第39話 交流戦を終えて……

 交流戦が終わった。

 直史としてはどこと当たったとしても、最善を尽くす以外には何もない、という日々であった。

 そしてこの交流戦であるが、一番の成績であったのは、やはりと言うかライガース。

 13勝5敗で勝率もトップであった。

 レックスの11勝7敗というのも悪くはないが、ライガースはとにかく打線が止まらない。

 負けた試合でも三点以上は取っているという、訳の分からない記録は継続中である。


 一度レックスと、ではなく直史と当たって、完封でもされれば勢いを落とすのかもしれない。

 ただ五月に一度は勢いを落としたのだが、すぐにまた戻ってきた。

 ピッチャーの調子が悪くても、取られた以上に取り返す。

 ライガースファンが大喜びしそうな、試合展開を繰り返している。

 そんなライガースにとってこの予備日での休日というのは、むしろ都合が悪かったかもしれない。

 勢いを失うのはやはり、試合がないことであろうからだ。


 またライガースは地味に、怪我人が出ている。

 ローテのピッチャーが登録抹消などしているが、どの程度で帰って来られるかは発表されていない。

 ただ完全に故障者リストに入れているわけではないので、今季中の復帰は考えられるのだろう。

 これに対してレックスは、本当に故障者が出ない。 

 それこそ直史がローテを少し飛ばしたぐらいで、あとはせいぜい不調程度だ。

 首脳陣の方針がしっかりとしている。


 正直なところ直史は、左右田と迫水は、シーズンの早い内に、不調に陥るのではと思っていた。

 ノンプロ出身とは言っても、プロのシーズンは半年間続く。

 この試合数に体が慣れるのには、それなりの時間がかかると思ったのだ。

 自分はあまり体力がないと言いつつ、ほとんど休んだことはないくせに。

 それはそれ、これはこれ、というのが直史の中では成立している。




 予備日に休みがもらえたが、これは試合が休みというだけで、選手が練習などを休むわけではない。

 ただレックス首脳陣は、完全な休養日を作った。

 六月も半ばを過ぎて、少し体力が消耗してくる頃だ、というのもあるのだろう。

 蓄積した疲労は間違いなく、故障の元となる。

 試合中の軽い打撲など、本当に軽い怪我しかしていないレックスは、ここでも予防策を考えた。

 最近は気温も上昇してきていたため、このタイミングでの休養は悪くない。


 直史も一日、自分のマンションにまで戻った。

 今年はもう完全に、父親や夫の立場を放棄して、野球選手をやってしまっている。

 それを瑞希がちゃんとフォローしてくれているが、直史の期待していた日常ではない。

 ただしこれは一般的な野球選手としては、普通の家庭であったりする。

 プロの選手は誰かしらに、マネジメントを頼まなければやっていけない。

 実際に直史も、プロ一年目は例外として、あとはずっと家族と一緒にはいたのである。


 そんな直史が、家族との接触を減らしている。

 最優先にすることのために、家族に犠牲を強いているのだ。

 もちろん瑞希とは話し合って決めたことではある。

 だが明史はともかく、真琴は感情的に納得していないだろう。

 彼女も生まれてからしばらくは、本当に両親に面倒をかけていた。

 しかしその記憶が自分にはないのだ。


 一応は双方の両親や、また桜が子供たちと一緒にいるので、悪いことは起こりにくいとは思う。

 だが思春期の娘を持つ男親は、本当に大変であるのだ。

 今年で中学三年生であり、進路のことも問題になっている。

 本人が幸いにも、頭の方は両親に似てくれたため、白富東に行くつもりではあるらしいが。




 せっかくマンションに帰ってきた直史であったが、真琴は親友である聖子の家に泊まりこんで遊びにいっていた。

 当然ながらこれは、直史を避けているのだろう。

 娘から避けられるというのは本当に、心にくるものがある。

 最初は二人は、あまりにおとなしい明史のことを、なんらかの障害かとも思ったのだ。

 また真琴は手術以降完全に健康体と言ってもいいようになった。

 なので親としては、どちらが大切だとかはないのだが、真琴にとっては弟がずるいと考えるのも仕方ないのだ。


 ままならないものだ、人生は。

 大学に返済不要の奨学金で通って、司法試験に合格したところあたりまでは、本当に上手くいっていたと思う。

 だが不意の妊娠と、真琴の心臓の疾患から、直史の人生は思っていたルートを大きく外れた。

 とは言ってもそれで、不幸になったとは思わない。

 より広い分野の人々と、関わることが出来るようになったからだ。


 また金銭的な余裕が出来たというのも、当然ながらありがたい。

 金があれば幸福になれるわけではないが、金があれば多くの不幸から逃れることは出来る。

 もちろん自分が金に振り回されないことが重要だが。

 後悔というわけではないが、自分の人生がもう少しだけ違えば、避けられた悲劇は一つだけあると思う。

 イリヤの死だ。

 ただそれは結果論であって、直史に責任のあることではない。

 だが人間の命は本当に、かけがえのないものであると、あれで直史は再び認識したのである。


 


 せっかくの休みだが、満足な精神的休養は取れないようである。

 明史は何をしているのかというと、おとなしくパソコンをいじっているらしい。

 ネットでも見ているのかと思うと、どうやら何か自分でプログラムのコードをいじって、ゲームを作ったりしているらしい。

 直史や瑞希と違い、やはり理系の思考をしているのか。

 佐藤家には分家した人間の中に、工場で黙々と新型機械の設計に関わったとかいう人もいたりするので、不思議なことではない。

 ただそうすると、果たして実家を継ぐのは誰になるのか。

(誰でもいいけどな)

 もうそういった時代でもないが、この風習が完全になくなってしまうのも、寂しいものではあるのだ。


 子供たちはいるものの、久しぶりに夫婦二人の時間となる。

 昼間からなんだかムラムラしてきた直史であるが、そうは問屋が卸さない。

「ん?」

 スマートフォンにかかってきた電話は、懐かしい人間からのもの。

 ずっと意識はしていたが、ここのところはさほども接触はしていない。

 だが今の状況を考えれば、この連絡はありうるものだった。


 直史は瑞希の目の前で電話を取る。

「ハロウ?」

『どうして英語?』

 懐かしいセイバーの声が聞こえてきた。




 本当の金持ちは時間を短縮させるために金を使う。

 プライベートジェットを使い、そして早々にマンションなども契約したセイバーは、それとほぼ同時に直史に連絡をかけてきたのだ。

 もちろんこの時期、NPBの試合が予備日で休養になっていることは確認している。

 そんなセイバーが電話をかけてきた理由。

 想像してもおおよそ予想がつく。


 千葉の直史のマンションに、セイバーはやってきていた。

 お付きの黒服は、ボディガードなどではなく荷物持ちらしい。

 直史のマンションをその日のうちに訪れたセイバーは、まずパソコンを見せた。

「テレビの映像から見た限りの、直史君の動作解析です」

 いきなりとんでもないものを持ってきたものだ。


 何をやりたがっているのかは分かる。

 だがそれは今やることなのか?

「MLBの方は大丈夫なんですか?」

「だってこっちの方が面白そうだから」

 本当の金持ちは、自分の好きなことで金を稼ぐ。


 セイバーにとって直史のピッチングというのは、この世界に存在するあらゆる事象のなかで、最も不可思議なものである。

 過去のどのピッチャーを見ても、直史に匹敵する成績を残した者はいない。

 だがその実績を導き出したものは、ちゃんと理論がついてくる。

 机上の空論のはずの理論を、実践してしまったりもしているのはご愛嬌だ。


 直史のピッチングを見出したのはジンであるが、その最も効果的な育成を行ったのはセイバーである。 

 この女性は本当に、まったくプレイヤーとしての経験がないながら、投打における最も影響力の強い二人のプレイヤーに、最も強い影響を与えた。

 そして趣味の領域で仕事をする彼女は、今もまたその趣味のためにやってきたのだ。

 直史の現在の、比較的不調。

 もちろん絶対的評価をするなら、NPBではトップレベルの評価。

「むしろMLBの方が評価は得られやすいかも」

 セイバーの分析によると、そういうものであるらしい。




 野球に対する日本の科学的なアプローチというのは、どうしてもMLBに比べれば遅いものである。

 またその力のかけ具合も違い、これは市場の規模もあるが、未だに残る精神論が情報分析を軽視する傾向にあるからかもしれない。

 プレイヤーとしての実績がなければ、コーチになることはまずない。

 また監督になるのはスタープレイヤーばかり。

 こういった風潮をなくさない限り、日本の野球はアメリカよりも遅れる。

 ただその遅れた野球の世界から現れた者が、MLBを蹂躙する。

 もっともその蹂躙したプレイヤーは、最も成長する高校生の時期に、完全に科学的なセイバーのアプローチからなるトレーニングを受けている。


 セイバーは動作解析で、分かる限りのことは調べてきた。

 ただ映像などではそれは、満足のいく情報量は確保出来ない。 

 しかし彼女は、なぜかと言うべきかやはりと言うべきか、SBCで直史がやっていた練習やトレーニングの数字までも持ってきていた。

 確かにあそこは彼女がオーナーであるのだが、個人情報が守られていない。


 直史は呆れる気分もあったが、それでもセイバーなら仕方ない、と割り切って考える。

 彼女は結局のところ、直史に修正の余地を教えてくれるのだから。

 ただセイバーは、一通りのことを示してからこう言った。

「本気で投げてないでしょ」

 それは、別に手を抜いているというわけではなく、本気で投げられない、というのが正確なところであるのだが。


 故障した肘の部分は別としても、肉体のあらゆる部分が既に、老化して衰えてきている。

 老化というのは言い過ぎかもしれないが、かつてのような肉体のパフォーマンスを見せるのは難しい。

 人間の肉体には限界がある。

 直史の選手寿命にも限界があるのだ。

「でも、大丈夫。私が来た」

 そう言われると、本当に大丈夫な気がするのであった。




 セイバーはもう、生きていること自体が全て趣味になっている。

 さすがに娘たちを育てることだけは、趣味ではなく権利と義務だと思っているが。

 直史が復帰すると決めた時、自分もどうするかは迷ったのだ。

 ブランクと衰えが、さすがにあると思っていた。

 それなのにここまで、圧倒的な数字を残している。

 ただこの圧倒的な数字でさえ、引退する前に比べればかなり落ちている。


 彼女もまた、直史の事情を知る者の一人である。

 直史が全く血縁などのない、恩師であり友人であるとは言え、他人にこういったことを話すのは珍しい。

 それだけ信頼しているということで、瑞希はそういった二人の関係に、少し嫉妬することもある。

 ただこれはもちろん男女ではなく、人間と人間としてのお互いを尊重していることである。


 復帰するにあたり直史は、しっかりとメディカルチェックは受けている。

 だがそれでは、セイバーの要求するデータには足りないのだ。

 問題は全盛期に比べて、本当はどれぐらいフィジカルが衰えているか。

 いや、これはフィジカルではなく、コンディションの上限とでも言うべきかもしれないが。

 そのために血液検査までも含めて、セイバーは直史を東京の大学病院まで連れてきた。

 検査については札束で引っ叩くような感じで、順番を幾つも飛ばしている。


 検査結果のデータを、30代前半の直史と比較する。

 確かにほんのわずかに、肉体的なパフォーマンスは落ちている。

 しかしそれでも、ノーヒットノーランを達成し、多くの試合で完封している。

 一番重要なのは、腱や靭帯などの伸縮性が、どの程度維持されているか。

 それを調べる検査を、本当に一日でやらせてしまった。




 医師も同席した上で、セイバーは直史に告げる。

「怖がりすぎているから、全力を出し切れていないみたい」

 それはある程度、直史も理解していた。

 ただそれは怖がっているのではなく、安全のマージンを前よりもずっとたくさん取っているからだ。

 壊れてもいいから目の前の相手に勝つ。

 直史にはかつて、そんな無茶に振り切った時代があった。

 特にMLBでの最後の二年は、34勝に33勝と人間を超えたような数字。

 無敗で全員一位投票のサイ・ヤング賞受賞である。


 今の直史は、途中で壊れることが出来ない。

 なので全力を出すことが出来ない。

 問題はどこまでが限界であるか、ということだ。

 今の直史は様々な測定の結果から判明した限界よりも、かなり下の部分で投げていることが分かる。

 これを壊れないように、ぎりぎりまで上げていく。

 それを直史に対して出来るトレーナーは、ほとんどいないであろう。


 能力の問題ではなく、信頼性の問題だ。

 ジンや樋口といった、過去にバッテリーを組んでいたキャッチャーの意見は、かなり素直に聞いていたのが直史である。

 しかし今のレックスのトレーナーにもコーチにも、また分析班にしても、直史を納得させられる力量の持ち主がいないのだ。

 だがセイバーなら別だ。

 彼女は下手に自分の感覚などを信じないので、選手にも無理をさせることはない。

 数字が全ての世界の人間である。


 直史の今後のトレーニング内容に、口を出せるだけの説得力。

 むしろ直史の納得力の方が、この二者の間には必要であったろう。

 球速も重要だが、それよりはスルーの復活。

 こちらの方が直史にとっては、コンビネーションの幅が広がるので重要である。

「球速も最終的には150km/hを目指したいわね」

 SBCのトレーナーと共に、そんなことを話すセイバー。

 だがそちらの方は厳しいかもしれないと言われた。




 球速上限を上げることは、当然ながら全てのピッチャーにとって目指すべきものである。

 ただそれよりも緩急を使うべきだ、と直史は考えているが。

 各種データをカメラで、あちらこちらから計測する。

 また体重移動のタイミングなども全て計測する。

「かなり違うのね」

 MLBにいた頃の直史のデータは、セイバーがしっかりと管理していた。

 それと比べてみれば、当然ながら差異は出てくるだろう。


 主に変わっている部分は、まずリリースポイント。

 前に9cmほど、下に5cmほどリリース位置が違う。

 あとはピッチングの右腕が、ややアーム式に変化している。

 これは昔に比べると肩に負荷がかかるが、肘に負荷がかかるよりはマシだと思って直史が自身で考えたものだ。

 高校時代も一度、軽度ではあるが肘をやったことがある。

 炎症程度ではあるが、それに対して肩の故障はこれまでにない。


 スピードが出ない原因は、フォームが全体的に少し沈んでいるからだ。

 地面と平行になることを意識しすぎていて、肉体の円運動を使えていない。

 ただこれは、柔軟な股関節があるおかげで、股関節は問題ないのかもしれないが、足首や膝にはそれなりの負荷がかかる。

 こうやってフォームを変えたことで、ピッチングの使える幅は狭まった。

 それをこの短時間で暴いてしまったのであった。

 もしも敵対していたならば、丸裸にされていたところだ。

 彼女が敵対しなかったことは、直史のキャリアにおいて一番幸いなことであったかもしれない。




 直史の前に提示された未来は二つである。

 今のスタイルを発展させるが、前のスタイルに戻すかというものだ。

 フォームの微調整が必要になるため、前のスタイルに戻すのはかなり難しいだろう。

 また今のスタイルを発展させるのも、危険がないわけではない。

 今のスタイルから出力を上げるというのは、それだけ負荷は大きくなる。

 故障するのだけは絶対に、してはいけない直史である。


 セイバーはこの二つのスタイルを、明快に分けている。

 ストレートで空振りのストライクを取っていく今のスタイルは、直史が引退試合でやったことの、発展型であると思う。

 ただし開幕からここまでの推移を見ていけば、分かることが一つ。

 直史の奪三振率は、やや低下していってるし、そもそもNPBにいた最初の二年の方が、奪三振率は高いのだ。

 原因はおそらく、慣れと分析であろう。


 四月度の奪三振率は9.63、五月度は9.00、六月度は8.47と見事なまでにどんどんと落ちている。

 そして上昇しているのが、フライを打たれている確率だ。

 内野フライならいいのだが、外野フライも増えている。

 それがあまりヒットになっていないのは、遠くまで飛ぶ外野フライがあまりないからだ。

 しかしその打球の到達点もデータで見てみれば、はっきりと遠くなっているのが分かる。


 これはそのままなら、七月にはクリーンヒットが出てくるだろう。

 どのチームも、特にセ・リーグのチームは、ストレートの攻略に力を入れている。

 現在のスタイルの発展形は、いいのか悪いのか。

 それは体につけていたセンサーなどから得られたデータで、これまた判断出来るものなのだ。

「加齢もあるしこのままなら、おそらくどこかの筋肉を傷めるでしょうね」

 セイバーの結論には、これまでの故障してきたピッチャーの実例が、データとなって入っているのだ。




 現在の直史の問題は、ムービング系のボールが使えないことだ。  

 復帰を決めてすぐに試したが、ツーシームもカットボールも上手く変化しない。

 また元々スプリットはあまり使わなかったため、フォークと共にあまり変化しなくなっている。

 さすがの直史も五年間のブランクで、最も己に適しているフォームを忘れていた。

 なので空振りが取れるように、ストレートを活かした配球にしていたというわけである。


 どうすればいいのか。

 それはもちろん、直史が決めることだ。

 ただセイバーの分析では、七月の半ばあたりから終わり頃には、直史のストレートに対応するバッターはかなり出てくるだろう。

 ここまでミートの上手いバッターがホームランを打っているというのが、その前兆のようなものである。

 やはり目指すべきは、かつてのスタイルの復活。

 しかしそれは、肘への負荷がかかるのではないか。


 セイバーからすると、もっと重要な問題がある。

 いくら直史であっても、今のスタイルを捨てて、元のものにすぐ戻せるのか、ということだ。

 直史は元のスタイルの中の、一部分を使って今季は投げていた、と自分では思っていた。

 だが各種数値などを客観的に見せてもらうと、それが誤りであることは分かる。

 全く違うベースに、新たなスタイルを置いている。

 だからこそ苦労しているのだが、苦労している程度で完封やノーヒットノーランをされていては、他のピッチャーはたまったものではない。


 故障だけはしてはいけない。

 だが今のままでは行き詰るであろう。

「もし無理だったら無理やり麻酔かけて、勝手に手術したらいいのでは?」

「いやそれはさすがに……」

 セイバーの目は本気だった。

 やはりこの人は、ガチでやべー女である。




 直史の元のスタイルに戻すというのは、かなり危険なことではある。

 昔、大学時代に球速を求めた時、コントロールが利かなくなってひどいことになった試合があった。

 一試合に16個の四死球を出し、そしてノーヒットノーランという、これはもう何をどうすればそうなるのだ、という試合であったが。

 それでもすぐに修正できたのが、大学時代の直史だ。

 しかし今の直史に、その修正を行うほどの体力的な余裕はない。


 まずは少し重心を上に持ってくる。

 そしてその状態から投げると、テイクバックが小さくなった。

 ただそれなのに、投げる瞬間にボールを切る感覚があった。

 投げられたボールは握りの通りに、鋭く小さく曲がる。

 ツーシーム復活の瞬間であった。


 計測すると球速も、148km/hが出ている。

 つまりこれまで小さな変化球が使えなかったのは、手の振りのスピードが足らなかったということだろうか。

 そして無理をしなくても、少し体を大きく動かすと、スピードもちゃんと出ている。

 これはどちらを選択すべきか、迷うところである。


 投げた瞬間、確かに力がより強く、ボールに伝わっているのを感じた。

 しかし体から肩、肘を通って指先から放たれるまでに、あちこちが痺れていた。

 全身にかかる負荷は、これまでに投げていたものとは比べ物にならない。

 直史はツーシームの復活を喜ぶでもなく、どちらがより今の自分に必要なのか、それを考えていた。




 結局負荷が最もかかるのは、スピードのあるボールを投げることなのだ。

 直史がやっていたことは、自分のピッチングの一部を切り取って応用することだと思っていた。

 確かにそれも間違いではないのだが、それをより効果的にしていくうちに、元の姿とはかなりかけ離れてしまった。

 そして限定されたコンビネーションは、やがてある程度打たれるようになってきている。


 ここまでの試合の数字を見てくれば、確かにそうだと言える。

 地元開幕の試合こそ五本のヒットを打たれたが、それでも投げた球数は100球。

 そして次の二試合はノーノーとマダックスだ。

 フェニックスとの試合で左の背中から脇腹あたりを傷めたのは、体の使い方に無理が出てきたからと言えるのかもしれない。

 つまりこのままでは、どちらにしろいずれ故障するリスクは変わらない。


 肝心な場面で三振を奪いにいって、浅いフライを打たれてしまう。

 これは確かに前兆と言ってもいいだろう。

 直史はツーストライクまで追い込んでしまえば、エラーの危険性を減らすため、意識的に三振を奪いにいっていたのだ。

 それが今ではフライになっている。

 バッターの想定するボール以上のボールを投げられていない。

 フライはいずれ、野手のいないところに落ちるだろう。


 直史は援護が少ないピッチャーであるが、統計的に見れば打たせた打球が野手の守備範囲に飛ぶ、運のいいピッチャーでもあったのだ。

 この幸運が反転すれば、ポテンヒットと内野安打が増えていくだろう。

 なぜそれがこれまではなかったのかということは、とにかくバッターの心理を洞察し、狙いをボール半分外す、というところから強い打球を打たせなかったからであろう。




 とりあえず一日だけで、かつてのピッチングフォームと今のフォームの違いを確認することは出来た。

 メカニック的には誤差であり、基本的なモーションは何も変わっていないので、直史のスタイルが根本的に変わってしまっている、という分析をしている人間は少ないであろう。

 ただセイバーの連れて来ているトレーナーなどからすると、似ている部分があるだけで全く違う、と言った方が正確であるのが分かる。


 直史としてもこれで、本来の自分とでも言うべき、かつてのスタイルを取り戻すきっかけは作れた。

 ただ、今はシーズン中なのである。

 さすがに直史が器用であっても、そうすぐに完全にメカニックを戻すことは出来ない。

 なぜなら今の肉体は、今のメカニックを投げるために、ある程度は特化した存在であるからだ。

 ならばどこでそんなタイミングがあるか。

「オールスター……」

 直史は不参加を表明しているオールスターの間、四日間は時間がある。

 ただ先発のローテに入っている直史は、いつも中六日なのであまり関係はない。


 シーズン中に少しずつ、戻していくしかない。

 その間にはひょっとしたら、負ける試合まで出てくるかもしれない。

 それでは本末転倒である。

 いっそファームで調整という手段もあるが、年間を通じてほぼローテを守っていないと、沢村賞には選ばれにくい。

 もちろん途中から中五日にするなどの、無茶な手段もあるにはある。

 しかしそんな無茶をさせるか決めるのは、首脳陣であって直史ではない。




 セイバーとしては直史の悩みは、どうしようもないものであると思う。

 今のままでは行き詰まるのが見えている、気がする。

 だが案外今のままでも、シーズンの最後まで通じてしまう可能性がある。

 なにせ直史はここまで、防御率が0.3以下という数字を残しているのだ。

 90イニング以上投げて、フォアボールは2個でヒットは20本。

 一試合で打たれるヒットは、いや出塁するバッターは、平均して三人以下。

 そのくせソロホームランを二度打たれているので、無失点にはならない。


 このままではどうなるかも、セイバーは分析する。

「まず長打が増えるでしょうね」

「そしてそれを防ぐために外野を下げたら、普通のクリーンヒットが増える」

 直史にもそれは分かる。

 それがどのタイミングまで待てるか、それが分からないのだ。


 ただ絶対に確実なことは一つある。

 今のままでは大介と当たった場合、よほど運がよくない限り、凡退させることが難しいということだ。

「白石君には通用しませんよ」

「それも分かってます」

 大介は相手のピッチャーがエース級などであったりすると、逆に打率や長打率が増える傾向がある。

 これがまた直史や上杉クラスになると、ようやく普段よりも低くなるのだが。


 大介は普段、注意力を完全に集中させることなく、バッティングをやっている。

 毎試合出る野手であることから、体力を調整しているのだろう、と直史などは思っているが、本人はどうも無意識であるらしい。

 レギュラーシーズン1.5前後の大介のOPSが、ポストシーズンに入ると平気で2以上になってくるのは、明らかにお祭り男と言うか、打つべき時に打つ男だからと言えるのだろう。

 直史がシーズンMVPを獲得するならば、おそらく大介との直接対決があった場合、抑えてみせる必要がある。

 もちろん逃げてしまえば、それは直史の負けとして換算されるだろう。

 今季まだ、未出塁試合というものがない、あの化物と対戦する。

 このままでは負ける、というのは分かっているのだ。

 ならばやることは決まっている。

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