第41話 40代の可能性
30代の前半が、円熟期であり全盛期である選手は多い。
ただ肉体的には、20代がもちろん優れている。
この肉体を完全に使いこなすのに、30歳前後の技術が必要ということでもある。
そして30代後半に入ると、ほとんど最盛期が訪れる選手などはいない。
もちろん例外は常に存在するが、それはスタープレイヤーであっても、40歳ぐらいには衰えるのがほとんどだ。
(衰えたな……)
悲しみと共に、大介はそう感じている。
交流戦が終わった後、予備日の休日があった後の最初のカード。
スターズとの第一戦に、先発で登板してきたのは上杉であった。
ピッチャーの場合はほとんどが、NPBで活躍した者は、MLBへの移籍を考える。
かつては挑戦と呼ばれたそれは、単にもうステージを変えるだけのものとなっている。
真田のようにMLBのボールをシーズン通して使うには、故障のリスクが極めて高いと思われれば、NPBに残ったりもする。
ただそのNPBに残ったおかげで、どうにか200勝に到達したりもするのだから、そのあたりはどう考えるべきだろうか。
もっとも真田がMLBでNPBペースの成績を残せたら、生涯獲得年俸は少なくとも四倍にはなっていたと思う。
そして上杉も、例外的な1シーズン以外は、NPBでずっと投げ続けていた。
複数年契約で2億ドルの年俸を提示されたとも聞く。
だが上杉にとっての人生プランに、MLBで金を稼ぐということの意味はほとんどなかったのである。
もっともあちらにコネクションが出来たことは、悪いことばかりではない。
一度肩をやったのが全てであった。
それでも400勝を突破し、NPB史上最も偉大なピッチャーとは言われている。
直史は完璧だとか究極だとか最強だとかは言われるが、偉大さという点では上杉には及ばない、というのが両者のファンの落としどころであるらしい。
あの故障がなければ、果たしてどこまで記録を伸ばしていたのか。
それでも大介の目から見て、もう上杉は強大な敵ではなくなっている。
甲子園にスターズを迎えての8回戦。
ライガースもエースの畑が、中六日で先発である。
まずは初回三者凡退に取って、幸先のいいスタート。
そしてその裏、上杉がマウンドに立つ。
主にムービング系を使うが、これとストレートの球速のコントロールというスタイルは、基本的に昔から変わっていない。
だが高速チェンジアップが、あまり効果的ではなくなってきた。
スタミナも減ってきて、完投する回数もめっきり少なくなった。
それでも42歳で、このピッチングというのは驚異的なのだが。
(いい加減に引導を渡してやるべきだろ)
50歳まで現役をやっていたピッチャーもいるが、それは例外中の例外。
デビューから18年、故障とそれによる治療を除けば、あとは佐藤兄弟に一度ずつ取られただけで、14回の沢村賞。
究極の先発完投型ピッチャー。
それなのにこれで、あの怪我がなければ、などとまだ言われる。
二年間他のピッチャーに取られたが、39歳で15回目の受賞。
間違いなくこの20年は、上杉を中心とした時代であった。
大介が海を渡るまでは、上杉と大介の時代であり、武史と直史が入ってからはこの三人のピッチャーと対決する、贅沢な時代でもあった。
他にも多くのピッチャーが、この20年間の間に輩出された。
それでももう、時代は戦国時代に戻るべきだ。
おそらく直史も、今のコンディションを保てるのは数年、それに目的を達成したらいつでも、プロの世界からは二度目の引退をする。
自分のバッティングにしても、おそらくあと五年ほどが限界であろう。
そのあたりでバッターは、もう速球に完全についていけなくなるのだ。
復帰後最初の、この公式戦での対決。
だが足を上げた上杉の投げたボールは、大介の想定を超えてきた。
(うお!?)
そこそこ内角ではあったが、避けるほどでもないゾーン内のコース。
それなのに腰を引いてしまったのは、球威が予想を上回ったからだ。
(なんかむっちゃ速かったような)
球速表示は168km/hと出ていた。
上杉の最近のストレートは、160km/hが限界だと言われていた。
実際にこの二年で、一気に球速の上限が落ちてきていたのだ。
だがこの対決にあたり、上杉は限界を超えてきた。
(なるほど)
つまりこれは、あれだ。
(普段は壊れないように、抑えて投げてたって感じか)
投げようと思えば、投げられた。
投手生命を、本当に賭けてまで大介との勝負に臨んでいる。
(甘く見ていたな)
いや、侮っていたと言うべきであろうか。
上杉はまだ、その本質を失っていない。
二球目、何を投げてくる?
(普通ならあのストレートは決め球に使ってくるだろうに)
チェンジアップの後にあれを投げられれば、おそらく当てるのが精一杯であったろう。
そう考える大介に対して、二球目のボールもインハイへのストレート。
大介は今度は腰を引かず、そのゾーン内のボールを見送った。
(167km/hか……)
速いが、MLBには数人、これぐらいは出すピッチャーがいる。
大介は迷いを捨てる。
甲子園が大歓声に沸いている。
高校時代には実現しなかった、この二人の対決。
大介のプロ入り後は何度となく対戦があったが、二人の対戦成績は、どちらが上回ったとも正直言いにくい。
ただチームとしては、大介のいたライガースの方が、優勢であった場合が多い。
上杉が故障し、大介が海を渡った。
二度とありえないと思われていた、この両者の力と力の対決。
それでも上杉はもう、全盛期は過ぎていると思われていたのだ。
普段は手を抜いたピッチングをしているというわけではない。
普通のエースクラス以上のピッチングは、どうにか出来ているからだ。
ただこの舞台で、この好敵手を相手に、魂を燃やさずにいられるものか。
(ここで壊れても構わん)
上杉が、上杉らしいわがままを、珍しくもここで通す。
この一打席目の対決においては、圧倒的に上杉が有利であった。
それは上杉が投げるまで、大介は上杉のことを理解していなかったからだ。
引導を渡すなど、なんと傲慢な考えであったことか。
(やっぱ面白いわ)
三球目、上杉の投げたのは、インコース。
ほぼ二球目と同じと思えたが、ボールが来ない。
(チェンジアップかよ)
豪快な空振りの後、ボールはすっぽりとミットに収まった。
大介にとっては久しぶりの、完全な空振り三振であった。
その場で一回転半するほどの、勢いが消えない空振りであった。
完封の前日、直史はテレビでこの対決を、しっかりと目に焼き付けていた。
翌日の自分に納得がいくピッチングが出来たのは、この対決が影響したと言えなくもない。
直史は野球少年の魂は持っていない。
だが男の意地らしきものは、確かに所有しているのだ。他の人間には分からないよう、分かる者にだけ分かる擬態をしているが。
バットを杖のように支えにした大介は、マウンドの上から見下ろす上杉を見つめる。
いや、気持ちは分かるが早くベンチに戻りなさい。
上杉の野太い笑みに対して、大介は狼のように牙をむく。
だがそういった威嚇の行為は、弱者から強者に対してなされるものではないのか。
ベンチに戻ると、お通夜の雰囲気になっていた。
この数年、上杉は間違いなく、ストレートの上限はほぼ160km/hにまで落ちていたのだ。
それがこの大介との対決で、軽くその限界を突破してきた。
さすがに引退までもう近い、と思われていた軍神の復活。
敵として臨席していなければ、むしろワクワクと喜んでいたかもしれない。
今のプロ野球にいるような選手はほとんど、上杉のピッチングを見て少年時代を過ごしてきたのだから。
目がキラキラしてしまっている味方を見て、大介は苦笑する。
敵に憧れてしまっては、もうその試合には勝てないだろうと思ったのだ。
心配しなくても上杉が全力を出すのは、大介相手に限るだろう。
かつて自己最速を出した後に、上杉は故障している。
選手生命が絶たれるほどのものであったが、体細胞再生治療によって復帰できた。
ただ以前に比べれば、それでもストレートの最高速は落ちたが。
今のストレートにしても、170km/hは出ていなかった。
MLBではいまだに、武史は170km/hを出して三振を量産している。
もっと早くMLBに来れば、あるいは奪三振記録を更新したのでは、とまで言われている武史。
だが通算4000奪三振は到達するだろう、とも言われている。
NPB時代の三振を含めてもいいなら、そろそろ世界記録を更新しそうであるが。
この上杉の、ピッチングによる攻撃によって、ライガースは大きな精神的ダメージを受けた。
具体的には先発の畑が、二回の表の攻撃から、ポンポンと打たれ始めたのだ。
コントロールが雑になっているのは、まさにメンタルのコントロールが出来ていないから。
いくら大介がフォローしようとしたとしても、外野の頭を越えるボールは、さすがにキャッチのしようがない。
もっとも大介もまた、完全にフォローする気などは失っていた。
目の前に転がっているのは、全力を出した己のバッティングを、ぶつけるのに相応しい相手。
少なくとも今の時点では、まだ直史よりも美味しそうに見える。
そんな大介のうきうき具合とは別に、畑はこの試合、三回でマウンドを降りる。
ちょっと精神的に脆いのではないかとも思うが、それは比較する対象が色々と間違っているのだ。
序盤で五点差がついたので、試合の流れ自体は完全にスターズのものとなっていた。
そして上杉もまた、三回までランナーを出さないピッチングをしているのだ。
大介以外のバッターには、やはりある程度の力を抜いた、打たせて取るピッチングをしている。
そのバックを守る内野陣などは、完全にいつもよりもパフォーマンスを上げてきている。
「さて、そろそろパーフェクトの夢は潰しておこうかな」
四回の裏、ワンナウトから大介の二打席目が回ってくる。
試合にはもう負けたかもしれないが、それはそれで別にいいのだ。
大介が待望していた、本物のピッチャーとの対決が、ここに成立しているのであるから。
大介はMLBにおいて、内角のボールはあまり打っていない。
ただでさえボール一個ほど外にあるゾーンであり、さらに打たれたくないMLBのピッチャーは、外で勝負することが多かったのだ。
外角の球を打ち続ければ、それは得意になっても当たり前のことである。
重いバットで遠心力をつければ、あとは上手くミートするだけでボールははるか遠くに飛んでいく。
その大介に、内角だけで勝負したのだ。
意外な心理を突かれた、とも言える。
だが大介に内角で勝負するという時点で、とんでもない勇気の発露と言えるであろう。
(オラわくわくしてきたぞ)
そうは思うが、果たして今度はどういう対策を練ってくるのか。
今度は大介の想定する上杉のピッチングは、相手を甘く見たものではない。
MLBの超一流の、さらにその上を想定する。
大介は普段は、適当に数字のためにバッティングをしている。
モチベーションがもう、全試合集中するのには保てていないからだ。
だが直史の復帰を聞いて、そのモチベーションが復活した。
いよいよ途切れるかと思われた三冠王を、結局MLB在籍12年間全てで通した結果である。
最も偉大なバッターと言うよりは、最も偉大な選手、という表現の方が正しいであろう。
それでも大介には、勝ちたいと思う相手がまだいるのだ。
MLBの単純なパワーと、データ分析だけの味気ない野球では、これは感じられなかったものだ。
データ通りに投げてもらうために、コマンド能力をピッチャーに要求する。
それは本末転倒であり、データはピッチャーの力を活かすために必要とするはずのものでなければいけない。
一番レベルが高いはずのMLBで、もう大介は満足できなくなっていた。
このNPBの高卒投手が一年目から活躍するという環境の方が、ずっとスリリングだと思えている。
二打席目の大介から、弛みを感じない。
上杉は確かに衰えたのは間違いない。しかしだからこそ得た技術というのもある。
それは駆け引きというもので、ある意味では意識的な緩急である。
最初の打席は大介に己の健在を示してみた。
だが今度は、弱さを見せてみる。
スローボールで入った。
高速チェンジアップでもない、ゆったりとした動作からのスローボールであった。
普段の上杉ならば、このゆったりした動作から、渾身のストレートを投げてくる。
だがこの初球の入り方は、本当にただのスローボール。
大介はこれを、そのまま見送るしかなかった。
想定の範囲外。
上杉の持っていった緩急の中でも、さらに緩やかな球。
いや、いまだかつて公式戦で、こんなボールを投げたことがあっただろうか。
(引き出しが増えたと思うべきか、それとも苦心していると思うべきか)
ただ単純にストレートを投げてきたら、そのまま掬い上げるようにアッパースイングをしていたであろう。
レベルスイング気味ではあるが、大介のスイングも変化してきているのだ。
上杉のボールの球威を考えれば、ストレートならレベルスイングの正面衝突でスタンドに運べる。
だが手元で変化したなら、それはアッパースイング気味に打った方が角度がしっかりとつく。
大介のスイングスピードであれば、多少はフライの高さが上がっても、充分にスタンドまでは届く。
ただここで、スローボールなどを投げられたら、果たしてタイミングが取れるのか。
そういえば、と大介は思い出す。
超速球派のピッチャーがそれをより活かすため、遅い球を使う展開のマンガがあったな、と。
ドカベンの不知火のことであり、通称ドカベンルールによって敗北したという、ある意味野球の歴史に残ったキャラである。
ドカベンルールはこの物語以外にも使われているから、一度は検索してみた方がいいよ。本当の試合でも使われて試合を決定しているし。
遅い球にタイミングを合わせていたら、速い球は絶対に打てない。
ただ速い球にタイミングを合わせていても、上手く合わしきれないと、遅いボールを長打には出来ない。
遅いボールと言っても、直史のスローカーブなどと違って、100km/hは出ているであろう。
これにどうやってジャストのタイミングを合わせるか。
(まあ次の打席までの課題にしよう)
当てるだけのバッティングをしても、ヒットにぐらいは出来ると思う。
ただ二球目は、絶対に速いボールであると思うが。
予想通りに速いボールを投げてきた。
そのスピードはスローボールの後の錯覚で、実際のボールより速く見える。
167km/hのストレートを、どうにか当ててバックネットに突き刺さる。
下手をすれば今の打球で、フライになってアウトになっていたかもしれない。
(で、最後はどうする?)
最後のボールは速球系であった。
おそらくムービング系と見ていた大介の手元で、ボールは確かに小さく動く。
それをカットするべきだった、とは当ててから気づいたことである。
ボールはライト側のファールグラウンドへのフライとなる。
これをキャッチされて、第二打席も大介は凡退。
(色々やってくるなあ)
その野球人生の締めくくりとでも言うかのように、上杉は小細工までしっかりとやってきているのだった。
試合の行方自体は、スターズが完全に点差をつけてきている。
ただライガース打線も上杉は、全力を出すのは大介だけであると、ようやく気づいている。
(遅えよ)
なら自分で言えとも思われるだろうが、大介としてはそのぐらいのことは、自分で気がつかないといけないのだ。
ヒットが出て上杉のパーフェクトは消滅する。
試合は中盤に差し掛かり、この時点でもうスターズは充分な点差をつけているのだ。
上杉は何回まで投げるだろう。
六回まで投げたとしたら、大介の第三打席が回ってくるかもしれない。
そう思っていたところ、本日二本目のヒットが出る。
これで六回まで投げたら、大介に三打席目が回ってくる。
(頼むからダブルプレイにはなるなよ~)
そこは野球の神様が、空気を読んでくれたらしい。
凡退は続くがダブルプレイはなく、試合は進んでいくのであった。
上杉はもうオワコン、などとはさすがに現場の選手たちは言えない。
そんな言葉が見えるのは、無責任なネットの社会の中だけである。
今年はここまで5勝1敗と、復活したかのような成績。
ただ完投の数が少ないのは、さすがに仕方のないことだろう。
しかしそれでも、ライガースを今季初めて、無得点に抑えてしまいそうなピッチングをしている。
今季はこれまで、最低でも三点は取ってきた、強力打線のライガースをだ。
今日の上杉から、連打は狙えそうにない。
またフォアボールやエラーから崩れるタイプでもない。
七点も取られている時点で、この試合は決まったようなものだ。
もっとも上杉が降板したら、そこから一点ぐらいは取れるかもしれないが。
(いや、上杉さんから取らないと、意味はないよな)
他のピッチャーからなら、点は取れて当たり前なのだ。
上杉を打って取らなければ、ライガースの勢い全体が止まってしまう。
六回の裏、上杉はまだ続投。
この回に、大介の三打席目が回ってくる。
ライガースは九番から始まるこの回に、まずは代打を出していく。
この試合で一点も取れないというのは、間違いなくまずいことだ。
今年のライガースは、帰還した大介を中心に、完全に打撃のチームとして機能している。
それだけに完全にその積極性を失ってしまうと、途端にチーム全体が上手くいかなくなる。
そもそも、よりによってエースの畑がこの試合で崩れたというのも、かなりまずいマイナスポイントが一つ追加である。
何もかもが連鎖的に上手くいかない。
代打で出たバッターが、上杉のボールにバットを折られて凡退。
この衝撃で手を痛めて、代打の一番手がしばらく使えなくなる、などという酷い事態まで発生する。
まるで全ての線が、ライガースを敗北に、あるいはスターズを勝利に導くように。
それもただの敗北や勝利ではなく、決定的なものだ。
今シーズンのライガースは、圧倒的な攻撃力で首位を独走していた。
しかしここで急激なブレーキがかかるような。
(俺がなんとかするか)
続く一番バッターも三振に倒れて、大介の第三打席が回ってくる。
ランナーはおらず、それもツーアウト。
ホームランを打っても、一点を返すだけ。
7-1にして、最終回までにもう一打席回ってくるが、そんなものに意味があるのか。
だが、だからこそホームランを狙う。
この試合はもう負けだ。
スターズは元々リリーフ陣はかなり優れていて、守備力が高いレベルのチームなのだ。
上杉の全体への影響もあってか、チーム内での連携の意識が高い。
ライガースは畑が序盤で叩かれて、それが直接の敗因とはなるのだろう。
だがそれを許したのは、目の前の上杉の圧倒的なピッチングだ。
今の若手のピッチャーが、上杉の迫力にただ萎縮している、という単純な話ではない。今日の上杉が特別なのだ。
いやむしろこれこそが、上杉の真の姿と……いや、これでもまだ。
(本当のこの人は、まだこんなもんじゃない)
真正面から大介と勝負して、まともに勝負になるという点では、上杉は唯一の人間であった。
直史のピッチングは、あれは技巧の極致というものであって、頭の悪い、しかし魅力的な正面対決とは違うのだ。
……ストレートを最後に持ってくる真っ向勝負をたくさんしているが。
大介はバッターボックスに立って、マウンドの上杉を見上げる。
大きな体だ。物理的な大きさではなく、精神的な大きさでもって、この甲子園球場を天から覆うかのような。
それに対して、大介はバットを剣のように向けた。
上杉は大介を理解している。
相互理解によって、この勝負は成立する。
初球のストレートは、アウトローからわずかに逃げるツーシーム。
大介はあっさりとこれを見送って、ボールカウントから始まる。
そして二球目、投げられたのはチェンジアップ。
これを大介は叩いて、大きなファールフライとなった。
(次か)
カウントはまだどちらもあるが、お互いの間で成立する会話のようなものがある。
投げられたボールは、ストレート。
いや、これはわずかに変化するか。
(ツーシーム!)
165km/hのツーシームを打ったバットは、折れるはずもないヒッコリーの特注製。
それが根元で折れ、打球は低い弾道でレフトへと。
キャッチしたレフトが、その場で回転して倒れるほどの、砲弾のような打球であった。
六回を終えた時点で、上杉はマウンドをリリーフに譲った。
勝ち逃げされた、とは大介は思わない。今日は今シーズンで初めて、フォアボールで出塁していない試合なのだ。
これまでの65試合は敬遠なり、あるいはカウントが悪くなってからのフォアボールなり、一塁をプレゼントされる打席が必ずあったのだ。
それを、ここまで正面から対決して、ヒット性と言っていい打球は一つしかなかった。
七回八回と試合は進んでいくが、ライガースは点を取れない。
ランナーこそ出るのだが、そこで止まってしまうのだ。
そして9-0と一方的な点差のまま、九回を迎える。
この最終回、先頭打者は大介である。
その走力を考えれば、ランナーとして出てしまえば、得点に至る可能性は極めて高い、と思うのは間違い。
ここまで一方的な試合展開となり、自分の成績の数字だけを追いかけるほど、貪欲になれるバッターがライガースにはいない。
いや、頭では分かっていても、今年のライガースはここまで勝ちすぎた。
勢いで点を取るのに慣れすぎていて、流れを自分たちで作ることが出来ていない。
(ここいらでこんな試合を経験したのは、むしろ良かったのかもな)
この試合の影響で、ライガースは不調に陥るかもしれない。
だがまだ、オールスターも先のことであるし、試合も半分のかなり手前。
大介はレギュラーシーズンの戦い方を知っている。
だからこそプロ入りしてから21年間、全ての年度でポストシーズンに進出し、日本一やワールドチャンピオンを何度も体験しているのだ。
単純に最強のバッターが一人いるだけでは、チームとしてそこまで圧倒的に勝つことは出来ない。
ショートとしての守備貢献度は常にトップ。
一試合あたりのヒットの数を、平均で二つほどは減らしている。
ランナーとしては相手のピッチャーにプレッシャーをかける。そういうことをやってきたのだ。
だがもうこの打席は、そういうことは考えない。
事実上の逆転不能な点差になったスターズは、もう勝ちパターンのリリーフも使ってこない。
若手を楽なところでデビューさせようと、短いイニングを投げさせて、そしてその試みは成功している。
九回にもクローザーではなく、二年目の若手を出してくる。
だがスターズの首脳陣は、分かっていないのではないか。
この回の先頭打者は、大介なのだ。
もはやホームランを打たれても、一点が入るだけ。
確かにその認識は正しい。
またこの点差で、それでも大介がモチベーションをもって、打席に入っているのかという疑問もあっただろう。
それでもやはり、ホームランでも一点、であることは間違いない。
(さて)
この試合は、もう駄目である。
確かに野球は最終回ツーアウトから、逆転のある競技である。
さすがに9-0から1イニングだけで逆転したことは、大介の経験にもない。
また彼我の戦力差を考えても、同じNPBの球団同士で、そこまでの圧倒的な差があるはずもないので、逆転はありえない。
投げられたボールはカーブから入ってきて、大介はそのゾーンのボールを振らない。
データに依ればこのピッチャーは、MAXが158km/h出るらしい。
コントロールはとりあえず、ストライクが間違いなく取れるという程度。
まあムービング系を真ん中中心に投げていれば、それなりの数字になるという話もあるのは確かだ。
ただ、大介の待っていたのは、そのストレートである。
ボール球が一つ、そしてまた変化球で、ストライクカウントが増える。
待っているのはストレートだな、と相手も気づいている。
だが分かっていてなお、決め球にそれを持ってくる組み立てを考える。
もう一球カーブがあり、これはボール判定。
遅い球に目を慣らして、最後にはストレートを投げるのだ。
たとえホームランを打たれたとしても、経験値にしてしまえばいい。
そう安易に考えたのが、ベンチなのかキャッチャーなのか、それともピッチャーなのかは大介は知らない。
ただ、外角に入ってきた強いストレートに対して、大介のバットはやっと振るわれた。
強烈な打撃音。
大介はバットのヘッドを地面に着けて、小さく呟いた。
「ミスったな」
打球は誰もが確信するような、そんなホームラン性のライナー弾道。
外角をバックスクリーンに持っていった。
そしてそのバックスクリーンビジョンのさらに上、時計のわずか下に激突し、その勢いのままグラウンドにまで戻ってきた。
ミスショットだ。
左右どちらかにずれていなければ、場外には届かない。
ただ大介の、目的は充分に達成された。
甲子園の本塁からバックスクリーンスタンドまでの距離は118mで、実はこの距離はあまり広くはない。
甲子園でホームランが出にくいのは、左中間や右中間への距離が広いからだ。
ただそんなものは全く関係なく、バックスクリーンを破壊するほどの打球が飛んだ。
試合の勝敗には、さすがに関係がない。
ただピッチャーお呼びスターズの選手の度肝を抜き、甲子園の球場の観衆を熱狂させるだけの飛距離が、そこにはあった。
後に推定されたその飛距離は、もしバックスクリーンに当たらなければ、200mには達していたであろうというものであった。
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