第42話 老いてなお

 野球選手で現役40歳というのは、老境の域に入っていると言っても間違いではないだろう。

 だがその40歳オーバーが、この二日間でとんでもないパフォーマンスを叩き出した。

 上杉が160km/hオーバーを連発し、大介から一度も逃げることなく、三つのアウトを取った。

 そして大介は鬱憤を晴らすかのように、その後のピッチャーから超特大のホームランを打った。

 かつて唯一甲子園で場外ホームランを打ったバッターである大介であったが、この打球も左右にある程度ずれていたら、場外になっていたであろう。


 その翌日の試合で、直史が89球という今季最少の球数でマダックス。

 前者二人に比べると、直史の記録は地味なように思える。

 だがこの三人のパフォーマンスは、どれもがとてつもない、という意味では間違いなく傑出したものであった。

 40歳を超えた選手は、その業界においては間違いなく晩年である。

 もっとも老いてなお盛んというように、40歳をすぎてもまだまだ、チームの主力となっている選手も存在する。


 上杉のスピードも、大介の飛距離も、直史の球数も、レジェンドがその絶頂期にやるようなものである。

 しかし上杉は既に42歳で、直史と大介も40歳の誕生日を迎えている。

(あと二年後、同じようなことが出来るか)

 直史はそう考えると、上杉は本当にすごいなと思えてしまう。

 あまり安易に他人を尊敬しない直史であるが、上杉は素直に尊敬する。

 カリスマだけでもチームを引っ張っていける人間だ。


 彼は引退後、政界入りが公然の秘密となっている。

 神奈川ならどこでも、その知名度だけで当選できるであろう逸材。

 実際に実弟の正也は、新潟の方の地盤を伸ばして、既に政界に入っている。

 50歳で若造とされる政治の世界において、上杉がどういう影響力を発するのか。

 むしろこちらの方が、直史としては想像しやすい路線である。




 直史のピッチングは味方にとっては、どういう目で見られたか。

 復帰後に既に、ノーヒットノーランをやっている。

 マダックスもこれで六度目で、つまり完投したらかなりの割合で、マダックスを達成していることになる。

 だが同じピッチャーであれば、カップスとの試合が一番、そのパフォーマンスは高かったと分かる。

 一試合に15奪三振というのは、つまりアウトの半分以上を三振で奪ったことになる。


 意外なことに奪三振の多いピッチャーは、それなりに球数が増えていく。

 これはパワーピッチャーであってもプロのレベルなら、どうにか当てるぐらいは出来て、ファールで粘ったりする場合が多いからだ。

 これが打たせて取る場合は、打てると思った球をミスショットする。

 そのため少ない球数で、省エネピッチングが出来るというわけだ。

 だが直史はその、希少な例外である。


 変化球で空振りが取れるし、速球でも空振りが取れる。

 チェンジアップを上手く打たせて、内野ゴロにすることも出来る。

 ツーシームが一種類復活しただけで、ピッチングの幅は急激に広がった。

 今まではムービング系のボールが、上手く変化していなかったからだ。

 しかもツーシームの方がストレートよりも、球速は速かったりする。

 どういう理屈なんだ、と不思議に思う人間もいるかもしれない。


 ストレートのいいものを、伸びがあるとかキレがあるとかホップするとか、そうやって表現されることがある。

 おおよそはバックスピンや高低の角度が、そういう言葉で表されているのだ。

 これらの言葉は混在して使われているので、実際はどういうボールを投げているのか、スタットキャストを見なければいけない。




 セイバーはそのあたり、間違いなく最高のトレーナーと言うか、マネージャーだ。

 これは俗に言うマネージャーではなく、マネジメントを行う人間のことを指す。

「俺にだけセイバーさんが付いてるのは、卑怯ですらあるかもしれない」

「今年だけよ」

 今年だけは大サービスだ。

 だがセイバーは昔から、大介よりは直史の味方をしている方が多い気がする。

 それは大介の本拠地が関西であったり、最初からニューヨークのチームに食い込むのは無理だったりと、そういう事情もあったのだが。


 アナハイムにすんなりとフロント入りできたのは、直史という土産を連れて行ったからで、それなりにWIN-WINの関係ではある。

 ただ同じことをどうして、大介の行ったメトロズにしなかったのか。

 そこは直史も少し勘違いしているのだが、セイバーがどちらかというと直史を贔屓しているのは、明史の件を別にしても確かなことだ。

 大介と違って直史は、引っ張ってこないと野球の世界にやってこないのだから。

 クラブチームの練習試合でさえもここのところは、参加することなどなかったのだから。


 高卒の時点はともかく、大卒の時点であったら。

 あの時から投げていたら、果たしてどれぐらいの記録を残しただろう。

 肘を故障したと言っても、トミージョンをするまでもなく、今では回復している。

 もっとも本人が庇って投げているのは、各種のデータからは明らかであるのだ。




 カップスとの三戦目、レックスはエースの三島が投げる。

 前日の直史のピッチングによって、カップスの打線はおろか、チーム全体がコンディションの調整に失敗していた。

 それは選手だけではなく、首脳陣でさえ例外ではないようだった。

 とにかく作戦が裏目に出てしまい、ランナーが出塁してもそれを活かすことが出来ない。

 三島の調子はそれほど良くもなかったようだが、それでも七回を一失点に抑えた。


 三連勝でライガースとの差を縮める。

 常に射程圏内にはいるが、逆転するのは難しい。

 ただ上杉に負けた影響というのは、さすがにあると思う。

 最後の大介の一発で、完全に空気を変えたようにも思えたが、若手が一発レジェンドから洗礼を浴びた。

 そう割り切って考えたからこそ、一つは勝てたのかもしれない。


 カップスとの地元での試合の後は、アウェイでのフェニックス三連戦。

 ここでも直史はチームに帯同しない。

 どうせ次に投げるのは、神宮でのタイタンズ戦だ。

 中六日のローテをここで、崩す必要はないはずだ。


 東京にいたまま、チームの練習とは違うところで、しっかりと練習をしている。

 それはサボタージュではなく、むしろ完全にその逆。

 移動にかかる時間や、練習の前後の時間さえも、自分だけのトレーニングと休養に充てている。

 そしてその負荷の管理は、しっかりと専門のトレーナーが行っている。

 もっともそのトレーナーとしても、レギュラーシーズンの期間中に、ローテの投手が毎日、100球前後も投げるというのは、野球の理解の範疇の外にある。




 球速は上がってきている。

 フォームの修正も、適度な範囲で成されてきている。

 変幻自在という言葉がまさに似合う、世界でおそらく唯一のタイプのピッチャー。

 ストレートで本格派ばりに三振を奪ったりもすれば、ゴロやフライを打たせて取ることも出来る。

 わずかな1cm以下の変化によって、投げたボールが18.44m先でどう変化するのかを、頭の中で明確にイメージすることが出来ている。

 そんなピッチャーの頭の中には、どういう回路が積まれているのだろう。

 そもそも積んでいるソフトが、種類からして違うのではないか。


 スポーツというのは基本的に、脳が肉体をどう動かすか、というのが根本にある。

 運動神経やセンスなどと、漠然と言われるものだ。

 そう、筋肉ではなく、それを動かす神経回路が問題なのだ。

 直史のデータに関しては、当然ながら残る限り、全てを渡して分析してもらっている。

 かつてのような肉体の強度は、さすがにもう残っていない。

 加齢による当たり前のことだが、柔軟性が失われているのだ。


 直史自身にとっては、そんなイメージはない。

 だが本人の自覚と、客観的な数値は別のものである。

 ある程度は悪くなっているな、とは分かっていたつもりであった。

 だがその悪化が、想像以上であったというだけだ。

 普通の選手であれば、そもそも復帰自体が不可能であったのだ。

 そこから復帰して、ここまでのピッチングをしているというだけで、充分すぎるほど偉大な業績を残している。


 セイバーからは、普通のコーチが30年をかけて得られるような、大金を受け取ってこの数ヶ月の仕事をしている。

 本当はもっと早くに来たかったのだが、さすがに現在受け持っている選手を、放り出すことなどは出来なかったのだ。

 アメリカ一であり、それは世界一と同義だと、多くの人が認めるだろう。

 だがそんなトレーナーでも、理解することなどは出来ない。




 直史は練習から休養に食事と、完全に生活を野球に向けている。

 それでも足りなかった部分を、セイバーが埋めてくれている。

 トレーナーが自分の存在価値に疑問を抱いても、彼はセイバーが招いたというそれだけで、直史からの信頼を得ることが出来る。

 直史がそこまで信じられる人間というのは、それほど多いわけではない。


 自分に出来ることは、環境を整えることだけ。

 セイバーはそんなことを考えているが、実際はそれが一番難しいのだ。

 彼女自身はデータ処理こそ出来ても、メカニックを実践で試すことは出来ない。

 だから出来る人間を探して雇う。

 その情報収集能力と、コネクションの広さ。

 それがセイバーの武器であると言える。


 人が一人で出来ることは少ない。

 最初の一歩を踏み出すのは自分であっても、ほとんどの行為には他人の助けが必要となるのだ。

 彼女が最も得意な金儲けであっても、そのシステムにどれだけの助けが必要であることか。

 ただそんな彼女だからこそ、スポーツや音楽など、まさに個人の力が発揮される、人の営みの極致に感動するのかもしれない。


 直史はその中では、一番極端な存在であると言える。

 大介は全打席ホームランを打っても、ランナーがいなければ四点にしかならない。

 対して直史は、一人で相手の攻撃を全て封じてしまう。

 もちろん実際には、バックの守りがあってこそ。

 しかしそのピッチングは助けを借りると言うよりは、バックを動かして守っている、という姿にさえ見えるのだ。

 味方に対しても支配的である。




 そんな直史でさえも、大介に対してだけは、確実に勝てるとは言いがたい。

 かつては勝負に身を任せることも出来たが、今はかかっているのは自分の悦楽ではなく、男の意地でもない。

 大介のOPS1.6前後というのは、人間の可能な限界の数字である。

 統計的には2.0までは敬遠するよりも勝負した方が、得点への期待値は少なくなる。

 だがポストシーズンにはそのOPSが2を超えてくる。

 これはポストシーズンに入れば、データ野球のMLBでさえ、ピッチャーが意地を見せて勝負にくるからであるとも言える。


 先日の試合のホームランは驚異的であった。

 実質場外ホームラン級の飛距離であると、テレビでも何度も放送されていた。

 確かに大介は、高校時代に一度、そして甲子園史上唯一の、場外ホームランを打っている。

 ただし、あの時の大介はまだ、金属バットを使っていたのだ。


 年齢的に考えて、もう衰えているのが当然であるし、実際に数字は少しずつ下がってきている。

 だがそれなのに、チームをワールドチャンピオンに導くのはどうしてなのか。

 ちょっと考えにくいことであるが、普段は手を抜いて肝心なところで勝負させやすいようにしている。

 無意識であるかもしれないが、そうしているのではないか。


 実際のところそれは、ある程度正解である。

 バッターは勝負してもらわなければ、そのバッティングを活かすことは出来ない。

 なのでかつての大介は、歩かされると盗塁をしかけまくっていた。

 現代のMLBで、年間に100以上の盗塁というのは、これまた異常。

 足のある強打者というのが、ひたすらに厄介なのである。

 これを止めるのは、まず勝負をしないという選択肢がある。

 だが勝負しなければいけなくなった時のために、スペックを上昇させておくことは重要である。




 大介はあの試合の翌日、一試合に二本のホームランを打った。

 一試合複数ホームランは、何気に今季二度目である。

 ただこの試合も負けて、翌日にようやく勝った。

 次はアウェイでカップスとの試合である。

 やはりローテーションのあるピッチャーと違って、野手の方が毎試合出場するだけあって、集客には有利らしい。

 ただ直史の登板試合は、それに比べるとレア度が上がっているわけだが。


 直史はチームに帯同なしと、先発ローテのピッチャーとはいえかなり優遇されている。

 それはもちろん、これまでの実績があるのと共に、今季の実績もものを言っているのであるが。

 本当は直史に、色々と教えてもらいたいという若手は多い。

 ただ残した実績が偉大すぎるのと、直史はアマチュアの子供ならともかく、プロの大人にはある程度厳しい。

 ちゃんと向こうからアドバイスを求められれば、ある程度は答えてやるのだが、畏れ多いと勝手に思われている。


 ある日は体中にセンサーをぺたぺたと貼って、筋肉の熱量なども測ってみた。

 体重移動や腰の高速回転、また腕にかかる遠心力など。

 今の直史に出来るが、まだやっていないことを、セイバーとトレーナーの力でやっていく。

 もっともセイバーの方は、要求が出たらそれを叶える、というだけの仕事だ。

 どんな願いでも無数に叶えてくれる。

 制限なしのドラゴンボールか、などと思われたりもするが、人間に出来ないことはセイバーの力でも出来ない。


 直史が大学を卒業した時点で、プロ入りしていたら。

 それは日本の野球史上、何度も言われてきたIFである。

 ただセイバーは、直史のピッチャーとしての異質さは、完全に外の世界から、プロの世界を見てきたことにあるとも思っている。

 無駄な経験などはない。

 経験を無駄にする愚か者がいるだけだ。




 ボールにライフル回転をかける。

 スライダーを意識するのだが、この回転のかけ方は肘に負担がかかる。

 思えば高校一年生の夏も、この球が原因で炎症を起こした。

 どのぐらいの負荷が限界であるのかは、慎重に試していかないといけない。

 ただしジャイロボールはその回転があまりかかっていないと、棒球に等しい打ち易さとなってしまう。


 直史が復活させたいのは、厳密にはスルーではない。

 スルーと投げ方は同じで、ピッチトンネルも変わらないが、縫い目の影響でボールが失速するスルーチェンジだ。

 徹底的にタイミングを崩すため、握りさえも同じこのチェンジアップは必要になる。

 この間の試合で大介は、スローカーブに対して無茶な打ち方をしていた。

 踏み込んだ右足を一度完全に踏み戻し、そこから再度スイングするというものだ。

 完全な緩急に対して、あのスイングは有効である。

 たださすがに体重移動を元に戻すことは出来ず、シングルヒットとなっていた。


 緩急差はあればあるほど、空振りを取れる確率は上がる。

 だがあまりにありすぎると、あんなステップの仕方で打ててしまうらしい。

 思ったよりは、ほんのわずかに来ないボール。

 そういうチェンジアップが、大介との対戦のためには必要となる。

 このままのローテが続くなら、七月上旬にやっと、直史はライガースに投げる機会が巡ってくる。

 それまでに魔球が復活するのか。

 復活して実践するまでが、直史のやらなければいけないことだ。




 現在のNPBで主力となっているような、20代の半ばから30代の前半ぐらいまでの選手は、ほとんどがリトルから高校野球の間ぐらいの期間で、ほとんど直史や大介の活躍を見ている。

 この10年以上はMLBにいたか引退していたため、気軽に球場で見られるような存在ではなかった。

 だからどうしても実像が見えてこない。

 シーズンが始まってからも、すぐにノーヒットノーランをしたり、ホームランを連発したりと、恐ろしいところは見せられたが。


 ただ、同じプロとして、直史の完璧に近いピッチングや、大介の超特大ホームランをリアルタイムで知らされるのは、全く衝撃度が違う。

 同じ時代に、かろうじて生まれることが出来た。

 今は日本出身のスタープレイヤーもMLBで引退するのが多い中で、全盛期とほぼ変わらないような力を持って、戻ってきたのだ。

 40歳なのである。

 上杉が39歳で沢村賞を取って、それまでの最年長記録を大幅に更新した。

 しかしそれから三年で、大きく衰えたのは間違いない。


 直史も大介も、今が全盛期のどのピッチャーやバッターと比べても、圧倒するようなパフォーマンスを見せている。

 大介の場合は分かりやすい、パワーとスピード。

 対して直史のそれは、まるで魔法。

 悪魔と取引して、あの能力を手に入れたとも言われる直史。

 だがそんな程度で手に入るほど、世界一のピッチャーの価値は安くはない。


 セイバーとしてはそういうものがあるとすれば、むしろ直史を野球の世界に戻してくる力こそが、それであると思う。

 長女も長男も、生まれつきに心臓の奇形。

 次男はしっかりと検査され、初めて完全に健康体だと言われる。

 だが本当に異常がないかなど、成長の過程でしか分からないものだ。




 大介は野球の神様に愛されている。

 それに対して直史は、野球に呪縛されている。

 いくら離れていこうとしても、それを許されることがない。

 呪いのように野球が、直史を必要としている。

 輝ける栄冠を手にしたとしても、その代償をいくつも払っている。

 本人が望んだものは、本当に小さな一勝だけであったろうに。


 セイバーが直史の方に肩入れするというのは、そういった運命を直史に感じるからだ。

 全力を尽くしている人間でさえ、プロにまでは行けないことが多い。

 対して直史は、全力を尽くしているのにプロ志望ではない。

 だが世界にある、特別な誰かを作り出すという力が、彼をこの世界に引きずり込む。

 あまりにも影響力が強すぎる、と言っていいのだろうか。

 ジャンルは違うがイリヤが殺されたことも、近いものを感じる。

 あちらは逆に、影響力をこの世から、排除しようとするものであったが。


 今日も直史は、100球以上を投げている。

 壊れるのが怖くないのかとも思うが、それは管理してくれるトレーナーを信頼しているからであろう。

 セイバーとしてもそういう人選をしたのだ。

 今の直史には、いいキャッチャーがいない。

 迫水もおそらくは、充分に標準以上のキャッチャーだ。

 ノンプロ出身とは言え一年目から、プロのレックスでほぼ正捕手のポジションを確定している。

 また最近のキャッチャーとしては、珍しくもそれなりに打てる。

 それでも直史の相棒としては、格落ちと言わざるをえないが。




 レックスが今年、ライガースに次いで二位であるのは、確かに直史の存在が大きい。

 だが先発陣の厚み、攻撃力の微妙な不足と、まだまだ磐石の体制とは言えない。

 もっともそんな戦力が充実したチームなど、そうそう現れるはずもない。

 そして戦力を揃えるのは、フロントの仕事である。

「樋口君が現役だったらね」

「あいつはそれこそセカンドキャリアが忙しいでしょ」

 引退した理由は、結局のところ故障であり、治癒までの時間がかかりすぎると判断されたからだ。

 そして直史と同じように、野球の世界からは離れた。

 地元では時折、アマチュアにコーチなどをしているらしいが。


 どのみちアマチュア指導資格を回復させているので、直史と関わることはない。

 また引退してから三年、MLBでも通算で三割を打ち続け、活躍期間があと少し長ければ、野球殿堂の対象にもなっただろう、とは言われている。

 実際にNPBの方では、資格を得たらすぐに殿堂入りするだろう。

 MLBまで含めて通算打率が三割を超えており、本塁打も盗塁もずっと二桁。

 キャリアとして日本代表のマスクは、樋口が現役の間は、ほとんど他のキャッチャーが奪うことは出来なかった。


 なのでそんな樋口が、SBC千葉に姿を現したことは、さすがに直史も驚きであった。

「え、なんで?」

「こっちに用事があったから、予定を調整したんだよ」

 それを見ていて、ニヤニヤと笑うセイバーである。

 アラフィフの女のクセに、なんと茶目っ気たっぷりなことをするのか。

「プロアマ規定はどうなってんだ?」

「あれはプロがアマに働きかけるのを禁止してるもんだろ。アマチュアがプロに教えるのは問題ない」

 いや、問題であろう。

 だからこそ今日は貸切状態になっていたのだろうに。

 そしてセイバーの仕掛けは、樋口だけでは終わらない。

 



 ジャージに着替えてプロテクターを装着する樋口が、ちょっと予定を調整しただけのはずがない。

「あ~あ~、もうこういうルールを破ること、平気でするからなあ」

 そう言って練習場に入ってきたのは、こちらも久しぶりにというほどではないが、こういうところでは会わないはずのジンであった。

「いや、お前こそなんで」

「鬼塚に会ってきたついでだよ」

 ああ、なるほど。


 どちらがついでなのか、ジンの立場としては、もちろん鬼塚に会うことの方であろう。

 来年の高校野球を震撼させるであろう、怪物の行方を気にしない高校野球の監督はいない。

 直史の立場としては、大介の息子である昇馬は、それこそピッチャーとしての素質は桁外れであるとは思う。

 だが今の自分には関係ない。

「あれ、真琴ちゃんにキャッチャーやらせ続けるのは酷だろ。ただでさえ左のキャッチャーなんて少ないのに」

「いや、俺は知らんよ」

「彼、将来はまだ全然決めてないみたいなのよね」


 セイバーまでもが昇馬の素質を認めていると言うか、彼女こそが最初に昇馬の可能性を評価したと言えるのかも知れない。

 巨大なMLB市場においては、動かせる人間の数が違う。

 地元のニューヨークのチームでプレイした昇馬のことは、日本よりもむしろアメリカの方が有名であったろう。

 MLBとしては珍しいかもしれないが、高卒の段階でドラフト指名という可能性は、充分にあったはずだ。

 しかしそれを日本の高校野球に取られてしまった。


 この流れをよく思っていないMLB関係者は多いだろう。

 ただMLBはMLBで、高卒選手はルーキーリーグでじっくりと使い、即戦力なのに上に上げない、というところはある。

 メイクアップと俗に言われる、プロスペクトを確実にスーパースターに育てるこの過程は、失敗すると才能を無駄にする。

 もっともNPBを経由すると、25歳までは給料が最低額で抑えられてしまう。

 このあたりをどうにかするのが、今のMLBの課題と言えるであろう。




 かつてバッテリーを組んだ二人が、一人はマスクを被って、もう一人は面白そうにそれを見ている。

「つーか樋口、最近は全然野球やってないんだろ? 俺の方が上手くなってんじゃないの?」

「そうかもな」

 ジンの挑発にも樋口は淡々と応じて、痛めた片膝を地面に置いて、キャッチャーボックスで構えた。


 ジンはマスクだけを被って、審判の位置に立つ。

 これがばれたら本当に問題だなと思う直史は、なんだか楽しくなってきてしまう。

「スルーを投げるぞ」

 今年の公式戦、直史はまだ一度もスルーを見せていない。

 練習でもまともに投げられないボールを、本番で使うのは直史の主義ではない。

 そもそも練習でも、安定して投げられていないのだ。


 見守るジンであるが、正直なところスルーの復活というのは難しいのではないかと思っている。

 元はシーナの投げていたあのボールは、肉体の柔軟性があってこそ成立するボールなのだ。

 岩崎も挑戦したものだが、あれは女性の腕の撓りの柔らかさが再現出来ないという結論を出した。

 簡単に投げられるようになってしまった、直史の方がおかしいのだ。


 今の直史は、ほんのわずかずつ体の各所の柔軟性を失ってしまっている。

 それが結局はスルー復活への最大の妨げとなっているのだろう。

「ライフル回転と、ストレートのスピードを両立させるのは、確かに難しいことだろうしな」 

 樋口もその難易度には同意する。

 何人ものピッチャーのボールを受けていた樋口であるが、たまたまジャイロボールになってしまった例はいくつもあるが、意識的にこれを投げられるピッチャーは他にいなかった。




 10球を投げれば、一つか二つは上手く沈みながら伸びる。

 目の錯覚であるのだが、不思議なことだなと樋口はそれをキャッチしていく。

 ブランクがあっても、この安定しない変化をたやすくキャッチする。

 もっとも片膝をついているので、高く外れるとキャッチ出来ないのだが、そこまでの暴投はない。

 直史が投げているのだから。


 スルーの練習だけをしているわけにはいかない。

 とりあえず必要な球種としては、カットボールがある。

 左打者の膝元に、小さく曲がって決まるボール。

 直史の場合はツーシームほどの球速は出ず、小さなスライダーという意識で投げている。

 大介が右バッターだったなら、もう少し楽に対決できただろうな、とは考えてしまう愚痴である。


 そのカットボールの軌道だが、何球かに一度は、想定外だが求めていたボールになっていたりする。

 スルーだ。

「ナオ、どういう投げ方になってるんだ?」

「ボールを切るような感じなんだけど」

 撮影していたビデオで、この投球フォームと腕の振りを確認する。


 カットボールを意識することが、スルーを投げることにつながる?

 確かにカットボールも、ボールを押し出す瞬間に、わずかに回転をかけるボールではあるが。

 確実に投げられるわけではないが、これまでのスライダー寄りの投げ方よりは、かなり割合が増えて変化している。

 一瞬のボールを切る感覚が、スピードを減らさずにライフル回転を与える効果になっているのか。


 復活する。

 やがて魔球は復活する。

 そしてその時、世界はまた完璧な世界を見ることになるだろう。

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