第40話 ペナントレース再開
交流戦が終わって、ペナントレースが始まる。
この時点でライガースは43勝22敗という、とんでもないペースで勝利を量産している。なおレックスは38勝24敗である。
レックスの勝率でも充分に、例年なら優勝してもおかしくはない。
もっとも直史のレックス一年目は、0.755という異次元の勝率であった。
15個以上の貯金を作ったピッチャーが四人もいると、こういうことになるのだ。
まず始まるのは、ホームでのカップス戦。
三島がリリーフで投げたということもあり、第一戦をオーガス、そして二戦目を直史、三戦目を三島という並びになっている。
この並びの方が、三島の勝率を上手く高められるのでは、という考えが首脳陣にはあったかもしれない。
ただ直史はそんなものには興味を持たず、自分のピッチングだけに集中している。
明日が試合であるが、練習では迫水を座らせて投げてみた。
ツーシームが復活した、と聞かされた迫水は懐疑的で会ったと言うか、言っていることの意味がよく分からなかった。
ツーシームはシュートと同系統と分類されていたり、それは違うと言われていたり、シンカーと同一視されたりもするのでややこしい。
ただ日本の場合は、握りを変えただけでシュート回転を与えるのがツーシーム。
純粋にシュート回転をかけるのがシュート。
持ち方から抜くように、主にゆっくりとしたボールがシンカーと、しっかり分けようというのが主流である。
それぞれのボールの意味が違うのだから、分類すべきという考えだろう。
これがMLBであると、最近はツーシーム系変化は速球でもシンカー扱いされたりする。
それなのにスライダーが複数の種類に分けられたりしている。
カッターとスライダーとスライダーは、変化していく方向は全て同じである。
まあ、あちらではフォークもスプリッターと分類されている。
チェンジアップという球種もかつてはチェンジ・オブ・ペースで緩急をつける球は一緒くたにされ、なかなか文化が違うと感じた直史である。
やっていることのレベルが違うと言うか、ステージがそもそも違う、と思っているのが迫水である。
この間まで投げられなかった、ストレートと球速の変わらないツーシーム。
手元で曲がるこの球が、右打者に対しては有効だ。
「いったいどうやったんですか?」
「リリースまでのフォームがおかしくなってるか確認してくれ」
秘密主義というわけでもないのだろうが、直史は迫水の疑問を解決するよりも、優先するべき課題がある。
他のボールと混ぜて、20球ほどを投げた。
明日の先発なので、それほど多くも投げられない。
ただ迫水もここまで直史と組んできたので、ほんのわずかな違和感には気づいた。
「リリース位置が少し違うような」
ただそれはカーブなどを投げる時も同じだ。
直史はどんなボールでも同じピッチトンネルを通して投げることが出来るが、カーブなどの軌道が完全に違うボールの場合はもちろん不可能である。
いや、やってもかなり手前で落ちるだけで、出来なくはないのだろうが。
「オールスター明けまでにはどうにかしないと」
「……」
いやそんな簡単に出来ることじゃないだろ、と一瞬だけ迫水は思った。
だが忘れてはいけない。この人はミスターパーフェクト。
現在進行形で、伝説を作り上げる人なのだから。
直史としては迫水には、特に期待はしていない。
ただ失望するほど、彼は無能でもない。
普通よりはずっといいキャッチャーに、なりつつあるのが迫水だ。
とりあえずは今日の試合、オーガスにしっかりと勝ってもらいたい。
その勢いがチームにあれば、直史もそれに上手く乗っていくかもしれない。
カップスはここのところ調子を落としている。
フェニックスが同じぐらい負けているので、まだ最下位転落には時間がかかるだろう。
だが四位のスターズとの差は開いている。
去年は惜しくもクライマックスシリーズに進出がかなわなかったが、今年こそはとある程度の戦力が揃ってきていた。
しかしここで、昨年Bクラスであったレックスが躍進する。
たった一人の選手が、野球のように選手数の多いスポーツで、一気にチームを変えてしまう。
下手に野球に常識的な価値観で接する人間は、この異常事態を脳が認識できない。
直史がいくら勝とうが、もう40歳にもなるブランクが五年以上あるピッチャーなのだ。
正直普通のローテをこなすことが出来れば、それだけですごいというレベル。
去年もMLBでプレイしていた大介とは、前提条件が違うのだ。
しかしそう思っていても、現実はフィクションを凌駕する。
いや、佐藤直史という存在が、現実から乖離しているのか。
その直史が投げるわけでもない今日は、カップスとしては勝っておきたい試合であることは間違いない。
だがリリーフ陣の強いレックスは、この予備日が休養となって、リリーフ陣が回復している。
オーガスは六回までを三失点と、お手本のようなクオリティスタート。
この時点でリードされているカップスは、逆転が難しいと分かってしまっていた。
傑出してはいないが、レックスの先発陣は間違いなく、安定感を増してきている。
三連戦のこのカード、まさにレックスらしい勝ち方で、機先を制することが出来た。
第二戦は直史の先発である。
この日の直史の目的は、試合の中での自分のデータをしっかりと取ること。
ただし負けてしまってはどうしようもない。
もっとも自分にさえ負けがつかなければ、それはそれでいいとも思う。
エゴイスティックに。徹底的にエゴイスティックに。
マウンドに登った直史は、そう考えている。
前回の試合では、ヒット4本を打たれ、完投も出来ず、三振も七つしか奪えなかった。
そのあたりをどう改善していくかが、今日の直史の改善だ。
スタイルを元に戻していくのと同時に、結果も残さないといけない。
二兎を追うもの一兎も得ず、という諺があるが、直史はちゃんとそれを意識している。
(さて)
厄介なバッターである福田から、攻略は始まる。
カップスの作戦としては、とにかく球数を投げさせることだ。
ただ直史は初球からポンポンとストライクを取りに来る。
これをどう判別して、しっかりと打っていくかも重要である。
もっともミートしたとしても、野手の守備範囲に飛ぶのが野球。
一番効果的なのは、フォアボールで出塁することである。
なんだかんだと大介のOPSが飛びぬけているのは、フォアボールによる出塁が圧倒的に多いからでもあるのだ。
ストレートとカーブの緩急で、あっさりと追い込まれる。
こうなったら上手くカットして、少しでも球数を増やさないといけない。
そう思っていたところに、投げられたのはアウトローへの厳しいコース。
これをスイングしてカットしようとしたら、わずかに動いたボールを空振りしていた。
(ツーシーム?)
その通りでございます。
直史はツーシームは隠す気はない。
そもそもこういった情報はすぐに明らかにして、相手が必死で対処してくるのを待つのだ。
それがあると分かれば打てる、というものでもない。
分かっていればむしろ、考えすぎて分からない。
そういうピッチングを直史は目指している。
140km/h半ばのツーシームがある。
それをアウトローに投げるのと、右打者に対してはわずかに食い込むように投げる。
これだけでミート出来る確率が大きく変わる。
(ただこれをストレートにも当てはめると、けっこう疲れるな)
体が一番楽に、それでいて力の伝達が上手くされる。
それが本当は一番いいのだが、もっと重要なのは打たれないボールを投げることであるのだ。
初回は三振の後に、内野ゴロを打たせてすぐにツーアウト。
そして三番打者には、これまでと同じく落ちないストレートを投げて、空振り三振を奪った。
セイバーが言っていたのは、ほんのわずかなメカニックの違いに、プロのバッターでもトップレベルなら、必ず気づくであろうということ。
だがとりあえず、この試合ぐらいは上手く使えそうである。
打者が一巡した時点で、直史はもう五つも三振を奪っていた。
そして残り四つのアウトは、全て内野ゴロ。
ただこれはやはり、内野を抜けていくヒットが、一つや二つは出るな、とも思えた。
それは覚悟の上で、他の数字を向上させていくしかない。
レックスが先取点を奪ったところで、その実験は次の段階へと進んでいく。
ツーシームを投げている。
これはカップスを恐慌に陥らせた。
今年の直史が、かつてよりはまだ打ちやすい理由はやはり、手元で小さく曲がる速球がなかったからである。
主にカーブとストレートの緩急が、直史のピッチングスタイル。
これにチェンジアップというので、充分に抑えてきたのだ。
さらなる進化を遂げているというよりは、さらにかつてのスタイルに戻ってきている。
「ツーシームが148km/h出ていたのか……」
普通のストレートよりもツーシームの方が速い。
別に珍しいことではないのだが、それでもまだNPBの一般常識からは外れている。
(どうすればいいんだ)
事前ミーティングの情報が、一気に陳腐化した。
二巡目の直史。
ここで重要なことは、やはりパーフェクトというのもあるが、奪三振の多さと、球数の少なさである。
この間は球数がちょっと多くなって、完投することが出来なかった。
それを恨んでいるというか、どこまで徹底的に叩き潰さなければ、気が済まないというのか。
直史としては今後のためにも、当たる相手の打線は全て、トラウマを与えておきたい。
絶対に打てないと思わせておきたい。
非情であるが、必要な冷酷さだ。
それでもこれは、やはり予想通りまだコンビネーションが足りなかった。
内野の間を抜けていくヒットが一本と、イレギュラーからのエラーが一つ。
ただ今日は、内野フライさえもがほどんとない。
六回が終わった時点で、球数はまだ58球であり、奪三振は既に二桁。
まるで点が取れる気がしない、というのはどうにか出塁したカップスでさえ思っている。
たった一つ、球種が増えただけのはずだ。
それでここまで、ピッチングは強力なものとなる。
「いったいあれはどういう生き物なんだ……」
もはやカップスベンチからは、生物かどうかさえ、疑われている直史であった。
直史は何も満足していない。
どこに何を投げたらどうなるか、というかつてのような明確なイメージが、まだ戻ってきていない。
ただベンチで待機している間も、周囲が近寄りがたい雰囲気を発している。
まさに孤高の存在となっている直史。
フィジカルはこれでいいとして、もっと集中力を高めて、試合を支配しなければいけない。
点を取られてはいけない。なのでホームランは打たれてはいけない。
今日のようにまだ味方の援護が一点しかない試合では、グラウンドボールピッチャーのピッチングをしないといけない。
(ランナーが出たら、そこでダブルプレイを狙う)
次のイニングでは、二本目のヒットで出たランナーを、それで殺すことが出来た。
残り2イニングとなって、まだ二塁を踏んだランナーがいない。
絶望的に二塁が遠い、とカップスは感じている。
そしてそれを演出している直史は、まだ何も満足していない。
(上手くダブルプレイは取れた)
だがもっと意識的に投げていかなければいけない。
求める先が高みに過ぎて、周囲をドン引きさせていることに、気づいていてもどうでもいい直史である。
残り2イニングは、もっと意識的に、確実なアウトを取る。
そんな直史は追い込んでからの奪三振が、今日は増えているのにも気づいている。
(確実に三振は取っていく)
その上で、外野フライは打たせてはいけない。
内野の間を抜けていくのは、仕方がないと割り切っている。
直史がこのシーズン、最もいいピッチングが出来た試合は、ノーヒットノーランを達成した試合ではなく、この試合となるだろう。
三振の数がどんどんと増えていくが、球数は増えていかない。
つまりボール球をほとんど投げないし、投げたとしても手を出させて、カウントを稼ぐことに成功しているのだ。
八回を終えたところで、球数はまだ80球に到達していない。
ベンチに戻ってくるごとに、周囲の緊張感は高まっている。
ノーヒットノーランも既に消滅しているのに、それでもこれだけのプレッシャーを味方が感じているのは、直史の発する空気からであろう。
この試合、上手く内野を抜けて行くヒット二本と、内野のエラーでパーフェクトを逃している。
三振の多さも考えれば、パーフェクトクラスのピッチングをしているのは間違いないのだ。
そのくせ援護は最低の一点だけ。
この状況をどう思っているのか、と味方の内部が戦々恐々である。
ほんのわずかなミスで、直史の集中力が途切れるのが恐ろしい。
もっとも直史としては、ピッチングの内容を重視しているので、味方のエラーなどはどうでも良かったりする。
八回の裏も、レックスは援護の追加点はなし。
不甲斐なさを感じる選手は多いが、今は重要なのはそういうところではない。
1-0で勝っているこのゲームを、確実に取るのだ。
球数を別にしても、貞本はもちろん、この試合にリリーフを使うつもりはない。
直史の方がクローザーのオースティンよりも、はるかに防御率はいいのだ。
そしてそれは試合の終盤のみを見ても変わりはない。
直史は体力切れするようなピッチングをしていない。
己の体力すらもしっかりと計算し、完投するようにペース配分をしている。
(マジ、この人は人間じゃねえ)
軽くも重くもない足取りで、マウンドに向かう直史。
その姿は畏怖の対象でしかなかった。
せめてあと一点あれば、もっとたくさんの実験が出来たのにな、と直史は考えている。
とにかく一点を取られるのも危険な試合なので、フライを打たれるのを恐れていた。
もっとも今までは緩急でタイミングをずらしていたのに、この試合からはゴロを打たせるツーシームが使えている。
これも掬い上げれば、ホームランに出来ないことはない。
しかしそれを許さないコンビネーションで、直史は投げている。
九回の表、先頭打者を三振でアウトにする。
これで今日は13個目の奪三振。
今年の直史の、一試合あたりの最多奪三振を、既に更新している。
(九回でも球威が全然衰えてないのか)
むしろ一定すぎるのがおかしい。機械だってずっと投げさせていれば、セッティングは狂ってくるものである。
14個目の三振を奪った。
カップスも上位打線であるのだが、ツーシームとストレートを使い分けるだけで、ここまで三振が取れるようになるものなのか。
わずかに手元で変化するボールは、当然ながらわずかに落ちる。
それにホップ成分の高いストレートを投げれば、こういうことになるというものなのだ。
ストレート自体は、これまでと変わっていない。
だがツーシームとの区別がつかないので、空振り率はアップする。
スピードで判断しようにも、そうすればカーブでストライクを取ってくる。
またチェンジアップで完全に体勢を崩されてしまう。
今日の試合でカップスのバッターは、まともにミートできたバッティングというのは、ファールスタンドに入れたものを含めたとしても、一つもないのではないか。
迫水は背筋が凍るような感情に襲われる。
これと対戦したのか、と過去の自分の経験が蘇ってきていた。
最後の一人のバッターとなる。
今日の直史は、完全にスタイルが違うように思える。
ただシーズン開幕の時点から、奪三振は多いとは思っていた。
実際のところは空振りの三振が多かったわけであるが。
スピードで三振を奪っているわけではないのは、すぐに分かった。
140km/h台の半ばで空振りが取れるほど、プロの世界は甘くない、はずである。
なので空振りする秘密については、スピンやVAAから原因を求めた。
高めのストレートは、空振りすることが多い。
ボール球ではなく、ゾーンの中に入っているのに。
こちらのホームで投げている間は、存分に分析のための映像は手に入れられる。
もっとも見える部分だけでは、その理解は不充分であるのだが。
カップスはここまで、二試合自軍のホームにて、直史のピッチングを映像としてデータ化した。
しかし神宮でのこの試合は、まるでそのデータが役に立っていない。
意識してボール一つほど高く、スイングはしている。
なのに今日は、まるで当たらない。
もちろんこれは、コンビネーションの幅が広がったことが理由にある。
ツーシームは手元で動いて、ミスショットをさせるムービング系のボールである。
一時期のMLBではムービングファストボールが全盛の時代があった。
これをちょっとした変化なら、その変化ごと粉砕しようと、長打を打つためのフライボール革命がやってくる。
だが日本人はその気質的に、一発で勝負を決めるような攻撃ではなく、緻密でつなぐ攻撃を好むところがある。
直史がMLBに行くまで、ツーシームの速度向上を考えなかった理由だ。
そんなツーシームを混ぜられていると、よりミートに徹しようとする。
それで打てると思われるかもしれないが、実際のところはミスショットを連発することになる。
そしてその軌道に慣れてきたところで、ライジングファストボールを投げるのだ。
コンビネーションで空振り三振は奪える。
もっともこれでもまだ、大介と対決するためには、準備が全く足りていないだろうが。
ラストバッターに対しても、二球で追い込んでから三球で終わらせる。
投げたのはここまで散々に空振りしてきたストレートではなく、チェンジアップであった。
待ちきれず、スイングは止まらない。
片膝をついた状態でスイングをした後、ボールはキャッチャーのミットに吸い込まれていった。
本日15個目の三振で、試合終了である。
9回29人に対して、被安打2、失策1の無四球。
球数は89球である。
アウトの半分以上を三振で奪ったが、そのうちのほとんどが空振り三振。
アウトローの見逃し三振というのも、それなりにあった。
直史がこの結果に、ある程度納得できたのは、言うまでもない。
ここのところ低下していた奪三振率を上げて、球数はしっかりと抑えた。
そして外野フライが二つしかなかったのである。
内野だけで25個のアウトを取った、という試合となる。
もう外野は寝ていていいぞ、という極端な試合であった。
方向性はこれで間違っていないはずだ。
あとは運が回ってくれば、パーフェクトも出来るであろう。
ハードヒット率の計算などをすれば、プロの選手であればこの試合、どれだけのことをやったのかが分かる。
パーフェクトではなく、ノーヒットノーランですらない。
ただ直史の求めていた、球数の少ないマダックスではあった。
何をどうしたらこんなピッチングが出来るのか。
内野フライを打たせるには、バットがボールの下を打っていることが大前提となる。もちろん掬い上げる打球もあったろうが。
そして内野ゴロを打ったのは、ツーシームとチェンジアップによるものだ。
試合後に調べてみたら、スライダーの数が少なく、これまで使っていたシュートが一つも使われていなかった。
より鋭く曲がるツーシームがあるなら、確かに必要のないものであったかもしれないが。
小さく鋭く曲がるボールを使えるようになったことで、スピードのある大きな変化球は、カーブ以外はあまり使わなくなっていた。
そのカーブにしても、そもそもあまり球速の出ない球種ではある。
より下方向への変化を印象付けたことにより、高めのストレートと言うか、角度のつかないフラットなストレートが、より効果的になった。
視覚の錯覚が、より強烈になったのである。
一つ球種が増えただけで、こうまでも劇的に数字が変わる。
それにしてもこの予備日の休日だけで、ツーシームを仕上げてきたのか。
これには逆に、選手を管理するレックス側でさえも、頭が痛くなる次第である。
実際のところは、使ったのは一日だけであるのだが。
この直史のピッチングの映像は、当然ながらその日のうちに、他のチームにも流れるものであった。
確かに今年、既にノーヒットノーランを達成している直史ではある。
だが三振の数といい、内容自体はこちらの方が優れている。
直史は未だに、復活の途上にあるらしい。
他のチームの選手や監督、関係者一同にとって、地獄のような日々が始まったと言っていいのかもしれなかった。
完封の翌日、直史にはベンチに入ることすらない。
そしてブルペンキャッチャーを借りることもなく、SBC千葉にやってきていた。
神奈川や埼玉に比べると、ここが一番近くて便利である。
なんと完投した翌日に、またピッチングの練習を始める。
セイバーはそれを面白そうに見ていた。
いや、実際に見ていて面白いのであるが。
セイバー・メトリクスの指標によっても昨日の直史のピッチングは、ノーヒットノーランを達成した試合よりも、高い数字を示していた。
やはりハードヒットがなかったことと、無四球で奪三振が多かったことがきいている。
それでもノーヒットノーランの出来ないところが、野球というスポーツの偶然性がたかいところと言えよう。
直史のピッチングを、動作解析で精密に計算する。
二つのフォームの微細な違いが、機械の上では分かっている。
「人間には分からないでしょうね」
「大介なら分かるとおもう」
確かに、とセイバーは頷いた。
この二人の男の、お互いを分かり合っている感じというのは、男性に特有のものに思える。
薄い本が捗りそうだが、セイバーには興味のないジャンルである。
次に必要になるのは、左打者対策のカットボール。
これは小さな変化というだけなら、比較的簡単に元に戻った。
だが速球の速度では曲がらない。
スプリットも試してみたが、こちらは肘に負荷がかかるので、本当に浅く握らなければいけない。
「するとやっぱり、スルーの復活を考えるべきね」
「原理的には復活してもおかしくないんだけど」
いまだにスルーの完全な復活は成されていない。
ジャイロボールの原理というのは、極めて単純である。
ボールの進行方向に回転軸が存在するというものだ。
直史の場合は他の球種で言うならば、スライダーの感覚が一番近い。
回転を加えるのに必要なのは、むしろ無理に回転をかけようとしないこと。
それをするとほぼ確実に、回転軸がずれてしまう。
回転を伝える力と、前に押し出す力。
ストレートにほぼ近いスピードで、ライフル回転を欠けるというのは、本当に繊細な指先の感覚が必要になる。
直史としてはこのやり方でのスルー復活は、不可能ではないかと考えている。
理由としては、皮膚感覚の老化が挙げられる。
40歳と言われてもそうは思えないほど、直史は若々しさを維持している。
実際に肉体年齢は、まだ30歳ぐらいであると、その柔軟性などから計算される。
しかし直史の30歳の頃は、まさに本人の全盛期。
ブランクがあるため、また他人に見せるためとしても、スルーは投げていない。
誰かのためにバッティングピッチャーをするにしても、ジャイロボールを正確に投げられるピッチャーなどいない。
なのでこれを打つ練習などはしても無意味であるからだ。
大介との対決で勝つためには、少なくとも全盛期にまで力を戻す必要があると、直史は考えている。
なぜならば、大介には自分にあるような、衰えがないと証明出来るからだ。
毎年のスタッツを見ていけば、さすがに衰えてきた、と思う者はいるかもしれない。
だがそれはただの調整であって、爆発力の必要な場面では、相変わらずの数字を残している。
即ちポストシーズンの成績だ。
大介が史上最強のバッターと言われる点は、その勝負強さにある。
そんな大介相手に、相当に有利に戦ったのは、直史の他には一人だけ。
上杉ではない。上杉も相当に健闘しているが、機会が少ないので気づかない人間も多いが、実は真田である。
甲子園で大介は真田と対戦しているが、決定的な働きをしたのは二年の夏だけ。
あとは封じられているので、プロで同じチームになったのは、運が良かったのか悪かったのか。
甲子園での大介の打率は、八割を超えていた。
四度の出場で、31本のホームラン。
これと比較するなら、ポストシーズンでの成績を持ち出すべきであろう。
打率は五割を、出塁率は六割を、そしてOPSは2.0を超えているのが大介だ。
この数字は去年のポストシーズンでも、落ちてはいない。
単純に本当に大事な時のために余裕をもって、レギュラーシーズンを流しているだけなのだ。
大介は勝負強い。
特に甲子園においては、ホームランが比較的出にくい方向に、相当の数を打っている。
舞台が大きければ大きいほど強くなる、厄介な特性を持っている。
味方としてはそれはありがたいものであったが、敵対するなら正直、逃げたいバッターであることは間違いない。
直史が、いくら消耗させられていたとはいえ、決定的な一打を浴びたのは大介だけであるという記憶もある。
そもそもあんなのと、正面から対決する方がどうかしているとも言われる。
ただそんな大介が相手でも、直史は勝算は充分にある。
もちろん直接対決になったら、という話であるが。
大介は精神的にタフでがさつなイメージがあるが、メンタルのダメージにはそれなりに弱い。
過去にも肉親の不幸や、周囲の事件が起こったことによって、その成績を落としてしまっている。
極めて人間的なところであるが、直史にはそういった部分がない。
炎のように揺らめく男と、氷のように冷たく確固たる男。
二人は共に化物であるが、その在り様は対照的であるのかもしれない。
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