。

 なにしろ一球見逃しがあっただけで、これは成立しなくなる。


 ただ、迫水は少しだけ想像してしまった。

 さっき直史は、ヒットを打たれた。

 だが結局次のバッターを初球でダブルプレイにしてしまった。

 つまり二人で二球しか投げていないことになる。

 もしもランナーを出しても、牽制やダブルプレイでアウトにすれば、球数はさほど増えていかない。

 それは確かにそうなのだが、直史は本当にそんなことを意識的にしているのか。

(いや、やっててもおかしくないか)

 今季、直史はノーヒットノーランを四回達成している。

 しかし打者を27人で完封している試合は、六回もあるのだ。




 究極のピッチング、というものがなんなのか、その定義は難しいだろう。

 パーフェクトピッチングは字面のごとく完璧なピッチングであるが、ノーヒットノーランと同じく運の要素はそれなりにある。

 27人を全員で三振で終わらせれば、それも究極のピッチングに近い。

 だが直史は25個の三振を奪ったことがあるが、球数は100球を軽くオーバーしてしまった。

 試合単体で見ればともかく、シーズンの中のローテで考えれば、失敗以外の何者でもない。


 27球で終わらせるというのが、さすがに現実的ではない。

 直史であっても50球以内で試合を終わらせるなど、完全に不可能であるのだ。

 ならば、27人で終わらせるというのはどうなのか。

 これは新たな基準になるのかもしれない。

 当然ながら完封はしていて、ランナーを出しても四巡目の打席が回らない。

 確かに一つの究極の形であろう。


 ノーヒットノーランと比べ、どちらが難しいだろうか。

 パーフェクトはそもそも27人で終わらせるため、パーフェクトの方が難しいと分かる。

 ただ出したランナーを消してしまうなら、それはパーフェクトにより近くなっていくだろう。

 迫水が思うには、27人で終わらせる方が難しい。

 ただ常識は、佐藤直史の前に無力である。

(常識……常識ってなんだったっけ……)

 結論の出ないことに苦悩する迫水。

 そんな彼をよそに、五回の表が回ってくる。




 直史は首を傾げる。

 調子が悪いのに、ピッチングの結果は悪くない。

 球数は抑えられて、ヒットを打たれてもダブルプレイで消すことが出来ている。

 ボール球を振らせる、というのは当初の予定通りではあるのだが。

(まあ過去には、調子が悪いから試合を作ったイニングまでで終わる予定が、そのままノーヒットノーランしちゃったピッチャーもいるしな)

 過去に自分も、同じことを言っているのはすっかり忘れている直史である。


 五回の表は、スライダーとチェンジアップで三振を奪った。

 そしてムービング系で内野ゴロを打たせてスリーアウト。

 ストレートは序盤に使ったが、徐々に割合を減らしている。

 忘れた頃に投げると、思い通りに空振りしてくれるのがありがたい。


 さらに一点が追加され、直史は余裕を持ってくる。

 なおバッターとしては鉄板の、見逃し三振であったりする。

 もう直史が投げる試合では、デッドボールを直史に当てるぐらいしか、勝つ方法がないとまで言われている。

 そんな直史は、ゾーンにバットが届かないところに立っているので、さすがにこれにぶつけるわけにもいかないだろう。

 対戦相手のチームのファンは腹が立つだろうが、MLBなどは既にピッチャーは専門職になっているのだ。


 調子が悪いのに展開はいい。

 こういう時は何か、おかしなフラグが立っている場合がある。

 たとえばダブルプレイにした打球なども、下手をすれば直史に当たっていた。

 ゴールデングラブもゴールドグラブも受賞している直史とすれば、おおよその打球処理には問題がない。

 大介の打球などが迫ってきたら、さすがにそれは怖いが。

 調子が悪いゆえに、逆に油断しない。

 結局のところその心理状態が、直史に今日のようなピッチングをさせてしまうのかもしれない。




 あれのどこが調子の悪い者のピッチングなのか。

 首脳陣はそう思うが、実際に今日は球速が出ていない。

 ベンチからでは分かりにくいところもあるが、迫水もコントロールに問題があるとは言っていた。

 それでもコンビネーションで三振が取れるし、ストレートも効果的に使えている。

 頭の中にはいったい、どれだけの組み立てが入っているのか。


 大卒からプロには行かず、社会人経験をした後にNPBでわずか二年、そしてMLBで五年間。

 七年間の間に成し遂げたことは、チームとしては六度の優勝。

 個人では全て沢村賞かサイ・ヤング賞を取っていてシーズンMVPにも選ばれている。

 長年の貢献がなければ入ることが出来ないという野球殿堂も、特例としてあっさり入ってしまった。

 そして入ってしまってから40歳で復帰するという、訳の分からないキャリアを送っている。


 ほとんどのコーチは、直史の現役時代と選手生活は重なっていない。

 それこそ豊田ぐらいであり、豊田と直史は高校時代にはライバルチームのピッチャーであり、プロとしては連覇の原動力となっていた。

 同時期にプレイしなかったのは、心を折られることなく幸福であったのかもしれない。

 ただ同じ時期に、怪物的なピッチャーやバッターが多く出現したというのも確かなのだ。


 絶大な力の持ち主は、確かに心を折るのかもしれない。

 だが折れなかった者は、さらに高いステージへと進む。

 そもそもプロの世界は、生き残りをかけた弱肉強食ではなく、競争原理の世界であるのだ。

 負けない限りは勝てる可能性がある。

 いや、折れなければ生きていくことが出来るのだ。このプロの世界で。




 六回の表は、先頭打者が内野安打で出塁した。

 そして次のバッターが、進塁打を右に打ったつもりが、名手緒方の機敏な動きと判断によってセカンドでもアウトとなりダブルプレイ。

 ヒットの数は増えたのに、27人で終了のペースは変わっていない。

 そしてピッチャーに代打が出たが、ここで直史は三振を奪う。

 問題のないところでは、容赦なく三振にしとめていくのだ。


 パーフェクトではなく、ノーヒットノーランでもない。

 奪三振の数は多いが、驚嘆するような球速でもない。

 それなのにもう、ピッチングから目が離せない。

 本人は氷のように冷静であるが、スタンドは熱狂している。

(この調子が悪いって感じているのは、肉体よりはむしろメンタルの問題だったのかもな)

 ここまできてようやく、直史はそんなことを考えたりした。


 瑞希から聞かされた、自分がいない場所での真琴に降りかかった悪意。

 とても嫌な気分になったのは確かで、それがずっと残っていた。

 肉体には何も問題がないというのは、それなら当然の話だ。

 これでは大介にどうこうとは言えない。

(汚物扱いされているわけじゃないけど、この関係性はどうにかしないと)

 周囲はどう思っているか知らないが、直史にとって娘に嫌われるというのはとてつもなく辛いし、事件に巻き込まれればとてつもなく苦しい。


 ただ、それを認識してから、肩が軽くなった気がする。

 七回の表、迫水に投げ込んだ投球練習のストレートは、確実に伸びが戻ってきていた。

(なんでだ!!!)

 キャッチしている迫水としては、いきなり調子を取り戻されても、はっきり言って困るのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る