四章 オールスター以降
第54話 ラスト・オールスター
この年、オールスターにて大介と上杉が同じベンチに入ることになった。
国際大会は除いたとして、MLBで一季だけ上杉が投げたとき、わずかにメトロズに所属したことがあったが、それ以来のことである。
だが直史はいない。
オールスターに選ばれる名誉だとか、ファンサービスであるとか、そういったことは全く考えていない。
これにも批判的に言説を展開する老害などはいたが、熱心な信奉者は全くそんな記事を見ていない。
ただベンチに入った上杉は、少し残念そうにはした。
「佐藤は今年ぐらいか」
事情など知らないはずなのに、上杉はなんとなくそれを感じ取っているらしい。
それでなくても、上杉は自分の引退が近いことも分かっている。
「他にあるとしたら、もう国際大会ぐらいっすか」
「さすがに体がきついからな」
上杉は国際大会などにも、積極的に参加してきた。
だがさすがにもう、次の誰かに譲る時期だとは思っている。
大介もこれまではずっと、日本代表には可能な限り出てきた。
しかし若い力というのはいずれ出てくるものだ。
それが自分たちが決定的に衰えるまで、その座を揺るがす者がいないというのは、逆に寂しい気もする。
これは大介のような、完全なる成功者の傲慢であるかもしれないが。
引退の花道は、優勝で飾りたいなどと思っている大介であるが、自分が衰えるまで現役を続けるつもりであれば、さすがにこれも難しいものだとは分かっている。
人が死ぬのと同じぐらい当たり前に、いずれ引退の時はやってくる。
去年ですらも、モチベーションの低下から途中まで成績は下降気味であったのだ。
大介は強い相手と勝負しなければ、その強さを保てない。
全力でプレイすることが、そのパフォーマンスを維持させる。
普通ならもう、故障を恐れてプレイするぐらいの年齢なのだが。
今季復調している上杉に、NPBに復帰した大介。
この投打の要の二人を擁するセ・リーグの方が、今年のオールスターは有利とも思われていた。
ここに直史が加わっていればさらにセに戦力の比重がかかっていただろうが、武史がまだ戻ってきていないだけ、マシであるとは言えるかもしれない。
そして上杉は第一戦の先発を任されている。
四日前にはライガース相手に投げた上杉であるが、長くても3イニングだけであるので、問題なく投げるつもりである。
かつてはバットにかすらせることもなく三振を奪っていた上杉であるが、肩を故障してからはムービングで凡打を打たせることも多い。
この試合も普通に、160km/hの速球を投げている。
だが大介に投げたような、160キロ台後半というのは、一球も出ていない。
そもそも同じライガース相手の試合でさえ、大介以外の相手にはそこまでのスピードは出ない。
壊れることさえ覚悟したピッチングをしなければ、そんなスピードは出ないのだ。
まずは三者凡退し、そしてセ・リーグの攻撃である。
先頭打者は直史からもホームランを打っている末永。
ただその後は完全に封じられているが。
大介は珍しくも、この試合では四番に座っている。
NPB時代もMLB時代も、そして日本代表もあまり四番に座ったことなどない大介であるが、とりあえず一人でも出れば打順が回ってくる。
どうせなら一番を打ちたかった大介であるが、これはお祭り騒ぎ。
珍しい四番の姿を見せてもいいだろう。
(それにどうせ、初回から回ってくるだろ)
前の三番には、悟がいるのだから。
実のところ選手間投票では、上杉に対する投票がいまだに多い。
もちろん一般投票でも多いのだが、特にセ・リーグの選手などは、一度上杉と一緒のベンチに入りたいという選手が多いのだ。
今年はそれに大介が入って、投打の21世紀最高の選手が揃っている。
直史はちょっと別枠、という選手が多いのだ。なにしろNPBでは二年しか投げていないので。
もちろん直史は直史で、希少価値は上杉以上。
あの訳の分からない成績について、どういうコツがあるのか聞いてみたいという選手は多い。
ただ直史に投球理論を尋ねるのは諸刃の剣である。
親切に教えてもらったとしても、プロに対して直史は優しくない。
自分のレベルを低下させてまで、味方でもないピッチャーに優しく説明はしないのだから。
ピッチャーは極端な話、フィジカルを鍛えて球速の出る人間がやればいい。
メンタルやテクニックなどは、後から学べばいいのだ。
それでも球速が遅くても、立派な成績を出すピッチャーはいる。
とりあえずコマンド能力と、ストライクに投げ込むメンタル。この二つがないと他は何があっても意味がない、と直史は言うだろう。
上杉などのような完全に才能でやっているピッチャーと違って、直史には技術的なものが多いと思えるのだろう。
だが実際のところ、直史の肉体はあれはあれで、若年の頃からの蓄積によって成り立っている奇跡の象徴だ。
そして精神性は、直史と上杉はかなり共通しているところがある。
ピッチャーというのは他のどこよりも、精神力がないと務まらないポジションであるのだ。
一回の表、ツーアウトから悟はフォアボールを選んで出塁する。
パの先発である鎌池は、今年の交流戦でもホームランを打たれているので、慎重になったのだろう。
そして大介の打席が回ってくる。
(福岡コンコルズの鎌池、今年の沢村賞の有力候補、とシーズンが始まるまでは言われてた)
ポスト上杉候補の一人と言われパではタイトルを何度か取りながらも、あと一歩届いていない。
直史がいる今年も、おそらくは取れないだろう。ただ日本シリーズの前哨戦となるかもしれない。
福岡は左の磯谷が厄介だったイメージがあるが、それも程度問題である。
最速160km/hのストレートに、スプリットとツーシーム、それにスローカーブという組み合わせ。
ストレートとツーシームにスプリットだけでも手が着けられないのに、スローカーブで緩急まである。
まだ22歳であるが、去年はノーヒットノーランまでやってのけている。
(タケの一年目に比べればな)
ただこのオールスターと違い、本来のキャッチャーとバッテリーを組む日本シリーズではどうなるだろうか。
初球、ストレートをインハイに投げ込んできた。
(おお、お祭り騒ぎで済ませるわけじゃないのか)
観客席が沸いたのは、球速表示に162km/hというのが出たからだろう。
自己最速を更新したのか。すると悟に球数を使ったのは、肩を暖めるためであったのか。
(これでスプリットとツーシーム、さらにスローカーブがあるというのは)
確かにパの方では勝ち頭になっているだけのことはある。
ただMLBに行くには、ちょっと経験が足りないかな、と大介からすれば思ってしまう。
一応研究は既にしているので、打てなくはない。
(スプリットとのコンビネーションが一番厄介らしいけど、見せてくれねえかなあ)
そう思っていたところ、投げられたのはほぼ真ん中のコース。
しかし大介はこれを、上手くスイングした。
手元でわずかに逃げていく、ツーシームであったが。
あえてポールのわずか向こうに、ファールになるように。
オールスターで単純にホームランを打っても、あまり意味はないと考える。
大介は直史と戦うために戻ってきたが、どうせ戻ってきたのなら優勝したい。
そのためには福岡のエースの研究は必要だろう。
(これでカウント的にはツーナッシング)
空振りが取りたければ、スプリットを投げてくるだろう。
160km/h近いスピードで落ちるというスプリット。
だがそれは今年、既に上杉で体験している。
しかし上杉よりも、こなれた使い方をしてくるはずだ。
(来るよな?)
ピッチャーなら、ここは勝負してくるだろう。
そしてその期待は裏切られることはなかった。
157km/hのスピードで、上杉と違ってストレートと見分けのつかないスプリット。
それを大介は、バットに当てた。
一塁線の向こう側に、ファールとなるボール。
ヤマを張っていなければ、初見の今では凡退していたことだろう。
(さて、じゃあ次は何を投げる?)
まだ見ていないのは、スローカーブである。
実際には直史のスローカーブよりもずっと速いらしいが。
ボール球が使えるのだから、ここはボールになってもいいぐらいの感じで、カーブを使ってくるだろう。
このあたりの予想を裏切らないあたり、まだこのバッテリーはこなれていないと言っていいだろう。
投じられたカーブに対して、大介はバッターボックスの中で、ステップを踏んだ。
そして見逃してもゾーンから外れそうなボールを、ほぼゴルフスイング。
打球はまたもライト方向への、大きなファールフライになった。
ツーストライクからカウントは変わらない。
だが鎌池はもう、投げる球がなくなってきている。
しかしそれは、もう下手な駆け引きなど必要ないということでもある。
(力勝負!)
初球のインハイを、大介は見送っているのだ。
高めいっぱいに、ストレートを力強く、いや、ほんの少しだけ高めに外す。
力の入ったいいストレートを、大介は待っていた。
そしてこれが、おそらくはわずかにボール球であろうことも、予測はしていた。
直史との対決で投球術の駆け引きをやっていくと、こういうことはすぐに分かるようになってくるのだ。
それでも完全なジャストミートとはならず、バットはボールのわずかに下を叩いてしまった。
高く上がったフライ。それはセンター方向へのものであり、やや深く守っていたセンターは、ゆっくりと後退していく。
いや、今の角度で上がったなら、キャッチ出来るはずだ。
鎌池はそう思ったし、大介もちょっとミスショットであったかな、とは思っていたのだ。
しかしボールは落ちてこない。
落ちてこないまま、センターはフェンスにまで後退し、そこからグラブを伸ばすこともなく、ボールはバックスクリーンに飛び込んだ。
「センターフライになるかと思った」
大介はほっと一息といったところだが、鎌池をはじめ守っている方は、たまったものではない。
滞空時間の極めて長いホームランは、ピッチャーのプライドを叩き折るものであったかもしれない。
ドーム型球場だったら、ホームランではなかった。
そう考える大介であるが、それはどうでもいいイフの話。
鎌池はさらにランナーを出したが、味方の好守にも助けられてそれ以上の失点はなし。
しかしメジャーリーガーの中でも、ロートルではなく間違いなく一線級の実力を感じて、果たしてどう思ったであろうか。
高卒のピッチャーであれば、25歳でポスティングでMLBに行くというのは、現代では規定路線になりつつある。
もっとも鎌池の場合は、選手にポスティングを許さない福岡の所属。
実は契約の折に、しっかり組み込んでいる選手もいたりはする。
だが鎌池の場合は、ドラフト上位指名でもなかったため、そんな契約はしていない。
直史とは違うのである。
もっとも九年待てば海外FAが取れるため、球団としても七年ぐらいでポスティングを容認することは普通にある。
選手としても25歳までは年俸が安くなってしまうため、それまでを日本での修行期間と割り切る者も増えているそうな。
実際のところMLBはデビューがNPBと比べると、年齢が高めになっていたりする。
なので勤続疲労がないのであれば、NPBで性能の検証が出来るというのも、悪いことばかりではないのだろう。
外野フライと思ったものが、スタンドまで伸びていく。
今日は打球に影響するような、極端な風は吹いていない。いや、上空がどうであるのかは分からないが。
(いったいなんなんだ、あれは)
交流戦での対戦がなかったことは、少し残念な気がしたのだ。
勝ってやるという自惚れではなく、もちろん勝つ気ではいたが、どのぐらいのレベルに自分がいるのか知りたかったのだ。
そもそも、そこが間違っている。
大介をまともに抑えているピッチャーが、今のMLBにはいるのか。
サウスポーのスライダーに弱いというのは、今でもある程度は本当のことである。
しかしそれは右のピッチャーなら、諦めろということなのか。
直史も上杉も、右のピッチャーである。
つまり出力をさらに上げるか、バリエーションをさらに広げるかである。
セ・リーグ優位のまま、試合は展開していく。
上杉は3イニングまで投げて、ランナーを出さずにお役御免。
単純にパワーだけで勝負するのではなく、しっかりと打たせて取る技巧も見せて、三振と内野ゴロで九人で終わらせた。
熟練の技術と言えるであろう。
そんな上杉がベンチに戻ってきたところに、話しかけたキャッチャーがいる。
「あの、上杉さん」
実は今回、キャッチャーの部門でファン投票一位になっていた迫水である。
これは純粋な実力や人気ではなく、ファンからのネタ票も多かった。
なにしろ最後の最後で、直史のパーフェクトを終わらせてしまったのであるから。
もっともその実力自体には、それほど懐疑的なピッチャーなどはいない。
そんな迫水から声をかけられて、上杉は鷹揚に隣のベンチに招いた。
「なんだ?」
「キャッチャーの樋口さんのことについて聞きたいんですが」
「樋口?」
なぜここでその名前が、と上杉は一瞬思った。
だが迫水の今の立場を考えると、なんとなく分からないでもない。
直史と組んでいる今年のキャッチャー迫水は、まあよくやっていると言ってもいいだろう。
だが直史と組んでいたのは、主に樋口なのである。
NPBだけではなく、MLBでも間違いなくトップクラスのキャッチャーであった樋口。
先に日本人キャッチャーとして成功したのは坂本であろうが、樋口の成績はおおよそ、坂本を上回っている。
「あの人がどういうキャッチャーだったのかを」
「樋口がか」
上杉としても、高校時代のわずかな期間と、そして国際大会では多くを樋口と組んでいる。
おそらく日本のトップクラスのピッチャーと、最も多く組んだのが樋口ではないか。
迫水が何を考えているのか、上杉にも分からないでもない。
だがそれだけに、説明出来ることは少ない。
「あいつはとんでもなく頭がよくて、合理と効率の鬼で、そのためなら限界まで練習をするやつだったな」
上杉としては樋口の人生を変えてしまった、という気持ちはある。
もちろんその変わった未来の方向は、おそらく本来のものよりは良かったのだろうが。
樋口のことを説明するのは難しい。
上杉にしてみれば確かに、樋口はその才能に目をつけて、春日山に入学してもらったキャッチャーだ。
だがその過程においては、誰にも言えない闇の部分がある。
また樋口は頭脳の明晰さもそうだが、根本的には本当に手段を選ばない精神性の方が、特徴的であると思う。
上杉は本来、王道を行く者だ。
だが上に立つということは、清濁併せ呑む器も必要である。
樋口のことに関しては、より大きな利益のために、正義の側に立ちコネクションを切った。
それに関してはもう、誰にも言えないことである。
樋口はセンスもさることながら、過酷な状況が作り出した選手と言ってもいい。
説明だけでは理解出来ないし、むしろ悪い影響を与えかねない。
なので上杉は、あくまでも技術的なことだけを話す。
樋口に対して、自分が人生を歪ませてしまったことを、認識しているがゆえに。
NPBの常識的な右腕のトップレベルが、果たして大介を打ち取れるのか。
直史としてもそれは大きな関心があった。
練習とトレーニングに大きな休憩を挟み、この試合は見るつもりではあったのだ。
セイバーとトレーナーと共に。
だがそこに訪問者があった。
実の娘の真琴である。
学校は既に夏休みに入っていて、所属するシニアチームは最後の大会に向けた調整をしている。
だが同時に受験生でもあるため、ある程度の休日はあるのだ。
真琴は一人で、東京にまでやってきている。
(ちょっと見ない間に……)
この年頃の少女は、ほんの少しの間にも大きく変化する。
どんどんと大人になっていく娘の成長を、間近では見られない直史。
そんな自分の状態に、満足はしていない直史である。
真琴はどちらかというと、直史に似ている。いや、佐藤家家系と言うべきか。
瑞希のようにほっそりとはしていないし、背が高くて肉体的に恵まれている。
叔父や叔母に似ている、というべきかもしれない。もっともツインズは背はあまり高くなかったが。
「突然だな」
直前に電話はあったものの、トレーニング中であれば気づかなかったであろう。
直史の真琴に対する姿勢は、極めて単純である。
厳格な父親でありながらも、相手を理解しようとする姿勢は崩さない。
幼少期の人格形成において、直史は自分があまり父親としての役割を果たせていないのではないか、という負い目がある。
もちろんそれは仕方のない事情があったからでもあるのだが。
それとは関係なく、真琴はお父さん大好きっ子であるのだが、そのあたりのすれ違いは普通にあることであろう。
そういえば、と直史が気になったのは昇馬のことである。
大介がオールスターに出ているのに、見ていないのだろうか?
それを問いかけたところ、多分見ているだろうとは答えが返ってきた。
ただ昇馬はわざわざ真琴を誘ったりしないらしい。
「小さい頃は仲良かったのになあ」
「今でも悪いわけじゃないけど、なんだか変わったよ」
それはそうなのだろうが、と思いつつ直史はセイバーを見た。
彼女はニューヨークを長らくの拠点にしているので、この数年の大介のことについては多くを把握しているはずだ。
セイバーにとっても昇馬は、かなり不可思議な存在である。
直史や大介など、才能と呼べるものを確かに昇馬にも感じる。
だが天然で野球馬鹿の大介や、野球に愛されて呪われたような直史、また他の選手としても、その存在の違和感は大きい。
子供の頃からそこそこ会ってはいたし、昔はそこまで異質ではなかったと思う。
しかし成長するにつれて、近くにいることに畏怖を感じるようになった。
アメリカ社会では、強烈に男性的な人間もいたし、また破天荒な人間も見てきた。
だが昇馬はもっと、穏やかに本能的だと言えるだろうか。
危険な男だ、というのまだ少年の昇馬に感じるのは不思議でもある。
確かに体はもう大きくなったが、まだ精神的には子供でおかしくない。
アメリカ社会はその人間の社会性に対して、かなりシビアな判断をする。
だが昇馬は精神が成熟していると言うよりも、何かもっと強烈なものを秘めていると思える。
このあたりの感触は、真琴には分からないだろうし、分かる必要もないだろう。
将来的には確かに、MLBに連れて行きたいとは思っている。
だが昇馬は野球だけではなく、他のスポーツでもその能力を発揮している。
野球強豪ではなく、白富東に進むというのは、無難であると思う。
オールスターは進んでいくが、直史もセイバーも、その試合で注視する場面はさほど多くない。
自然と真琴とも話せるのだが、彼女自身が話したいことを整理できていないように思える。
中学生というのはそういうものだ、と直史も過去の自分を思い出す。
あの頃、もっとエゴを出せて、一つだけでも試合に勝てていたらどうなったろうか。
高校で知り合った人間は、野球を通じてのことが多い。
ただあの緩い白富東なら、続けていてもおかしくはない。
真琴の相談と言うか愚痴のようなものは、今のチームが昇馬に頼りすぎている、ということであるらしい。
確かに昇馬なくして、予選で横浜シニアに勝つことは出来なかっただろう。
いや、もうほとんど昇馬一人と、あとは真琴ぐらいしか活躍していないと言っていい。
来年の高校野球は、さぞうるさいことになるだろうな、とも直史は思っている。
それまでにこちらの問題は解決していてほしいが。
真琴が抱いているのは、昇馬に対する劣等感というものがあるだろう。
だがそれは男女の、どうしようもない肉体性能の差でしかない。
数年前にトランスジェンダーの元男が女子扱いでスポーツに出て、大問題になったことからも分かるのだ。
まだ中学生の段階ではあるが、真琴が男子と混じっても充分に戦力になるというのは、正直なところかなりすごい。
高校野球ではシーナ以降、甲子園での女子選手は出ていない。
つまり中学レベルまでが、女子の活躍できる限界なのだ。
あのボールをキャッチ出来るというだけで、真琴は充分に戦力となる。
ピッチャーというのはキャッチャーがいなければ、活躍することが出来ないポジションであるのだから。
もうすぐシニアの全国大会もある。
だがこれは日程的に、三橋シニアが優勝することは難しい。
昇馬は本来、平然と連投するだろう。
だがそれでも、球数制限に引っかかるし、連投制限もある。
他には全国レベルで通じるピッチャーは、真琴しかいない。その真琴にしても相手を完封することなど出来はしない。
また三橋シニアの弱点とも言えるのは、三枚目のピッチャーがいないことの他にも、打撃力の絶対的な不足もある。
昇馬は一人でも点を取れるが、どちらかというと打つよりも投げる方が、今のところは得意である。
最強と呼ばれた横浜シニアを完全に抑えてしまったのは、衝撃的に全国に伝わったらしい。
極端に言えばバッティングは、敬遠してしまえばどうにかなるのだ。
直史は口にはしないが、スポーツで活躍するなら真琴は、テニスでもやれば良かったなどと思っている。
女子野球などはマイナーな競技であり、また男子に混じってもいいとなっているが、現実的にそれは無理な話だ。
女子でプロの興行が成立するのは、圧倒的に個人競技が多い。
もっとも真琴は、直史のことが大好きであるから、野球をしているのだ。
直史などは中学三年生ともなれば、かなり将来のことは考えていた。
もっとも今のような状況など、全く予想だにしていなかったが。
真琴が将来どうするのか、ということは少しは心配している。
だがこの年齢でまだ将来などはっきりしていない、という人間がいかに多いかというのも分かっている。
ただし将来の選択肢を広げるために、学力は落とさないように指導しているが。
直史は今、生命の危機にある長男のために、自分の人生を捧げている。
思春期で多感な娘のことを、心配していないわけではない。
ただ優先順位の限界ではあるし、男親は娘の相談には乗れない部分がある、という考えも持っている。
また真琴の判断力などに、ある程度の信頼を置いているということもあるが。
家庭内には問題があっても、友人はいるしコミュニティへの参加もしている。
学校でも女子に人気のある女子、という立ち位置ではあるらしい。
イケメンと言うよりは、女性的と評される直史の容姿と、地味美人と言われる瑞希の容姿。
それが遺伝している真琴は、確かに顔の造作も悪くはない。
だが彼女が持っているその人気というのは、単純な外見的なものではない。
ある程度のカリスマというものが、やはりあるのだ。
直史が、自分にはないと思い込んでいるものである。
テレビにおいては試合が進んでいくが、真琴は直史に解説を求めていく。
ただオールスターというのはお祭りであるため、合理的な選択だけがされていくわけではない。
それは興行である以上、普段のレギュラーシーズンも同じなのだが、結果を出さないといけないというプロの世界なので、プロレスをするわけにはいかない。
だが野球には、MLBを含めてもプロレス的な美学があると直史は思っている。
単純に試合の勝利を考えるなら、まさに大介は敬遠すべきだ。
しかし直史は、勝てると思って大介と勝負をしていた。
実際に決定的な敗北は、一度しかなかったのだ。
バッターはともかく、ピッチャーはその一度が致命的だ、という考えも持っているが。
ピッチャーは相手を0に封じるのが役目。
バッターは一点でも取れれば、それで勝ちと言ってもいい。
オールスターの第一戦は、セ・リーグの勝利に終わった。
上杉の降板後はパもそれなりに打っていったのだが、またも勝負を決めたのは、セのピッチャーである。
レックスから選ばれていた、外国人クローザーのオースティンが、最後にセーブポイントを挙げてセの勝利が決定。
それを見終えて、直史は真琴に向き直る。
「どうする? このまま帰るなら送っていくが」
「じゃあ、久しぶりにお願いしようかな」
お父さん、娘とドライブデートである。
直史は優先順位が分かっている人間である。
今するべきは、全て野球につながるべきこと。
だが東京まで出てきた娘との、ほんのわずかな時間を作れないほどでもない。
そして自分では運転せず、タクシーで千葉のマンションまで一緒に送る。
これはドライブデートではない。
直史は出来るだけ、自分では運転しないことを、プロの間は意識している。
なので普段からタクシーを使うのであるが、今日は休みの予定であるので、普段のタクシーを使う予定はなかった。
それなりの長距離移動に、運転手はありがたい。
サングラスをかけた直史は、不思議なほどに身バレしない。
後部座席で甘えるように頭を、直史の肩に乗せてくる真琴。
この年頃の娘に、臭いと言われるお父さんが多い中、直史は幸せな父親であろう。
「わたし、お父さんみたいに、何かになれるのかな」
思春期特有の、それなりにシリアスな悩み。
だが直史はそれに対する答えを、既に持っている。
「何かを探す過程が難しいし、何かを見つけたならもう、寄り道をしている暇はないからな」
直史もまた、娘の頭に手を乗せる。
「今はまだあせる必要はないけど、目の前のことに全力で取り組めばいい。本気の出し方だけは、分かっていないとどうしようもないからな」
伝わるかどうか、直史としても微妙かとも思う。
だがそれが、彼の人生の実感であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます