第72話 マウンドの上の神

 因縁の対決、と言えるだろう。

 大介がMLBに行くまでの九年間、スターズかライガースが日本シリーズに進むことは七回もあった。

 残りの二回は、レックスが日本シリーズに進出している。

 もっともチーム力としてはライガースの方が強く、スターズはおおよそライガースに負けていることが多い。

 大介がMLBに移籍し、直史も日本から去ってからは、やはりスターズがまた強くなっていったが。


 直史と大介の関係は、同じチームの戦友として始まった。

 だが大介と上杉との関係は、完全に王者と挑戦者のものであったと言っていい。

 上杉の最後の夏に、大介は間に合わなかった。

 もしも対決が成立していたら、という想定は無意味である。

 直史が肘を故障していた白富東が、上杉と当たるまで勝ちあがるのは無理であったろうからだ。

 それでも、歴史の「もしも」を考えるのは面白い。


 高校時代には、グラウンドの外でしか実現しなかった対決が、プロで成立する。

 そのために大介はプロに来て、実際に何度も対決することとなった。

 一年目から三冠王を取った大介に、それでも上杉は強大な敵であった。

 今は強さよりは、巧緻さを感じさせる。

 仕方のないことで、いまだにまともに戦えるというだけで、充分にすごいことなのだ。

 160km/hを軽くオーバーしてくるのは、大介に対してだけなのだから。


 そんな上杉との対戦の前に、ライガースはまず守備である。

 そしてこの初回に、スターズは先制点を取った。

 先頭打者の末永が出塁した後、二番の馬上もヒットで続く。

 それから三番は進塁打に終わったものの、四番の藤本がタイムリーな外野フライを打ってこれでタッチアップに成功。

 わずか一点ではあるが、一回の表に先制したのである。

 ただこれ以上の追加点はなし。

 わずか一点のリードで、いきなり打席に大介を迎えることになった上杉である。




 大介と上杉の対決。

 今季既に、三試合で対決している。

 そして12打数6安打。ホームランも三本打っている。

 これだけを見れば明らかに、大介は上杉に勝っていると言えるかもしれない。

 だが上杉は大介との勝負を、一度も避けていない。

 さらに重要なのは、試合自体は全てスターズが勝利しているということだ。


 チーム同士の対戦成績なら、一応ライガースが勝ち越している。

 しかしそれも10勝9敗というもので、この試合に負ければ互角となる。

 ライガース相手に勝ち星がほぼ互角というのは、他にレックスしかいない。

 他は三位のタイタンズ相手でも、いくつか勝ち星が先行している。

 やはり野球は短期決戦になると、ピッチャーの質が重要になってくる。

 もっともライガースも、決して質が悪いわけでもないはずなのだが。


 上杉もまた、どちらかというとスロースターター気味のところがある。

 ただそれはどちらも平均を大幅に超えた上で、どちらの方が向いているか、という話である。

 実際にクローザーとして失敗した例がない。

 それでも先発としての方が、実績としてははっきりしている。

 完投できるピッチャーは、先発で使いたいものだろう。


 大介と上杉の対決に、早くもスタンドの応援は最高潮である。

 ただ当事者の二人は、冷静に相手を窺っていた。

 お互いの力はよく分かっている。

 大介に安易なピッチングをすれば、それはあっさりと打たれてしまう。

 そしてここは、絶対に打たれてはいけない場面だ。

 ホームランはもちろん、長打でもいけない。

 力でも技でも構わないが、抑える必要がある。




 大介との対決でだけは、上杉は160km/hオーバーの速球をバンバンと使ってくる。

 他のバッター相手にはそこまで出てないというのは、それが本当に限界ぎりぎりであるからだろう。

 肘ならばともかく、上杉がかつて故障したのは肩だ。

 最先端医療の結果、治癒はしたが完全に元通りには戻らなかった。

 それでもMLBで、空前絶後のクローザーとして認められたのだが。

 高額の年俸提示にも首を縦に振らず、日本に戻ってきた。

 だからこそ日本人は、球団の違いはなく上杉のことは好きなのだ。


 日本代表のエースとしては、たびたび野球界からいなくなる直史よりも、よほど信頼出来た上杉。

 その上杉のストレートに、大介のバットは押される。

 レフト方向のファールスタンドに入るが、完全に球威に負けていた。

(166km/hか……)

 NPBの中では一番速いが、昔に比べればそれほどでもない。

 ただここのところ技巧派の相手が多かったので、思ったよりも速く感じてしまう。


 一球で慣れた大介は、タイミングを取ることを考える。

 この初球を打てなかったのは、ちょっと痛いかな、とは思う。

 上杉が初球でストレートを投げてくるのは、少し意外であった。

 明らかに球速の上限は落ちている。

 MLBであればざらに、とまでは言わないが数人はいるレベルだ。

 ただしコマンド能力は、相変わらず上杉の方が圧倒的だ。


 自分と勝負してくれる、数少ないピッチャー。

 大介はMLBでも、一試合に一度はフォアボールか敬遠で歩かせられることが普通であった。

 帰国した今年は、MLB移籍前よりもずっと、フォアボールの数が多い。

 それでも戦ってくれる、骨のあるピッチャーはいるのだ。




 上杉のストレートの速度に、スタンドが盛り上がる。

 ライガースファンが大半の大阪ドームだが、それでもこの対決に関しては、強者同士の対決として楽しむことが出来る。

 圧倒的なバッターである大介に対し、長くNPBを率いてきた上杉が、どれだけのことが出来るか。

 個人成績では大介の勝利と言えるが、チームでは常に勝利する。

 大介一人では、ライガースはスターズに勝てない。


 思えば直史が一度だけ、勝ち星が付かなかった試合も、スターズの上杉が相手であった。

 共に40歳となった、投打のそれぞれで歴史に名を残す二人が、上杉相手には負けているのだ。

 これはやはり上杉の力でもあるし、上杉の周囲の力でもある。

 一人の選手が、チーム全体を強くする。

 そしてチームが、一人のエースを強くする。


 二球目はカーブが外れて、大介は完全にバットを止めた。

 ボール球を追っていくほど、大介には絶対の自信はない。

 打ったとしても、これはスタンドには届かない。

 一回の表の先頭打者なのだから、出塁を目指すヒッティングをしても良かったのかもしれない。

 だが大介はその選択をしなかった。

 上杉を正面から打って勝つ。

 これにこだわりすぎているとも、言えるかもしれない。


 プロ野球選手にプライドは必要かどうか。

 勝負の場面というのは、必ず存在する。

 だがプライドを捨ててでも、這いつくばってでも進まなければいけない場面というのも必ずある。

 そして逆に、プライドがなければ貫き通せないものもあるだろう。

 大介を敬遠するのは、プライドを捨ててでも勝利にこだわる執念が必要となる。

 それこそが逆に、プライドなのかもしれないが。




 大介にはプライドはない。

 あるのはプライドではなく、もっと純粋な喜びだ。

 対決の喜び、あるいは勝負する喜び。

 負けるにしても、勝負すらせずに負けるよりはずっといい。

 負けることを恐れていると、いつか全く勝負出来ない人間になってしまう。

 ピッチャーにとっては致命的なようにも思えるが、バッターにとっても勝負の場面というのはあるのだ。 

 相手のバッテリーとの読み合いの末に、勝負を賭けなければいけない。

 己の信じて、バットを振るしかない。


 上杉にはプライドがある。

 だがプライド以上に大きなものは、両肩にかけられた期待だ。

 偉大なエースの宿命として、試合に勝つことを要求される。

 そして今年は、それぞれの打席では負けたり、また投げた試合に負けがついたりもしたが、直史の投げた試合のレックスに負け星をつけたし、ライガース相手には負けていない。

 不敗の存在がありえない以上、勝つべき時に確実に勝つ。

 それが出来るからこそ、上杉は日本のエースと言われるのだ。


 第三球、上杉が投げたのは速球系。

 だが真ん中近くから、外にと逃げていった。

 大介のバットなら届くが、打ったボールはまたもポールの左側。

 ただしあと数mほど右であれば、ホームランになった打球だ。

(まだ押されてる)

 ツーシームで165km/hが出ている。

 だが全盛期よりは遅くなっているのだ。


 上杉のボールの、純粋に球威が違う。

 スピン量なのか、スピン軸なのか、それとも角度なのかも分からない。

 だがともかく、ボールの持っている重さが違う。

(ボールの持っている全体のエネルギーは、ジャストミートすれば飛距離に転換されるはずだ)

 つまりジャストミート出来ていないというのが、一番の問題なのだろう。

 なぜ出来ていないのかは、やはり分からないが。




 上杉のボールには、正体不明の力が宿っている。

 球威というのは確かにそうなのだろうが、まるで魂が重量に変化しているような。

 軽いボールや重いボールというのは、科学的には説明がつく。

 だが説明がつかないのが今の上杉のボールだ。

 おそらくは手元での微妙な変化のため、ジャストミート出来ていないことが原因なのだろうが。

 大介がアッパースイングでボールを捉えれば、しっかり飛んでいきそうではある。


 スイングのメカニックの変更は、大介であってもそう簡単に行えるものではない。

 そもそも大介にとって、最適化されたのが今のスイングなのだ。

 ほぼレベルスイングで、ボールをしっかりとバレルで捉える。

 そして打球はライナー性のものとなって、場外までも飛んでいく。

 さすがにドームの天井を貫いたことはないが、天井には何度かぶつかったことがある。


 上杉はここから、またもカーブを投げてきた。

 あるいはこのカーブを、器用にフェアゾーンに飛ばすべきなのかもしれない。

 だがそれは、今このタイミングではないと思っている大介だ。

(初回の先頭打者だから、本当ならそうしてもいいんだろうけどな)

 大介はやはり、上杉との対決を楽しんでしまっている。

 ありとあらゆることは、楽しむ者が強いのだ。


 上杉が最後に速球を投げてくることは、ほぼ確信している。

 完全にと言えないのは、上杉もスタイルを変化させているからだ。

 おかしなプライドよりも、勝利への執念を優先させる。

 上杉はそういうピッチャーになっているかもしれない。

 それがいいのか悪いのかはともかく、変化であることは間違いなかった。




 ツーツーで平行カウントになった。

 ここからボール球を投げることも出来るが、上杉はどう投げてくるのか。

 単純にパワー勝負をしていた時代とは違う。

 上杉が身につけたのは技術と言うよりは、技とも言えるものだ。

 蓄積してきたものが、他のピッチャーとは段違いなのだ。


 肩を故障して、選手生命は終わりと言われた。

 既にあの時点で、243勝していた上杉。

 29歳の若さであったが、簡単に名球会入りの資格を獲得していた。

 日本の医者は全て、保存療法でどうにか、と言うしかなかった。

 それでも元のようには投げられることなどない、と。

 むしろ普通に投げることさえも出来ないと。

 そこでアメリカに渡った上杉は、一年をMLBでリハビリして、見事に復活した。


 大介と上杉が同じチームとなった、二ヶ月とポストシーズン。

 それでも直史には勝てなかったのだ。

(本当に、強くなったな)

 上杉の明らかな下降曲線に比べると、大介はまだ全盛期とさえ言える。

 先達の最後の役割は、後進に道を譲るのではなく、踏みつけられることだ。

 しかしそれはまだ、今ではない。


 上杉の投げたボールは、大介の膝元へ。

 しかしそれは、わずかに外れていた。

 判定する審判も大変だろうが、この二人の対決を審判することは、まさに神事の采配をするようなものだ。

 失敗する可能性すらある、とてつもなく高いレベルでの判定。

 全神経を集中させて、そのボールを見極めようとする。


 大介は次のボールがどこに投げられるか、おおよそ予測できている。

 だがその予測に、果たして体がついてくるか。

 マウンド上の神は、セットポジションからゆったりと足を上げる。

 そして投げられたのは、外角へのストレート。

 大介のスイングは、そのボールを捉える。

 ショートライナーだが、わずかに正面ではない。

 反応したショートがグラブを出したが、打球に弾き飛ばされた。




 グラブを弾き飛ばしたボールは、センター前に転がる。

 つまりショート強襲の、センター前ヒットとなった。 

 完全に守備範囲内であったが、エラーではなくヒットと判定されたのだ。

 この打球の速度が220km/hであったことは、後に明らかにされる。

 大介は単打で一塁に到達する。

 打球速度がどうであれ、結果としては単なるシングルヒットである。


(168km/h出てたのか)

 今年最速タイの上杉のストレートであった。

 それをほぼショート正面に飛ばした。

 ミスショットかと思ったが、ショートが弾いてくれた。

 もっともあの自分の打球を、自分ならキャッチできたかというと、それも微妙なところである。

 ともあれこれで、ライガースはノーアウトのランナーを出したのである。


 上杉から盗塁するのは、球速はともかくモーションはそこそこ大きいので、難しいというほどではない。

 塁上の大介は、ベンチからのサインを待つ。

(お、走れるなら走れ、か)

 だが大介はサインを返し、そしてライガースのベンチはサインを出していく。

 珍しくも慎重な選択肢である。


 今時、と思われるかもしれないが、ここでライガースが採った選択は送りバントであった。

 二番に入っている和田が、普段はセーフティで内野安打を増やしている、というのも計算のうちにあったのだろう。

 上杉のムービング系のボールは、内野ゴロがそれなりに打たれるものになっている。

 これでダブルプレイや、そうでなくとも二塁でアウトを取られれば、せっかくのノーアウトのランナーが無駄になる。

 それだけは避けたい。




 送りバントが成功した。

 ここはスターズも、アウトを一つ取っておこう、という選択である。

 ライガースの三番は助っ人外国人のアーヴィン。

 MLB傘下の3AからNPBに来ている、速球には強いバッターである。

 この速球に強いバッターがいるから、ライガースはなんとか大介を二塁に進めたのだ。


 大介の足なら、スタートと打球の勢い次第では、ワンヒットでホームを狙えるかもしれない。

 そういうことも考えての、送りバントである。

 上杉の先発する試合は、中盤までで勝負が決まってしまうことがある。

 点を取られたらどうにかして、ついていくしかないのだ。

 また今年の上杉は、全ての試合を負けていないわけでもない。


 大介との対決によって、いきなり消耗しているはずだ。

 以前のライガースとの試合でも、点差があったからだが途中で交代した。

 上杉の完投能力は、間違いなく落ちている。

 とはいえ化物じみた性能であることは間違いない。

 数少ないチャンスを、確実に点につなげたい。


 そんなライガースの思考を、おおよそ上杉は読んでいる。

 ただ今季のライガースは、そんな戦略で戦ってきていないはずだ。

 殴り合いをして勝つ。それが今年のライガース。

 大介という超長距離砲がいるからこそ、考えられた圧倒的な攻撃的布陣。

 もちろんポストシーズンは、違う戦い方をしなければいけないのだろうが。


 そういうまともな考えで、今年の上杉は止められない。

(燃え尽きてもいい)

 大介が戻ってきて、直史が復帰した。

 今年のプロ野球は、最後の黄金の一年になるのかもしれない。

 その予想は、シーズンが進むにつれ確かなものとなってきた。

 上杉は今、まさに最後の輝きを発しているのだ。




 考えが甘かったな、と大介は二塁残塁で、ベンチに戻る。

 上杉はまず、バットを粉砕したサードゴロで、大介を進塁させることもなく、ファーストでツーアウト目を取った。

 そして最後は、四番の大館をキャッチャーフライに打ち取ってスリーアウト。

 三振は取っていないが、完全にバッターを圧倒するピッチングであった。

 大介の打ったヒットにしても、ミートが完全ではなかった。

 完全ならば打球は、もっと高い軌道を描いていたはずなのだから。


 送りバントをあっさり決めさせたのも、続くバッター二人も、あっさりと打ち取った。

 大介相手に使った力を、他のバッターを控えめに抑えることで回復させたのか。

 あるいはこれ以上にエネルギーを消費するのを避けたのか。

 どちらかは分からないが、とにかく上杉は大介を出塁させた出血を、完全に止めてしまった。

 かといって二番の和田にもヒッティングをさせていた方が良かったのか、とも思えないが。


 高校時代上杉は、チームを勝たせる絶対的エースであった。

 それがプロになって、チームを優勝に導く絶対的エースへと進化した。

 その上杉に追いついたのが、大介であり樋口と武史のバッテリーであった。

 そして直史が登場し、NPBは爆発的なエネルギーを得た。

 結局は上杉が故障して、そこからまた絶対的な存在は散らばっていったのだが。


 今の上杉は、絶対的なものではない。

 ただ精神的な支柱ではあるし、上杉はチームのために、チームは上杉のために力を注いでいる。

 レックスやライガースと比べても、チームとしてのまとまりは、一番強いのがスターズであろう。

 本当ならこういうチームが、チームスポーツとしては強いのだろう。

 だがチームを強くするのは、精神的な支柱のみではない。

 純粋な爆発的能力が、チームを支えることはあるのだ。




 ピッチャーとバッターとの対決で重要なのは、結局チームに勝利をもたらすかどうかなのか。

 そのあたりの問題は、野球の根幹と言うよりは、興行スポーツの根幹と言っていいであろう。

 野球というスポーツに存在する、敬遠という手段。

 チームの勝利を優先するアマチュア野球では、これは立派な作戦である。

 ただプロに入ると、これは意味が変わってくる。

 勝つことも重要だが、お客さんを楽しませることも重要。

 両方やらなければいけないというのが、難しいところなのだ。


 上杉は大介にヒットは打たれたが、ホームランではなかった。

 打球の方向も、ほぼ野手の正面。

 それでもグラブを弾き飛ばすのだから、恐ろしいと言えば恐ろしい。

 カップスはあれで、怪我人が出てスタメンが外れたのだ。

 スターズの場合は、弾き飛ばされたグラブが上手く衝撃を逃してくれた。

 おそらく無理にキャッチしたままでいれば、手首を捻挫ぐらいはしていたであろう。


 スターズはライガース相手に、もう一点を追加した。

 そしてこの間、上杉は大介以外のバッターをしっかりと抑えている。

 三回の裏、ツーアウトから大介の二打席目。

 2-0のスコアであるので、直史ならば安心して相手をするだろう。

 もちろん本気で抑えるつもりで。


 上杉はこの状況に安心している。

 大介との勝負は、自分にとって危険なものだ。

 大介の打率が四割しかないのは、ボール球でも打てるなら打ってしまうからだ。

 なので選球眼は、とても悪いというおかしな評価になっている。

 実際にはボール球でも、低めであればかなりの確率でホームランにしてしまう。

 外角と高めであっても、平気で長打を打ってくるのだ。




 大介に打たれないためには、究極的には敬遠するしかない。

 挑戦が許されたアマチュア時代、甲子園を含めてさえ、八割の打率を誇っていたのが大介だ。

 上杉はそれに対して、プロの舞台でほぼフォアボールを出していない。

 さすがの上杉も、コントロールミスなどでのフォアボールはある。

 大介も上杉に対しては、かつて三割に全く届かない打率であった。

 しかし今季は、試合前までで12打数6安打。

 大介の力の衰えは、上杉よりはよほど小さなものであろう。


 今日の試合は大介以外にランナーを出していない上杉。

 ツーアウトからであれば、大介は間違いなくホームランしか狙ってこない。

 ホームラン未満に抑えるならば、上杉はいくらでも手段を持っている。

 だが出来ればここは、凡退させておきたい。

 とは言っても、大介を確実に凡退させる方法などない。


 投げるのは高めがいい。

 よく言われる高めは駄目、というのは低めに投げるはずのボールが高めに浮いた場合のことだ。

 最初から高めに強い球を投げれば、むしろフライを打つことは難しい。

 バッティングのスイング軌道を見れば、これは当たり前のことである。

 また大介のスイングは、レベルスイングであるということも関係する。

 

 ただそれでも大介は、スタンドに放り込む。

 そもそも身長が低いので、多くの真ん中のボールが、高めに浮いているようになるからだ。

 この打席を、どう抑えるか。

 ランナーが一人もいない場面であるが、この試合を左右するかもしれない。




 フォア・ザ・チーム。

 衰えた上杉はここ数年、ずっとそう考えてきた。

 しかしスターズは、日本一にまではなかなか到達することはなかった。

 もっとも上杉のいる間に何度日本一になれたかを考えれば、その存在の大きさは分かるであろう。

 二年間の離脱時、スターズは最下位であったのだ。

 それでも上杉は、ワンマンチームであれと思ったことはない。


 Aクラスにはなんとか入れるのだ。

 だが日本一になるには、何かが足りなかった。

 もちろんチームとして、戦力の高齢化などは言われていたが。

 若手がベテランを乗り越えようとしても、ベテランがそれに奮起して若手を上回る、という時代が少し続いたのが、根本的には悪かったのだろう。

 ただチーム内の競争というのは、健全なものであるのだ。

 そしてプロは成果主義である。


 上杉の存在を、ただの一選手と同じに扱っていいわけがない。

 ただどんなスタープレイヤーも、最後には引退するのだ。

 直史も一度は引退したし、上杉も一度は引退を考えた。

 それでも求められる限りは、こうやって投げ続ける。

(もう時間はない)

 ただ時間が経過するだけでも、上杉は引退にどんどんと近づいていく。

 それならばたとえ残りの時間を減らしてでも、完全燃焼したい。

 野球とは違う、別の舞台は既に用意されている。


 バッターボックスの大介は、おそらく永遠の野球少年なのだ。

 今の上杉を衰えたと見ているかもしれないが、それでも全力でぶつかってくる。

(佐藤が普通にプロに来ていたら、どうなっていたことか)

 故障で引退したはずの直史は、他の誰にも出来ないピッチングをしている。

 保存療法で治癒したというなら、いっそあそこでトミージョンをしておけば、もっと早くに復帰は出来ただろう。

 そこには何か、他の理由もありそうではある。




 初球、上杉は大介の膝元にストレートを投げ込んできた。

 これを大介は打っていったが、なんとヒッコリー製のバットが折れて打球はファールゾーンへ。

 前から皹でも入っていたのかもしれないが、上杉との対決で折れたというのは、象徴的なような気もする。

 ベンチに戻って、予備のバットを持つ。

 これも同じもので、ある程度のバットの違いは、合わせられるようにローテーションで使っている。

 なのでバットでの優劣はつかない。


 バット交換で一息入ってしまった。

 二球目に上杉は、果たして何を投げるのか。

 ホームラン以外はいらない、と考える大介。

 だが上杉もこの状況で、大介には単打なら問題ない、とでも考えているかもしれない。

 もっともヒットぐらいは打たれてもよくても、全力で投げてくるのは間違いないのが上杉だ。

 そもそも単打までに抑える、という器用な性格ではないだろう。


 二球目、同じボールが投げられた。

 これに対して大介は、同じようにスイングする。

 ボールは引っ張られて、ライト方向のファールスタンドに入っていった。

 今度はバットは折れず、大介はバッターボックスの中で一回転する。

(打てる)

 そうは思ったが、カウントはツーナッシングである。


 同じボールを三球続けて、というのは考えられない。

 そんな心理の裏を突いたとしても、大介なら打ってしまえる。

 緩急を使ってくるか、それとも三球勝負か。

 単純にカーブを使ってくるだけなら、大介はカットしてしまう。

 ヒットはいらない。速球を打ってホームランがほしい。

 この場面ではそれが、一番重要なことであるのだ。




 カーブを使ってきた。

 そしてその後に、高速チェンジアップ。

 どちらもボール球であり、カーブはおそらくヒットにしようと思えば出来た。

 だが大介にとっては、低すぎるボールであることは間違いない。

 直史と違って、落差のあるカーブをストライクと判定させる技術を、上杉は持っていないのだ。


 ただこれで最後は、速球系を投げてくるとは分かる。

 遅い球を見せてから、最後に速い球を投げる。

 ごく当たり前で、だからこそ王道の配球パターン。

 上杉はストレートを投げてくる。

 大介は呼吸を整えて、上杉に向って構えた。


 コースはどこに投げてくるだろうか。

 高めであることは、おそらく間違いない。

 ここまで二球、続けて落ちる球を投げている。

 目がそちらの方に慣れているのであるから。

(インハイか)

 上杉が全盛期であれば、そこに投げていたであろう。

 ただ残り一球のボール球を、アウトローに投げてくる可能性もないではない。


 選択権を持つのは、ピッチャーである。

 バッターは攻撃する側でありながら、絶対的に受動的な立場だ。

 それだけにむしろ、純粋に一撃を狙っていけるとも言える。

 上杉の足が上がり、そして投じられるボール。

(ストレート!)

 インハイへのボールを、大介はフルスイングした。

 だが完全なミートには届かず。

 低い弾道で、右方向に引っ張られる。

 そしてそのボールはライト正面であり、そのままキャッチされた。

 完全にヒット性の当たりであったが、これが野球というものなのだ。

 かくして二打席目は上杉の勝利。

 だが当事者二人は、両方がそれに納得していないのも確かであった。

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