第57話 1/143

 レギュラーシーズンの中の一試合であるに過ぎない。

 また同じリーグであるなら、25試合は対戦がある。

 それでもこの試合が、特別であることに間違いはない。

 先頭打者の左右田は、プレッシャーに潰されたりはしない。

 ドラフトにかかるかどうか、ずっと待たされていたあの時や、その後の一軍へのチケットを手に入れるまでに比べれば、これは普通の試合だ。

 そんな考えでいたものの、甲子園を満員にしたライガースファンの圧力は凄かった。


 内野ゴロであっさりと終わってしまう。

 バツの悪い顔で戻ってきた左右田に対し、二番の緒方は特に何も言わない。

 先頭打者はまず、簡単にアウトになってはいけない。

 だが左右田は早打ちをしてしまった。

 試合の流れを、上手く掴まないといけない。


 緒方は昔ながらの典型的な二番打者だが、これでもホームランを二桁打っているシーズンは相当に多い。

 去年も打っているし、年齢による衰えがあまり見えない選手の一人ではある。

 それは彼が、長くショートを出来ていたことにも通じている。

 ほぼ故障もなく、ずっと長く現役でスタメンを続けてきた。

 大介や悟などと同じく、小柄だがバッティングも優れている選手、として評価されている。

 もっとも長打力はさすがに、あの二人と比べるべくもない。


 この試合の流れがどういうものか、緒方は考えている。

(ナオさんが投げるからには、ほぼ負けはない、なんて思ったらいけない)

 直史の今年の失点は、共にソロホームランの一発である。

 そしてライガースには一人で一点を取ってしまうという点では、世界で一番のバッターがいる。

 津傘はいいピッチャーだが、一点も取れないというようなピッチャーではない。

 ただ、この空気がどう作用するか。




 緒方もまた、甲子園を制した経験を持つ選手だ。

 あの時代はまさに、大阪光陰と白富東で、頂点の決戦が多かった。

 それが今では、千葉の代表であった大介が、まさにライガースの顔になっていて、大阪の代表だった自分が東京にいる。

 一年生の目には強大に映った直史が、今では味方として投げている。


 先取点を取ることが、この試合では重要だ。

 ライガースが大介の打順をいじらずに二番としていることで、無茶な手段は取ってこないだろうことは予測出来る。

 純粋に直史を、大介が打てるかどうかがポイントになるのだろう。

 ただ打たれるにしても、一点以内に抑えてくれるのではないか。


 直史のMLBにおける成績も、緒方はほぼ把握している。

 一試合に二点以上取られた試合は年に一度あるかどうか。

 ただポストシーズンは無茶なスケジュールで投げて、ある程度点を取られたことはある。

 それもホームランがらみではあった。

(先制すれば、とりあえず負けはない)

 直史に負けをつけてはいけない。

 緒方はそこをポイントだと考えている。


 津傘から粘って、フォアボールで出塁。

 本当ならいきなり長打がほしいところだったが、左右田があっさり凡退していたので、先頭打者の役割を果たす。

 まずは塁に出ることが、初回の先頭打者としては重要だ。

 あとはピッチャーの調子を確認することか。

 とりあえず津傘も、地元ではあるが緊張していることは分かった。

 一点でも取られたら、それで終わるような相手のピッチャーであるからだ。


 緒方としては直史が、そこまで絶対的な存在には見えない。

 もちろん絶対、という言葉に最も近い存在だとは思うが、本人の性格の問題もあるだろう。

 味方から見た直史というのは、どこか超然としてはいるが、話してみれば実に生活感にあふれた人間だ。

 そんな直史を、ライガースの主砲も知っている。




 緒方が工夫しているのを、ベンチの中で直史は確認している。

 ベテランらしく試合の展開を、自軍に有利にしようと一つ一つの要素を大事にしているのだ。

 左右田はこの場面で、出塁できていれば一番バッターとして今後数年を任せられる器になっていたかもしれない。

 だが社会人出身とはいえ、一年目の選手にそれを求めるのは酷だろうか。

 トーナメントに慣れているという点では、社会人出身も同様だが、それだけにこのリーグ戦の一戦には集中しきれていないのか。


 ともかくランナーが出た。

 緒方は足の速さは、トップスピードはそれほどでもないが、瞬発力の必要な動きをするのは優れている。

 俊足というわけではないが小回りが利き、それなりに盗塁もしている。

 だがここで走らせるほど、レックスの首脳陣は冒険主義ではない。

 確かに盗塁成功率は高い緒方だが、それは場面を選んで走っているからだ。

 この初回の重要な場面では、バッティングによって一点を取りたい。


 もちろん緒方は、少し大きめのリードは取っている。

 ランナーの役目は当然ながら、ピッチャーの注意をこちらに引きつけること。

 そして守備に穴を空けること。

 セカンドにコンバートされてから緒方は、一番やることが複雑なセカンドを、問題なくこなしている。

 そのため逆に、どうすれば相手にプレッシャーを与えられるかも分かっている。

 ライガースのセカンドは、緒方ほどのキャリアはない。




 大介との密約。

 それは必ず守られるだろう。

 だが逆に言えば大介は、パーフェクトが途切れた時点で、完全に本気で打ちに来るということだ。

 ライガースは大介だけの打線ではないから、パーフェクトを達成することは難しいと思う。

 すると目的は次のものに移る。

 即ち勝利である。


 ライガースの打線の力を考えると、出来ればそれなりのリードがほしい。

 大介の前にランナーを出さず、ヒットまでに抑えた大介をホームに帰さない。

 それでも一点ぐらいは覚悟しておくべきだろう。

(初回から点が取れればいいんだが)

 緒方がベース間を細かく動き、ツーアウトにはなったが三塁にまで進んだ。

 だがここで一本が出ず、レックスの初回の攻撃は無得点で終わった。


 ライガースも津傘は二番手のピッチャーとは言われている。

 なので初回から都合よく点が取れるとは思っていない。

 それでも期待してしまうのは、緒方が目ざとく三塁にまで進んだからだ。

 だが運任せの力頼みで、そうそう都合よく点は取れない。

 レックスの打線なら、必ず先に点を取ってくれると信じる。


 そして直史がマウンドに登る。

 堂々とでもなく、こそこそでもなく、ただ淡々と。

 そこに力強さはないが、変な気負いも全くない。

 スタンドにも、また相手ベンチにも目を向けず。

(帰ってきたな)

 思わず浮かんだのは、そんな感想であった。

 投げたマウンドの数では、もうずっと神宮の方が多いというのに。

 さらに言うならアナハイムのヘイロースタジアムのマウンドの方が多い。

 また懐かしさで言うならば、マリスタの方が古いはずだ。

 それでも、ここをそう感じたのか。


 マウンドから視線を向けた先は、審判でもキャッチャーでもなく、またどちらかのベンチでもなければ、観客席でもない。

 ネクストバッターズサークル。

 そこに大介がいる。

 直史の視線がそこにばかり向けられているのを、テレビのカメラまでもが拾っていた。

 目の前の先頭打者をも無視して。

 そういうところから普通なら、亀裂が入っていくものなのかもしれない。

 だが直史は例外だ。




 普段通りの力感のないフォームからの投球練習。

 プロのピッチャーとしては明らかに細身であるが、そこに感じる雰囲気は並大抵のものではない。

 甲子園のマウンドに、佐藤直史が戻ってきた。

 引退試合が冬でなければ、甲子園でやってほしいと思ったファンは多かっただろう。

 だが直史は結局、また戻ってきたのだ。


 先頭打者に対して投げたのは、大きく曲がるスライダー、というのとは少し違った。

 新しい球種ではないが、カーブとスライダーの中間のような、要するにスラーブと呼ばれるものだ。

 左打者の懐に飛び込むボールは、想定していれば打てただろう。

 だがこんな球は想定していなかった。


 ライガースの先頭打者である和田は、まさに切り込み隊長とも呼べる選手だ。

 選球眼はいいが、それ以上に思い切りがいい。

 そこに至るまでに、しっかりと狙い球も絞っていく。

 だがしっかりと臨機応変に変化することも出来る。

 昨年の成績は、打率が0.340で首位打者争いをした。

 そしてホームランも二桁の12本を打っている。


 いきなり厳しい相手だ、と直史は普通に判断している。

 なので打たれないように、ちゃんと考えて投げる。

 内角を三球攻めて、その三球目はチェンジアップ。

 緩急についていけず、空振り三振。

 三球三振で、巧打の先頭打者を打ち取った。




 待っていた。

 甲子園はこの対決を待っていた。

 共に昼間の甲子園で、栄光の座を手に入れた二人。

 日本代表以外で二人が、同じチームとして戦ったのはなんと海の向こう。

 直史が三ヶ月だけ、故障者続出で絶望となったアナハイムからトレードで出されたわずかな期間のみ。


 もはや二人のことを、日米のファンのほとんどは、ライバル関係と考えている。

 確かに好敵手、という意味では正しいだろう。

 だが天敵、などという意味からは遠く離れている。

 戦友であり、趣味嗜好は違うものの、間違いなくお互いを認め合っている。

 男と男の間でしか成立しない、この不思議な関係。

 ただ戦うのではなく、お互いを高めあっていくという。


 バッターボックスに入った大介は、これまたリラックスしていた。

 二人の間の密約など、誰も知らないままにこれを見守る。

 そして直史は初球、セットポジションからクイックでボールを投げた。

 遅いカーブに、大介はボックスの中でステップを踏む。

 だが遅すぎた。


 完全に泳いで空振りしたスイング。

 球速表示を確認すれば、そこには82km/hという表示が出ている。

(おいおい)

 思わず笑ってしまった大介の笑みは、とてつもなく凶暴で野生的なものであった。

 打ちたくてたまらない、という感情が出てしまっているが、これは打ってもヒットにはならない。

 角度とスピードを考えれば、完全なフルスイングでなければスタンドにまでは届かないであろう。

 だがそんなフルスイングを、あのタイミングで出来るはずもない。

 まさに大介を封じるための、本気のピッチングである。

 本気のショーを直史は見せ付けるつもりである。




 意外性のあるボールではあった。

 実際に大介が、スイングに行って空振りをしている。

 打ったとしても凡打になった可能性が高いので、途中からわざと空振りしたようにも見える。

 だがどうして、あんなボールを最初に持ってこれるのか。

 直史は初球からストライクで入ってくる場合が多いので、これもその一環ではあるのだろう。

 しかし遅い球から入るというのは、ピッチャーにとっては怖いのだ。


 中途半端な速球であっても、意味はないと分かっている。

 だが同じライガースのピッチャーたちは、その初球だけで震えていた。

「頭おかしいだろ……」

 誰もが思っていたことだが、口にしたのは誰か一人であった。

 自分だったら投げない。ならば何を投げるのかというと、ボール球から入ってしまうだろう。

 バッターにとっては初球ストライクは一番の狙い目、という統計もあるのであるから。


 キャッチャーから戻ってきたボールを受け取る直史には、確かに雰囲気がある。

 ライガースはそもそもチーム全体が、直史と対戦するのはこれが初めてなのだ。

 ピッチャーもバッターも、単純な力ではない技術を、ここから学んでほしい。

 首脳陣はそう考えているが、その首脳陣からして、直史という存在は理解不能なのだ。

 野球の世界の共通認識が当てはまらない。

 上杉や大介といったその極みとはまた、違うところにいる人間なのだ。


 二球目に投げたボールは、どうやらアウトローぎりぎりであったようだ。

 普段なら打ってしまう大介が、バッターボックスを外して首を傾げる。

 二人の間には何か、複雑な駆け引きがあるのだろうか。

 なんとなく想像はしてみても、それがどんなものなのかは分からない。

 二人の世界が出来ている。




 アウトローのボールは、ごく普通のものであった。

 球速は144km/hとそれなり。

 打とうと最初から思っていたら打てただろう。

 だが反射的にバットが出ていたとしても、ジャストミートは出来なかったろう。

 このスピードなら手元で変化すると思うのが普通だ。

(ジャストミートじゃなくてもスイングスピードで、内野強襲のヒットぐらいにはなったかもな)

 真剣勝負であっても、この組み立ては予想できない。


 ツーストライクになったところで、次は何を投げてくるか。

 スピードのあるボールの次なのだから、今度はチェンジアップあたりか。

(そういえば、時々スルーは投げてるけど)

 スルーチェンジは投げていない、はずだ。

 もっともあのボールは、スルーが安定していなければ、使い物にならないボールだと説明を受けている。


 今はまず、追い込まれたことを意識する。

 投げてくるのはボール球で、一球緩いボールを投げてくるか。

 そう思っていたところに投げられたのは、かなりど真ん中に近いコース。

(スルーか!?)

 今の直史のスルーの軌道は、大介ももちろん見ていない。

 見逃してでも、ここは見る価値がある。

 しかし動いた変化は、膝元に決まるもの。

 カットボールがゾーン内ぎりぎりで、ストライク判定された。


 ボールと言われてもおかしくはなかった。

(このキャッチャー、上手くなってるな)

 ミットを流すことなく、やや前でキャッチする。

 確かにゾーン内ではあるが、下手な審判でなくても判断には迷うところだ。

 樋口の代わりにはならないだろうが、それでも最低限足を引っ張らないぐらいには、技術は高くなっている。

 組んでいるピッチャーがピッチャーであればそうか。また社会人出身という後のなさも関係しているだろう。

 ともあれ、直史はかなり本気に近いピッチングをしているのは間違いない。

 続くバッターも打ち取り、一回の裏が終わる。




 直史といえば1-0の勝利、というイメージがあるかもしれない。

 だが実際のところはそれなりに点を取ってもらっている場合の方が多い。

 今年も1-0という試合で勝ったのは一度だけ。

 レックスは大量点は難しいが、確実に三点ぐらいは取ってくる打線と作戦のイメージがある。

 この二回の表、先頭の打者を歩かせてしまう津傘。

 緒方が揺さぶった影響が、立ち上がりを悪くしている。


 そして進塁打の後、今日は七番に入っている迫水が、レフトオーバーで余裕のホームイン。

 まずはレックスが一点を先取した。

(ここからだ) 

 直史としては、味方の先取点というのは確かにありがたい。

 だがこの試合に限って言えば、一点では足りない。

 あるいは自分が、本気でパーフェクトを狙っていくのか。


 直史はこの試合で、壊れないことをまず第一としている。

 今シーズン全て、と言った方がいいかもしれないが。

 大介と本気で勝負をするのは、リスクが高いことは間違いない。

 だが無理にパーフェクトを狙っていったりはしない。あれは守備のエラーも存在しないことが大前提になるからだ。


 この試合で必要なのは勝ち星。

 あるいは途中交代でも仕方ないが、負け星だけはつけたくない。

 現段階では沢村賞最有力候補の直史であるが、まだシーズンは二ヶ月残っている。

 短期間ではあるが、故障離脱もあるのだから。

 大きく息を吐いて、一点どまりの援護に満足し、二回の裏のマウンドに向った。




 大介は足があるので、二番に座っている。

 ただこれは、少しでも多く大介に打順を回す、という戦略的な意味もあるのだ。

 極端に言えば一番でもいいし、MLBではそうだった時もある。

 だが今のライガースには、打てるバッターがかなり多いのだ。


 四番の大館は、昨年三割と40本100打点を記録したベスト9にも入っているバッターだ。

 足もそこそこあるところを含めれば、かつての西郷にも匹敵するほどのものだ、とさえ言われている。

 タイトルも取っているし、なんなら三冠王の可能性もあるのでは、とさえ言われていた。

 今年、大介が戻ってきて、話題がそちらに独占されても、それに臍を曲げることもない。

 今年もOPSは1を超えていて、大介の後ろを打つバッターとしては充分な力量を持っていると言えるだろう。


 二桁の盗塁がある彼は、なかなか敬遠もしにくい。

 まさに大介タイプというか、昨今の万能型長距離砲に求められるタイプだ。

 そんな大館相手に、直史は気負いなく投げる。

 ツーシームを主体に緩急をつけてファールも打たせ、カウントをピッチャー有利にする。

 そして追い込んでから、フラットなストレートを一閃。

 空振り三振でまずワンナウト。


 明らかにホップするストレートであった。

 球速を確認すれば、145km/hという表示が出ている。

 体感速度は150km/hは出ていると思えたものだが。

(色々理屈はあるんだろうけど)

 説明は充分にされるのだが、結局は感覚の問題であると思う。

 大介も同じようなことを言っていた。人間の肉体を動かすのは、最後には直感であると。




 面倒な四番を片付けた。

 そんな面倒な四番の後ろを打つ五番もまた、面倒な相手であることは間違いない。

 助っ人外国人のフェス。

 打率は少し三割を割っていて、ただ40本近くのホームランを打っている。

 ライガースは三番と五番に外国人を置き、主砲の大介と四番に日本人を置くという、ちょっと不思議な編成をしている。

 だがこれで点が取れているのだからいいのだろう。


 メジャー傘下の3Aから引っ張ってきて、立派な戦力となっている。

 おそらく来年あたりは、MLBのどこかのチームから接触があるのではないか。

 ただそういう選手相手には、ちょっとだけ機嫌が悪くなる直史である。

 助っ人外国人という制度自体が、あまり好きではない。

 だがそういった選手がアメリカからやってくることで、日本のレベルが上がってきたことも確かなのだ。


 大介は今年、NPBに復帰したことで、直史の邪魔をしていると言ってもいい。

 だがMLBにいればまだあと二年ぐらいは、巨額の年俸を稼げたであろうとも思う。

 もちろん日本を選んだのは大介の意思だが、直史の選択はMLBのパワーバランスを変えてしまったことは間違いない。

 それが悪いことだとも思わないが。


 五番のフェスをカーブを使ってフライを打たせ、ファールグラウンドで余裕のキャッチ。

 これでこの回もツーアウト。

 ライガースを直史が危険視しているのは、六番以降にそれなりの打率の打者が多いからだ。

 かつての大介がいた頃もそうだが、ライガースは基本的に打撃に重きを置く。

 もちろん山田や真田に阿部といった、突出したピッチャーもいた。

 しかしどうもチームとして、投手陣を整えるという意識は弱いと思える。

 その打線を、直史は抑え続けている。

 この回もランナーを出さず、三振の数は既に三個である。




 序盤も終わっていないが、ライガースには全く流れが来る様子がない。

 三回の表、レックスは先頭打者に左右田が回ってくる。

 ここは追加点のためにも、まず出塁してほしい。

 試合展開はとにかく、ライガースの攻撃時間が早く終わってしまっている。

 観客の野次は応援するライガース側に向けられており、大介はそれを懐かしく感じていたりする。

 ニューヨークでも歓声はあったし、かなり英語も分かるようになった。

 だがそれでも、日本語によるものだと魂に触れる部分が違う。


 凡退による罵声さえ懐かしい。

 大介のようなレジェンドにさえ、甲子園の酔っ払いは絡んでくるのだ。

 リスペクト、などという軽々しい単語は必要ない。

 感情がそのまま伝わってくる。

 アメリカでどれだけ活躍しても、自分は日本人なんだなと感じた。

 もちろんアメリカの懐の深さを感じることもあったが、アジア系に対する差別はそれなりに大きい。


 左右田をフォアボールで出してしまい、野次がまた飛ぶ。

 もっとも津傘も、それには既に慣れているが。

(ナオの投げる試合は、まず負けると思った方がいい)

 それは大介の自身のなさとかではなく、もっと純粋にどうしようもない現実である。

 だがそこから何を感じ、どう動いていくかはそれぞれの違いである。

 大介は折れそうになっても折れなかった。

 ブリアンなどは折れてしまった典型的な例なのかもしれない。

 もっとも彼は怪我の影響も大きかっただろう。

 ライガース打線がどういう影響を受けるかは、大介もそれなりに心配していることではある。

 しかし心配するといっても、よしよしと慰めるようなものでもないだろう。




 ライガースの先発津傘は、あまり立ち上がりからよくない。

 ただそれは本人のみの責任とは言えない。

 直史と投げ合って、平常心でいられるようなピッチャーは、大介の知る限り日本人では上杉と真田、あとは本多に蓮池といったぐらいであろうか。

 武史なども、どうせ負けるだろうと思って平常心で投げていたものだが。


 ある程度点を取られたら、津傘は交代になるだろう。

 ここで長いイニングを投げさせるよりも、次の試合に向けて温存した方がいい、と首脳陣は判断するだろうからだ。

 大介にしても、計算だけで考えるならそうするだろう。

 ただ津傘の今後のためには、粘って終盤までは試合を作ってほしい。

 シーズンのこの時期に二番手ピッチャーが調子を落とせば、ペナントレースに大きな影響がある。

 さっさと代えるのか粘るのか、それは首脳陣の判断である。


 二番緒方は、ここでセーフティバントなどを試みた。

 送りバントではない、小柄なくせにパンチ力もある緒方は、完全にライガースの内野が深く守っているのを逆手にとってきた。

 大阪光陰時代から、まさに野球エリートの教育を受けてきた緒方。

 シーズンの中の一試合であっても、勝つべき試合をちゃんと判断出来るのはベテランの域であるからだ。


 ここからレックスは、左右田を三塁まで進ませることに成功。

 そして外野フライで追加点、とお手本のようなスモールベース的な追加点の取り方をした。

 後続がさらに打つことはなかったが、これで2-0となった。

 レックスのベンチにはわずかな弛みが生まれる。

 もちろん直史だけはそれとは別である。




 三回の裏、ライガースは下位打線から。

 しかしライガースは守備力が要求されるショートに、打撃三冠の大介を置いている。

 またキャッチャーもポジションの割には三割近く打っていたりする。

 ピッチャーはさすがに別としても、どこからでも点が取れる打線。

 チャンスを作り出すことが出来るというのは、ピッチャーにとっては面倒すぎる相手だ。

 だが今のライガース打線には、直史を直接体験している者がいない。

 それが初戦で打てるとは、大介も思っていない。


 七番八番と簡単に打ち取って、九番ピッチャー津傘のところでも、まだ代打などは出してこない。

 3イニングを投げて二点なら、まだ代える場面ではないというのが、ライガースの判断だ。

 そもそもどの代打を出せば打てるのか、という問題もあるが。

 同じピッチャーとしての目線から、津傘は直史のボールを観察する。

 それぞれのボールの質については、高品質でまとまっているというわけではない。

 だがその幅が広いのは間違いない。


 コンビネーションが全てである。

 なので本来は初球、ボール球から入るのが向いているはずだ。

 しかし直史は空振りが取れる場面以外でボール球を投げることが、かなり少ない。

 ここでも打とうと思えば打てる、スローカーブから入ってきた。

 津傘にしても高校時代までは、ピッチャーであると同時にクリーンナップであった。

 その目から見ると、打てなくもないとは思うのだ。


 ただ、それは初球のスローカーブだけであった。

 強いて打つ必要はないし、そもそも打てるとも思われていない九番のピッチャー。

 もっともセでは上杉が毎年5本前後は打っている。

 今年も打っていて、むしろ肩を壊した時にバッター転向でも良かったのでは、などと言われたりもする。

 津傘は先発なので、それなりに打席には立つ。

 それでも二割は全く打てず、一割前後。

(何かをつかめば、本職のバッターなら打てるような気もするんだ)

 しかしここでは、三振で終わった。




 次の四回には、大介の二打席目がやってくる。

 観客の中の多くは、その前にとこのあたりでトイレに立ったりする。

 それはテレビで見ている視聴者も同じであろう。

 千葉では試合前に諸々を片付けた瑞希が、それをじっと見ている。

 さすがにこの試合だけは、真琴も素直に見ている。

 

 明史もまた見て、幼児である次男も、父親の出てくるところはしっかりと見ている。

 果たしてこの記憶が、ずっと残るのだろうか。

 真琴はともかく明史は、直史のMLB時代はほぼ憶えていない。

 一応見ていたという記憶だけはあるのだが。


 明史の言葉から始まった、直史の自分の限界への挑戦。

 それは明史に、自分の父親の偉大さを知らしめることになった。

 自分自身はプレイ出来ないが、明史は野球の試合自体はかなり見る。

 そしてデータ分析までしていくのであるから、スコアラーとしては相当に優秀なのだ。

 将来の仕事にするかどうかなどは、まだ別の問題であるが。


 四回の表には、レックスの追加点はなし。

 いよいよ直史と大介の、今季二度目の対決。

「でも一番の人も、今年も三割打ってるよね」

 明史は一番の和田も油断できない、と冷静に分析している。

 だが瑞希と真琴は知っている。

 直史は前座的な相手であっても、油断などしない人間であると。


 和田も一球は粘ってバットに当てていった。

 だが結局はスローカーブを引っ掛けて、ショートフライでアウト。

 何も邪魔する者のいない、二人の対決が実現した、と傍目からは見えているであろう。

 二度目のショータイムである。

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