第61話 野球の季節
スローカーブを悟は打った。
バランスを崩しながらも、上手く足を踏み込んでからのヒッティング。
ライト前に鋭く放った打球。
ただそこから、慌てて一塁に向って走ることになったが。
ライトゴロになりかけたが、悟の足でぎりぎりセーフ。
本日の成績はこれで四打数二安打である。
一人のバッターにマルチヒットを許すのは、いったいいつ以来であったろうか。
大介にも打たれたことはあるが、他にもあったはずだ。
だが思い出せないのは年のせいではないだろう。
五年以上前のことを、すぐに思い出せというのが無理なのだ。
(やっぱり手強いな)
そうは思いながらも、直史にはまだ余裕がある。
結局は単打が三本だけであるのだ。
ただ九回の表に1-0から同点のランナーが出るというのは、嫌な流れではある。
長打が出れば一点が入るかもしれない。
だが普通のヒットやエラーでは、まだ失点にはつながらない。
盗塁をしかけてきたら、それは確かにまずいかもしれない。
(やるとしたら初球に単独スチールかな)
そこまで思い切ったことをやってくるなら、タイタンズは今度も注意すべき相手となるであろう。
背中で感じる限りでは、とてもそんな選択をするようには思えない。
どのみち三塁まで進んだとしても、そこで終わらせる。
直史はそう判断して、目の前のバッターに集中した。
一塁から、走れるものなら走ろう、という意識は悟にはあった。
だが直史のクイックというのは単純に速いのではなく、その動作の起こりが分かりにくい。
100m走に例えるなら、スタートのブザーが聞こえにくい、ということにでもなるのだろうか。
(せめてプレッシャーぐらいかけてみたいんだが)
直史はまるで背中に目があるかのように、悟の方には視線を向けない。
完全にバッター勝負と割り切っているのだろう。
これは本当に手強い。
直史が思ったのと同じことを、やはり悟も思っていたのである。
どうにかランナーを進めたい。
タイタンズの首脳陣も、それは考えているのだ。
1-0とわずか一点差のため、悟がホームに帰ってくれば同点になる。
それは今年初めての、直史に黒星を付けることにもつながるのではないか。
ほとんど異能生命体とまで思われている、ピッチャーとしての直史。
レギュラーシーズンの無敗記録を、復帰一年目の今年であれば、途絶えさせるのは難しくないというのが、シーズン前の各球団の予想であった。
予想したヤツ出て来い。
開幕戦からの連続勝利記録。
これは以前に2シーズンを過ごした時から考えると、NPBでは68連勝となる。
途中に引き分けは挟んでいるが、それでも完全に他の誰も追随出来ない、唯一上杉のみがかろうじて比較できる、圧倒的な記録である。
そこに負け星をつけることが出来れば、それもまた記録に残るだろう。
そんな誘惑にかられたタイタンズ首脳陣であるが、ここで盗塁のサインを出したのは間違いではないだろう。
だが悟が、それは無理だと返してくる。
直史の球速や変化球、そして迫水の肩などを考えると、それなりの成功率はあると思うのだが。
それでもタイタンズは、悟の感覚の方を信じる。
この試合をどうにか勝ちに行く。
誘惑と言うよりはほとんど、もう執念である。
なので悟としても、走りたいことは走りたいのだ。
しかしこの迷いが、結局は敗因となった。
直史はストレート二球で、一気にツーストライクを取った。
クイックからのストレートだが、しっかりと144km/hは出してくるストレート。
これをバッターは狙っていたのだが、空振りが一つとファールチップが一つ。
ランナーである悟が走る隙がない。
(ベテランと言っても、プロのキャリアは俺の方が多いんだけどな)
悟はそうも思うのだが、直史の蓄積しているものは何か、野球とは全く別のものにも感じるのだ。
そして追い込んでからの三球目、直史が使ったのは本日二球目のスルーチェンジ。
悟のようにバッターボックスの中で粘ることは出来ず、これを空振りした勢いのままバッターは尻餅をつく。
バウンドしたボールをキャッチした迫水が、それにタッチしてスリーアウト。
結局最後のチャンスらしきものは、チャンスらしきものに見えただけの別のものであったらしい。
直史はこれで18勝目。
八月最初の試合で、もう18勝に到達した。
当初の予定では20勝すれば沢村賞も取れるだろう、程度には思っていたのだが、どうにも直史は物事を、悪いことが起こるのを当然と考えて備えるクセがある。
ここまで18勝して、勝ちがつかなかったのは一試合だけ。
この圧倒的な成績は既に、沢村賞を確実にしていると言えるのではないか。
だが過去の歴史を見れば、途中離脱が理由の一つに、沢村賞に選ばれなかったピッチャーもいる。
そう思えば油断できないと考えてしまうのが、本当に病的に心配性と言えるのかもしいれない。
ただかかっているのは命だ。
一応は今年で条件を満たす、などということは言われていない。
だが来年になれば、さらに直史は年齢を重ねる。
それを考えれば今年が、一番のチャンスではあるのだ。
何かが起こるか、とほんの少しだけ感じさせた悟であったが、結局は何も起こらなかった。
ただミートだけに絞っていけば、打てなくもないとは思えた。
長打があってこそ、OPSが上がって得点につながるというのが現代野球。
しかし高いミート力というのは、やや軽視されるのが現代野球でもある。
得点につながらない単打を重ねるというのは、スモールベースボールだ。
一点を追いかける、トーナメント用の戦術。
それを使うことが、現実的に直史から点を取る手段に思える。
実際は今年、ホームラン以外では点を取られたことなどないのに。
直史としては疲れる試合であった。
ただインタビューを受けて、今日もまた100球投げていなかったのを知る。
98球でヒット三本に抑えている。
ダブルプレイがなかったため、30人の打者と対決したことにはなってしまったが。
初回でいきなりノーヒットノーランまで消えてしまったが、地味に魔法がまだ続いていたらしい。
今日は球数を数えていなかった直史である。
悟と、その前後のバッター相手には、それなりに注意して投げたつもりである。
なので今日は100球は超えたかな、と思っていたのだ。
「今日は幸運でした」
だいたいいつも通りの「運が良かった」宣言である。
ただ今日は間違いなく、悟にはクリーンヒットを打たれている。
あのレベルのバッターが、長打を完全に捨て、狙い球を絞れば、単打程度は打てるということが分かった。
重要なのは大介が長打を捨てれば、かなりの確率で打ってくる、ということだろう。
大介の場合は体勢を崩しても、体軸を回転させて腰の力である程度飛ばしてしまうので、長打になってもおかしくないが。
他のバッターでも、アベレージヒッターが直史の敵になってくるかもしれない。
もっとも今回の場合は、悟が上手く絞ったとも言えるのかもしれない。
しかし同じバッターに二本もヒットを打たれたのは、微妙にショックの直史であった。
三安打完封というのは、普通のピッチャーなら完勝とも言うべき内容である。
しかし直史とレックスにとっては、そうでもなかったらしい。
上がりでベンチにも入らない直史。
強い先発の続くレックスの試合であったが、直史を打って自信をつけてしまったのか、悟が二試合で3ホームランの六打点と大暴れ。
オーガスと三島で試合を落としてしまったのは大きい。
高校野球は夏本番であるが、実のところ多くの三年生は、八月を前にその夏が終わっている。
しかしいよいよ甲子園が始まるということで、関西の方は特に盛り上がっているだろう。
この季節、ライガースは大阪ドームを使うにしても、アウェイの試合が多くなるため、それなりに調子を落とすことが多い。
だが大介はカップス戦にてようやく、またホームランが出た。
八試合ホームランが出なかったが、一本打つとまた次の試合も打つ。
その大介を歩かせると、後ろのバッターが打ってくる。
ホームランと盗塁で、相変わらず大介はトップである。
ただホームランはともかく、盗塁では同じライガースの一番が、それなりの差で追いかけている。
塁に出ている回数を考えると、むしろ試走の機会は少ないとさえ言える。
だが積極的に走っているのだが、あまりそれは意味がない。
一塁を空けてしまうと、大介が敬遠されやすくなるからだ。
ともかくこれでレックスは、八月に入ってから直史が勝ったのみであとは四試合負けている。
ライガースも全勝というわけではないので、まだ再度の逆転というわけにはいかない。
だが夏を前にして、ライガースは上手く勢いをつけることに成功したと言えるだろう。
それに比べるとレックスは、完全に勢いがなくなった。
いや、流れが悪いと言うべきか。それなりに打線も点を取っているのだ。
神宮でのホームゲームが終わった。
この季節はドームの方が涼しいよな、と直史などは思うが、次の対戦相手はカップスである。
今年は大介のせいでスタメンが離脱し、最下位に位置するカップス。
言ってはなんだがここで勝ち星を増やせないとかなり辛い。
ただカップスはこの数年、若手を上手く育てている。
レックスも先発ピッチャーの強いところで戦うわけではないので、厳しいものはある。
また直史は豊田から、不安なことも聞いていたのだ。
ここのところ、レックスは終盤に勝っている試合というのが、直史の完投した試合しかなかった。
なので勝ちパターンのリリーフ陣が、実戦から遠ざかっている。
暑い時期に上手く疲労を抜くことは出来ているのだが、試合勘も鈍ってしまってはまずいであろう。
まだリリーフはそれなりにブルペンでも投げて準備はしたのだが、クローザーのオースティンは本当に登板の機会がない。
オースティンはもう36セーブもしているのだから、仕事はしっかりしているのだ。
他のチームのクローザーと比べても、明らかに安定感はある。
もっともクローザーというだけなら、直史がやるのが一番ではある。
さすがに今のローテから、大黒柱を抜くわけにはいかないが。
この夏の時期をどう乗り切るか。
コンディション調整が大変な季節である。
甲子園がいよいよ始まる。
例年であれば、懐かしさと共にテレビで見ることもあったが、明史の体調が悪化してからは、自分ではあえて見ようとはしていない。
もちろん真琴が見るのを、止めようなどともしていないが。
しかし今年は、甥の司朗が帝都一の選手として甲子園に出場する。
あの名門で一年から四番に座っているというのは驚きだが、ジンが四番を最重要視しているとも限らない。
大介は高校の三年間、わずかな例外はあっても公式戦は、基本ずっと三番打者であった。
そのイメージもあって国際大会でも、多くは三番を打っていた。
長打力がまだそこまでないはずの一年生であれば、それこそ三番あたりを打たせるのがいいのでは、と直史は思うのだ。
来年はいよいよ、真琴も高校生。
昇馬も一緒に進学するなら、一年の夏から甲子園は狙えるかもしれない。
まさか子供たちが甲子園を具体的に狙うという年齢になるまで、プロの現役で投げているなどとは思わなかった。
ただ大介は、まだ力を充分に残しながらも、NPBに戻ってきた。
あるいはあと三年、現役でいることが出来れば。
高卒の昇馬と、プロの舞台で対決することがあるかもしれない。
まさかとは思うが、大介なら可能性は充分にある。
直史が投打のどちらも出来る昇馬と、プロで対決したりすることはない。
そんなに長くプロにいるぐらいなら、故障覚悟でパーフェクトを狙った方がまだマシであると思うからだ。
(そういえば)
真田なども確か、双子の男の子が同じ年齢だったはずだ。
もっともシニアでは、直史が積極的でないということもあるが、名前を聞いていない。
上杉のところも長男は、野球をやっていないのだとか。
子供たちの成長を感じていたというのが、これまでの人生だった。
それが今では、自分たちが最も燃焼していた年頃を迎えようとしている。
(……真琴の性教育とかは大丈夫なのだろうか)
己の高校時代を省みて、そこが心配になる直史であった。
大介は夏男である。
正確には、暑い季節と熱い舞台に強いというものだが。
夏休みも本格的に始まり、観客の中に家族連れと共に学生が増えてきたりする。
そしてカップスを三タテで降した次のカード、相手はスターズ。
第一戦に投げてくるのは上杉である。
今年のシーズン前は、さすがにそろそろ引退か、などと言われていた上杉である。
しかしこのシーズンここまで11勝1敗と、例年ならば沢村賞ペースで勝ち星を増やしている。
もっともさすがに完投は少なく、それがいいピッチングをしても、なかなか勝利につながらないのかもしれない。
スターズはAクラスは狙えるが、本来なら再建期であるのだ。
上杉も夏男である。
と言うか純粋に大舞台でも恐れなく投げることが出来る。
背中にどれだけの期待を背負っても、それを苦痛に感じることのない、日本の歴史に残る大投手。
時代が違うので更新は不可能と言われた、400勝を更新してしまったピッチャーだ。
アメリカで頑張っている武史が、割りと近いところに迫っているが、MLBはまた登板間隔なども違うし、日米通算を含むのは難しいだろう。
だが上杉はセーブはともかく、勝利数は日本でのものだけで420勝を超えた。
高卒からプロの世界に入って、二年間は故障とリハビリ。
それでここまでの記録を作り、まだ勝ち星を増やし続けている。
直史が奇跡であるとしたら、上杉はまさに偉大である。
通算記録の多くは、上杉を上回ることは出来ないのだ。
別に直史は、悔しいとも思わないだろうが。
大介としては上杉との対決は、昔とは違うものになっているな、とは思う。
正面から対決して、まともに大介と戦える唯一のピッチャーではなくなっている。
しかしその衰えた部分が、直史のような老獪さで埋められてきている。
直史のキャリアをして、老獪と言うのはおかしなものかもしれないが。
思えば直史は、初めて会った時から、方向性のおかしなピッチャーであった。
アウェイのゲームなので、ライガースは先攻である。
当然ながら二番の大介には初回から回ってくるが、投球練習をする上杉を見ていても、今日の調子がいいのか悪いのかは分からない。
かつてと違い上杉には、衰えと引き換えに得たような、奥の深いところがある。
事実上、この20年のプロ野球を引っ張ってきたピッチャー。
日本を代表する、オールタイムベストナインに間違いなく選ばれるエース。
大介とはほぼ同等であるが、年齢に差がある。
先に甲子園に出て、先にプロに入って、先に引退するのか。
当たり前のことのようにも思えるが、残念であるのは間違いない。
(一期一会か)
バッターは特に、それを感じる。
一度の対決の結果を、次に結び付けなければいけない。
それもそうなのだが、次があるなどと気楽に考えていてもいけないと思う。
考えてみれば高校時代などは、全てのボールをホームランにする、ぐらいの気持ちで打っていたように思う。
そんな集中力を保つのは、プロのシーズンでは難しいと分かっているが。
先頭打者を片付けた上杉。
そして二番打者の大介を迎える。
この二人の対決だけで、今日の試合は見る価値がある。
前回の対戦では、試合結果では上杉が勝っているが、打撃成績では大介が負けているとも言いがたい。
二人の間で視線の火花が散る。
(あと何度……)
生命を燃やすような、この対決があと何度あるか。
そんな大介に投げた上杉の初球は、アウトローストレート。
165km/hが出て、スタジアムが小さく揺れた。
今季の他の試合では、上杉の投げるボールは160km/hが最高。
もちろんこれでも、助っ人外国人のリリーフを含めてさえ、ほんの数人しかいない球速ではある。
だが大介相手には、圧倒的にそれを上回るピッチングを見せている。
これは他のバッターには抜いて投げている、というのとも違う。
大介が上杉の力を限界まで引き出しているのだ。
二人の世界が成立する。
大介にとってそれは、この世で立った二人。
上杉と直史だけであり、武史や真田、MLBで対決した他のピッチャーなどもその領域には至らない。
ピッチャーとバッターの対決から始まる、野球の最も原始的で根源的な部分。
これを共有し、そして共感出来るのは、本当にほんの数人しかいないのだ。
人は分かり合える、と感じてしまうものだ。
この段階に入ってくるともう、読み合いとか組み立てとか、そういうものではなくなるのだ。
直史などの場合は、お互いにどれだけ相手に理解させないか、という別次元の話になってくる。
上杉は本当に、自分と同じ方向を向いてくれているピッチャーだ。
同じバッターには、自分と同じレベルで先を見ることが出来る人間はいなかった。
それでも対決する中で、大介は敵であるはずのピッチャーを相手に、敗北したとしても友情めいたものを感じるのだ。
二球目、上杉は大介に対して、カットボールを使ってくる。
160km/hオーバーのこのムービングに対し、大介はバットの根元で打っていく。
ライト方向に大きなファールの打球が飛び、それでまたスタンドが揺れる。
あと少し、と見えるかもしれないが、現実としてはツーストライクに追い込まれている。
だが大介は特に追い込まれたとも感じてはいない。
それはあまりにも表面的過ぎる見方だ。
ピッチャーとバッターの勝負は、結局最後の一球がどうなるか、というものだ。
ここまで速い球を続けてきたのだから、遅い球を使ってきてもいい。
その次で打ち取るために、緩急を使うというのは当然のコンビネーションだ。
ただ最後に速球を持ってくるというのも、あまりにも単純な思考だ。
上杉は大介相手には、単純な力だけではない全力で挑んでくる。
自らの衰えを知っていながら、これまでは普通に投げてきたものである。
大介相手にそれは傲慢であるとも、上杉は分かっている。
自分を曲げるわけではない。バッターを全身全霊で打ち取るというのは、それが本来の上杉のスタイルなのだ。
三球目、高速チェンジアップが落ちて、バウンドする。
あの分かりやすいカーブは使ってこなかったようである。
速いボールにタイミングを合わせていた大介は、これを余裕で見逃す。
やはり次が勝負球になるのだろう。
スピードボールがくることは間違いない。
果たしてそれにどこまで反応出来るか。
一度バッターボックスを外した大介は、タイミングを自分の中で 作り直す。
上杉は最高のスピードボールで勝負してくる可能性が高い。
だが念を入れてもう一つ遅い球を投げてきてもおかしくはない。
大介は速球を待っている。
上杉は結局、自分の一番のボールで勝負してくると思うのだ。
結局のところ、全力のストレートが一番打たれない。
それを上杉なら分かっているはずなのだ。
ただ単純なストレートなら、大介は打てる。
直史のようなストレートの方が、打てないというのは皮肉だ。
大介を相手に、上杉は確かに全力を出す。
この試合はそうしなければ、勝てない試合だと分かっているからだ。
特にこの初回、大介を抑えるということには、ライガース打線を封じるための特別な意味がある。
ついこの間、レックスが直史で勝った後、同じカードを三連勝したように。
三球目に投げたボールは、ストレートのはずであった。
だが大介は、それを迎撃する直前には、違うと気づいていた。
ナチュラルシュートとでも言うべきツーシーム。
大介はバットのヘッドを走らせて、それを上手くミートする。
低い弾道の打球は、サード正面。
野手の腕を破壊するほどの威力は、今回のボールにはなかった。
サードライナーにて、まず第一打席は上杉の勝利。
ただ打球の方向に運があれば、普通にヒットにはなっていただろう。
勝敗の天秤は、まだ一方の方向にだけ向いたわけではない。
初回は三者凡退のスタート。
ここからまずスターズは、先制点を取っていかないといけない。
今日のライガースは裏ローテとも言うべきもので、スターズ打線を0に封じるのはちょっと難しい。
全てのバッターにギアを上げて勝負するわけではない上杉を、どのようにして攻略するのか。
ナチュラルシュートしたボールでも、165km/hは出ていた。
大介でなければ、当てることも出来なかっただろう。
大介を封じるためにも、他のバッターは八分の力で抑えなければいけない。
今日は完投することも覚悟している上杉である。
前年までも二桁勝利をしていて、二桁勝っている間は引退はないのでは、とも言われていた上杉。
しょせん勝敗というのは、打線の援護も関係してくるので、せめて防御率やWHIPで評価すべきが正当なのだが。
どのみち上杉が凄いことは、誰も否定できない。
毎年10勝するピッチャーが、戦力にならないはずもないのだ。
初回を三人で抑えた上杉に対し、ライガースは初回から点を取られていく。
だがここで絶望的な空気にならないのが、やはりかつての上杉とは違う、ということなのだろう。
ライガースのかつての超強力打線の中でも、上杉相手にまともに対決出来ていたのは大介と、かろうじて西郷ぐらいであったろう。
助っ人外国人が、本当にあれは日本人なのか、と言っていたものだ。
その後の一年間だけのMLBの実績で、アメリカの野球界にもその力を見せ付けたが。
国際大会の方が、その活躍度合いは目立ったかもしれない。
二回の表も、上杉はライガースを三者凡退に抑える。
160km/hが一度しか出ていないが、それでも普通は抑えられるものなのだ。
かつては連続奪三振記録なども作っていたものだが、今はその球威を利用して、打って取るというスタイルも上手く使っている。
本格派であるが、打たれるときはフライよりゴロが多い。
意外と球数が少なくなっているのは、そのあたりも関係しているのだ。
内野安打、もしくは内野を抜けていくゴロで、上杉は少しはヒットを打たれる。
また昔から言われているが、巨体であることもあって、フィールディングは練習しても平均程度でしかない。
そこからどうにか、一点ぐらいは取れるチャンスが出てくる。
しかしこの日の上杉は、そういった隙を見せない。
ランナーは出るが、連打を許さない。
そして大介の二打席目は、四回の先頭として回ってきた。
(まずは先頭打者が出ないと、話にならないよな)
ノーアウトからランナーとなれば、足を使ってかき回すことも出来る。
もっとも後続のバッターが打てるのか、という大前提の問題があるが。
スピードボールにタイミングを合わせて、大介は待っている。
最初の打席、あれをヒットに出来なかったあたり、やはり上杉のコンビネーションは幅が広がっていて、難解なものとはなっている。
もっとも変化球などを増やすというのは、故障の危険も増えるのだろうが。
上杉が大介以外に本気を出さない理由。
それはペース配分とか、必要ではないとかだけではなく、単純にもう壊れるかもしれないからだ。
最も力を込めた、速球系。
出力が高ければ高いほど、壊れやすいのは当たり前だ。
もう野球の世界では、やり切ったとも言えた。
次のステージに進むべきだ、とは父からなどもよく言われていた。
弟である正也などは、既にそちらに進んでいるのだから。
しかし大介が戻ってきた。
他のバッターには、確かに歯ごたえがある者はいる。
だが巧打であっても強打であっても、どうにかしてきたのが上杉だ。
もちろん野球は一人で勝てるスポーツではないが、それでもほとんど自分一人の力で勝ってきたとも言える。
だが大介だけは別である。別格である。
それは海の向こうのMLBでも結果を残していることから分かる。
あと何年やれるのか。
それは大介よりもむしろ、上杉の方が切実に考えることだ。
パワーピッチャーはその衰えは比較的分かりやすい。
技巧を磨くことで、その限界は底上げしていけるが、上杉の場合はそんなに器用なタイプではない。
むしろコンビネーションの幅は、同じパワーピッチャーでも武史の方が広いとさえ言える。
途中で故障がなかったこともあり、武史はまだまだMLBで現役である。
上杉はMLBには行かなかった。
それにより国内の空洞化を避けられたとも言えて、NPB関係者は上杉に対して、足を向けて眠れない。
上杉が他の球団のファンからさえ、悪く言われないというのは、日本の野球の象徴であるからとも言える。
もっとも大介も、本当ならMLBになど行くつもりはなかったのだが。
その大介が戻ってきた。
また直史も復帰して、上杉と投げ合った。
今年の直史は、ローテをほとんど守っていて、ほとんどの試合に勝っている。
負け星がついたわけではないが、勝てなかった試合は上杉と投げ合った試合だけだ。
そしてそれは、かつてプロに入った一年目も、同じようなことがあった。
最も伝説の投手戦、と呼ばれる試合である。
お互いが12回を投げきり、そして一人のランナーも出さなかったという、パーフェクトとして記録されない、究極のパーフェクトゲーム。
直史との投げ合いで、また延長までずっと投げきるのか。
今の自分にはそんな力はないかな、とも思う上杉である。
上杉は衰えたが、しかし経験は蓄積された。
大介を相手にしては、単なる全身全霊ではなく、この背中に背負ってきた全てのものの力を動員し、勝負をしかける。
それこそが、この対決であるのだ。
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