第55話 前夜

 先発ローテに入っていることで直史は、ベンチ入りしていない時は、他のチームの試合をリアルタイムで視聴することが可能になっている。

 ほとんどというか、完全に特別待遇であるが、それに文句など言えるはずもない。

 シーズン無敗のピッチャーというのは、他にもいる。

 だがこれ以上に完璧に近いピッチングをする者はいない。

 実力によって全てを黙らせる。

 直史はそういう、人格とかカリスマとか、エースピッチャーに必要な個性などというものを、圧倒的な成績で構成している。

 また、隠れてというわけでもないが、別の場所で練習をしていることは、公然の秘密となっていた。


 ついにオールスターも終わり、残りの試合も半分を切っている。

 ペナントレース再開の初戦、レックスは大阪に前日入りしていた。

 いよいよ甲子園球場での、直史のピッチングが始まる。

 直史は色々な球場で伝説的なピッチングを残しているが、最初の一度が二年夏の甲子園準決勝だとは、多くの人間が認めるところである。

 この試合の様子はその権利関係から、特別に販売されることなどは不可能であった。

 だがネット全盛のこの時代、誰かが流せばそれは共有された。


 これからも天候の変化などの不確定要因はあるだろうが、それがなければ直史が甲子園で投げるのは、そしてライガース戦で投げるのは、この一試合だけになりそうなローテーションである。

 これは大介としては不満であろうが、直史としてはありがたい。

 今年の彼は、チームの優勝は二の次に考えているし、大介との対決に対する義務感もない。

 誰かのために投げるが、その誰かはたった一人である。


 予告先発により、レックスの先発は直史、ライガースの先発は津傘と、予想通りの組み合わせとなっている。

 どちらが有利かと言われると、それはもう第一戦にのみ限って言えば、レックスに決まっている。

 レックスは今年、直史がまだ負けていない。

 直史が投げたのに負けたのは、故障復帰後に短いイニングを投げた試合だけである。




 新幹線の中でも直史は、ややナイーブなところを見せていた。

 イヤホンを突っ込み、ひたすら音楽を聞いていた直史。

 隣に座るのは他の選手ではなく、ブルペンコーチである豊田が関係性を重視して選ばれている。

 直史の音楽の趣味は、この際どうでもいい。

 だが漏れている音は、もう10年以上も昔に流行した曲であるように思う。

(そういやこいつの妹たち、芸能界に入ってたよな)

 白石大介重婚事件は、いまだに野球界の伝説ではある。


 豊田は今でも気づいていないが、あの夏にツインズに手を出しかけたことは、生命の危機であった。

 このあたり豊田は、シニア時代はジンや岩崎と同じチームで、プロ入り後は直史と同じチームであったりと、不思議な縁がある。

 高校時代は敵対していたが、主に対戦したのは真田であり、ライバルと言えるような関係ではない。

 直史のライバルは、実は大介ではなく真田なのでは、というのはそのキャリアを見れば確かに頷ける面もある。


 そんな豊田の気持ちは、直史には当然伝わるわけもない。

 基本的に直史は音楽を、能動的に鑑賞するということは少なく、BGMとして流していたりする。 

 ただ精神的にリラックスする時には、イリヤの音楽が役に立つ。

 彼女は音楽に関しては、確かにほぼ万能の天才であり、ヘヴィメタルの楽曲までも作成している。もっとも体力的な面で、自分で演奏したことはないが。


 基本的に彼女は、ピアノ演奏者としてはジャズを好み、作曲者としてはポップスの人間であった。

 一時期ロックがまさにポップスであった時代があったので、そちらの方の楽曲も作っているというだけで。

(あいつはもういないのに、いまだに新曲が残っているんだからな)

 直史は音楽に関してそこまで興味がないので理解していないが、時代性を超越しているイリヤは、極めて異常な才能の持ち主であった。




 直史は自分の年齢が、日本人男性の平均寿命の、半分を超えてしまったことを認識している。

 遺伝子的にも生活習慣的にも、直史は自分がそこそこ長生きするだろうとは思っている。

 だが野球選手としては、キャリアは最晩年になるはず。

 そもそもプロでは、通算で今年が八年目なのだが。


 現地には無事に到着し、ホテルも一室に荷物を置く。

 そこからは普通に過ごし、食事も摂ったあたりで、携帯端末に着信があった。

 大介からの連絡であり、直史は外出をマネージャーに告げ、夜の街に出る。

 このあたりには直史は、何度も来てはいる。

 だが知らされた場所には行ったことなどはなく、タクシーに任せることとなった。


 さほどの距離もなく、ちょっとした小路の前で直史はタクシーを降りる。

 そこを入ったところに、隠れ家的な店を見つけた。

(九年もこっちにいたら、こういう場所も色々と見つけるんだろうな)

 直史としても東京に、全くそういう店を持っていないわけではない。

 もっとも食事に関しては、直史は美食家の傾向はいっさい持っていないが。

 大介との、まさに密談が始まる。




 個室のあるこの店は、直史から見てもお高そうな場所ではあった。

 直史は大介の名前を出すと、部屋に通された。

 直史と違って大介は変装もマスクもしていなかったが、この近隣ではそんなことをしても無駄だと分かっているのかもしれない。

「別にそちらのマンションに行ってもよかったんじゃないか?」

「そうかもしれないけどな」

 二人の会話は、当たり障りのないところから始まった。


「ここはどういう料理なんだ?」

「創作系だな。好きなものと嫌いなもの、あとはアレルギーだけ言ってお任せっていうタイプ」

「味は?」

「美味いんじゃないかな。まあ場所代とかも大きいけど」

 料亭にでも呼ばれるのかと思っていたが、こちらはこちらで大介にとっても、ほぼ準地元と言ってもいいのだろう。


 コース料理的に運ばれてくるものを、直史は特に文句もなく食べる。

 一応夕食は食べていたのだが、この呼び出しは前から予定に入っていた。 

 なので軽めに食べておいた。

 登板前日ということも加味されているのか、生魚などの料理は出てこない。

「美味いじゃないか」

「俺は貧乏舌だから、あんまり分からないんだよな」

「うちも裕福じゃないけど……まあ野菜とかはいいもの食ってたからな」

 一応は東京育ちの大介とは、そのあたりが違うのだろう。


 お互いの近況というのは、特に野球に関しては話すまでもない。

 ただシニアの大会については、確認した方がいいかもしれない。

 それと昇馬の進路についてだ。

 現在大介と婚姻関係にあるのは椿であり、桜は実は独身の状態で千葉に住んでいる。

 公立校への入学というのは、基本的に保護者がその地区に住んでいる必要があるからだ。

 もっとも養子である花音だけは、既に東京の神崎家に世話になっているが。

 この年齢になってくると、話題は子供たちのことが多くなる。




 直史はまだしも、千葉のマンションには近い。

 だが大介は東京での試合があったとしても、直史の実家まではかなり遠い。

 もっとも大介の場合、子育てについてはツインズの方に主導権があるのだが。

「昇馬は、子供の頃はそうは思わなかったが、今からだと母親に似てきたと思うよ」

 こんな直史の言葉に、大介は首を傾げる。

「二人にか? どういうところが?」

「何と言うか……現実的なところと、それを自分の力で変えようとするところかな」

 それは直史が妹たちにずっと感じてきたことだ。


 あの二人は、中学時代に間違いなく、間接的に人を殺している。

 直史の知らないところでも、道徳的な罪はいくつも犯しているだろう。

 だがそれに罪悪感を抱くことはない。

 生まれつきの完全なサイコパス。

 だが悪人ではないのだ。正義や善や法律といったものより、大切なものが二人にはある。そしてそれを優先するのにためらいがない。

 昇馬から感じるのは、人間社会から超越した何かだ。

 悪ではない。


 昇馬は佐藤家の山に入っては、害獣駆除をしている。

 生き物を殺すことは悪であろうか?

 食べるために殺すことは悪ではないだろう。

 社会的な判断をすることによって、人は多くの人を殺すことが出来る。

 聖人のような政治家であっても、本質は必ず殺人者である。

 社会のリソースを分割するということは、それだけで誰かを殺すことにつながる。


 直史には法曹の知識があるが、これはしょせん人間の都合で作ったものだという意識がある。

 だが昇馬に感じるのは、もっと原始的で野生的なものだ。

 ただ亡くなった祖父などにも、似た空気はあった。

 生きていく上で、なんらかの力を人は育てていく。

 昇馬はあの年齢にしては、その力が強すぎるだけだ。




 子供たちの進路について、直史は一般的な父親としての感性を一応は持っている。

 自分の人生が特異なものになってしまった認識はあるのだ。

「放っておいても子は育つ、っていうわけじゃないよなあ」

「それは戦後まで続いた、社会として子供を育てていた日本の認識だな」

 大介には子供を育てているという認識がない。

 特異な職業を選んでしまったがゆえに、父親の姿を見せることでしか、子供に何かを教えることは出来ないと思っている。


 直史の家庭は夫婦の話し合いによって、慎重に運営がなされている。

 それに比べると大介の場合は、大介が好きなようにして、それをツインズがフォローするという体制だ。

 父親で夫である存在が、周囲を振り回す。

 そのように見えるかもしれないが、実際は大介が馬であり、ツインズが騎手であるような立場だ。

 昇馬のように既に、一人で生きていく力を得ている子供もいる。

 また花音のように、周囲を動かす才能を持つ子供もいる。

 しかし天才同士の子供であっても、全員がそんな人間ではないし、そもそも花音は養子である。


 父親の背中を見せることが大事だ、というのは直史は経験的に、大介は反面教師として、しっかりと学んでいたりする。

 直史の場合はむしろ、祖父などの背中が印象に強いが。

 大介の知る実父の背中はいつもしょぼくれたものであった。

 それがどうにか自分の中で納得出来るようになったのは、自分もプロの世界に入ってからであった。




 意外な話であるかもしれないが、昇馬には反抗期がなかったという。

 直史は自分も、あまり明確なものはなかったな、と思っている。

 大介の場合も、強いて言うなら再婚した母親と距離を置いているのが、反抗期に近いものかもしれない。

 ただ幼少期から高校まで、そんな感傷に浸る生活を送る余裕はなかった。

 野球に夢中になっていたから、というのもある。

 直史の場合は実際のところ、いまだに反抗期ではあるのだ。

 単にそれが、表面的に出ていないだけで。


 子供の話となると、どうしても直史の方が大変だとなる。

 長女に続いて長男まで、とても成人するまでは生きられないと言われた。

 逆に手術に成功した真琴は、今ではもうすっかりと健康体であるが。

 まだ幼い次男にはそういった傾向はなく、それが救いではある。

 なお大介の方は、子供たちが多すぎてそんな感傷に浸っている生活空間がない。


 そんな中で昇馬は、人里から少しだけ離れた山に入る。

 充分に人の手が入った、危険な生物など少ない山であるが。

 孤独を体感しなければ、自我をはっきりと保てない。

 こんなある意味、弱そうにも見えるのが、昇馬なのである。

 人間の社会の中で、ずっと暮らすのには息苦しい。

 アメリカでもニューヨークにいた頃はともかく、ボーイズスカウトを通して野外生活を送ることで、そういった傾向を発見した。

 将来的にはどういった人間になるのだろう。


 運動神経などに加えて、あの精神力。

 プロの世界に進むだけの能力は、確実に備わっている。

 体格もまだ成長し、ピッチャーではあるがバッティングも強い。

 だがオフシーズンにはバスケットボールもしていて、身長がまだ伸びていることから、そちらの道もありそうではある。

 もっとも本人はそういった体育会系ですらなく、もっと野性味のある人間であるらしいが。




 直史が目的を達成したら、今年でもう引退ということになる。

 たった一年の復活で、それでまたも引退するとしたら、また伝説を残してしまうことになるだろう。

 ただそうした場合。大介はどうすればいいのか。

 キャリアの最後は日本でと言ったが、今回は終わるつもりで戻ってきたわけではない。

 直史と戦うためだけに、日本に戻ってきたのだ。 

 

 上杉は大介に対し、今はもう限界以上の力で戦っている。

 直史がいなくなれば、またMLBに戻るのか。

 そのあたりの契約がどうなっているのか、直史は知らない。

 大介に引導を渡すようなピッチャー。

 それはひょっとしたら、昇馬の役目ではないのだろうか。

 もっとも今の昇馬は、せいぜいが中学レベルで無双する程度。

 大介の能力が衰えてきた時に、昇馬はまだ成長期。

 それを待っているというのも、大介にとっては無駄にも思える時間だろう。


 直史にとって大介は、巨大な障害である。

 大介にとって直史は、強大な敵である。

 そして同時に友人であり、高めあう存在でもある。

 大介はNPBでもMLBでも、直史に負けた時にこそ、キャリアハイの数字を残している。

 このあたり、単純なライバルとも言えない関係性がある。


 二人が同じチームにいなければ、お互いがこうなることはなかった。

 お互いのお互いに与える影響力が、あまりにも強すぎる。

 直史が野球の世界でプロを目指さなかった理由は、MLBでなんとなく分かった。

 大介と戦うならば、自分はまさに命がけで戦わなければ、勝つことは出来ない。

 脳の限界まで走らせても、それでも一度は負けている。

 もちろん大介側から見れば、一度しか勝てていない、という印象になるのだが。




 お互いの家庭の話としては、直史も大介も不本意なところはある。

 本当なら大介は一家で、甲子園周辺に引っ越してきてもよかったのだ。

 だがこの数年のオフは千葉で過ごしていることと、大介の残りのキャリアが短いことを考えると、引退後に暮らすであろう千葉に家族がいた方がいい。

 実際に子供たちは、やっと日本の社会に馴染んできているという。

 昇馬は日本の社会と言うよりは、人間の社会から少し遠ざかったところにあるが。


 大介は今年、クライマックスシリーズで二人の関係に、一度決着がつくと思っている。

 全体的に見れば、確かにこれまで直史の方が勝ってきたことは多い。

 だが大介は、今年はライガースがペナントレースを制することが出来ると思っている。

 ほんのわずかしか勝率に差はないが、基本的に得失点差で見るなら、ライガースの方がかなり有利なはずなのだ。

 そしてライガースがペナントレースを制したら、クライマックスシリーズのファイナルステージは、甲子園が舞台となる。

 二人の決着をつけるには、相応しい舞台と言えるだろう。


 これまではレックスには、チーム全体の統制を取る樋口がいた。

 なのであの二年、ライガースは直史のいるレックスに負けていると言える。

 それは大介のいたあの一年目も当然含む。

 だが舞台が神宮でなく甲子園であれば。

 勝てるという自信があるのは、果たして大介の傲慢であろうか。

 どちらにしろ神宮を根拠地にしている直史にさえ、思えることはある。

 決戦は甲子園の方が相応しいと。

 そうなるとレックスが一気に不利になるのだが。




 明日の試合は間違いなく、クライマックスシリーズの前哨戦になる。

 などと言ってどちらかがBクラス落ちやファーストステージで敗退したら、全てが無駄になってしまうが。

 そもそも直史の目的は、チームの優勝ですらない。

 ただ三つの条件のうち、シーズンMVPを取るにはまずペナントレースを制する必要がある。

 ちなみにクライマックスシリーズでペナントレースを制したチームが日本シリーズに進出できなかった場合、シーズンMVPはペナントレースを制したチームからえらば選ばれるという慣習があったりする。


 だが今年はもう、直史か大介のどちらか、で間違いないだろう。

 あとは故障だけは絶対に防ぐ。

 これは二人が共に言えることだ。

 直史に大介と勝負することに対する、特別な感情が全くないわけではない。

 ただそれは直史に、大介と戦うだけの力が戻っていれば、という話だ。


 今の直史には、大介を打ち取れるイメージがない。

 シーズン中は沢村賞を取るために、直史は絶対に負けをつけられないし、そのためには大介との勝負を避けるという選択も取る。

 普段から直史の考える、優先順位。

 ここでもそれは明確なのである。


 大介もそれは理解している。

 そもそも直史のことを考えるなら、今年はまだMLBにいれば良かったのだ。

 契約は切れたものの、大介とメトロズが再契約をしたがらない理由などはない。

 いくら高いと言っても、単年契約を平気で結ぶのが大介である。

 ただ、その単年の年俸が高いというだけで。

 なので故障などで事故物件となっても、チーム再建の長い負債になることはない。




 そんな大介だが、近況に関することはこの間の、オールスターにも言及された。

 直史が参加しなかったことに、上杉は残念そうであったという。

「あの人も色々あったよな」

「上杉さんも、お前とは投げ合いたいと思っているんだろうな」

 今年一度、直史と上杉の対決は実現した。

 だが直史が故障明けであったため、余裕を持って途中で交代。

 昔あったような、究極の投手対決とはならなかった。


 以前の直史であったら、普通に投げ続けただろう。それ以前に故障などしなかっただろうが。

 上杉はこの20年の、日本野球の象徴的な存在とも言える。

 いや、高校時代から既に、その影響は巨大なものであった。

 ドラフトにしても競合することが分かった上で、ピッチャーがほしい球団は全てが上杉を選択した。

 おかげで他の選手を指名すれば、その球団は簡単に競合することなく取れることが出来た。


 高校三年の夏の、試合には負けたが上杉は負けなかった、というのは一つの伝説であり、それに匹敵するものは二年後の直史の15回パーフェクトからの翌日完封ぐらいしかない。

 バッティングまで含めれば、大介の史上唯一の、甲子園場外ホームランというのもあるのだが。

 そこから20年以上、沢村賞の最多受賞のタイミングなどで、様々な賞を受賞しているし、色々と受勲もしている。


 純粋に日本球界の発展という意味では、MLBに行ってしまった大介よりも、その貢献度は高い。

 もっとも大介は大介で、世界に日本人選手の力を証明したという点で、直史と共に大きな貢献をしている。

 どちらが優れているかという比べ方は、あまりにも陳腐なものであろう。

 ただ直史と上杉の直接対決は、もっと見たいと思った人間は多い。




 長い時間が経過した。

 立場によって人格は成熟したものを見せているが、人間というのは基本的に、中学生時代でおおよその人格形成は終わる。

 あとは経験や知識の蓄積で、対処が変わっていくだけだ。

 本当の大人になれるのは、子供たちにその背中を見せるときぐらいだ。


 昔話をする機会自体は、何度もあった。

 だがこうやって二人きりで話をするというのは、そうそうある機会ではない。

 そしてそろそろ、大介は本題に入る。

 これを先に話してしまえば、食事の味なども分からなくなるからだ。

「明日の試合だけどな」

 背信行為であることは重々承知である。

 顔を近づけて、誰にも聞かれないように。

「お前がパーフェクトを続けている間は、俺は打たないからな」

 許されない行為をすることを、大介は口にした。


 八百長、と言ってしまえば確かにそうである。

 だがこれは大介にとって、直史に対する友人というか戦友として、またそれ以上の宿敵と書いて「とも」と呼ぶ存在に対しての最低限の義理である。

「お前……」

「もちろん、だからと言って適当に投げてもらうと困るけどな」

 直史にとって野球というのは、フェアでなければいけないものだ。

 ある意味においては直史は、大介よりも純粋に、野球に対しては接している。


 ここでこれ以上の何かを、二人は話すことは出来ない。

 大介が一方的に、宣言しただけだ。そしてこれは内部事情を知っていれば、仕方がないことだと言う人間もいるだろう。

 だがこの会話が漏れたら大介は終わりであるし、そもそも大介がそれを許容するなどとは思っていなかった。

 それ以上は無言のまま、二人は店を立ち去る。

 大きな裏切りが、心の中には残っていた。




 大介は野球に関しては嘘のない男である。

 だから直史に宣言したことも、本気ではあるのだろう。

 だが試合においてあえて打ちにいかないというのは、それは嘘と同じようなものではないのだろうか。

 野球においてはかつて、大介はあまりに自分が敬遠されるので、相手のピッチャーが三振を奪ったら豪勢な食事をご馳走する、というキャンペーンまで張ったことがある。

 さすがに今はそんなことはしれいないが。


 いくら大介が直史の事情を知っていると言っても、直史がライガース打線をパーフェクトに抑える間は、打たないという宣言。

 もちろん実際に全く打たないというわけではなく、バットは振ってくるぐらいのことはするだろうし、ファールにすることもあるだろう。

 内野ゴロに倒れる、ということまでするかもしれない。

 本当にそんなことをしていいのか。


 大介の発想はしばしば、直史の常識を打ち破る。

 他の誰かならばともかく、大介が野球で手を抜く。

 それがどういう覚悟でなされたことなのか、直史には分かる。

 大介の中において野球というのは、その人生を送るにおいて重要なことであったはずだ。

 全力をかけていたそれに対して、例外を作ってしまうということ。

 罪深いことである。


 直史は大介が、事情を知っていても立ち向かってくると思っていた。

 それが大介という人間であり、だからこそ全力で戦わないといけないと思っていた。

 しかし対決を回避するという。

 シーズン内の一試合だけということもあるし、直史がパーフェクトをしている間だけ、という制限もある。

 だがそれにしても、そんなことを認めてしまっていいのかというと、それは裏切りであり、仕事で言うなら背任行為だ。




 タクシーでホテルに戻ってきた直史は、風呂に入った後にじっくりと考える。

 こんなことを相談できる人間が、いないわけではない。

 だが電話などで話すことではない。

 瑞希の書いている直史の伝記にしても、明史の病気の件は数年後には発表できるだろうが、これに関してはそれこそ墓の中にまで持っていく必要がある。

 過去の野球を見てみれば、八百長というのは極めて厳しい処分がされているし、下手をしなくても球界追放はありうる。


 だからこそ個室であり、さらに小声であったのだ。

 パーフェクトが途切れたらその時点で、勝負が発生するということでもあるが、それはもう直史にとってはどうでもよくなっている。

 直史の大目標が途切れてしまえば、大介との勝負にわざわざ全力を尽くす必要もなくなるのだから。

 実際のところ戦後の野球には、色々な八百長事件が存在する。

 それによって永久追放された選手もいるのだ。


 大介は本気で言っていた。

 直史にはそれが分かるし、正直なところ今さら永久追放などをされても、大介ならMLBに戻るだけだとさえ思える。

 それこそ家族の問題はあるだろうが。

 またこれは八百長と言うよりは、プロレスである。

 直史のパーフェクトが持続している間という条件は、ノーヒッター継続中のセーフティ禁止とどれぐらい違いがあるのか。

 ……かなり違う気もする。


 これに対して直史が出来ることは、極めて限られている。

 全力を出して、本気のプロレスを見せることだ。

 誰もが疑わない、大介が本気になっても打てないと思わせるようなピッチングを。

 ただそれはごく普通のこととも言えるので、あとはさっさとパーフェクトを諦めてしまうか。

 それも出来ない。

(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)

 直史は珍しくも、眠りが浅くなりそうであった。




 パーフェクトがピッチャーにとって完璧なピッチングだとしたら、完璧なバッティングというのはなんであろう。

 史上最強のバッターと言われる大介にしても、そんなことは分からない。

 自分はただ目の前のボールを、スタンドに叩き込むことを考えているからだ。

 むしろそういった頭脳的なバッティングというのは、樋口だとか織田だとか、そういった人間にこそ質問すべきであろう。


 直史との対決を、大介は条件付で不戦敗とした。

 野球人として失格なのは分かっているが、そもそも自分が完全に情を排して、直史と戦うのは難しいと分かっている。

 大介はメンタルの動揺によって、ある程度はバッティング成績に影響を与えるのだ。

 それはもう昔から分かっていることで、この直史との対戦にしても、状況的に自分が本気を出せないことは分かっている。


 あの日、直史をプロの世界に引き入れた。

 卑怯と言われようと、心が狭いと言われようと、そういうことを全て承知の上で、大介は直史との対決を決着させなければ、正確には直史に挑んで勝たなければ、自分の野球人としての人生に、正当な評価は与えられないと思ったからだ。


 だから今回は逆に、直史に宣言することによって、自分のバッティングを最初から縛っておく。

 パーフェクトさえ途切れてしまえば、もちろん全力で戦いにいく。

 ここいらで一つ負けた程度で、直史の成績には傷つかないだろう。

 そもそも本気を出したとして、大介が一本ぐらいホームランを打っても、試合自体はレックスが勝つだろうという確信もある。

(自分勝手承知で、これは俺のケジメだ)

 帰ってきてから無言の大介を見て、椿は何事かを察した。

 そこで何も言わないあたり、二人が大介に受け入れられた理由であろう。

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