第48話 神様の意地悪

 直史は、あれである。

 2クールもののアニメのようなものだ。

 週に一回だけ体験できる、びっくりどっきりメカ。

 神試合がスタンダードであり、中に超神試合が存在する。

 ここのところの三試合は、超神試合の連続である。

 脚本を書いた野球の神様はともかく、それを実現する選手の方は大変であったろう。


 直史はこの野球の世界において、この時代の主人公として選ばれたのかもしれない。

 だが本人としては、そのために子供たちに先天的な疾患があるというのは、許容したくない現実である。

 おそらく誰が聞いても、成功者と言われる人生。

 しかし本人の意思の通りに進んでいるというわけではないのは、非成功者と同じであるとも言える。

 思い通りに生きていける人間など、そうそういるものではない。

 そういう基準で考えるなら、大介などはまさに成功者であるのだろうか。


 人は、それぞれの人生の主人公である。

 用意された物語は壮大なものばかりではなく、ささやかで繊細で穏やかで、しかしながら唯一無二の人生を、人は送るしかない。

 そして才能、環境、運命の三つに愛された者は、人々に夢を与える存在となる。 

 直史は己のことを、牧歌的な人間と表現している。

 その文化的な見た目と違い、山々に分け入っては野草を採取する姿などは、確かにそれを裏付けるものではあるのだろう。

 だが用意された役割が、それを許さなかった。


 後世の人間から見れば、この時代にほぼ同時に存在した、強烈なまでの光を放つスーパースター。

 それをどう評価すればいいのであろうか。

 幸いなことに、記録だけではなく記憶においても、情緒に飛んだ情報を記述した人物が存在する。

 まさかスーパースターの伴侶が、その記録と記憶を記載するのに、充分な能力とモチベーションを持っているなど、出来すぎとしか言いようがない。

 老いる前に衰えて現役を退くスポーツ選手。

 その長い晩年を上手く過ごすことは、輝いていた時代とはギャップが大きいので、失敗する人間も多いのだ。




 夢とはなんだろうか、と直史は考える。

 人間とはだいたい、子供の頃にはなりたい自分のことを考えるだろう。

 だが直史は子供の頃から直史であったので、夢らしい夢など持ったことがない。

 せいぜいが、高校では一度ぐらい試合に勝ちたいな、と思ったのが目標であろうか。

 そして甲子園を期待されるようになったが、それは誰かの夢を託されたようなものであって、自分としてはそれに応えてやりたいと思っただけだ。

 勝つために自分の出番が少なくなっても構わない。

 そうやってチーム全体のためにエゴを捨て、逆に最も目立つ存在になってしまった。


 比べると大介は純粋に夢を追った人間だ。

 ふわふわとせず、地に足をつけて夢に向って駆けて行った。

 全く期待されていなかったという点では、中学時代の大介は直史と大差ない。

 しかし甲子園での活躍を見せてからは、もう明確にプロを意識していただろう。

 あの夏、たった一度、上杉との勝負がありえた高校一年生の夏。

 それは奪われてしまったが、それゆえに逆に、プロの世界に行くことが目標になった。

 直史としては手のかかる妹たちまで引き受けてくれて、本当にありがたかった。


 プロに入って上杉と対決し、そしてタイトルを総なめにしていく。

 MLBに移籍したのは、ちょっと予定とは違ったであろう。

 日本のプロ野球は特にピッチャーの上位層は、MLBの一線級とほぼ等しい。

 そしてアメリカには上杉も直史もいなかったのだが、これもまた神様の悪戯というものであろうか。

 スキャンダルからの逃走として、世界最高の舞台に立つことになった。

 もっともそれ以前のWBCで、既に注目は大きくなっていたのだが。




 田舎で公務員として過ごし、週末には畑を見るという、牧歌的な未来は高校の時点でないな、とは思っていた。

 定年のない職業として、弁護士を選んだのが直史の大きな進路の選択だ。

 もっとも今は弁護士も、仕事が取り合いになっている。

 田舎に行けばまだまだ、需要の多い職業ではあるのだが、東京の場合は既に、市場が飽和している。


 直史の場合は弁護士としての仕事と言うよりは、その能力を使った企業との折衝などが稼ぎになったりしている。

 ただこれも高校と大学で築いた人脈が、今も残っている感じである。

 甲子園に行ったことと、大学野球で学生ながらWBCに参加したこと。

 このあたりが直史の社会人生活初期では、大きな構成要素となっていた。

 しかし本当の騒がしい世界に入ってしまったのは、やはりプロになってからだ。


 さすがにここまで来ると、自分に才能がないとは言わないようになった。

 だが才能だけでどうにかなるものではなく、人との出会いがこの人生を定めたということはある。

 才能だけではなく、環境が整って、そして悪い意味で運命によって導かれた。

 直史が本当の意味で全力を出せたのは、故障したらしたで、普通に引退すればいいと思ったこのプロ入り後である。

 そして今は、故障してはいけないという条件の中で、大記録を狙っている。




 直史は意識的にパーフェクトを狙ってはいなかった。

 ずっとただ全力で、一点もやらないための最善のピッチングを追及し続けた。

 それがパーフェクトという結果で出たし、サトーなどというおかしな記録も語られるようになった。

 逆に言うと全ての試合で、パーフェクトを狙っているとも言える。

 しかし意図的に奪三振を集中して狙っていったのは、まさにあの引退試合。

 普段は技巧派としてのピッチングを続けていた。


 壊れてしまっても、もう誰にも迷惑をかけない。

 だからあの試合は、ストレートで空振りを奪っていった。

 それが今のスタイルに追加されて、さらにバリエーションを広げているのだから、禍福はあざなえる縄の如し。

 ストレートが使えるという確信をもっていなければ、復帰にはもっと時間と労力が必要になったであろう。

 草野球ではないのだ。


 今の自分なら相手打線をどうやって抑えるか。

 あくまでも故障はしないという前提があってのことだ。

 完封勝利の翌日、直史はもう練習で投げている。

 ベンチには入らず、自由に調整が許されている。

 なのでSBCで昼間は、後に支障がない程度に投げる。


 暇なわけでもなかろうに、セイバーはその様子を見に来ている。

 彼女もまた、ある意味において夢追い人だ。

 ただ彼女は夢のために必要な、即物的で俗物な部分を担っている。

 世の中を動かしている金を、ほとんどの人間には不可能なほどに動かすことが出来る。

 その気になればもう働かなくてもいいし、本人も働いているという意識ではないらしい。

 好きなことをやって、それで利益を出しているだけだ。

 それは直史にも少し分かることではあった。




 数十球直史は投げて、そこでストップする。

 センターのキャッチャーは呆れているが、彼は本当に一度もミットを動かすことなく、ボールをキャッチすることが出来た。

 これが二日前に、プロで完封をしたピッチャーのピッチングなのか。

 もう凄いとかどうとかではなく、ひたすら意味が分からない。


 装着していた装備を外して、直史はデータを確認する。

 セイバーはトレーナーとしては専門的ではないが、データを計算するのは専門である。

「肘に関しては問題なし。あとはフォームの方も旧式なのね。樋口君はどう思う?」

『あとは運だけといったところですかね』

 通信でこの光景を見ている樋口は、実はプロアマ協定に従えば、微妙なことをやっていたりする。


 直史というピッチャーを非常識ではなく、一つのピッチャーの形として捉えることが出来ているキャッチャーというのは多くない。

 だが樋口は上杉を体験してから直史と組んでいるので、非常識な存在には慣れているということも確かだ。

 先日の試合にしても、展開的には運が良ければパーフェクトになっていてもおかしくなかった。

 達成しなかったのは残念であるが、樋口からすると直史のあの日のスタイルを考えると、出来ないことを最初から感じていたのではないか、と思うのだ。


 パーフェクトというのは基本的には、アウトになりやすいアウトを取ると達成の可能性が上がる。

 基本的にはパーフェクトというのは狙ってするものではなく、運が良ければ出来るというものであるはずなのだ。

 ただノーヒットノーランとは、その難易度と性質が違う。

 上杉の場合はパーフェクトを狙ってすることが出来る可能性が高い。

 しかし直史のピッチングは、ひたすらその確率を上げるというのが基本だ。




 直史の登場以前、ノーヒットノーランの記録を持っていたのはノーラン・ライアンであった。

 彼は直史よりもむしろ武史と共通点がある。

 それは奪三振率の高いパワーピッチャーであったということだ。

 そしてもう一つ重要なことは、彼はコントロールに難があるピッチャーであった。

 この点はパワーピッチャーではあるが、武史とは違う部分である。


 フォアボールを出すような微妙なコントロールのピッチャーの方が、むしろ狙い打ちはしにくい、という事実はある。

 しかし同時にフォアボールやデッドボールのせいで、パーフェクトにはならないのだ。

 三振を奪いまくってのパーフェクトも、打たせて取るタイプのパーフェクトもあるが、前者の方がピッチャーの負担は大きい。

 そして後者の場合はまさに、運が大きな要素となる。


 クリーンヒットを打たれなくても、内野安打というものはある。

 ゴロを打たせるというのは、それだけエラーの可能性も高くなる。

 このあたりから導き出される、最もパーフェクトの達成を現実的とする手段。

 それは技巧派としてゴロやフライを打たせるコンビネーションを持った上で、パワーピッチャーではないが三振は大量に奪うというものだ。

 球数の問題を別にすれば、それが一番正しい。


 直史はとんでもない球数の少なさで、試合を終わらせた。

 このあたりの実験結果から、結論はそろそろ出てくる。

 三振以外のアウト、特にゴロを打たせるというのは、内野を抜けるか内野安打になるか、エラーが出やすいのでパーフェクトの可能性は低くなる。

 もっとも現実のパーフェクトに必要な一番のものは、運だと言えるだろう。

 ピッチャーの圧倒的な力だけでは、パーフェクトに届かない。




 タイタンズとの三連戦を、レックスは負け越してしまった。

 オースティンが今季二度目の、セーブ機会失敗ということがあったこともある。

 ただタイタンズとの対戦は、意図的なものではなかったが、裏ローテとも言えるようなピッチャーのローテになっていた。

 それでも悪いことばかりではなく、若手の百目鬼は先発からの三勝目を記録。

 シーズン後半から来年以降のシーズンを見据えれば、若手が育ってきたのは悪いことではない。


 直史は復帰して、カムバック賞確実の活躍を見せている。

 だが40歳のピッチャーに、今後のレックスのローテの核となってもらうわけにはいかない。 

 実際に直史は調整方法が独特なので、投手陣の中心にいることは出来ないのだ。

 ベテランの青砥に、かつてブルペンを支えレックス黄金時代を築いた豊田がコーチとして、主に投手陣はまとまっている。

 常勝軍団を作りたいというのは、どのチームのフロントも当たり前のように持っている願いだ。

 資金力があれば、だいたいのことはなんとかなるのだが。


 いよいよライガースとの三連戦のカードに入る。

 ホームに迎えてのこの対決。

 直史は二戦目の先発ローテに入っており、いよいよ大介との対決が実現する。

 勝負には負けるかもしれないが、試合には勝つ。

 そう計算している直史であるが、ここで困った事態がやってくる。

 少し前から予報は出ていたのだが、三連戦が特に二戦目からは、かなりの雨天になりそうなのだ。


 直史が一戦目に投げるか、という話もやはり出てきた。

 中五日であるが、前の試合は球数をあまり投げていない。

 しかしそれを別にしても、直史はコンディション調整を完全にしている。

 一日ずらしてしまえば、それだけでパフォーマンスが落ちる。

 昔はそれでも試合中にアジャストしてしまうことも出来たが、さすがに今はそんな技術は忘れてしまった。




 曇天の中、湿度にあふれた環境で試合が始まる。

 直史個人としては、これは悪いことではないと思える。

 湿度が高い方が、ボールには指が上手く引っかかる。

 しかし雨が降り始めてしまえば、今度は逆にコントロールミスの原因となる。

 難しいところであるが、気温も既にそれなりに高い。


「明日は中止になりそうだな」

 試合開始の前に、ブルペンでは豊田がそんなことを言っていた。

 降水率が高く、明日と明後日の試合は潰れそうである。

 すると直史と三島は、そのままスライド登板となる。

「ライガースとの対決はまたお預けか」

「正直なところ、やったら勝ってたか?」

 豊田は付き合いも長いので、こういったデリケートな質問もしてくる。


 勝てたか、というとそれは試合の話であろうか、それとも大介との対決の方であろうか。

「打線の援護次第だが、勝つピッチングは出来る」

「どうやって」

「全打席申告敬遠すれば勝てるだろ」

「それは……まあ甲子園じゃないし、それもありなのか?」


 敬遠というのはルールで決められていることであり、使わない理由にはならない。

 そもそも大介はそれを防ぐために、積極的に盗塁もしかけているのだ。

 なのにこれを使うのは卑怯だという風潮が、消えることはない。

 昔からタイトル争いのシーズン終盤には、敬遠合戦というのはよくあったものだ。 

 クライマックスシリーズで順位が重要となってからは、それも減ったが。




 これが運命のシナリオとすれば、不思議なものだ。

 世界はおそらく、直史と大介の対決を待っている。

 それなのにこの対決が実現しないのは、いったいどういうことなのか。もったいぶるにもほどがある。


 第一戦はオーガスの調子が良かったため、ライガースの打線を比較的抑えることが出来た。

 大介にはヒットを打たれたが、あとは上手く引っ掛けさせたりすることに成功。

 第一戦を勝利して、ゲーム差を縮める。

 この時点でライガースとレックスは、消化している試合数が違う。

 また大介も雨によって試合が中止になったのは、広島で先に経験していて、スーパーフィーバー状態は終了していた。


 そして第二戦の日、朝からの雨。

 一日中降るであろうという予報に、早々に試合の中止は決定。

 おそらくこれが明日も続くであろう。

 夜半に一度はあがるらしいが、また日中は雨という予報。

 直史としては準備していた精神状態を、一度はリラックスさせる必要があった。


 もしも第三戦で天気が良くなっていれば、そのままスライド登板する予定であった。

 しかしそれすらもなく、この雨は今年のダイヤまでをも乱す、大きな雨となってしまった。

 さすがにドームで中止はないだろうと思っていたところ、新幹線が止まってしまうという事態が発生。

 続くフェニックス戦も第一戦が中止になるという、珍しいことになったのだ。


 直史はなんと、中10日で投げないことになってしまう。

 都内も一部が冠水するなど、気軽に出かけると車でも渋滞で動けなくなるという状況が発生。

 試合がどうこうではなく、この年の一大事件となってしまうのであった。

 直史もホテルのジムを使ったトレーニングなどはしたが、調整には不充分。

 また面倒なと思いつつも、調整には時間をかけることとなる。




 直史は体を休ませすぎてしまった。

 名古屋まで移動するのも、天候が回復して交通網の問題が解消してからとなる。

 かろうじてフェニックスとの第二戦は開催される。

 そしてスライドしたことによって、直史がここでは先発することになった。


 何事も上手くいかない。

 二日間はほとんどボールを投げる練習が出来なかった。

 これは登板翌日でも投げる直史にとっては、セッティングを一からやり直すということである。

 単純に休むことが出来た、と喜ぶようなことではない。

 対戦相手が貧打のフェニックスということは、さすがに少しありがたい。

 またスタジアムも、ピッチャー有利の名古屋ドームである。


 こんな形でリセットされるなど、まさか思っていなかった直史である。

 ちなみにライガースはレックス戦は潰れてしまったが、その次が同じ都内のタイタンズ戦ということもあり、こちらは試合をすることが出来た。

 いったいぜんたいこれはどういうことなのか。

 ローテは組みなおされて、直史の七月の予定は変更される。


 七月にはオールスターもあるのだ。

 そのオールスター明け、七月の終盤にライガースとの対決が待っている。

 直史はようやくここで、大介との対決が実現しそうだ。

 七月の終盤、相手のホームで。

 つまり甲子園球場がまだ使える状態で、敵地のライガースと対戦することになる。




 先のことを考えすぎても仕方がないが、七月はどうも四試合しか投げることがなさそうな直史である。

 そして神宮ではなく、甲子園でライガースと、大介と対決する。

 敬遠などすれば殺されそうな未来が見える。

 また投げなかった期間、試合のなかった期間で、感覚が狂いそうでもある。

 ここを上手く調整しなければ、大介との対決どころではない。


 元々今年は、大介との対決になどこだわっている場合ではないのだ。

 フェニックス戦で投げて、どれぐらい調子が狂っているか、確認してみるしかない。

 実戦で調整をするなという話だが、こんな悪天候による試合の中止など、さすがに予想しているわけもない。

 名古屋まで移動して、ようやくそこで本格的なピッチングの練習に入る。

 薄皮一枚が体を覆っているような、そんな感触がある。

 ここ最近にあった、全能感が失われている。


 また一からやりなおし、というほどにひどくはない。

 だがオールスターにも出ない直史としては、ルーティンが崩されていくのが悩ましいところである。

 最低限のセッティングにまで、自分の肉体を調整していかないといけない。

 そのためにはある程度、試合の前に投げる必要も出てくる。


 直史は武史のようなスロースターターではない。

 ただ調整のためには、それなりに事前に肩を作っておく必要がある。

 クローザーとしてあれだけのことをやっていて、何を心配しているのか、と同じチームの人間などは思ったりする。

 さすがに現役時代、リリーフとしてほとんどを過ごした豊田は、直史の調整の苦しみも分かっているようではあるが。


 試合前に少し汗を流して、なんとか体の状態を把握する。

 しかし今日の試合は、今年の最悪の出来になるかもしれない。

 実際にマウンドに立ってみないと、本当の調子は分からないものなのだ。

 フェニックスがカップスの失速で、五位に順位を上げているというのも、嫌な予感がしたりする。

 もっともこれはライガース戦で、怪我人が主力に何人も出たからであるが。




 いよいよ試合が始まる直前となり、肉体ではなく精神の方も、試合に合わせて調整していく。

 こちらは特に問題があるわけではない。

 余談だが悪天候によってドームの設備に故障があって、電車が止まらなくてもどうせ、第一戦は出来なかったそうだ。

 こういうアクシデントによって、事前の予定が狂ってしまうことは、直史はあまり好きではない。

 いや、誰だって好きではないだろうが、直史は精密にコントロールをする。

 それは試合で投げる球のコントロールに限ったことではない。


 今日の試合はさすがに、先に援護点がほしいな、と思っている直史である。

 それに応えるかのように、先頭打者左右田と、二番緒方の二人によって、いきなり三球で点が入ってしまった。

 まだノーアウト二塁で、ここから主軸となっている。

(あとは俺よりもこいつか)

 六番として打順に入っている、キャッチャーは迫水。

 一応はブルペンでも受けて、ちゃんとキャッチングは出来ている。

 

 懲罰降格と言うよりは、首脳陣の温情であったろう。

 なにしろ二軍のブルペンでは、普通に直史も投げていたのだから。

 キャッチャーとしての能力は、直史からすれば平均よりやや上程度だと、プロ基準では思う。

 だがキャッチャーで六番を打つ新人というのは、社会人出身でもなかなかいないはずだ。


 マウンドからの投球練習で、コントロールが正しく出来ていることは確認出来た。

 あとは実際の試合でどういう結果が出るのか、それが重要である。

 バッターボックスに先頭打者が入ってくる。

 自分に期待していない試合が始まった。

 もっともそれはいつものことであるとも言えた。




 微妙にコントロールが悪い。

 なので球威で押していくことにした。

 迫水のキャッチングが、試合が開始すると固いのも気にはなっていた。

 なら今日は上手く、球威で押して打たせていく。

 ムービング系の調整が必要だ。

 しかし速いゴロを打たれてしまえば、それは内野を抜けていくことが多い。


 こういう時に役に立つのが、ボール球である。

 ほとんどゾーンで勝負してくる、という相手側からの信頼が、直史にはある。

 それを裏切るのは、こういう色々な点で調子が悪い時だ。

 普段の信用があると、ころころと回ってくれるので助かる。

(スライダーが復活してきてよかった)

 高速タイプのものではないが、これで右バッターからは上手く三振が取れる。

 他の変化球についても、普段とは違う使い方をしていく。

 コンビネーションの幅が広いと、こういうことが出来るのだ。


 そして気がつけば、打者一巡はパーフェクトに抑えていた。

 本当に今回は、気がついたらという感じであった。

 調子が良くても悪くても、完封をしていくのがピッチャーとしての最大の責任であると思っている。

 ただ今日は打線の方も、しっかりと点を取ってくれている。

 迫水は完全に今日はバッティングを捨てて、キャッチャーとしての役割に集中しているようだが。


 あまり気にしすぎても仕方がないのだ。

 直史はベンチの中で、迫水の隣に座る。

「肩に力が入りすぎている」

 こんなアドバイスなのかどうか分からないことを、わざわざ言わなくてもよさそうなものであるが。

「終わったことはそこから学ぶべきであって、後悔はさっさと忘れるに限る」

「……ナオさんは後悔ってないんですか?」

「あるに決まってる」

 それはもうピッチャーなどをしていれば、色々と責任を感じることはあるのだ。




 中学生時代の直史は、自分が何かをミスしたという意識はない。

 ただ高校では、色々とやらかしたと思っている。

 それは期待されていたからであり、そして自分にも期待してしまったからだ。

 決勝で敗北して、甲子園進出を逃したこと。

 秋季大会については、さほど悪くなかったと思っている。

 しかしセンバツではエラーがあったとは言っても、三点は取られてしまった。

 最後の一年は一度も負けていないが、そもそも投げた試合の数が少ない。


 プロ入り後も大介との対決に、全力を注いだ。

 全て抑えるつもりであったが、ワールドシリーズの最終戦で、逆転サヨナラホームランなどを打たれている。

 あれは登板間隔が短すぎて、さすがに直史を責めることは出来ないと言われている。

 だが結局のところ、全て勝ちたいと思っていたのは直史の方なのだ。


 プロだという意識があまりなかった。

 直史は結局、大学時代までしか、プロ意識を持っていなかった。

 自分の技術を売る代償に、様々な便宜を得ていた。

 誰かに求められたことは多かったが、結局本当に求めてきたのは、大介だけであったと言える。

 どうして自分を叩きのめすかもしれない相手を、本気でプロの世界に誘うのか。

 また直史も、当初の予定よりは延長してプロの世界に浸ってしまった。

 結局真剣に勝負することと、そして勝つことは好きだったのだろう。




 この日、直史は珍しい記録を残した。

 それはフォアボールを二つも出してしまったというものである。

 過去には一試合、三つのフォアボールを出したというのが、プロとしての自己最悪の記録である。

 大学時代には、どうしてそれで失点しないのか、というほどにフォアボールを出した試合もあったものだが。

 NPBでは二年連続、シーズン無四球という記録を持っている。

 だが今年の直史は、既にフォアボールでランナーを出している。


 試合が進んでいく中で、次第に調整が進んでいくのを感じている。

 出たランナーを、牽制で刺すのにも一つ成功した。

 そしてもう一人のランナーも、ダブルプレイで上手く打ち取る。

 試合が終盤に差し掛かると、ベンチの中がまた静かになってきていた。


 それなりに球数が多いが、フォアボールで出たランナーを殺しているので、その分は上手く相殺できている。

 そして直史の球数の多さというのは、一般的なピッチャーの多さではない。

 100球以内に終われば、充分であるというのが一般常識。

 しかし直史の場合は、90球以内で終われば負担は少ないな、というものである。


 ランナーは出ている。

 だがヒットは打たれていない。

 出したランナーはしっかり処理している。

 つまりここまで無駄なランナーは全て消していることになる。


 いったいこの人は、何をしているのか。

 敵側のベンチもお通夜のようになっているが、味方側のベンチも沈黙が落ちている。

 今日は調子が悪いから、というのはいったいなんだったのか。

 調子が悪いというのは、つまりボール球を上手く使わなければ、試合に勝てないという意味であるのか。


 9回を投げて、打者27人。

 ノーヒットノーランである。

 球数はぎりぎり、99球でフィニッシュ。

 結局無駄に勝負したバッターは一人もいないという試合が、二つ連続で続いた。

 二試合連続で、27人で試合終了。

 もちろん過去に例のないことであるし、これで今季は三度目のノーヒットノーラン。

 満足していないのは直史ばかりであるらしい。

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