第73話 バッターボックスの中の神
試合の展開は、ずっとスターズに流れがある。
大介の一打で、風穴を開けられなかったのが大きい。
もっとも大介は、自分がホームランを打ったとしても、それで動揺する上杉ではないことは分かっている。
上杉や直史に封じられても、それはそうだろうなと思うだけだ。
逆のことが上杉や直史にも言えるだろう。
結局エースとしての本当の資質は、そのメンタルにあるのかもしれない。
そういう意味では武史など、完全に先発完投型のピッチャーであるが、エースと言うにはメンタルの軟弱さを感じる。
MLBでも、最も新しい300勝投手、を期待されているのだが、今のままだとちょっと厳しいだろう。
NPBの記録を入れていいなら、400勝を狙えるのだが。
上杉は大介以外にも、それなりに当てられる。
明らかに他のバッターには手を抜いているのだが、それでも点を取られないのだから文句は言えないだろう。
完投を意識して投げていると、どうしてもどこかでペース配分を考えないといけない。
そしてそこでは、打たせて取るピッチングも必要となる。
運が悪ければ、それが内野の間を抜いていく。
そこでなぜか抜けないのが、全盛期の直史であり、上杉にはない属性なのであろうが。
3-0とスターズはリードを広げる。
上杉の今日の出来は、完璧ではないにしろそれに近い。
本気を出しているわけではないはずなのに、大介以外のバッターもまるで打てない。
いや、全力ではないだけで、本気ではあるのか。
パワーが限られているのだから、テクニックや駆け引きで勝利する。
それが今の上杉のピッチングスタイルで、実は奪三振率は直史よりも低くなっていたりする。
ここ最近の直史の、奪三振率は恐ろしい勢いで上がっているので、あまり比較にはならないかもしれないが。
そして六回の裏、大介の第三打席が回ってくる。
ワンナウトランナーなしと、ここもまた難しい場面だ。
塁に出て、後続に託すのか。
それともあくまで、ホームラン狙いに徹するのか。
大介はその判断を、完全に任されている。
第四打席も回ってくるのは間違いない。
ただ現在の三点差というのは、大介がソロホームランを二本打っても、埋まらない差である。
一番打者大介というのは、こうなると間違っていたのでは、という結果論が出てくる。
しかし総合的に見れば、いきなり上杉からヒットを打っているのだ。
おかげで他のバッターも、萎縮することなくスイングすることが出来た。
やはり送りバントが失敗だった、と解説者は後から言っているのだろうが。
結果が全て、などと言っていれば簡単なことだろう。
しかし分析は、その結果というものをもっと性格に知らなければいけない。
デグロムが11勝や10勝しかしていないのに、どうしてサイ・ヤング賞を得ることが出来たのか。
それこそが本当の、結果が全ての分析だ。
日本の首脳陣の場合、エースはもう勝ち星でしか見ない、などという狂ったことを言った人間もいたそうだが。
指揮官のゴミ采配で勝ち星を消されたピッチャーにとっては、ショックであり人間不信になってもおかしくない。
大介はここまで、ヒット性の打球を二つ打っている。
それでも無得点ならば、文句を言われるのだろうか。
他のピッチャーからならともかく、上杉から狙ってホームランを打つのは難しい。
直史が相手でも、決め球が来る前に、どうにか勝負をつけにいったのだ。
上杉が相手でも、追い込まれる前に勝負をつけるべきか。
あと二打席も、大介と勝負するのか。
憂鬱になるような上杉ではないが、疲れるのは確かだ。
点差が大きく開けば、四打席目はリリーフに任してもいい。
出来ればここまで五試合連続でホームランを打っている、大介の勢いは止めておきたいところだが。
(大きくなったな)
自らの衰えも認めたうえで、それでも上杉は大介と勝負する。
力ではなく駆け引きに持ち込むとしても、逃げることだけはしてはいけないのだ。
初球のカーブを、いきなり大介は打ってきた。
引っ張るのではなく、バランスを崩しながらも、逆方向へと打った打球。
完全にミートはしていたが、かかっていたスピンが悪かったのか、ボールはレフトのポールの向こうへと。
内心で息を吐く上杉は、やはり大介を脅威には感じている。
バッターとピッチャーの対決は、常にピッチャー有利である。
だが大介はポストシーズンともなると、OPSは2を超えているし打率も五割を多くは超えている。
本当に集中した勝負では、それだけのパフォーマンスが残せるのだ。
ここまでの上杉との対戦成績でも、他のピッチャーに対するよりずっと、優れた数字を残している。
他のピッチャーの場合は、歩かせるという選択肢があるからだが。
勝負してくれるというピッチャー相手には、大介は集中力を高めていく。
なので上杉は前提として一回り強い大介と勝負しているのだ。
それで五割を打たれているが、かつてはもっといい勝負が出来ていた。
(ワシはもう、限界だが)
大介ももう、ほぼ変わらない40歳だ。
バッターの限界は、動体視力の落ちる40代前半。
どちらがより長く、プロの舞台にとどまっていられるか。
それが最後の勝負になるのかもしれない。
しかし直接対決は、いつ最後になってもおかしくはない。
あるいはこの打席がそうかもしれない。
一期一会。
実はそれは、既に直史がずっと前に、たどり着いた境地であったりする。
どちらがより、優れた選手であったのか。
これもまたピッチャーとバッターであるので、比較はしにくい。
外に出て、日本の野球の価値を示した大介と、中に戻り、日本の野球の価値を保ち続けた上杉。
バグのような数字を残し続けた直史は、印象は鮮烈だが影響力という点では落ちるだろう。
それこそここから、50歳まで現役を続けて400勝でもすれば別だが。
直史は、二人にとっても特別だ。
二球目、上杉の投げたのは、高速チェンジアップ。
大介のバットはトップのところでしっかりと止まり、それを完全に見送る。
初球のカーブでストライクカウントが取れたのが、上杉にとってはラッキーだったのだろう。
ただここで、遅い球を二つ続けてくるということは。
(速い球を投げるのか)
それは充分に予想できた。
ただ決め球となるボールに、何を投げてくるのか。
三球目、上杉はアウトローにツーシームを投げてきた。
大介のスイングはわずかにタイミングが合わず、またもレフト方向にファールボールが飛んでいく。
(速いな)
168km/hがツーシームで出ている。
完全に全盛期に近いが、ここで今季最速を出してくるということは、決め球には何を投げてくるのか。
ストレートだと、以前なら信じただろう。だが今の上杉は、芯は同じでも異なる部分を持っている。
大介は一度、バッターボックスを出た。
カウントとしてはピッチャー有利。
だが大介の集中力は、限りなく高まっている。
完全にゾーンに入っている大介。
これを打ち取るのは、同じ領域にピッチャーも入っていかなければいけない。
そして今の上杉には、もうそこまでのパワーはない。
技術で、あるいは駆け引きで、どうやって打ち取るというのか。
ここまでのスイングを見ていて、大介がホームランを狙っているというのは、はっきりと分かっている。
そもそも打てるボールは、全てホームランを狙うというのが大介だ。
八月に入ってから、大介は単打を打った数より二塁打を打った数が多く、二塁打を打った数よりホームランを打った数の方が多いのだから。
上杉は逃げない。それは分かっている大介だ。
ならば自分も、ただ最高の結果のみを求めていくのみ。
単に塁に出るだけでは、おそらく上杉を打ち砕くことは出来ない。
第四打席につなげるためにも、ここは打っていくしかない。
当然ながらホームランを。
上杉はここは、力で押す。
力で押すのか、と大介は考えているだろう。だからこそ逆に力で真っ向から押す。
そもそも他のボールで大介を打ち取る明確な自信などない。
ならば自分の最大の力のストレートを投げる。
壊れるならば壊れてしまえ。燃え尽きるぐらいにまでやりきれれば、それはそれで幸せなことなのだ。
(行くぞ)
上杉の足がゆっくりと上がった。
そこから体重が移動し、足からの力が全身を加速させていく。
そして肩から肘、指先へと伝わる。
上杉の最高のボール。
それが完全に真っ向勝負のストレートだと、大介には分かった。
血が沸き立つと同時に、トップの位置からスイングが加速する。
ドームの天井を貫けと、場外まで飛ばすつもりで、大介も渾身のスイングをした。
そしてバットとボールが激突する。
そのわずか一瞬に、大介は全ての力を放っていた。
ボールはバックスピンがかかって、高く舞い上がる。
そしてそのまま天井に激突し、フェアゾーンに落ちてくる。
センターがほぼ定位置でキャッチした。
そんなセンター馬上は、そういえば大阪ドームの天井激突はどういう分類だったろうか、と自分でも分かっていない。
大阪ドームではインプレイ。
つまりセンターフライで、大介は凡退することとなったのであった。
今の打球は、本当にアウトでよかったのか。
多くの人間がそう思ったのは、とんでもない速度で天井に当たったからだ。
だが特別ルールでは、間違いなくフェアグラウンドに落ちてきたのでインプレイ。
上杉が勝ったというか、大介がアウトになったという現実は変わらない。
ただ対決した二人は、お互いに戸惑っていた。
あの打球のスピンからすると、遠くへ飛ぶのではなく、上へ昇っていったのだ。
センターの定位置より、果たしてどれだけ、飛んでいったことやら。
飛ばされたことは飛ばされたが、球威に押されて完全なミートにはならなかった。
しかし他の球場でならばどうなっていたか。
(数字としては、勝ったのは間違いないが)
上杉としては、大介の心を折ったとは、全く思っていない。
(完全には捉え切れなかった)
大介もまた、満足はもちろんしていないが、完敗したとまでは思っていない。
あと一打席、勝負があるのか。
それは上杉の体力とも関係しているだろう。
大介と上杉の対決は、どちらかというと上杉の方を消耗させた。
ツーアウトになったこのイニングはともかく、その次のイニングにヒットと進塁打で、一点を許してしまったのだ。
だがこの3-1から、スターズはさらに一点を加えてくる。
4-1となってしまうと、もう大介が残り一打席でどうしようと、彼の力だけではどうにもならない。
そもそも上杉が、完投するかどうかも微妙なところである。
上杉を果たして、どこまで打ち崩すことが出来るか。
とりあえず一点は取れたのだから、間違いなく大介との対決で消耗している。
しかし下位打線などであれば、八分の力でも抑えてしまうのが上杉だ。
八回の裏は、まさにその下位打線の七番から。
一応変則的な打線にはなっているが、それでもランナーとして出て、一番の大介につなぐことは出来なかった。
今日の試合はライガースの負けだな、という空気はスタジアム全体に充満している。
それでも帰途に就こうとする観客がいないのは、九回に大介の第四打席が回ってくるからだ。
先頭打者に大介の第四打席。
まだ何が起こるか分からないし、もしもホームランでも出るなら、それを見ておきたい。
しかし三点差であるので、スターズは上杉を降ろしてもおかしくはない。
ホームランを打たれても、ソロで一点までにしかならない。
ライガースが二点差を追いつけるか。
上杉以外のピッチャーに代わっていたら、可能であると思う。
スターズの判断も難しい。
上杉には出来るだけ、負担をかけたくないのだ。
ここからクライマックスシリーズ進出のためのAクラス入りが重要となってくる。
しかしライガースはここからでも、逆転する力を持っているチームなのだ。
さらには大介からという打順。
油断すれば一気に逆転もありうる。
三度目の大介との勝負、上杉の投げたストレートは、170km/hに達していた。
このスピードが出たのは、かれこれ六年ぶりである。
本気のそのまた本気を出した、ということなのだろう。
それをあれだけ飛ばしてしまう、大介も大介だが。
もうあの場面で、あれだけの力を出してもらうのは、上杉には酷であろう。
実際その後に一点は取られたが、それでも最低限の失点にとどめている。
間違いなくもう限界なのだ。
それでも九回、上杉はマウンドに登るつもりである。
ここまで打たれたヒットは、わずかに四本。
一つをダブルプレイで殺したが、その間に一点を取られた。
しかし確実に、一点よりも確実なアウトをという場面であった。
上杉は球威が落ちてきている。
ブルペンには、リリーフの準備をさせている。
大介に打たれれば、もう上杉を代えても問題はないだろう。
もしホームランを打たれれば二点差。
ライガースは準ホームの大阪ドームであるため、応援の後押しは大きい。
大介を抑えた後、他のピッチャーで勝てるのかどうか。
抑えられなくても、もう交代するしかない。
四度目の対決。
ここまではなんだかんだと、上杉は点を取られていない。
ただ三振を奪えてはいないし、どれもしっかりとミートはされているのだ。
アジャストしていって、最後に痛打を浴びても仕方がない。
それでも上杉は、マウンドから逃げない。
大介はベンチの前で、しっかり精神統一をしてから、バッターボックスに向った。
高い位置にあるマウンド。
まさにピッチャーが特別である、と示す舞台がそこだ。
ピッチャーが投げて、バッターが打つ。
野球の一番単純な形がそこにある。
(今日は、これが最後かな)
ワクワクとしながら、バッターボックスに入る大介。
自然と洩れる笑みに対して、上杉も攻撃的な笑みを浮かべた。
これは勝負であるが、同時に遊びの延長だ。
そもそも原始的に、ボールを投げてそれをバットで打つ。
最初に成立したのは、間違いなくスポーツではなく遊びとしてだ。
ならばどこまで楽しめるかで、その上達も決まる。
楽しみであるからこそ、より上手くなりたい。
一緒に上手いプレイヤーと、敵と味方に別れてでも遊びたい。
楽しみすぎて故障する、というのもよくあることだ。
子供の故障というのは、無理をしているという意識などなく、楽しみのままにやっているからこそ起こったりする。
限界を考えず、楽しみすぎてしまうのだ。
ゲームが楽しすぎて、徹夜でやってしまうのと同じことだ。
周囲がそれを止めなければいけないが、大介や上杉は肉体的に頑強であるため、止まることなく進み続けた。
自分の限界を理解していた直史とは、そこが違う。
限界を突破することは出来るのか。
限界を設定してしまうのは、その人間の可能性を殺してしまうことではないのか。
故障させることは絶対悪だが、可能性を先に閉じてしまうのもいけない。
そういった根本的な部分は、プロの世界で頂点を極めてからも、まだずっと頭の中に残っている。
自分の限界は、自分で決めてしまってはもったいない。
この第四打席、どちらがより楽しむか。
疲労だとか、前の打席までの駆け引きだとか、そういったものもあるだろう。
だが最後には、楽しめる者が勝つのだ。
初球から上杉は、ツーシームをゾーンぎりぎりに入れてきた。
大介のスイングは届いたが、やはり左に切れていく。
このスピードをスイングして、しっかり飛ばすだけでも、凄いのはたしかなのだ。
しかしここで満足するわけにはいかない。
もっと、さらに楽しんでいく。
一番楽しいのは、やはり勝つことだろう。
165km/hのツーシームから入ったが、他のバッターへのボールと比べると、明らかに違う。
上杉が選手生命を賭けて戦っているのを、大介は感じている。
42歳の上杉は、途中で一年を棒に振る故障をしている。
たったの一年で回復した、というのが奇跡と呼ばれるものだ。
あれがなかったら、500勝も狙えたのではないか。
勝つことよりも、楽しむことを優先してしまう。
野球というのは、そういうものであるのだろうか。
ピッチャーというポジションがあって、それにバッターが向かっていく。
この明確な一対一の状況は、団体競技としては珍しいものだろう。
上杉は壊れながらも、楽しんでいた。
自分の全力をかけても、それでもなお打ち取れない。
そんなバッターの存在を、ずっと待っていたのだ。
義務とか責任とか、チームキャプテンだとか、期待だとかそういうものの全てを、肩や背中から下ろしてしまう。
全力を出すことを自分に許す。全力でなければ勝てない。
今日は三度の対決で、どれも強烈な打球を打たれている。
ずっと長い間、自分に勝てるバッターはいなかった。
それがあの日、甲子園の舞台の前で、一度だけ対戦した小僧が、ここまでの存在になってくるとは。
対等以上の存在が、今はもう自分の上にいる。
だからこそ、挑戦していけるのだ。
打ってもホームランにならないボール球のカーブを、上杉は続けて投げてきた。
常にスターズが有利に試合を運んできたが、その流れを一撃で破壊するのが、大介のホームランだ。
もっとも大介自身は、もう上杉との対決を楽しむ以外、頭にはない。
この試合には負けるかもしれないが、それはそれでいい。
たとえ負けても、折れなければ次がある。
自分の可能性を信じて、挑戦し続けるのが人生だ。
勝つか負けるかというのは、挑戦するかしないかに比べれば、重要なことではない。
三球目に、何を投げてくるか。
ストライクカウントを取りたいだろうが、上杉の速球でも大介はほぼ三振しない。
そもそも今年は、31回しか三振していないのだ。
それでも全盛期の大介は、MLBでボール球にまで手を出していた頃でも、シーズンに20回ほどしか三振していないのだが。
ボール球を打たせてストライクカウントを稼ぐというのは、直史でもそれなりに難しいものであった。
上杉の三球目は、低めに落ちるチェンジアップ。
これをゴルフスイングで打つことも、いずれは選択肢に入れるべきかもしれない。
ゾーン内のボールだけを打っていればいいというわけではない。
正しいのは、打てるボールを打つということだ。
外れていようがどうであろうが、ホームランになれば関係ない。
もちろんゴルフスイングでも。
ボール球が先行。
次は間違いなく入れてくるだろうというのは予感ではない。
それは上杉の根本的なスタイルだからだ。
ストライクをガンガン入れてくるというのは、上杉の根っこにある、動かしてはいけないものなのだ。
ただそれを安易に速球で入れてくるかどうかは、状況による。
今は大介が相手をしているのだ。
上杉の投げたのは、低めへの重いストレート。
ゾーン内に入っている、大介ならば打てる球。
危険性は承知の上で、自分の今の力を最大限に出していった。
それは意地でもなんでもなく、単純な力比べという遊び。
そしてそれに大介も応える。
遊びは全力でするからこそ、楽しいものであるのだ。
バットが折れるようなボールをちょっとでもミスショットすると、手首を捻挫したり、細かい骨が骨折することもある。
その骨折によっては、バッターとして再起不能になったりもするのだ。
本当に小さな骨の破壊が、バッターの選手生命を奪う。
だから普通はバッティンググローブを使うのだが、大介のこだわりはそれを許さない。
そして大介の肉体は、主人の期待に応えられる。
全力でもって、ボールを叩く。
激突の瞬間には、ありえないことだが火花が散った気さえした。
全身を使った大介のスイングは、上杉のボールを持っていく。
外野が追いかけるタイミングもない、完全なホームラン。
バックスクリーンビジョンを、またも破壊する大介であった。
ソロホームランで、まだ点差はある。
大介はダイヤモンドを回りながら、手の中に残る感触をとどめていた。
打った瞬間、バットは間違いなく手の延長となっていた。
体全体を、ボールにぶつけた感触。
この感触でボールを打つと、スタンドまで飛んでいくのは分かっている。
普段は腰からの回転だけで、スタンドまで運んでいくことが多いのだが、本気同士の対決であると、こういう感触が残っているのだ。
(まだ、引退には早いだろ)
小さなガッツポーズをして、大介はホームベースを踏んだ。
スタンドのざわめきが止まらない。
大介のバックスクリーン破壊は、別に珍しいことではないのだが。
相手が上杉であり、169km/hのストレートを打ったというのが、このざわめきの理由であろう。
高めに投げられていた方が、おそらく飛距離は出なかった。
どちらにしろ打てたことは打てただろうが。
上杉が投げたのは、大介を抑えられる球ではなく、自分が投げられる一番の球であったのだ。
それを打たれているから、やはりもうパワーでは大介に敵わない。
衰えを嘆いたり、寂しがったりすることはなく、上杉はさっぱりしていた。
いや、やはり寂しさはあったのだろうか。
ベンチから監督が出てくるのを見て、上杉は大きく息を吐いた。
ホームランは打たれたが、これでランナーはいない状態である。
それでもこの場面から、リリーフするクローザーは大変であろうが。
上杉が降板したため、ここからの逆転をライガースファンは期待する。
だがそれはさすがに都合がいいだろうな、と大介は考える。
完投数が激減した上杉であるのに、スターズがしっかりと勝っている理由。
リリーフ陣はそれなりにしっかりしているからだ。
そんな大介の予想を外さず、スターズのクローザーはランナーこそ出したものの、失点はせずにスリーアウト。
4-2で試合はスターズの勝利に終わった。
敗北はしたが、ライガースファンが意気消沈することはない。
そしてそのファンのムードによって、ライガースの選手も気分を上げられる。
これで大介は、直史と上杉を打っての、六試合連続ホームラン。
今年の連続ホームラン記録としては、最も長い連続記録となっている。
負けたが、いい試合であった。
プロは勝ってこそ、などと言うが、それは間違っている。
プロは魅せてこそ、なのであるのだ。
マンションに戻ってきた大介は、椿からどうでもよさそうな伝達を受けた。
「昇馬が見学先の高校の野球部員と暴力沙汰になったんだって」
「はあ? あいつは弱いものいじめはしないように教えてたはずだけど」
正確にはもう、事後処理も済んでからの連絡であった。
事件自体は数日前に終わっていたのだ。
昇馬のスペックは、野球選手として特別と言うよりは、サバイバルにより適していると言っていい。
球技だけではなく、現代格闘の技術も少しは学んでいる。
アメリカでは普通に、未成年ながら平気で荒野で銃なども撃ちまくっている。
またニューヨークにおいては、富裕な住民の地区に住んではいたが、それでも近くではイリヤが殺されている。
一般的な日本人男性なら、昇馬は数人同時に相手出来る。
そしてほぼ一方的に無力化出来るだろう。
「マコちゃんが一緒だったから、念のために強めに痛めつけたんだって」
「あ~、それは相手が悪い」
ツインズはサイコパス気質であるが、普通の暴力からはまず逃げるように、というように教えている。
ただ守る対象がいれば、相手を徹底的に潰すように、とも教えてあるのだ。
女性がいるからいいところを見せるのではなく、女性は逃げるのも遅い。
だから相手を完全に無力化してから逃げた、ということらしいが。
相手は脳を揺らされたのと、絞め技で気絶させた二人。
それなら逃げてもいいのでは、と大介は思うのだが、昇馬の価値観ではそうはいかない。
アメリカ基準で考えてしまったのだろう。
幸い相手は、後遺症が残るような怪我はしていなかった。
また付近に、相手の指紋がついた金属バットがあった、というのも正当防衛を成立させる。
おそらく何か、文化的な風習の違いで、普通に昇馬が相手を怒らせてしまっただけなのだろうが。
これは直史にも知らされず、瑞希と桜の二人で後始末をしたらしい。
相手の怪我も軽傷で、昇馬には無力化の意思しかなく、そして先に金属バットを見せ付けてきたのは向こう。
なので正当防衛なのであるが、それと実際の印象は違う。
「まあ向こうが見学に来ないかと言っておいて、先輩風吹かせた生意気な小僧がいれば、あいつならボコボコにしてもおかしくはないな」
昇馬は好戦的な人間ではないが、戦闘を絶対に回避するという平和主義者でもない。
男なら、戦うべき時はある、と考えるマチョイズムの持ち主だ。
それが全て解決してから、連絡が来た。
大介のみならず椿にも、下手に心配させないように、というものだったのだろう。
「それにしても、あいつは白富東に進学するのが決まってたんじゃないのか?」
「スカウトの熱意に負けて、ちょっと見てみる気分になったらしいの」
「それは……スカウトが悪いな」
昇馬は日本の、主に高校野球より上の、学年絶対主義を全く知らない。
そもそも大介も、それを高校では味わっていない。
それにしても、自分が悪くならないように相手への攻撃を控えているというのは、母親たちの教育の賜物であるだろう。
大介ならば、自分一人ならさっさと逃げ出すのだが。
これで昇馬の悪評が広がるかもしれないが、その可能性は薄いと瑞希は言っていたらしい。
そもそも現役の部員が、ただの見学者と暴力沙汰を起こしたとなれば、大問題になるのは向こうの方だ。
しかし入学前から、色々と話題が尽きない。
「電話でも先に礼を言っておくべきだろうなあ」
まったく、面白い息子に育ってくれたものである、と苦笑する大介であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます