第58話 ザ・ショータイム

 早まったかな、と大介は思っている。

 直史を打つことはとてつもなく難しい。

 だがわざとアウトになるというのは、それよりも難しいであろう。

 真剣に勝負していると、周囲に見せかけるならばさらに。

(まだ本調子じゃないよな)

 今の直史からなら、ヒットならば狙って打てなくもない。

 特に三打席もあるのならば。


 難しいな、とは直史も思っていた。

 全力で投げることで、あとは大介に凡退してもらうしかない。

 ただそれが難しいのである。

(本気でやってこられたら、普通にホームランを打たれるぞ)

 このあたりの認識の差は、二人の間にもあったりする。


 それでもやることは一つだけ。

 初球から直史は、大介のインコースに投げ込んだ。

 伸びるストレートであるが、これを大介はフルスイング。

 ライトの方向に切れる、大きなファールとなった。

 それを見送った直史は、表情も変えることなく、次のボールを受け取る。

 なんともシリアスなショータイムである。


 二球目、ほぼ同じコース。

 だが回転の違いから、ブレーキがしっかりとかかる。

 チェンジアップはチェンジアップだが、緩急差が大きいタイプではなく、わざとそこは小さくしてある。

 大介は打席の中で粘って、体勢を崩しながらもバットに当てる。

 今度は三塁線を向こうに切れていく、鋭い当たりではあった。

(う~ん……わざとらしいか)

 ただこれでツーストライクにはなったので、あとは上手く打ち取るボールを投げるか、空振りを取れるような球を投げるかである。


 そして三球目、直史の投げたボール。

 ふわりと浮かんだそれは、遅いシンカーである。

(な・る・ほ・ど!)

 この遅い球には、大介のスイングも遅くなってしまった。

 それでも腰の回転だけで、持っていくことは出来たかもしれない。

 だが打った打球はサード正面のゴロへ。

 俊足の大介であっても、体勢が崩れた状態からでは、とても間に合わなかった。




 上手く逃げているな、というのが周囲から見たこの勝負の印象だろう。

 大介のスイングがいまいち鈍く見えるのは、それもこの対決なら仕方がない、と思われる。

 当事者二人は色々と心配していたが、ほとんどの者は気づいていない。

 また気づいていたとしても、真相にまでは届かない。

 この二人がそんなことはしない、と誰もが思うからだ。

 ただぎこちなさは、ある程度感じたかもしれない。


 二人の事情を知っている者は、本当にわずかしかいない。

 その中ではセイバーは、心理的に二人から等間隔にいるつもりでいるため、まさかと思い至る。

(パーフェクトを、達成させる?)

 だがそれを二人がよしとしても、それなら大介はむしろ、なんらかの理由をつけて試合を欠場するだろう。

 さすがに二人の約束まで、完全に見抜くことは出来ない。


 もしもいるとしたら、推理ではなくフィーリングで自体を直感的に把握する人間。

 あるいはイリヤが生きていたら、茶番だと断定したかもしれない。

 ただ不自然さまでは感じても、そこからプロレスにまで飛躍はしない。

 背後関係まで知らなければ、真実に到達することは、常人には不可能である。


 ともあれこれで、二打席が終わった。

 三打席目が終わった時点で、もしパーフェクトが途中で中断したとしても、ランナーを出すのが一人までなら、大介に四打席目は回らない。

 そして味方の打線が二点を取ってくれているので、ソロホームランまでなら問題はない。

 しかしこういった考えは、直史や大介の考えるような、都合のいい展開にはならないのだ。




 五回の表、レックスが三点目を取ったところで、ライガースは津傘を諦めた。

 もうこの試合は勝てない、とはっきりと見切りをつけたのだ。

 そして少しでも疲労のない状態で、次の試合に備えさせることが重要。

 六回からピッチャーが代わったことで、直史も大介もそれに気づく。

 五回にもライガースはランナーを出しておらず、パーフェクトは継続中であったのだ。

(せめてバッターの打順のところまで投げさせろよ)

 大介としてはそんなことも考えたのだが、自分が今やっていることを思うと、文句など言えない。

 元々首脳陣の批判はしないタイプではあるし。


 代わったばかりのピッチャーから、一気に二点を取る。

 これで5-0となり、おおよそ安全圏となる。

 直史としても疲労などは蓄積していないため、球数も増えていないこの試合、パーフェクトの出来そうな雰囲気になってきている。

 六回の裏、ライガースは下位打線である。

 七番と八番を気持ちよく三振で片付けて、出てきた代打も三振と、この回は三者三振で終わらせた。


 直史のピッチングは、どこか持続型の薬物を思わせる。

 瞬間で爆発するようなものではないが、夢にかかったような状態が持続する。

 しかし時々、こうやってまるで、力で従えたようなピッチングを見せ付ける。

 実際は150km/hも出ていないストレートしか投げず、上手くコースを錯覚させて見逃しなども混ぜて三振にしとめるのだ。

 力ではなく技のストレート。

 そしてそこに至るまでの変化球。

 前提となるのは、打たせて取るという組み立てなのだ。




 ライガースが勝利を諦めたのは間違いない。

 ピッチャーも若手を出してきて、その調子を確かめようとしている。

 甲子園の観客は、それに対しては文句を言わないようである。

 点差は5-0となり、おそらくこれで問題なく試合に勝つことは出来る。

 たとえ大介と勝負して、ホームランを打たれたとしてもだ。


 そもそもパーフェクトが出来ないのであれば、ノーヒットノーランであろうと一点差であろうと、直史の価値としては同じものなのだ。

 もしもパーフェクトが途切れてしまえば、もう一人ランナーを出して、大介と勝負してもいいかもしれない。

 大介が今回やってくれたことは、それぐらいのペナルティがあってもしかるべきものなのだ。

 もっともこのペナルティは、大介をも縛ることになるかもしれないが。


 人の命と野球と、どちらが大切であるのか。

 それはもちろん人の命だと、直史も大介も即答できる。

 だが存在しなくても人が生きていける、このスポーツが与えるもの。

 それはあるいは、人の命よりも価値があるものかもしれない。

 少なくとも直史は、大介が病気の少年のために、ホームランを打つと約束したとしても、打たせる気にはならないだろう。

 試合が圧倒的に勝っていて、もう勝敗に関係のない場面になれば、話は別かもしれないが。


(これは、悪い影響が残る)

 それに気づいたのは、ピッチングをずっと続けている直史の方が先であった。

 やはりこれは、してはいけないことであったのだ。

 たとえ息子の命がかかっていても、それは己の命を賭しても、自分の力でなすべきことであった。

 悪いことをすると、ずるいことをすると、バチが当たる。

 直史が自然と感じていた、古くからの日本の慣習的に教えられてきたこと。

 武士の嘘は武略であり、坊主の嘘は方便である。

 だが野球選手に嘘は、お互いの駆け引きだけにするべきであったのだ。




 弁護士としての直史は、犯罪者の側に立って弁護をすることもあった。

 嘘はつかないが、全てを言ったわけでもない。

 基本的には弱者の味方というわけでもない。

 法律は法を知っている者の力であり、依頼人の味方をするのが弁護士である。

 そういった全く違う、客観的な視点から直史は、自分たちの状況を見つめている。


 直史は無神論者だが、それは厳密な意味での全ての神を信じないというわけではない。

 日本人が田舎で今も持っている、素朴な善悪に対する感情。

 それを祖母に教えられて実感している。

(俺たちは間違った)

 どこかで必ず、これはしっぺ返しがくる。

 そしておそらく、先に罰が与えられるのは、条件を口にした大介。

(分かっているか?)

 七回の裏、ワンナウトから大介の第三打席が回ってきた。


 直史の目から見て、まだ大介は理解していないように見える。

 普段からある好戦的な目の光が、隠しきれていない。

 それだけにこの嘘は、周囲にばれることはないだろう。

 だが自分自身は知っている。

 自分自身を偽ったことは、必ず自分に帰ってくるのだ。


 直史は息子のために、悪魔とでも取引をするつもりであった。

 それが己一人の身に返ってくるだけならば、問題は何もない。

(いや、俺は大丈夫なのか?)

 そもそも真琴も明史も、生まれつき心臓が悪かった。

 直史がまた野球の世界に引きずりこまれたのは、そういったマイナスの面が働いたのだと言えるのではないか。

 しかし大介はどうなのか。




 三打席目。大介としても出来れば、これが今日の最後の打席であってほしい、という持ってはいけない希望を持っている。

 パーフェクトを達成すれば、直史の条件は満たされる。

 そしたらあとは、大介の今回の貸しを、返してもらうだけだ。

 その考えは明らかに傲慢である。

 だが現実的に思えたのも確かなのだ。


 大介は強者と戦いたい。

 淡々と勝利を積み重ねるよりは、死闘を繰り広げるだけの強者と戦い、敗北する方がまだマシであるのだ。

 そう考える精神性は、明らかに異常。

 平和な日常を生きていくには、あまりにも好戦的過ぎる。

 だが戦うことによって、逆に穏やかな気持ちでいられる。

 そんな相反したものが大介の中にあるというのも、確かなことであるのだ。


 命を賭けたようなものではないが、全身全霊を使った対決。

 実はその精神性は、しっかりと次代に遺伝していたりもする。

 もっとも日常の中で生と死を意識するのは、大介だけではなくツインズもそうである。

 なので長男の昇馬が、どちらに似ているのかは判定が微妙なところである。


 バッターボックスに入った大介は、ようやくその異常を感じ取った。

 強烈な違和感は、今までになかったことだ。

 世界がわずかに歪んでいるような、そんな視界の歪み。

 上手く形容することが出来ないが、何かが狂ってしまっている。

(なんだこりゃ?)

 過去にあったスランプとも、また違った感覚。

 打ってみるまで分からなかった過去と違い、これは既にはっきりと分かる。

 前の打席もこんなものであったろうか?

 一度バッターボックスを外して、素振りをしてみる。

(スイングが狂ってる?)

 してはいけないことは、たとえ他の誰が許そうと、自分自身がそれを許さない。

 それに気づくのは、もう少し先の話である。




 元々直史と勝負した打者が、その後しばらくは調子を崩してしまうというのは、昔からよくあることであったのだ。

 直史としては、そこまでは責任を持てない。

 ただマウンドに執着しているわけでもない自分が、どうしてここまでマウンドに引き寄せられるのかは不思議に感じたことはある。

 マウンドを降り、現役から引退したというタイミングは二度ある。

 MLBからの引退はもちろんその一つだが、大学を卒業した時点。

 あるいは最後の甲子園が終わった時であったろうか。


 外から見るからこそ、はっきりと分かることもある。

 一度も舞台から降りたことのない大介。

 順応性の高い大介であるが、引退してからはどうなるのか。

 直史から見ると大介は、永遠の野球少年のように見える。

 あるいはNPBで通用しなくなっても、リーグのレベルを落としてやり続けていくのかもしれない。

 あぶさんは何歳まで現役であったろうか。


 引導を渡す人間は直史でもなく、昇馬となるのかもしれない。

 昇馬が高卒で入ってくれば、ぎりぎり大介の現役に間に合うと思う。

 ただ直史の知る限り、昇馬は大学に行って勉強をしてみたいなどとも言っていた。

 可能性に満ちた若者なのだ。

 そのあたりプロから多くの勧誘があっても、弁護士の道を選んだ直史としては、気持ちが分かる気もする。


 野球の世界、特にMLBは日程が過酷だ。

 現在はNPBで無双している直史であるが、MLBでは体力的に厳しいだろう、というぐらいの計算は出来る。

 NPBでさえ在京圏の球団でなければ、かなり苦しかったはずだ。

 年齢を理由にするな、と言われることはある。

 だが間違いなく、年齢による限界というものはあるのだ。




 大介の行為は、自分を裏切っている。

 その罪悪感は、大介には慣れないものであろう。

 基本的には相当の善人であり、これまでに起こした問題らしい問題は、当人たちにとっては問題のない重婚騒動ぐらいだ。

 だからこそ気づかなかったし、安易に選択してしまったのかもしれない。

 直史に比べると大介は、悪意や罪悪感、それらを含めたマイナスの感情に慣れていないのだ。


 直史の知る限りでは、大介は常に明るいところを歩いてきた。

 野球に対しては真摯であったからこそ、大きな怪我もなくここまでやってきてこれた。

 プライベートの中でも、ツインズが常にフォローしてきた。

 そういったことの全てを、当たり前だと感じるようになってしまったのか。

(ここから元に戻していけるのか?)

 直史と違って大介は、まだこの世界にいるつもりなのだ。


 三打席目の初球はカーブから入った。

 落差があるので、ストライク判定されるかどうかは微妙なカーブ。

 だが直史は既に、この審判の傾向も把握している。

 予定通りにストライクとなって、まずカウント有利の状態を作る。

(大介、本当にいいんだな?)

 違和感があっても、根本的なことに気づいているのかどうか。

 

 二球目、インハイのストレート。

 これをスイングした大介だが、バットはボールの下に当たって、バックネットに打球が突き刺さる。

 ツーナッシングになった大介は、首を傾げている。

 演技であるのか、それとも本当に違和感があるのか。

 他の人間には分からないだろうが、直史には分かるのだ。


 三球目に投げたのは、このボール。

 沈みながら伸びるボール。

 カットボール変化ではなく、完全にジャイロ回転をした。

 大介は片膝を抜きながらスイングしたが、空振りで三振。

 今日二つ目の三振であり、一試合に二度の三振をしたのは、このシーズンでは大介にとって初めてのことであった。




 野球に愛された者は、野球を裏切ってはいけない。

 直史は代償のように子供たちの命を脅かされ、野球の世界に引き戻されている。

 しかし大介はどうであったのか?

 ひたすら野球の世界にあり続け、その恩恵を受け続けた。

 もちろん評価されるに相応しい実績を上げ続けてきたからだが。

 全てを捧げていたわけではないが。真摯ではあり続けていた。

 だからこそ野球の神様は、それに応えてくれたのではないか。


 無神論者の直史であるが、野球の神様というのはいると思う。

 それをしっかりと感じたのが、この甲子園という舞台であったのだ。

 大介のあとも片付けて、いよいよパーフェクトが現実的になってくる。

 だがこの予感はなんなのだろうか。

 パーフェクトが達成されないという、嫌な予感をひしひしと感じている。


 自分は間違えたのだ。

 演じながら他の部分でパーフェクトをするよりも、大介と対決した上で目指した方が、雑念が入らずに済んだ。 

 相手との読み合いで勝負する直史としては、そこにノイズが入ってしまうのは、かなりの問題である。

 残り2イニングであるが、どこかで破綻する。

 いや、考えなければいけないのは、そんな分かりきっていることではない。


 どこかで間違いなく、揺り戻しがやってくる。

 それに対して自分は、いったいどう対処したらいいのか。

 直史は珍しくも、妙にロマンチックにナイーブに、そんなことを考えている。

 自分の選択を後悔するというのは、極めて珍しいことであった。




 パーフェクトが続いている。

 これに対してライガース打線は、なんとか阻止したいとは思っている。

 このままのペースで両チームがペナントレースを進行していくと、かなりの確率でクライマックスシリーズで当たる。

 ポストシーズンはピッチャーの役割がより大きくなる。

 そして直史は二年間しかいなかったNPBの間に、そのポストシーズンで大活躍し、ライガースの日本一を妨げている。


 一年目はファイナルステージで二勝し、日本シリーズは一人で四勝し、完全に独り舞台であった。

 MLBに行った三年目も、ワールドシリーズで三勝。

 四年目は三勝し、四試合目を打たれて負けている。

 もっとも前日に7イニングを投げて、負けた試合も14イニングを投げた末の敗北である。

 こんなピッチャーと対戦するのであるから、絶対にペナントレースを制しアドバンテージを手に入れなければいけない。


 レギュラーシーズンのたった一戦であるが、パーフェクトなどされるわけにはいかない。

 ライガース首脳陣は当然のことを考えているが、大介が封じられているのだ。

 三連戦の初戦を、この体たらく。

 もし三タテでも食らってしまえば、完全に順位が逆転する。

 せめてどうにかランナーを出して、もう一度大介へ。

 そう思うなら、今日は一番に大介を持ってくるべきであったのかもしれない。


 八回の裏、ライガースは四番からの攻撃。

 初球を狙っていけば、打てるかもしれない。

 そしてストレートに狙いを絞り、まさに直史の投げたのはストレート。

 ただ当たった打球は、イージーなファーストフライに終わった。

 観客から小さなざわめきが起こったのは、球速表示を見たからだ。

 150km/h。

 現在のNPBではさほど特筆すべきでもないが、復帰以降の直史としては、初めての大台に乗せてきたこととなる。

 打てない雰囲気が、さらに増してくる。




 直史を襲うこの切迫感。

 無理をすれば壊れてしまう。それだけは避けなければいけない。

 だが指先まで上手く力が伝わって、150km/hが出た。

 意識して出したものではないが、ついに150km/hが戻ってきたのだ。

(それでもまだ、限界にまでは遠い)

 確信する予感。

 どこかで打たれるというものだ。


 打たれるとしたらヒットなどではなく、一気にホームランにまで持っていかれるかもしれない。

 そう考える直史は、五番の助っ人外国人からも、緩急を使って三振を奪う。

(あと四人)

 約束が果たされたら、そこから直史の調子がどう落ちても、それは問題ではない。

 強打者の五番を打ち取っても、まだ打率の高い打者が残っている。


 あと四人、命を削るつもりで投げる。

 パーフェクトさえ達成してしまえば、残りの試合は全て消化試合のようなものだ。

 復帰させてくれたチームのために、普通に優勝を狙っていく。

 緩急を使って、ここでも三振を奪う。

 後半になるにつれて、三振を奪うことが多くなってきた。


 フライになるボールもあり、それはつまりヒットになる可能性も上がるのだが、下手に内野ゴロを打たせるよりは、三振を奪っていく方が確実だ。

 同じパーフェクトでも、その完全度合いというのは違う。

 直史の考えるパーフェクトは、全アウトを三振で取るというのが、一番ピッチャーのみの力で達成したパーフェクトと言えると思っている。

 直史は一試合に25奪三振という記録を持っているが、しかしこれはパーフェクトはおろかノーヒットノーランの試合ですらないし、球数も相当に多かった。




 九回の表、直史はベンチでゆっくりと休む。

 球数も余裕で100球以内で収まりそうで、ベンチの中の緊張感もいい加減に慣れてきてくれたらしい。

 今季既に三度のノーヒットノーランを達成し、あと一人というところでパーフェクトを逃した試合もあった。

 おそらくここで一番緊張しているのは、キャッチャーの迫水である。

 だが今日はしっかりと、スルーを捕球に成功している。


 もう一度同じようなミスをしたら、今度は土下座では済まないだろう。

 そう思っているのであるが、直史としてはパーフェクトというのは、相当に偶然性もなければ出来ないと思っている。

(エラーを避けるためにも、ここは三振を狙っていく)

 ライガースは下位打線とは言え、それでも0.250以上の打率を持った打者を並べているという、隙のない打線なのだ。

 またラストバッターには、間違いなく代打を出してくる。


 あと少しである。

 パーフェクトを遠ざけた、という予感はある。

 それぐらいの報いを受けることは、当たり前のことだとも直史は思っている。

 それでもあと、三人というところまでやってきたのだ。

(あと三人)

 選手生命を賭けてでも、どうにか抑えてしまいたい。

 もちろん現実はそんな甘いものではないとも分かっている。

 直史は結局、高校時代に甲子園では一度も、パーフェクトは出来なかったのであるから。


 レックスの最後の攻撃が終わる。

 そしていよいよ九回の裏。

 パーフェクトを目前にして、直史はベンチを出る。

 その背中にわずかに緊張が見えるのは、錯覚ではないだろう。

 既に何度もパーフェクトをやっているピッチャーであるのだが。




 直史はNPB一年目と二年目、それぞれライガース相手にパーフェクトは達成している。

 投げ合ったのは真田や阿部といって、当時のトップクラスのピッチャーであった。

 ただ場所はホームの神宮であった。

 つまり直史はまだ甲子園では、参考パーフェクトまでしかしていないということになる。

 これはもう、一つの呪いではなかろうか。

 そもそもさすがの直史も、パーフェクトなどそう簡単に出来るものではない。

 MLBでは年に七度も達成したシーズンがあるが。


 甲子園にはマモノがいる。

 主に高校野球で言われることであるが、それは直史にはかなり強力に呪いをかけている。

 高校時代にも二度の参考パーフェクトがあるが、プロになってからは樋口の離脱などの、色々と厄介なことが起こったものだ。

 それでもあと三人となれば、どうにかパーフェクトを達成出来るのではないか、と思ってしまう。

 因果応報でそれはないだろう、とも思う。 

 ただ甲子園という場所は、本当に何が起こるか分からない。


 ストレートで三振を奪いたい。

 スルーは確かにそこそこの精度で投げられるようになってきたが、完璧でないと意味がないのだ。

 投げるとしても見せ球にし、確実に空振りか見逃しで三振を奪う。

 ここまで試合が進んでしまうと、審判の判断にも雑念が入るはずだ。

 ボールとストライクの判定。

 本来はこれは、とても難しいものであるのだ。




 七番に対しては、アウトローとインハイ、そして落ちるボールを見せてから、最後にストレートを投げる。

 わずかにチップしたが、そのままキャッチャーのミットに収まり三振。

 これで17個目の三振である。

(調子はむしろ良くなっている)

 そう思いながらも、直史は嫌な予感が止まらない。


 次はやはり代打が出てくる。既に準備のために素振りをしている。

 確かにここで代打で出てパーフェクトの阻止にでも成功したら、アピールとしては巨大なものであるだろう。

 だがここまで来たのだ。

 体を何か、罪悪感が鎖となって縛っても、あと二人。

(あと二人!)

 アウトローに逃げていくツーシーム。

 ファールを打たせてまずはストライクカウントを稼ぐ。

 変にスピードだけは乗らないように。


 ここでスピードのあるカーブを使う。

 スイングは当ててきたが、それでも前には飛ばない。

 ツーストライクとなって、これでストレートを使って空振りが取れる。

 悪い予感は残ったままだ。

(ボール球を振らせた方がいいのか?)

 ツーナッシングからならば、振ってくるかもしれない。

 遅いシンカーなどを投げても、空振りが取れるのでは。

(いや、ここは精一杯の)

 ストレートを、投げる。


 強く深く踏み込み、よりフラットなボールになるようにリリース。

 しかし、その瞬間に指先が、わずかにボールにかかりすぎた。

 ストレートは高めのボール球だったはずだが、それを八番はスイング。

 打球はジャンプしたショート左右田の頭の上を越えていった。

 九回ワンナウトにて、パーフェクトが途切れた。




 何事も上手くいかない。

 最後の一人というわけでもなく、味方のエラーでもない。

 ほんのわずかに、指がボールに引っかかりすぎた。

 その原因を考えてみれば、おそらく湿度などというあたりであろうか。

 皮膚の感覚が昔に比べれば鈍くなっている。

 それは以前からずっと分かっていたことだ。

 だが今回の場合は、かなり致命的ではあった。


 ぎりぎりのところまできて、最後の一人というわけでもなく、特に誰かが固くなっていたわけでもない。

 単純な失投であるが、これも運が良ければもう少し長く飛んで、逆にレフトフライになっていたかもしれない。

 打率はそこそこだが長打のない八番から、こんなヒットが生まれてしまう。

 腰に手を当てた直史は、さすがに息を吐いた。


 もう一人ランナーが出れば、大介に回る。

 ただそこでホームランを打たれても、まだレックスのリード。

 試合自体は決まっていることは変わりない。

 ただノーヒットノーランも消えてしまったのだ。

 直史はともかく観客にとっては、それだけで残念がる気持ちは分からなくもない。

 ライガースの本拠地である甲子園なのだが。


 あとは期待されるのは、直史と大介の四度目の対決か。

 代打が塁に出て、大介に回る。

 パーフェクトもノーヒットノーランも途切れて、ピッチャーは今が一番集中力を失っている。

 そう考えている人間が多くても、それは当たり前のことである。

 確かに直史も、普通に精神的なダメージを受けてはいるのだ。

 だがこれが報いであるとするならば、むしろまだ軽すぎる。


 代打に向って投げた直史の初球。

 それはストレートのように見えながら、わずかに落ちる球であった。

 意識的にバックスピンを減らしたボール。

 強くではなく、確実に叩こうとしたバッターのスイングは、それをゴロとして打ってしまった。

 ショート正面、キャッチした左右田の目には、二塁に入る緒方の姿が見えた。

 そこから6-4-3のダブルプレイ。

 初球打ちが見事にドツボにはまった併殺によって、試合は決着した。

 打者27人による決着は、今季五度目。

 92球の決着で、六試合連続のマダックス達成である。

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