第67話 強き心
大介との対決だ、という意識は捨てている。
直史にとって重要なのは、チームが試合に勝つことだ。
そしてそれ以上に、故障をしないこと。
エゴイズムと言われようが、それを否定する必要すらない。
ただ同時に、こうも思うのだ。
エゴを通すだけでは、本当の極致に達することは出来ない、と。
大介との対決を避けてはいけない。
それは男の意地だとか、心意気だとか、そういうものでもない。
誰かが見たがっているのだ。
野球の神様であるのかもしれないし、ファンの少年であるのかもしれない。
あるいはまだ、親に連れられて見ているだけの、興味を持っていない子供かもしれない。
見たがっているのだから、魅せなければいけない。
この世界はそういうものなのだと、直史はなんとなく理解してきている。
年を重ねても、学ぶことばかりだ。
おおよそ人生というのは、何かを成すためにはずっと、学び続けなければいけないものであるのかもしれないが。
学ぶことがなくなった時、あるいは学ぶ必要がなくなった時、人は死ぬのかもしれない。
人生の平均寿命の半分を終え、そして青春の年代ははるかに遠く、子供たちの成長に時の流れを感じる。
それでもまだ、直史は自分の歩く道があると思っている。
(大介は、敵だけど仲間だな)
朝、起きた時に、そんなことを悟った。
鍔迫り合いをするように、グラウンドの中では戦っている。
しかしそうやって戦いながら、より高みへと登っていく。
ほんの少しだけ早く、自分の方が頂に到達する。
ただそれが、いつまでも続くとも限らない。
今年、直史は最後の力を振り絞っている。
もちろん故障をしないように、限界を探りながら投げているのだが。
そんな直史にとっては大介よりも、むしろ悟の方が厄介であるかもしれない。
ただ今日は、いい試合になりそうだ。
ベッドに入ってすぐに眠り、覚醒もはっきりとしていた。
興奮と緊張が、満足感に包まれている。
大介は枕元に置いてあるバットを手にする。
(おお、いい感じだ)
手にしっとりとくる。
バッティンググローブを使えとは、ずっと言われていることだ。
それを拒否するのは頑ななわけではなく、正しい方を選んでいるだけだ。
そもそも合理的に考えるなら、バットの長さは定寸を使うし、ヒッコリーなど素材にしない。
作ってもらったバットにしても、グリップはほんのわずかに自分で削る。
弘法筆を選ばずと言われるが、実際の空海はかなり厳密に筆を選んで書を書いていたそうだ。
大介もバットは、自分の体の延長のように感じている。
グラブやスパイクには、そこまでの愛着を感じはしない。
もちろんしっかりと手入れはしているが。
グラブやスパイクは、サイズさえ合っていれば使える。
しかしバットだけは、他の者のバットは使えない。
軽すぎるし、短すぎるし、脆すぎる。
こんなバットをどうして使うのか、もっと軽いバットを使えば、スイングスピードは上がるであろうと言われる。
だが違うのだ。これを使わなければ、今の自分ではなくなる。
他人がどう思おうと構わないが、自分はこうでないといけないというだけだ。
(今日も甲子園はやってるな)
神宮で自分が試合をしているのはナイターなので、時間的に一致するわけではない。
だが甲子園という舞台が熱狂しているのを、遠くからでも感じる。
(遠くからでも、俺に力を貸してくれ)
数々の栄光を手に入れた舞台。
だがそれは直史にとっても同じことだ。
そして神宮は、まさに直史の庭なのである。
前回の対戦では、直史が完璧なピッチングをした。
パーフェクトではなかったものの、ヒット一本に今季最多の17奪三振。
定義上はもちろんパーフェクトではないが、限りなくパーフェクトに近いピッチングであることに間違いはない。
ましてあの時は、敵地甲子園が舞台であったのだ。
神宮ではより直史に有利になってくれるのではないか。
本質的に言えば、風の向きに左中間と右中間の広さから、甲子園の方がピッチャー有利の球場だ。
だが神宮のマウンドの土の感じまで、しっかりと分かっているのが直史である。
ここでは生涯一の絶不調の時もあったし、逆に何試合も連続でパーフェクトという時もあった。
ただどちらの時も、直史には世界一頼りになる相棒がいたものだが。
今年の直史は、これが本当に一度引退し、ブランクのある40歳なのかと思わせるピッチングをしている。
そしていまだに、これが全盛期ではないと記録が示す。
だからライガースに勝てたし、もう一度勝ってほしいと思う。
レックスは明日からフェニックスを相手の試合となるが、ライガースはタイタンズが相手だ。
ピッチャーのローテのことまで考えれば、叩かれたライガースがタイタンズに負けるというパターンは充分に考えられる。
まだまだ直接対決はあるが、他のチームにもライガースに勝ってもらわないといけない。
特にタイタンズには期待している。
リーグではライガースに次ぐ得点力を持っているタイタンズ。
殴り合いで勝てるのは、彼らだけであろう。
八月の太陽の下で、高校球児たちは試合をする。
今の体力からすると、よくもまあ、あんなことが出来たな、と思ってしまうのが40歳の直史である。
だが週一の休みで野球をしているプロは、考えてみればそれ以上だ。
ピッチャーは別であるが、それでもMLB時代の直史は、中五日で投げていたものだ。
今から思えば、あれもまた信じられない。
体力と耐久力だけは、確実に落ちているなと思う直史である。
そんな落ちた体力をカバーするように、球数を減らしている。
直史だけはパワーが必要なスポーツをやっていると言うより、どんどん技が力を必要としなくなるような、特殊な競技をやっているようにも見える。
確かに今年は、150km/hを出した試合は二度しかない。
野球に限らずスポーツは、本来単純化していくのが正しい。
だが時折、そういう基準から逸脱した人間が存在するのかもしれない。
もしも直史が武道でもやっていたら、それこそ年齢を経るごとに、技を熟練させていったかもしれない。
そもそも肉体の完全なコントロールと、そこから生まれるボールのコントロールは、そういったものにつながるように思える。
NPBの歴史には、130km/hのストレートで三振を奪いまくったサウスポーもいる。
直史の進むべきは、そういう路線ではないのか。
もちろん今よりもさらに、すごいピッチャーになるのとは違うが。
日中は太陽の下には出ず、室内練習場のマウンドを使う直史。
肩にも肘にも、何も問題はない。
足腰も頑丈なのは、長らく投げていない時も、山に入ったりしていたからだ。
自分のこれまでの人生が、肉体に蓄積し構成している。
投げる時にも、しっかりと軸が分かるようになってきた。
(これは、パーフェクト出来てもおかしくないけど、相手がなあ)
ミートに徹した大介には通じないだろう。
精神までも含めた技術に、極まりはない。
試合の開始時間が近づいてくる。
軽くゆっくりしたボールを投げて、直史は肩を作る。
力の入ったボールを投げるのではなく、肩の駆動域を意識して投げるのだ。
そうすると肩が出来上がる。
なぜ武史はこれが出来ないのか、直史は不思議であったりする。
武史の場合は試合本番で投げないと、本気になれないからだろう、という推測はあったりするのだが。
今日の試合、本当はわずかに客席は満員ではなかったらしい。
だが直史が投げるとなって、すぐにチケットは完売した。
次のフェニックスとの対戦は、チケットを買っていても払い戻す客がいるかもしれない。
なんとも罪なことではある。
ピッチャー一人が客を呼ぶというのは、興行的にはあまりおいしくない。
それはライガースのチケットが、ずっと完売が続いているのを見れば分かるだろう。
関東にまで遠征してくるライガースファン。
日本のスポーツのファンの中では、一番過激だとも言われる。
もっともフーリガンの母国イギリスや、アレクから聞いた試合ごとに死人が出る南米サッカーに比べれば、ずっとマシだとは思うのだが。
基準がおかしいと言ってはいけない。
神宮球場が満員になるというのは、直史にとっては当たり前の光景である。
高校の神宮大会に出場したのは、二年生の秋。
夏の大会で実質パーフェクトをしていた直史は、関東では完全にスターと言うよりはもっと特別な、崇拝対象ではあった。
その後の大学のリーグ戦や全国大会は、完全に大学野球の枠を超えた人気となっていた。
それは直史が、試合で投げるごとに奇妙な記録を作っていったからであるが。
パーフェクトが見たければ神宮へ行け。
あの時代のキャッチフレーズである。
いよいよ試合が始まる。
今回は完全に、大介との接触を絶っていた直史である。
遠くから試合前の練習は見ていたが、昨日に比べると動きのぎこちない選手が何人がいたように思う。
前回の対戦では、完全に抑えられているのだ。
何より今季、直史をまともに攻略したチームはいない。
強いて言うなら最初の登板のタイタンズは、ヒットをそれなりに打ったものだが。
もっとも多くのヒットを打たれたのが、一試合に五本。
そして次が四本という試合が二つある。
ただヒットでは一点も取られていない。
ホームランを打つしか、直史から点を取る方法はないのだ。
そしてライガースには、リーグナンバーワンのスラッガーがいる。
大介は直史の苦手な、打率も高いタイプの強打者だ。
ただこの二人の関係は、お互いのことをよく知っているだけに、そのタイプに当てはめてしまうのにも無理があるだろう。
マウンドに登る前から、既に大介は向こうのベンチから出ている。
今日もまた二番打者で、そこだけは安心できることだ。
一番に大介が回ってくるのが、直史としては一番嫌であった。
一人でもランナーを出せば、四打席目が回ってくるのだから。
そのあたりのことを、ライガースの首脳陣は考えなかったのか。
大介はMLBでは一番も打っていたのだ。
二番を打っているのは、それがMLBでの指定席であったから。
だが高校からNPB、また国際大会では三番を打っていた。
本人としては、二番が体に馴染んではいる。
大介からは逃げない。
これまではずっと、いざとなれば勝負を回避する、という選択肢を頭に置いていた。
だがそれではいけないと感じる。
もっとも全ての打席で、ストライクを投げていくのも、それはそれでおかしな話ではある。
ボール球を空振りさせる。
スルーチェンジを使うなら、それも可能なはずだ。
あとは高めのストレート。
大前提としてその前の打者は打ち取っておかないといけない。
先頭打者の和田は、直史に封じられてからも、変に調子を落としてはいない。
出塁率が四割あるのだから立派なものである。
ほぼ六割前後の大介が、後ろにいるので霞んでしまうが。
彼が出塁すると、かなりの確率で大介は敬遠される。
チャンスが潰れるのだが、ランナーが一二塁となるので、得点の期待値は上がっていく。
歩かされる大介をどうするか、というのは首脳陣の重要な問題だ。
ライガースの場合はその後ろに、外国人とスラッガーを並べているので、相手も安易に歩かせるのが難しい。
ただもちろん直史は、あっさりとアウトにしてしまった。
ツーナッシングに追い込んでから、あっさりと高めで三振を奪う。
ネクストバッターズサークルの大介が立ち上がり、スタンドから波のように歓声が湧き上がる。
この対決を見るためだけに、チケットを買った者も多いだろう。
SSコンビと高校時代は称されたが、実際のところ直史はエースクラスのピッチャーであっても、ほとんど背番号1は付けなかった。
重要な試合はほぼ全て、背番号20や18、または10を背負ってマウンドに登ったものだ。
最後の甲子園は、岩崎がどうしてもと言って譲ってきたが。
直史には背番号へのこだわりなどない。
23番という今の背番号は、武史が「ジョーダンやレブロンと一緒だ!」などと羨ましそうに言っていたが。
NPBはともかくNBAでは23というのはかなり特別であるらしい。
だが、本当にどうでもいいのだ。
二桁の背番号を付けて、一軍のシーズンを投げる。
これが一番大事なことであるのだから。
これで邪魔が入ることもない。
大介との対決に集中出来るし、打たれても最悪一点でとどまる。
ただ確実性を取るために三振を奪ったが、大介の前にストレートは見せたくなかった。
だいたい一打席を抑えるために、一試合投げるのと同じぐらいには神経を使う。
つまり直史は最低でも今日、三試合は投げるぐらいに頭を使う。
他のバッターも加えたら四試合か。
一日に二試合投げたことはある。
高校時代は甲子園で、15回まで投げたものだ。
それでもこの日の試合ほどは、疲れないだろうと思う。
これまでも大介とは対戦してきたが、今はその解釈が違う。
投げるということの意味が、直史の中でどんどんと進化し、深化している。
究極にどんどんと近づいていくのだ。
27球で終わらせてしまう試合。
80球以下でパーフェクトをしてしまう試合。
全員を三振で終わらせる試合。
ぱっと考えただけでも、これだけ究極の形はあると思う。
この中で直史は、80球以内パーフェクトは達成している。
だが結局本当の究極のピッチングというのは、投げたピッチャーの中にしか存在しないのかもしれない。
またピッチャーによっても違うものであろう。
直史の場合は、疲労を残さない、持続的に高いパフォーマンスを発揮するのが、プロのレギュラーシーズンの試合としては究極に近い。
究極のピッチングで、大介を抑えられるのか。
正直なところ、大介はそれを超えてくるバッターだと思っている。
限界の手前で足踏みをしている直史は、以前のあの感覚を思い出す。
打たれないという確信を持って投げて、それでも大介には打たれたのだが。
究極に近いピッチングは、強いバッターを相手にすれば、バッターも同じ領域まで上げてしまうのだ。
バッターボックスに大介が入る。
小さく見えないし、大きくも見えない。
そしてホームベースへの距離も遠く感じない。
いつも通りのピッチングが出来る感覚だ。
そしていつも通りのピッチングでは、大介には勝てないと分かっている。
(今日の向こうの先発は大原)
防御率は3点台後半の、悪くないピッチャーだ。
この年齢になっても、年に何度か完投をするタフなピッチャー。
完投が前提の直史がそう評価しても、むしろ皮肉に聞こえるかもしれないが。
大原から先取点を取ってもらい、大介にホームランを打たれても問題のない状況にする。
そのためにはこの一打席目が、一番難しいかもしれない。
一番打者を出していたら、さらに難しくなっていただろうが。
ここは歩かせることを覚悟で、難しい組み立てをしていく。
(そういうのを、待ってるんだろうなあ)
バッターボックスの中の大介は、キラキラと瞳を輝かせている。
真剣勝負だ。お約束の型稽古などではない。
直史にも覚悟がある。
(これが俺の本気だからな)
初球のインハイストレート。
ボール球のそれを、大介は振った。
真後ろに飛んでいくのは、明らかにボール球であったのに。
大介は間違いなく逸っている。
そこに隙があるのだ。
負けるのは嫌いだ。
プロまで野球を続けているような選手というのは、それがどれだけ優れた選手であっても、どこかで敗北の悔しさは知っている。
そんな敗北を知り、負けるのが嫌いだと思っていても、次は勝ちたいと思ってしまう。
負けず嫌いなだけではなく、執念深さも必要だ。
それに諦めの悪さなども。
ただ単純に勝つのではなく、お互いの全力を賭けた勝負。
あるいは負けてさえ満足するような。
もちろん上に行くには、満足してでも悔しさを抱えていないといけない。
(勝ったと思っても、結局は掌の上で転がされていた、ってのもあるからな)
直史の勝ち負けの基準は、試合の結果である。
ピッチャーとしてチームを、一人で勝たせるという気概は、まさにエースのものなのだ。
対して大介は、ピッチャーとの対決にこだわる。
いくら自分が点を取っても、味方のピッチャーが打たれたら終わりだからだ。
今日の先発は大原で、気の毒だがピッチャーとしての格は釣り合わない。
他のバッターが直史を打てるとも思っていない。
だから今日は大介は、本当に好き放題にさせてもらう。
そんなところにインハイストレートが来たものだから、思わず振ってしまった。
しっかりとボールのコースであったのに。
こんな強敵と戦っているのに、楽しすぎる。
気分が浮ついて、見極めが出来ていない。
だがモチベーションは最高潮だ。
(落としてきてもいいし、遅い球でもいいぞ)
基本は速い球を意識するが、直史の速球を意識するのは、感覚的に難しい。
ある程度は読んだ上で、残りは賭けの部分になる。
逃げられないと思った上での戦いが、どれだけ楽しいものであるか。
大介は直史の力が、自分を上回ることを望んでしまっているのかもしれない。
初球でストライクカウントが取れた。
そしてあのコースは、大介の精神状態も量るためのものである。
完全に好戦的になっているが、戦闘意欲が溢れすぎている。
静かに燃焼するような、ああいうタイプの怖さではない。
バッターボックスから湧き上がる、その炎。
確かに派手に見えるかもしれないが、実は温度はそれほど高くはない。
機械よりも正確に投げる。
直史は自分にそう言い聞かせる。
機械などというのも、その日の温度などによってわずかに、パーツに歪みがあったりするものだ。
それを自分で微調整していけるのが、人間という生体部品の塊。
すぐに調整するという点では、むしろ人間の方が優っているのでは、などと直史などは思う。
そんなはずもないのであるが。
二球目は遅い球を使った。
得意のカーブではなく、ボールに逃げていくシンカーだ。
大介はこれは見送り、ボールカウントが一つ増える。
バットを伸ばせば届かないことはなかったが、さすがにこのボール球をホームランにすることは出来ない。
遅い球なので、完全にそれだと読みきっていたなら、手を出していたかもしれないが。
大介が狙っているのは、主に三つある。
カーブ、ストレート、そしてスルーだ。
スルーチェンジは根性でカットする。
ストレートを基準にするのは、直史が今年は最後に、ストレートで三振を奪っていることが多いからだ。
特にムービングを使いだしてからは、最後にストレートを投げて三振を奪うことが簡単になっているように見える。
それまでもちゃんと、ストレートでの三振はあったのだが。
速い球、遅い球ときたからには、次は速い球というのが緩急だろう。
だがそれは、あまりにも当たり前すぎる組み立てだ。
セットポジションから直史が投げたのは、クイックからのスローカーブであった。
普段よりもさらに落差のある、ゾーンは通っているが判定はボールになりそうなコースと角度。
振っても良かったかもしれない。
だが大介はここで我慢して、ボールを見送る。
おそらく打ってもホームランにはならない。ならば打つ必要はない。
審判の判定はボールだ。一応ゾーンは通っているが、ワンバウンドのボールをストライクと判定するのには無理がある。
角度や変化をつけなければ、もう少し考慮の余地はあっただろうが。
(これでカウントはバッター有利だぞ)
リードしているのが直史だということは、二球目で分かっている。
遅いボールが二つ続いたというのは、次は速い球が期待される。
ストレートかスルーか、あるいは膝元へのカットボールなどもあるか。
だが今の大介なら、カットボールは打てる。
スルーもおそらく打てるが、あとはストレートがどういう角度で投げられるかといったところか。
(来い!)
マウンドの上の直史は、特に気負っているようにも見えない。
静かなセットポジションから、脱力の先にあるスピードボール。
大介が空振りしたストレートは、149km/hが出ていた。
単に速いというだけなら、今の直史よりも速いピッチャーはいくらでもいる。
だが実際の速度ではなく、体感速度がこれほど速いのは、コンビネーションの緩急があるからであろうか。
(マジでストレート、160km/hぐらいは出てると感じるんだよな)
ストレートの軌道の問題ではあるのだろうが、これでほぼ球速は上限に達した。
勝負をしてきてもおかしくないカウントだ。
ストレートのスピードというのは、いったいなんなのか。
基本的に直史は、肉体の出力を測る基準でしかないと思っている。
140km/hちょっとで充分に三振は奪えるし、160km/hオーバーでも当てることだけなら出来る。
むしろ緩急差がどれだけあるかが、ストレートというかピッチングでは重要ではないかとも直史は思っている。
ただ純粋に速いボールは、それだけ判断が出来ないということもあるが。
ストレートのギアを上げる、などという言葉もあるとおり、ストレートは一番不思議な変化球でもある。
ほぼど真ん中のボールを、大介は空振りした。
どよめきがスタンドを満たし、キャッチャーから戻ってきたボールを、直史はキャッチする。
これでツーストライクまでは追い込んで、ボール球も一つは使える。
相手が右打者ならば、スイーパーでも使ってボール球を空振りさせるのであろうが、大介は左打者だ。
アウトローへのツーシームでも投げるか。
だが大介の特注バットなら、最低でもカットはしてくる長さがある。
一つ遅い球を入れるべきか。
いや、違うなと直史は思いなおす。
確かに緩急を活かすなら、遅い球を使うべきであろう。
だが意識の間隙を狙うなら、ここで一気に決めてしまうべきだ。
セットポジションから、普段と同じペースで足を上げる。
そしてより強く踏み込んだ。
大介が分かっていたのは、それがストレートであるということ。
そしてそのままでは空振りするということであった。
(浮かぶ!)
強制的にスイングの軌道を変化させる。
そして直史のストレートを、バットに当てていった。
打球は高く上がった。
これもまたドーム球場であったら、天井にぶつかていただろう。
だが後退するライトは、フェンス際まで後退していた。
そこからわずか一歩だけ前に進み出てキャッチ。
滞空時間の長いフライであった。
スピードは144km/hしか出ていなかった。
また大介も、振り遅れるということはなかったのだ。
それなのに感触としては、振り遅れた感触が手に残っている。
(遅いのに速い、か)
スピン量だのライフル回転だの、色々と直史のピッチングについてはMLBでも分析されていた。
その結果として分かったことは、あんなピッチングをしていたら故障する、というものであった。
だが五年間やって、直史は故障していない。直接の故障となったのは、守備の時の無理であったのだ。
球威に負けることなく、引っ張ることが出来た。
あと少し軌道を変えることが出来たら、スタンドまで運んでいただろう。
ぎりぎりの勝負で、ほんのわずかの違いから、結果としては大きく変わる。
だがその結果で評価は決まるし、勝敗も変わっていくのだ。
とりあえず空振りを取りに来た最後のストレートでも、当てることは出来た。
その前の最速のストレートは空振りであったが。
次は打てる、という確信が持てる。
もちろんストレートで勝負してくるなら、という前提であるが。
スルーを結局は使ってこなかったのだ。
そしてスルーチェンジも。
まだ完全にはコントロール出来ていないのかもしれないが。
今日の試合は、四打席目まで回ってこさせてやる。
かなりホップ成分が強いボールを投げたのに、それでも空振りせずにあそこまで運んでいくのか。
直史としては本気の大介に、気おされそうになるのは確かだ。
だがここで負けるわけはいかないのだ。
気迫で押していく。もちろん駆け引きやコンビネーションはあった上でだが。
(スルーを使わなくてよかったのはいいことだ)
フェンス直前まで持っていかれたが、それでも勝ちは勝ち。
わずかに上回っていた、ということは間違いないのだ。
今日の試合は、どうにか三打席までに抑えてしまいたい。
ホームランを打たれたとしても、他にランナーを出さなければ三打席だけで済む。
だが大介の打席は、あと二回は必ず回ってくるのだ。
(味方の援護次第というところもあるか)
大原からなら三点ぐらいは取れるだろう。
そしたら大介から二本打たれても、問題はない。
あともう一打席をホームラン未満に抑えることぐらいは、さすがに出来ると思う。
三番打者を追い込んでから、またストレートで空振り三振。
次の大介の打席に、頭を半分使いながらである。
本当なら中軸を打っているバッターに、注意して投げなければいけないのだが。
ベンチに戻って、真っ先に水分を補給。
これは暑さからではなく、集中からなる汗の流れであろう。
大原も比較的、スロースターターのピッチャーだ。
なのでここで、一点をまずは取ってほしい。
しかし先頭の左右田はまず内野ゴロでワンナウト。
大原も年齢から、かなり衰えてはいるはずなのだが。
(新しい顔ばかりの中に、知っている人間がいると落ち着くけどな)
それがたとえ敵であっても。
そしてかつては敵であったものが、味方としてその力で援護してくれることもある。
二番緒方は、第一打席でソロホームラン。
毎年二桁ほどはホームランを打っている、打率と出塁率の高い長打も打てる小柄なバッター。
長くレックスのショートを守ってきたのは、伊達ではないというわけだ。
まずは先取点は取れた。取ってくれた。
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