第51話 対策を練る人々

『マジで打てない。いや本当にマジで』

 そこはとある、限定された者しか入室を許されない、インターネット上のコミュニティ。

 完全匿名であり、その日ごとに割り振られたIDも変わるため、誰が誰であるかは分からない、ということになっている。

 もっとも過去の書き込みなどを見れば、どこの誰がいるのかは、おおよそ分かってしまうものだ。

 また普段はいないような書き込みのクセなどを見れば、ああ、今日は珍しくあの人が来ているのだな、などという推測は出来る。


 NPBの現役選手のみが、好き放題に書き込みが出来るというBBS。

 その発端は数年前であり、若手を中心に、なんとなく緩い感じで運営されている。

 もっとも語られている内容などを見れば、下手をすれば八百長を疑われるような書き込みもあったりする。 

 ただし暗黙の了解で、それだけはやってはいけないと、トップにも書いてある。


『あの人おかしいよ。悪魔と契約したとか、実は神の子とか言われてたけど、ほんまに参った』

『うちまだ当たったことないなあ』

『おいこらライガース』

『実際どんな感じなんだろ。ライガースだけはまだ対戦ないよな』

『白石さんに聞いてこいよ。日本人選手で大サトーから三本以上ホームラン打ったのってあの人だけだろ』

『聞けるわけねえ。忘れられがちだけどあの人、大サトーの義弟だぞ』

『白石ジュニア、ピッチャーの才能の方があるってな』

『何それ。知らない』

『シニアの関東大会で横浜シニア相手にパーフェクトピッチしてる』

『俺の古巣www』


 緩い空気は某壷のBBSに似ているかもしれない。

 ただ基本的には毎日、ここでの書き込みはリセットされる。

 もちろん最初に作った人間が見れば、誰のどの書き込みがどこからのものなのか、そしておおよそ誰なのかも分かってしまうのだが。

 あまりそのあたり気にしない、ITリテラシーが低い人間が、ここには集まっているのだ。


『大サトーの弱点って本当にないのけ? 一応ホームラン打ってるのいるのに』

『水上さんはおらんはずだけど、末永はここに書き込んだことあったよな? 今もまだいるのかは知らんけど』

『つってもあのホームランもマグレみたいなもんだろ』

『一応、初球にヤマを張ってフルスイングっていうのが、一番得点につながりやすいらしい』

『ソースは?』

『うちの分析班』

『そっちもか。初球からだいたいストライク取りに来るから、それは確かに間違いないっぽい』

『あの人プロに来てからの失点って、ホームラン以外はほとんど味方のエラーがらみなのよな』


 実際これが漏れたとしても、八百長と言うよりは単なる愚痴で、球界追放などのような厳しい処分はないであろう。

 だがファンに漏れたらなんとなく、不信感は抱かれるであろうが。

 もっともここには野手だけではなく、投手も存在している。

 そのため相互の技術の秘匿は、ある程度はなされるものなのだ。

 それでもあのバグをどうにかしてくれ、というのはおおよその本心であろう。

 実はここには、レックスの選手もいるのであるが。


『そもそもなんであの人、復帰したのよ。MLBでもう一生分稼いだだろうに』

『どれぐらい稼いだのん?』

『日本円に直すと分からんけど、MLBサイトによると純粋な年俸だけで1億6400万ドル』

『すげえ』

『今のレートだと220億弱か……』

『MLBってすげえええ』

『破壊神はもっとすごいだろ?』

『5億8600万ドル。680億円』

『すげええええええ』

『小サトーは?』

『3億2000万ドル。大サトーより低い成績だけど長くやってるしな』


 結局はこうやって、何か陰謀を謀るような書き込みからは外れていく。

 基本的に男は、頭の中は金と女と酒で出来ているものだが、より本能に近くその肉体を躍動させる男どもは、結局分かりやすい思考をしているらしい。




 直史の脅威を体験して、それでもまだ戦意を失わないでいられる人間もいる。

 悟は間違いなくその一人であり、実際に直近の試合でも、三振で倒れた打席はなかった。

(フライを打たされたのはともかく、強いゴロになったのは悪くなかった)

 内野の間を抜いていってもおかしくない打球であり、あそこでノーアウトのランナーになれば、足でかき回していっただろう。


 悟はMLBに行かなかった。

 おそらく通用するだろう、とはずっと言われていたし、太鼓判を押してくれるスカウトもいた。

 だが運命は彼を、あの大舞台には立たせなかった。

 それを後悔などしてはいけない。

 しかしどうしても、もしもと考えることはあるのだ。


 WBCなどの国際大会で、メジャーのピッチャーと対決する機会は多くあった。

 そこでもしっかりと結果を残せたため、よりイフの世界を語られることになる。

 ただ、縁がなかったのだ。悟はそう思っている。

 だが今、違う形でMLBのレベルに挑戦する舞台が整った。


 五年連続でサイ・ヤング賞を取ったというそれだけで、充分に野球の歴史に名を残す存在であるが、それ以上のものがある。

 史上最も、完璧に近づいたピッチャー。

 それと戦える機会は、もうさほど多くはないはずだ。

 だがこの対決を、野球の神様に感謝する。

 それが悟という人間であった。




 オールスターまであと1カード。

 直史の15勝目の試合を、大介は改めて録画で見直す。

 交代の時間なども飛ばさず、実際にそこにかかった時間まで、しっかりと体験するのだ。

 そして頭の中でシミュレートする。

 自分を悟のポジションに置き換えて。


 内野フライと外野フライ、そしてセカンドゴロ。

 直史の投げたピッチングには、テーマ性があると思う。

「9イニング28人、92球14奪三振……」

 打たれたヒットは一本だけ。

 カーブを上手く掬われたのが、たまたま内野と外野の間に落ちたと見える。


 そう、たまたまである。

 ジャストミートしたというなら、悟の第三打席の方がよほど、上手く打てたと言えるだろう。

(けれどゴロだ)

 緒方のほぼ正面に飛んだが、あれがライナーであれば捕れなかったのでは、と大介は見ている。

 スイングスピードが分かれば、もう少し深い分析も出来るのだが。


 次はいよいよ甲子園で直史と対決する予定だ。

 これまで二度、一度目は直史が肉離れを起こして流れ、二度目は雨天により流れた。

 二人の対決を見たいと思っているのは、日本国内だけの話ではないと思う。

 実際にアメリカからの接続がネット配信のチャンネルでは増えている。

 直史のピッチングと、大介のバッティング。

 この二つがMLBの歴史に刻みつけたものは大きい。


 直史と戦えないならば、今年はまだ戻ってくる必要などなかったのだ。

 MLBは才能の集結する場所であるので、直史が引退した後も、大介に挑んでくるピッチャーはいた。

 おおよそはまず手痛い洗礼を浴びていたが、初対決で抑えたピッチャーもいないわけではなかった。

 その平均的なレベルは間違いなく世界一と言うか、そもそもNPBのトップレベルの選手は、ほぼMLBに移籍するのが現在の状況だ。

 そういった勝負を全て捨てて、直史との対決を選んだ。

 相応しい舞台は、必ず用意される。

 大介はそう信じて、試合の映像を見続けていた。




 パーフェクトを狙ってすることは出来ない。

 だがかつての自分にあったものが、今は失われているのではないか。

 直史はそう考えている。

(何が足りない?)

 若さがもう足りない。そこから体力や柔軟性、コンビネーションのバリエーションが失われていっている。

 外部的な要因を求めるなら、キャッチャーの能力が足りないとも言える。


 樋口との組み合わせは、大学の四年間を通じて手に入れたものだ。

 そしてNPBで二年、MLBでほぼ四年のつながりがあったのだ。

 迫水にそこまでを求めるわけにはいかない。確かに物足りないものはあるが、無駄なことをして足を引っ張ることはない。

 あのパスボールでさえ、直史にとっては許容すべき程度のミスとして捉えられているのだ。


 今はスルーを投げても、またバウンドするカーブなどを投げても、しっかりとプロテクターで前に落とすことは出来るようになっている。

 総合的に見ても、間違いなくいいキャッチャーではある。

 大学から社会人に進んだのは、それだけ多くの経験を積ませることになった。

 直史はそういったものに感傷的にはならないが、実際の実力だけはちゃんと評価しているのだ。


 他に何が足りないのだろう。

 次はカップスを神宮に迎えてのカードで、それが終わればオールスターとなる。

 直史は出場しないが、大介は出場する。最大の得票数での選出である。

 出場しないとずっと前から明言していたのに、直史にもかなりの票は入っていたりした。

 カップス戦も、直史が投げることはない。

 この空白の時間の間に、今の自分に足りない何かを、直史は見つけなければいけないのだ。




 パーフェクトを何度も直史は達成している。

 上杉や武史も達成しているし、アマチュア時代なら達成しているというピッチャーは、そこそこプロにいるだろう。

 特にシニアなどはチーム数が少なくレベル差が大きいため、コールドにならなければそこそこ達成される。 

 ただアマチュアでも甲子園レベルなら滅多になく、プロともなると数年に一度のレベルになる。

 そんな記録を直史はどうして達成できているのか。


 いや、それが本当に分かっているなら、パーフェクトに届いているだろう。

 分かっていなくても、先日はあと一歩というところまで近づいた。

 ピッチングの極意というものがあるなら、それに一番近いのが直史だ。

 単純なパワーだけで押していくのではなく、もっと単純に相手が予測していないボールを投げていく。

 やはり読み合いと駆け引きが重要にはなるのだろう。


 上杉や武史は、こういった努力はいらないのだろうな、と直史は思っている。

 ボールのパワーだけで勝っていくというのは、ピッチャーとしては楽でいい。

 中学時代、本気で投げたらキャッチャーが捕れなかった。

 ストレートはスピードよりもコントロールを優先したし、変化球も大きな変化は使わなかった。

 それでもどうにか、抑えられるところは抑えられた。

 だが三振を取れないと、確実性は下がってしまう。

 ローテの休みと、オールスターの休み。

 ここで直史は、さらなる復元を考えていかないといけない。




 直史の全盛期は、肉体的には一度目の引退直前になるだろう。

 だが総合的な全盛期は、今まさに迎えようとしている。

 肉体を若返らせることは不可能だが、あとはここに技術的な要素を加えれば、まさに総合力で過去のどの時期をも上回ることが出来るだろう。

 そのために必要なのは、球速と変化球。

 150km/hに球速が伸びれば、それだけ緩急の差が取りやすくなる。

 またここまで投げてきた、遅いが空振りが取れるストレート。

 あの下半身に負担が大きいボールは、もう最低限しか使いたくない。


 直史は確かに安定していて、故障もほとんどなかった。

 しかしそれは入念な準備運動などがあったからで、そもそも肉体の耐久力が昔ほどはない。

 それでもフラットなストレートを使うことで、成績を上げてきた。

 故障を恐れて、しかしぎりぎりのところを攻めて。

 フォームが昔のものに戻ることで、球速が上がってムービング系も変化するように戻ってきた。


 二つのストレートの使い分けは、あの引退試合の時からやってきた。

 ここでその違いをさらにはっきりさせる。

 そして落ちないストレートを活かすためには、落ちるストレートが必要不可欠になってくる。

 ジャイロボールであるストレートだ。

 このジャイロボールを、縫い目を逆に使うことでチェンジアップとして使う。

 どちらにしろ落ちるボールと、ストレートを組み合わせる。

 これを打たれたことはほとんどない。


 スルーは確かに元々、コントロールが難しいボールではあった。

 しかしそれでも、変化がカットボールと混じることなどはなかったはずだ。

 問題としてはどれだけ沈むかが分からないということ。

 わずかでも軸が変われば、縦スラとなって高速で落ちる。

 パスボールするスルーというのはおそらく、この縦スラ要素が強い。




 セイバーがアメリカから依頼して連れてきたトレーナーも、さすがにこの常軌を逸した練習には呆れていた。

 ピッチャーの肩肘は消耗品というのが、現代においては常識である。

 肘の靭帯は切れて当たり前で、そこをトミージョンで復活させる。

 より強い部分で補い、選手として復活させるという、ちょっと昔の人間から見ると無茶な治療法に思えるらしい。

 直史も引退の原因は、靭帯の損傷である。

 そこから手術なども受けていないのに、今はまるで何もなかったかのように、しっかりと投げている。


 球速は落ちた。

 だがその落ちた球速が、戻ってきている。

 平均球速がはるかに高いMLBでも、遅いボールで相手のバッターを封じるピッチャーはいる。

 だが直史のこの成績は、そういうレベルではない。

 コントロールがいいだけではなく、三振も奪える。

 ストレートでしっかりと奪うことも出来るが、カーブなどでタイミングを崩して、空振りさせることもある。


 相手の狙いを完全に読み取っているかのような。

 もしもそうであるなら、どれだけの思考をしているのか。

 技巧派ではなく、相手との駆け引きをしている頭脳派。

 ただそんな読み合いが、全てのバッター相手に出来ているのか。

 そんなはずはないのだ。


 野球は統計のスポーツで、バッターの弱点をどう突くか、というのがピッチングの常識になっている。

 もちろんその弱点の突き方にも、色々とパターンを変える必要がある。

 それを直史は、ほぼ一人でやっていて、そしてそれで結果を出している。

 ピッチングコーチを必要としないピッチャー。

 ここまでのシーズンを無敗で勝ってきたが、そもそもプロで五年間やって、負けが突かなかったというのがおかしいのだ。

 唯一の負けは、ポストシーズンで削られた状態での登板。

 それでも直史を出すしかなかった、というチーム事情だったのだろうが。




 セイバーは直史のデータだけではなく、大介のデータも見ている。

 日本に戻ってきたのは、一つには直史の復帰を見たかったというのもあるが、大介が日本に戻ってどうなのか、ということも気になってはいたのだ。

 その大介は、明日のスターズ戦で上杉との対決となっている。

 直史と違い、今シーズン既に一度は対決のあった上杉。

 大介はホームランを打ったが、試合はスターズが勝っている。


 セイバーの見たところ、データ上ではもう大介の方が、上杉よりも試合の勝利に対する貢献度は高い。

 もちろん先発ピッチャーである上杉は、自身の登板試合に関しては、その試合において一番貢献度は高くなる。

 だがそういうことではなく、チームの中での存在感とでも言うものが、上杉は他の選手とは一線を画しているのだ。

 それは直史や大介といった選手たちとも違うレベルのものだ。


 精神的な支柱として、スターズというチーム全体を背負っている。

 だがそれはプロ入りする前から、そもそも野球のジャンルだけではなく、人間としての力が根本的に違うのだ。

 その上杉もさすがに、年間ぎりぎり二桁勝利というほどにまで、去年までには衰えてきた。

 しかし今年はもう10勝には届きそうであり、往年の輝きをある程度は取り戻している。

 この20年、ほぼNPBを引っ張ってきた上杉の、最後の年になるのかどうか。

 セイバーとしても気になってはいることなのだ。




 上杉はローテーションに組み込まれてはいるが、完全にそれを守りきることは出来ていない。

 去年は先発として投げたのは19試合であり、体のあちこちが悲鳴を上げている、というのはまさに今の上杉の状態なのだ。

 だが彼の場合、精神が肉体を凌駕する。

 そしてその精神性が巨大で強靭すぎる。

 現在四位のスターズが、最低でもAクラスに入ってポストシーズンのクライマックスシリーズに進出する。

 そのためには上位のチームを倒していくのが一番手っ取り早い。


 甲子園にスターズを迎えて行われる、このオールスター前の最後の三連戦。

 今年は二度目の復活と言われている上杉は、しっかりとピッチャーとして選出されている。

 出場選手中最年長であるが、ピッチャーの中では得票が最多となっていたあたり、上杉がスターズの象徴と言うよりは、この20年ほどもの間、NPBを代表する大エースであったということの証明にもなるだろう。


 MLBに行ったのは、あくまでも肩の治療のため。

 そしてあちらでは圧倒的な成績を残し、NPBに戻ってきた。

 わずかに球速のMAXは落ちはしたが、それでもピッチャーと言えば上杉、という時代がまた数年続いた。

 ここ二年は明らかに衰えたが、それでも人気は高いし、立派にチームの戦力になっている。


 そんな上杉であるが、さすがに引退が現実的に見えてきていた。

 二歳年下の直史と大介が日本球界に戻ってきて、特に直史はブランクなど意に介さずに勝ち星を積み上げ続けている。

 それに触発はされたものの、やはりローテを完全に守るには、もう体がついていかない。

 今季打線絶好調のライガースを、ほぼほぼ抑えたことなどは、さすが上杉と言えるところであろうが。




 一つの時代が終わろうとしている。

 上杉に大介、そして直史。

 この三人が引退したとき、それは一つの時代の終わりを意味するのだろう。

 しかしこの中で、客観的に見れば一番長く続きそうなのが、一番実働期間の短い直史であるというのは、どうにも皮肉なように思えるが。

 もちろん本人に、そんな長く続ける意思はない。

 

 この同時代をまさに生きてきた選手は、ほとんどがもう引退している。

 少し年下であっても、30代の半ばを過ぎては現役を引退している者が多い。

 そもそもドラフトなども、その一年で指名した選手の中で、二人が10年現役であれば充分成功、とも言えるものなのだ。

 上杉の同期は、スターズにはもう一人もいない。

 大介の場合は大原がいるし、直史の場合は年下の同期が多かったが、それでも今はMLBにいる小此木ぐらいとなっている。


 人間のやることなのだから、新陳代謝で選手が入れ替わっていくのは当然である。

 それは野球に限ったことではないし、むしろ肉体の能力が重要なスポーツの世界でこそ、その入れ替わりは激しいと言っていい。

 三年もいられずに消えていく人間が多い世界。

 完全に実力主義ではあるが、運も左右するのがこの世界。

 しかし運を掴み取るのはやはり、実力がないと出来ない。


 大介との対決は、それなりにホームランを打たれている上杉だ。

 それでも大介に対して、真っ向勝負をしてまともに勝てる、数少ないピッチャーの一人とは思われてきた。

 しかし直史の登場と自身の故障、大介のMLB移籍などによって、その存在の意味は変遷していったと言ってもいい、

 日本の上杉、という言い方が一番分かりやすかっただろうか。




 甲子園での勝負は、ライガーズもエースの畑が先発である。

 ここまで9勝3敗の畑は、例年であれば沢村賞候補、などと言われてもおかしくない。

 だが今年はもう、よほど何か重大な故障が直史にでもない限り、獲得するのは誰か決まったようなものである。

 ピッチャーの格としてはともかく、援護する打線の力はライガースの方がかなり上だ。

 それだけにスターズとしては、先取点がどうしてもほしい。


 もちろんそれはライガースにとって許したくない展開だ。

 両チームのエースが投げ合うのだ。

 特にスターズは、明らかに上杉が調子を取り戻している。

 あるいはそれこそが、蝋燭の消える最後の一瞬の輝きであるのかもしれない。

 大介を抑えるためなら、あるいは直史と投げ合うならば、上杉はその選手生命を賭けたピッチングをしてくるだろう。

 前の対戦で、既にその傾向は見られたのだ。


 スターズ打線に対して、畑は初回からギアを上げて対応する。

 両チームは打線は明らかにライガースが上であるが、それでも上杉からはそう何点も取れるわけではない。

 今年も相変わらずと言うか、防御率は2点台はキープしている先発ピッチャーなのだ。

 先発数もイニング数も減ってはいるが、そのピッチングのクオリティが落ちているというわけではない。


 まずは三者凡退で、一回の表のスターズの攻撃は終了。

 そしてライガースの攻撃に、甲子園が沸く。

 元々上杉は、他のチームのスーパーエースでありながら、他のチームのファンからさえリスペクトされる存在だが、特に甲子園では人気が高い。

 その上杉と大介の対決が見られるのだ。

 甲子園史上、最も多くの三振を奪ったピッチャーと、最も多くのホームランを打ったバッター。

 これもまた、一つの宿命の対決ではあるのだろう。




 大介は己の野球選手としてのキャリアを、日本で終えると明言していた。

 しかしこの数年、ずっとMLBでもトップの座を全く渡すことがないことから、そもそも衰えるということがあるのか、などと懐疑的に言われることもあった。

 直史の引退直後に一度、モチベーションの低下で数字が落ちたが、それでも打撃指標では全部門でトップであった。

 もちろん人間であるからには、いずれは衰えるのは必然。

 しかしそれまで、自分が現役でいられるかは微妙だな、と上杉は思っていた。


 高校時代から続く勤続疲労。

 甲子園では球数制限ぎりぎりまで、高校一年の夏からずっと、最後の夏までを投げている。

 プロ入り後も終盤クローザーをした一年目こそ19勝であったものの、二年目から七年目までは20勝以上を記録。

 年間26勝というのは直史に抜かれるまで、21世紀以降のピッチャーとしては年間最多勝であった。

 年間に20勝以上したシーズンが12年あり、71イニング連続無失点や、四試合連続完封に生涯二度目のパーフェクトなど、そのキャリアが蓄積してきた数字は巨大なものである。

 これを瞬間的にではあるが、上回っている直史がおかしい。


 400勝を達成して、新記録を樹立した時には、さすがにもう引退かと囁かれもしたのだ。

 その年も二桁勝利をしていたのにだ。上杉に対して世間がどれだけ期待しているか、その大きさが分かろうというものだろう。

(だが間に合ったぞ)

 マウンドの上から睥睨する上杉は、巨石や巨木のような、存在を目にするだけで恐れを抱くような、何かを発散していた。


 バッターボックスの大介は、嬉しくて笑ってしまう。

 その笑みはやはり、獰猛なものであった。

 あっさりと先頭打者は凡退し、大介としてはその上杉の健在っぷりを見ることが出来るだけで嬉しい。

 そう、この人と対決するために、自分はプロの世界に飛び込んだのであるから。




 上杉の勝ち星はここまでに、9勝まで伸びている。

 登板数が少ないことを考えると、これは立派な数字である。

 だが大介に対して投げたようなクオリティのピッチングは、あれから見せていない。

 明らかに手が抜けるところでは抜いている、ということなのだろう。

 それでも球界トップレベルのピッチング内容ではあるのだ。


 やはり、帰ってきてよかったのだ。

 適応力の高い大介は、アメリカ社会にもそれなりに慣れることが出来た。

 だがそれでも感じるのは、自分が日本人であるということだ。

 アメリカには大介の、精神的な故郷とでも呼べる場所は存在しない。

 子供たち、特に昇馬などはあちらに、かなり強い愛着を持っているようだが。


 野球によって自分は大きな栄光を手に入れた。 

 表面的に見えるものだけではなく、魂の充足とでもいえるものまで全て、野球によって手に入れることが出来た。

 そして今、最後の対決が迫ろうとしている。

 それは相手が上杉だとか、直史だとかそういうものではない。

 もっと根源的な、自分の中にある可能性、人間としての野球選手としての限界、それに対するものだ。


 まずは、この試合。

 オールスターには直史はともかく、上杉は出場を決めている。

 同じチームで戦う、最後の機会になるのかもしれない。

 だがまずは、男と男の対決が、ここには存在する。

 前の対決では、試合の結果から見るならば上杉の勝利である。

 また上杉は直史が投げた試合の中で唯一、彼に勝ち星がつかなかった試合も作っている。

 今シーズンのキーマンとなるのかもしれない。




 初球からフルスイング。

 外角いっぱいのゾーン内のボールは、レフト方向に曲線を描いて凶暴なファールボールになる。

 ご注意ください、とのアナウンスが流れるが、あまりにも危険な大介の打席は、観客にとっては目玉の見ものでもある。


 マウンドの上とバッターボックスの中。

 二人の怪獣対決は、まだ続いていく。

 上杉の160km/hオーバーのムービング系は、MLBであるなら数人、武史をはじめとして投げる人間がいる。

 二球目は逆のライト方向へ、スタンド上段の広告看板を直撃したりする。 

 スチールの看板がそれで凹み、注目された広告企業は大喜びである。


 一球ごとに上杉も大介も、体力を消耗する。

 大介がバットを重いと感じたのは、いったいいつ以来であろう。

 手に痺れが残り、その痛みを握り締めて消してしまう。

(やっぱり面白いな)

 球速では170km/hさえ投げるのが数人はいるMLBでも、大介との対決はもうちょっと慎重にしてくるものだ。

 上杉は完全に、対等かより上の立場から、勝負を挑んでくる。

 もちろん昔に比べれば、ずっとその技術は高まっているはずである。


 ストライクカウントばかりが二つ重なってしまった。

 追い込まれた形であるが、大介の戦意が衰えることはない。

 ここから上杉なら、緩急を使ってくるだろうか。

 高速チェンジアップをまだ見せていない。

(――来い!)

 そして上杉の投げたボールは、フォームの肘から先が特徴的に動いた。


 ストレートではない。

 球速はあるが、これは違う。

(スプリット!)

 そこまでは見抜いたが、カットする余裕まではなく空振りする。

 落ちたボールはスプリット。

 上杉はこの年齢になってからまだ、成長を諦めていないらしい。

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