第66話 血潮
ライガース相手でも青砥は、そこそこいいピッチングをする。
ただ今の大介を相手に、そこそこのピッチングで通用するのかどうか。
直史は首脳陣の采配に自ら口を出すことはない。
だがペナントレースを制するためには、大介は全部敬遠していいのでは、などとも思っている。
似たようなことをしていたチームはある。
だがそういうことをしても、他のバッターに打たれてしまうのだ。
大介を怒らせると、怒涛の盗塁ラッシュがやってくる。
直史は一応、今日もベンチに入っている。
ただメンバーではあってもブルペンにいて、豊田と話し合ったりしている。
今日の試合はおそらく、昨日ほどにはロースコアにはならない。
青砥を甘く見ているわけではないが、ライガースが昨日よりも積極的に、あるいは確実に点を取ってくると思っているからだ。
そこで五回か六回まで、青砥が投げてくれるかどうか。
もしもそれまでに叩き潰されたら、敗戦処理をしなければいけない。
早めに一人、肩を作っておいてもらう必要がある。
初回からライガースは、先頭打者が出塁している。
そして大介の打席が回ってくる。
「うわ~」
ブルペンで控えのピッチャーが、自分の危機でもないのに頭を抱えている。
だがこういった立場では、投げたくないのが分かっているのだろう。
リリーフというのは、そういうピンチでも回ってくるものなのだ。
直史ならここでどうするか。
「お前ならどうする?」
「一球外してみてから判断するかな」
マウンドの上で感じる微細な情報というのは、モニタ越しでは分からない。
青砥ならばどうすればいいのか、それなりに判断するだけの経験は持っているはずなのだが。
初球から遅いボールを使っていった。
だがじっくりと待った大介は、低めのそれを完璧に掬い上げた。
ボールはそのまま、スタンドの中に飛び込んだ。
青砥にしては不用意な一球だな、というのが直史の感想である。
だがその打たれた青砥は、顔をしっかりと上げている。
おそらく覚悟の上で投げたボールだ。
あるいは自分に責任のなかったボールであるか。
「まだ大丈夫そうだな」
直史の言葉を聞いて、豊田はリリーフの準備を早めることは止める。
実際ここから、ランナーは出したものの、それ以上の失点は許さなかった青砥である。
ああやって後続を絶つピッチングの出来るピッチャーは、コーチ陣から評価されやすい。
そんな豊田は現役時代、ほとんどの期間をリリーフとして投げている。
セットアッパーもあれば、クローザーもある。
意外とセットアッパーでは通用するのに、クローザーの適性はないというピッチャーはいる。
豊田はどちらもいけたタイプで、だからこそブルペンコーチをしている。
青砥がしぶといのは、中継ぎの期間も長かったからであろう。
それも勝ちパターンのセットアッパーだけではなく、ビハインド展開でも投げている。
青砥の場合は、そういう雌伏の時期に、星を見ていたというのも大きい。
プロに入ったのは青砥の方が早いが、星はプロ入りした時から、精神的には完成しているピッチャーであった。
あるいはああいうメンタルは、生まれつきのものであるのかもしれない。
そんな青砥を援護しなければいけないのに、レックスは点が取れない。
今日のライガースは、さほどローテの強力なところではないのにだ。
「そういえば、明日投げるならライガースのローテは」
「大原だな」
直史としては当然のように把握している。
同世代の千葉県の他のチームは、直史たちの登場からしばらくの間、甲子園に行ったのは勇名館と三里しかなかった。
白富東一強時代が、長く千葉は続いたのだ。
そんな中で、白富東にボコボコにされた大原。
だが見ているプロはいるもので、ライガースから高卒で指名。
そこから200勝投手にまでなったのだからたいしたものだ。
(実力的にはともかく、色々と因縁は感じるな)
珍しくもナチュラルに、相手を下に見ている直史であった。
初回にいきなりツーランホームランを打たれた青砥であるが、たとえ試合に勝てなくても、自分が持ってくるべき流れは分かっている。
明日の試合に勢いがつかないように、最低限の仕事はしっかりとしていくのだ。
まず二回の表は、無失点に抑えることに成功。
だがこのイニングには、25球も球数を使っていた。
(くっそ、勝ち投手は無理か)
四回で交代か、あるいは五回で交代するにしても、逆転は難しいように思う。
ライガースのピッチャーの、弱いところには当たっていた。
だから殴り合いをしたならば、どうにか勝てないかとも思っていたのだ。
しかし大介を甘く見ていた。
(51本目か)
大介はNPBに入ってから、怪我をした年でさえ、ホームランが50本を下回った年がない。
MLBに行ってからはさらにひどく、最低が去年の61本という具合だ。
なのでこの時期の51本というのもおかしくはないのかもしれないが。
それでもさすがに、この数字はおかしい。
(うちにもおかしなピッチャーがいるけどなあ)
直史で異常さに慣れているから、青砥は大介の異常さに耐えられていると言ったら言い過ぎであろうか。
青砥もまた、今年で現役が終わるかもしれない、と思っている選手の一人だ。
38歳。野球選手としては、高卒で長生きした方だろう。
ただ去年あたり、肘に違和感があった時がある。
精密検査をしてみても、ネズミなどはなく靭帯にも異常はなかった。
実際に少し休んで、その後はなんとか投げられているのだ。
しかしもし、靭帯の損傷などがあれば、その時はもう引退だろう。
38歳のピッチャーがトミージョンを受けて、そこから復帰するのは不可能だ。
アメリカの場合、定着からリハビリまでを短い期間でやるので、一年あれば確実に次の年までには復活させる。
だがそれでも、40歳のシーズンだ。
既に体のあちこち、この年齢になれば、どこかしらおかしなところは出てきている。
プロ生活が上杉たちの全盛期に重なったため、青砥は大きなタイトルに縁がない。
だが地味に、一度ノーヒットノーランなどをしていたりする。
ローテで投げてもう10年ほどにもなる。
やりきったと言ってもいいだろう。
そのキャリア晩年に、直史が復帰したのだ。
もう一度という執念が、ここまで勝ち星を多くしている。
出来れば通算150勝には到達したかったのだが。
自分はこのプロ野球という世界においては、おそらく脇役であったのだろう。
そして多くの選手が、すさまじく高いレベルで競争しながらも、脇役のまま終わっていく。
だが青砥は、名脇役として長く過ごすことが出来た。
この野球選手としての花道に、もう一度優勝があってもいいだろう。そう考えるのは都合が良すぎるだろうか。
青砥は割りと早めに結婚して子供も出来たので、父親の投げている姿を多く見せることも出来た。
ただチームとしての優勝からは、かなり遠ざかっているのだ。
レックスが一点を返したものの、そこでまたライガースが点を追加。
さらにそこからレックスが、また一点を返すという展開。
わずか一点のビハインドであるなら、勝ちパターンのリリーフを使うのではないだろうか。
明日の試合に直史が投げることを知っている豊田としては、ここでリリーフ陣を使っても、明日は休めることが分かっている。
なので監督がどう考えているのか、豊田はベンチに電話して確認する。
ビハインド展開で勝ちパターンを使うというのは、あるいは明日の直史の登板を察知されるかもしれない。
だがどうせ予告先発はするのだ。
そのタイミングが、どう違うかの問題だけだ。
そして首脳陣は、ここでもわずかに合理的な考えを曲げてきた。
もっともそれなりに、合理的な判断はあるのだが。
勝ちパターンのリリーフ陣を使っていくというのは、コストがかかるしリスクもある。
わずかでも故障のリスクを減らすために、疲労させることをさせてはいけない。
ただライガース相手に、こうやって一点差なのだ。
青砥が投げて、粘り強いピッチングをしている。
ベテランのこういった活躍は、応援するファンの気持ちを高めるのだ。
確かに合理的に考えるなら、ここは温存すべきだろう。
だが合理的に考えても、ここいらで勝負をかけるのは、リスクに対するリターンを考えれば、やってみる価値はある。
「青砥には六回まで投げてもらう」
五回の終了時点で、球数は既に95球。
だが本人の集中力は落ちていない。
合理的に考えるのは、確かに重要なことだ。
だがその合理を超えたところに、野球の真髄はあるのだと、思い知らされる首脳陣。
間違いなく直史の影響がある。
本人が静かであっても、周囲が巻き込まれて激動する。
それは直史の人生を象徴するようなものである。
むしろ本人すらもが、激動の運命に動かされている。
甚だ不本意な人生を、直史は送っているわけだ。
子供たちに対しても、元気で健康であってくれればいいと、そういう望みだけを持っていた。
それすらが叶えられないのが、なんとも人生というものであるらしい。
六回の表、マウンドに登る青砥。
その姿を見て、直史は直感的に悟る。
「豊田、青砥を降ろさせろ」
「どうした?」
「壊れるぞ」
豊田はわずかに思考したようであったが、すぐに電話をかけた。
ブルペンは既に準備されている。
ただレックスは先発が六回まで投げないと辛いのだ。
七回以降はともかく、この六回で試合をひっくり返されることが多い。
しかしレックスの今の最重要課題は、故障者を出さないこと。
自分の直感よりも、直史の直感を信用してしまっているあたり、豊田は賢明であると言えるのかもしれない。
投球練習を開始しようとした青砥だが、ベンチから迫水が出てこない。
そして監督の貞本がベンチから出てきた。
「青砥、予定変更だ。やはりここで交代する」
「監督、確かに球数は行ってますけど、力は残ってますよ」
「そうだな、いいピッチングをしているから、判断を間違えていた」
100球で交代という、原則を守るべきであったのだ。
貞本はそちらのリスクの方は考えていなかった。
監督として、まさか最年少の豊田から指摘されるとは、己の未熟を悟るはるかな年長者。
ここで青砥の故障リスクは、考えなければいけないことなのだ。
青砥はまだ、自分が投げられると思っていた。
だがベンチ裏に戻って座ってみると、途端に体が重くなって立ち上がれなくなる。
精神が肉体を凌駕していた。
しかしそれにも限度というものがあるのだ。
直史のように、試合の終了と共に倒れてしまう、という極端な例もある。
5イニングを投げただけで、こんなことになるのか。
確かに今日は、いつもよりもさらに厳しく投げていったような気はしていたが。
「青砥」
声に反応して億劫ながら顔を上げれば、そこには直史がいた。
「立てるか?」
「俺を降ろしたのはナオさん?」
「監督だろう」
確かにこれまで直史は、監督に対しての進言などは控えていたのだが。
直史は左手を差し出して、青砥はその手を取った。
「情けない。5イニング投げてこんなの」
「この試合はけっこう重要だったからな」
本当に集中して投げれば、こうやって精神が肉体の限界を早めに使ってしまうということもあるのだ。
直史がそれを理解しているのは、自分が本当に限界まで投げて倒れたりしたことが、何度かあるからである。
よく投げてくれたものだ、とは思う。
だがやはり、あと1イニングあったらな、とも思う。
六回を任せられるリリーフというのが、なかなかいないのだ。
先発が六回まで投げられれば、その必要もなくなるのだが。
球数、イニング、ピッチャーの枚数。
全てが足りていないとも感じる。
(今日の試合は負けても仕方がない)
少なくともライガースは、レックスのしぶとさを感じてくれただろう。
精神的に優位とまではいかないが、互角にまで持っていければ、あとは直史の仕事である。
レックスのリリーフは、勝ちパターンのセットアッパーまでは準備をしている。
さすがに負けている試合で、クローザーは使わないが。
もっともセットアッパーとしても長く投げてきた豊田は、中継ぎの重要性をしっかりと分かっているのだ。
分業制が当たり前になった現代野球において、中継ぎを軽視するチームは弱い。
簡単に逆転される可能性が高いからだ。
かつてのレックスも、クローザーの鴨池の役割は大きかったが、豊田や利根もしっかりホールドの数を増やして評価されていた。
そして星の便利さなども。
この六回を無失点に抑えられれば、まだビハインドでもセットアッパーを投入し、逆転のチャンスはある。
ただライガースも、弱ったところを逃さない技術を持っている。
技術と言うよりはもう、パターンというかノリと言うべきか。
とにかく隙を見せたら、一気に持っていかれるのだ。
それを上手くかわしていくだけのメンタル的な技術は、やはりベテランにしかないものなのだろう。
ライガーズは一点を加えた。
これによって点差は二点となる。
六回の裏に一点を返せるかどうか。
これによって首脳陣の判断はまた変わるだろう。
勝ちに行くか、それとも温存するか。
直史は青砥をトレーナーに任せて、肩肘の調子を見るように言っておいた。
おそらくローテを一回は飛ばさなくてはいけないだろう。
だがそれで済んで良かったのだ。
この試合には重要な意味があるが、青砥を壊してまで挑むリターンはない。
点は加わらない。
これで首脳陣は、この試合を諦めた。
だが下手に勢いをつけさせるわけにはいかない。
クローザーのオースティンは使わないが、勝ちパターンのリリーフを使って、ライガースの勢いを最低限のものとする。
少しでも直史が投げやすいように、と考えてのものである。
ライガースの首脳陣は、このレックスの動きを少し不思議に感じていた。
レックスの継投の原則は、リリーフに三連投はさせない。
確かに昨日は三島が七回まで投げたので、セットアッパーも一人は使っていないのは確かだが。
ローテ通りなら上谷が投げるところであるが、雨天でローテがずれているので、ここのところ好調の百目鬼の先発も予想していた。
だが百目鬼を投げさせるなら、ここで強い勝ちパターンのリリーフは使わないはずである。
それなりに勝ち目があると思えるからだ。
どういうことなのか、大介はなんとなく予感がある。
直史は今季、頑なとも言えるほどに中六日以上の日程を空けてきた。
確かに一度は軽い故障もあったので、それが正解であるとは思うのだ。
だがここのところの直史は、完全に己をコントロールしているように思う。
八試合連続でマダックスで、ノーヒットノーランも四度目の達成。
七月は奪三振率も13.25と急激に上がった。
今の直史なら、中五日をここで一度挟んでもいけると思う。
かつての力が戻ってきた、というのとは違うだろう。
今の直史は、また以前とも違う直史だ。
違う方向に進化しているのだ。
(明日、投げてくるのか?)
予告先発では一応、上谷になっているのだ。
急な変更は不可能ではないが、ペナルティがある。
ただ今の上谷は、正直ちょっと二軍で調整した方がいいレベルで勝ちがついていない。
(ここでローテを変えると、もう一度ぐらいは当たることになるぞ)
シーズン中の対戦。
もちろん大介はそれを望んでいるが、心がまとまっていないのも確かだった。
試合結果は、6-3でライガースの勝利に終わった。
ただ、どこかしっくりこない勝利の後に、予告先発の変更が発表される。
ライガースは大原であるが、レックスは直史へと変更。
理由としては上谷の不調によるローテの繰上げというところである。
確かに上谷はここ五試合勝ちがついていない。そもそもローテーションを守るには実力が微妙なピッチャーだ。
今季は15試合に投げて4勝6敗。
六回まで投げきれた試合は二回しかない。
ただそれでも二軍に落とされなかったのは、五回しか投げられなくても、どうにか五点までには抑えているからだ。
二軍で勢いのいいピッチャーが出てきたら、落とされるのも仕方がない。
これがプロの世界である。
もっとも上谷は青砥がローテを一つ飛ばすことになり、もう一度一軍の試合で投げるチャンスを与えられることになるのだが。
直史と大介の対決が成立する。
前回の対戦は、明らかに直史の勝利であった。背景を知らない一般人は、それが分かっている。
二人だけの秘密であるが、おかしいなという程度に感じた人間はそこそこいた。
一時期不調に陥った大介が、今度も不利だと思う者は多い。
だが当の二人は、そんなことは考えていない。
今度は間違ってはいけない。
ただ大介にとっては、やや奇襲だなと感じられた。
とにかく故障だけは絶対に避け、そして沢村賞の獲得を最優先に考えている直史が、少しでも勝率の低い試合に出てくる理由。
そこが大介には分からない。
レックス首脳陣は、確かにここいらで勝負をかけてくるつもりがあったのかもしれない。
しかしそれを、直史が承諾するというのが意外なのだ。
(まあ、俺は嬉しいけど、今度は手加減はないぞ)
野球の神様を、裏切ってはいけない。
それは野球の歴史を作り、愛してきた人々の蓄積であったのだから。
中五日は問題ない。
現時点でも直史は、各種タイトルの規定投球回を上回っている。
18勝0敗で勝ち星は、このままでも最多勝が取れる可能性はある。
また勝率や防御率は完全なトップ。
完投数も追いつかれる心配はないし、唯一の微妙な点は奪三振ぐらいだ。
今の時点で故障などをしても、残した数字なら沢村賞に相応しい。
ただこの賞はどうしても、年間を通じて投げたことを重視される。
かつて1981年の沢村賞にケチがついた理由の一つにも、故障による一時離脱があったのだとか。
確かに登板数などは負けていたが、投手五冠を取っていて沢村賞を取れなかったということで、選考の手段が変わってしまったというあれである。
直史もたいがい、NPBの長老には嫌われているというか、忌まわしく思われていることは承知している。
なので短期間ならともかく、一ヶ月も休んでしまったら、それを理由に選出されない可能性があると思っておくべきだ。
上杉がついに沢村賞を取れなくなった時は、26試合に先発登板し、16勝5敗であった。
取っていてもおかしくないが、完投能力の低下が理由となっていた。
また奪三振数も、最盛期からは減っていたということが挙げられる。
さすがに20試合だけの先発で、沢村賞を取ることは前例がない。
短縮シーズンであった例外は、一応あるがこれは適応されないだろう。
次の試合で直史は20試合目の先発。
最低でもそこから四試合は先発登板をしておきたい。
24試合で一試合ぐらいはアクシデントがあったとして、22勝1敗ぐらいの成績であれば、さすがに選ばないわけにはいかないだろう。
もしもそれで直史が選ばれなければ、1981年の混乱をまたも引き起こすことになりうるのだ。
それにしても20勝して投手五冠を取って、それでも沢村賞を取れなかったというのは、選ぶ方もちょっと判断力が低下していたのではないかと思う。
野球の世界というのは閉鎖的で古いものであると、直史は分かっている。
直史の覚悟を大介は感じている。
だが同時に、どういう理屈で登板を決めたのかが分からない。
当人に訊くというのは、もう止めておく。
直史は優先順位を間違えるはずがないはずなのだ。
まさか大介に忖度を求めているはずもないだろう。
あるいは大介との勝負を避けてくるか。
かつての直史なら、それは絶対にしなかったことだ。
だが今の直史の背負っているものは、かつてのものよりもずっと重い。
誰かに助言を求めるにせよ、それは前回の試合の罪を告白するのが前提であるため、やはり誰にも相談できない。
これは精神的には、直史が有利になっている。
大介は滞在先のホテルで、一人そう考えていた。
ピッチャーを選ぶのは、相手側にのみ許された権利。
ペナルティを食らってでも、この奇襲は確かに有効だ。
(勝負の機会が増えたのを、素直に喜べばいいんだろうけどな)
ただ今年の直史は、あらゆる意味で過去のいつよりも特別だ。
本気の直史とは、確かに何度も対戦してきた。
しかし今度の直史は、単純に本気であるのとは違うだろう。
己の命をも燃焼させる。
それぐらいの覚悟を持っているのではないか、と大介はわずかに身震いした。
さほど注目はされていないが、直史の登板にショックを受けている人間は他にもいる。
対戦する相手となってしまった大原である。
大介とは同期で入団し、叩き上げとしてここまでずっと投げてきた。
上杉の全盛期と被りながら、タイトルを取っている数少ないピッチャーの一人でもある。
それに200勝にも到達し、もっと早くに到達した真田が引退しても、大原はまだ現役にしがみついている。
実際にそれなりのピッチングはする、今でもイニングを食えるピッチャーではあるので、ローテからは外しにくい。
大原としてもまだまだ投げられるな、と思いつつもう勝ち星が二桁には届かないようになっている。
しかし長く続けられたという時点で、それはプロ野球選手としては成功なのだ。
どれだけ長くやっていけるか。
大原としてはそのためにも、シーズン20登板はしたいと考えている。
負ける試合にしても、六回か七回まで投げたなら、充分にチームに貢献したことにはなる。
イニングイーターは貴重なのだ。
たとえばプロ生活で投げたイニング数などは、真田よりもずっと上になっている。
さすがに上杉には負けるが。
そんな大原にとって直史という存在は、目障りであることは間違いない。
気まぐれのようにプロの世界に入ってきて、たったの二年でMLBに移籍。
そしてそこで誰も成し遂げられない偉業を、どんどんと達成していった。
現役期間はわずかに七年。
それなのに記憶に残るだけではなく、記録にまで残るピッチャーとなっていった。
むしろ現役期間が短かったからこそ、その伝説は語られる。
早世したミュージシャンなどが神格化されるのと似ているかもしれない。
しかし40歳で現役復帰。
大原は同じ年齢なだけに、40歳という年齢の重さを理解している。
単純に加齢による衰えというものもある。
加えてブランクが長すぎるのだ。
地元が千葉だけに、大原も直史のその後は風の噂で聞いていた。
セカンドキャリアで成功しているのなら、また野球の世界に戻ってくる意味などないだろう、と思ったものだ。
プロの世界はそんなに甘くはない。
直史を甘く見ていたのは大原の方であった。
最初はコントロールのいい軟投派という認識であり、そして甲子園でノーヒットノーランをする姿を見た。
自分もいずれはと思っていたが、結局甲子園には届かなかった。
しかし大学に進んでも、球速では大原の方が上回っていた。
その最後の優位も、直史が大学で、あの体格で150km/hを出したことでなくなってしまったが。
オールドルーキーとしてレックスが指名した時も、ありえないと思ったものだ。
そこからの展開の方が、さらにありえないものであったが。
当時ほぼ最強であったのは、ライガースとレックス。
だがレックスを一段階上のステージに持っていった。
二年間で50勝というのは、高卒の大原が当時は、六年ほどもかけて到達した数であった。
その直史はMLBに行ってからの方が、むしろ人間離れしていた。
過去に達成されたパーフェクトのほぼ半分が、直史のものであるというのは異常すぎる。
そしてたったの七年で、200勝に到達したのだ。
同じ時期に武史もMLBに行ったが、一度も30勝には到達していない。
だが直史は、シーズンを通じて先発した年は、最低でも30勝はしている。
負けたくない。
あんな自分勝手で、自分の都合だけで動き、それが許されてしまう人間。
別に人格が最低だというわけでもないが、自分が人生を賭けたこの野球の世界を、好き放題に引っ掻き回すという存在。
今の自分には、充分な打線の援護もある。
一度だけでも勝たせてほしい。
勝ちたいと思っただけで勝てるなら苦労はない。
直史と対戦してきた多くのピッチャーが、一度ぐらいは負けろと思っていただろう。
それこそ真田などは、ずっと目の上のたんこぶではなかったか。
もっとも真田は、プロ入り後はしっかりと栄光を手に入れている。
直史のいないところ、でだが。
直史に勝利したのは、直史には勝てるはずもない、と思っていた武史だけである。
もちろんあの勝負が公平で平等だった、とも思っていない。
完全に無欲であったからこそ、勝てたと言うべきであろうか。
しかもあの試合もまた、かなり運の絡んだ要素があった。
直史はだいたい、運勢によって負けることが多い。
それは他のピッチャーも同じであるが、直史の場合はその運命をおおよそは自分の力で捻じ曲げてしまえるのだ。
ただ本人は、運が良かったことは理解した上で、やれることを全てやっている。
キャッチャーが良かったらもっと楽だったな、というぐらいのことは今でも思っているが。
大原との投げ合いなど、全く眼中にない。
そもそも大原からなら、何点かは取ってくれる打線であるし、大原も明らかに衰えてはいるのだ。
大原から味方が点を取ってくれるまでに、大介の得点を抑える。
それが直史の現実的な考えである。
傲慢ではなく、自信でもなく、ただの事実。
直史はそう思っているが、その時点で既に傲慢でも自信でもあるのだ。
そして眠りに就く。
この日だけは夢も見ないであろう。
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