第36話 機動戦

 勝ちパターンのリリーフ陣、特にクローザーを使っておきながら敗北。

 今年はまだ一度もなかったパターンの敗北で、レックスの必勝パターンが崩れた。

 しかしながら直史には、現在の埼玉の野球について、さほど変わっていないことを確信した。

 つまるところ機動戦である。

 安易に盗塁などはしてこないが、進塁の判断が適切であり、進塁打を打つのが上手い。

 それだけで勝てるというものではないが、ある程度の場面でしっかりと点を取ってくる手段を持っているのだ。


 ゴロを打ってくれるのなら、むしろ直史としてはありがたい。

 一発の攻撃力よりも、出塁率と守備を意識した打線を組むので、一発で点を取られている直史とは、相性がいい……と表面的には思うかもしれない。

 だが違うのだ。

 直史は今まで、確かにホームランで点を取られている。

 だがそのホームランを打っていたのは、スラッガーではなく高打率打者が多かった。

 つまり高打率を可能にするほどミートの能力があり、それに加えてスタンドに運ぶ能力。

 埼玉の選手は、どちらかと言うとそういう選手の集まりだ。


 一回の表から、この日はボール球を使う。

 ここまで比較的ボール球を投げてこなかったので、逆に相手もそのデータに従って打ちにかかる。

 データは相手のデータだけではなく、自分のデータをも逆手に取るべきなのだ。

 ただボール球のスライダーなどを振らされているとは、初回ですぐに気づく。

 ここでまだ動かない、というのもレギュラーシーズンとしてはありなのだ。

 しかし交流戦で、ここ以外では対戦しないと分かっているなら、すぐに対処の仕方を変える。


 勝てばそれだけ、首位とのゲーム差が縮まる。

 交流戦というのは普段とは、取ってもいい作戦の幅が違うのだ。

 分かっているので直史としても、二回からはまたスタイルを変えていく。

 一回の裏にはとりあえず、レックスの先制点もなかった。




 二回からの直史は、140km/h台前半のストレートと、90km/h台のカーブを主体に緩急をつけていく。

 ただこのストレートとカーブの中に、複数の種類が含まれていることは、埼玉もどれだけ分かっていることだろうか。

 三者凡退で、空振り三振も一つ。

 ここまでに三つの三振を奪っているので、普段よりもペースは早い。

 そしてその裏、ソロホームランがでてレックスは先制。

 よし、と各家庭では、風呂に入りに行くお父さんが続出した。


 野球の楽しみ方と、直史のピッチングの楽しみ方を間違っている。

 野球は普通に点の取り合いを見て楽しめばいい。

 だが直史が投げるなら、パーフェクトが途切れるまでは風呂に行ってはいけない。

 この日の直史は普通に、三回の表に先頭打者にヒットを打たれてしまった。

 戻ってきたらパーフェクトが終わっていたと知って、愕然とする者が多数だったという。


 直史はこの日、やはり埼玉は面倒な相手だな、と実感した。

 パ・リーグの成績はあまり首位から最下位まで差がないのだが、それでも埼玉は下位にいる。

 しかし直史の感覚としては、出塁への意識が強い。

 下位打線にヒットを打たれたというのが、その証明と言えるだろうか。

 ただ直史の場合、ヒットはクリーンヒットは少ない。

 バットに当たれば何かが起こる、という野球の格言は嘘ではない。


 三回の裏に、レックスはヒットから進塁打にまたタイムリーで、追加点を得る。

 着実に点を取っていくが、守備のミスが少ないな、と直史は埼玉の様子を観察していた。

 考えてみれば足の速い、あるいは走塁の判断の早い選手というのは、それだけ打球に対する反応も早いのだろう。

 よって埼玉のやっている野球というのは、プレイの効率が最適化されつつある野球ということになる。 

 攻撃も走塁を意識していることから、これはスモールベースボールではないのか。

 直史はスモールベースボールが嫌いではない。

 だが相手にやられるのは嫌いであった。




 日本の野球はアマチュアの間、特に高校野球までは、スモールベースボールがかなりの割合である。

 守備に穴のある選手は使わない、というのがアマチュアのトーナメントでは多い。

 一度のエラーから、点を取られてしまったらどうなのか、と考えて守備をまず固める野球は、いまだに主流ではある。

 なぜなら守備を良くする方が、パワーをつけるよりは確実に時間がかからないからだ。


 果たして守備力の欠点を抱えてまで、バッティングの良さを許容するのか。

 これがMLBやパ・リーグであったりすると、DHがあるため走塁はともかく、守備がまずくてもいいという考えが通用する。

 実際のところ飛ばすことが出来るのは、センスであることが多い。

 守備は後から見に付けさせればいいのだ。


 アマチュアでも攻撃に比重をかけてもいい。

 ただ飛ばすのにはパワーと重さが必ず必要になる。

 大介のような、瞬発力の化物のような人間も、確かにいないわけではない。

 だが白富東においても、打撃力のないショートが守っていたという例も後には出ている。

 あと、キャッチャーのまずいチームは、高確率で崩壊する。




 直史は必ずしも、優れたキャッチャーとばかり組んだわけではない。

 普通に紅白戦などでは、ちょっとリードやキャッチングに問題のあるキャッチャーと組んだこともある。

 ただ日本の場合、本当にキャッチャーにはアメリカよりも時間をかけて教育を行う。

 高卒のキャッチャーがすぐにプロで活躍する例というのは、かなり希少なのだ。


 迫水のキャッチャーとしての能力は、直史がこれまで組んできた、超一流のキャッチャーと比べたなら、さすがに下である。

 ただ純粋にパスボールをせずボールを体で前に落とすことと、盗塁を刺す肩の強さは、充分に優れていると思う。

 リードなどというのは極端に言えば、ベンチからの指示で出せばいいのだ。

 MLBなどはベンチからの指示か、あるいはピッチャーが主体となって組み立てている。

 なのでキャッチャーが独り立ちするのは早い、というのはデータだけを見ても確かである。


 埼玉を相手にした場合は、この肩の強さというのが、けっこう重要になったりした。

 とりあえずヒットを打った後、キャッチャー前にセーフティバントなどという小技も使ってきたからである。

 直史はゴールデングラブ賞やゴールドグラブ賞を、毎年のように取っていたフィールディングも優れた選手。

 なのでバント戦法はキャチャーかピッチャー、どちらが処理するか微妙な場面で、迫水も処理してくれたなら、守備負担が減って楽になる。


 困るのは中間地点に小フライが落ちることぐらいだが、そういうフライは着地してからキャッチしてもアウトになる。

 肘の故障から学んだ直史であるが、結局その肘は現在、元気に動いてくれている。

 それでもこの日は、比較的ヒットを打たれた日となった。

 ただ塁に出したランナーは、内野ゴロで二塁アウト。

 ダブルプレイまでは取れなくても、得点圏には進ませない。




 ちょっとしんどい展開だな、と直史は思っている。

 ヒットを打たれた結果、球数がその分多くなっているのだ。

 ただ埼玉の打線は、待球策までは取ってこない。

 なので内野ゴロや内野フライで、少ない球数でのアウトは取れているはずだ。


 この疲労の原因を、直史は考えてみる。

 それはやはり、ヒットを打たれて走れるランナーを、背負った状態でピッチングするからだろう。

 精神的な疲労を少なくするには、最初からランナーを出さなければいい。

 それは分かっていても、普通は出来ないことであるのだ。

 直史は意識して、一人のランナーも出さないようにしている。

 だがそれよりは、失点しないことの方が重要だ。


 ピッチングというものは、先に苦労をしておいた方が、後が楽になるものである。

 変に適当に投げてランナーを出せば、そのランナーがプレッシャーになるからだ。

 極端な話、ピッチャーは全ての試合で、パーフェクトを目指すべきである。

 普通のピッチャーが言ったら頭がおかしいと思われるだろうし、直史としても普通には言わないが。

 これをさらに発展させると、アウトは全て三振で奪うのが望ましく、さらに無駄球を投げないのが望ましいともなる。

 試合の勝敗だけを考えるならそうかもしれないが、勤続疲労のことを考えれば、どこかで妥協のポイントは作らないといけない。


 ヒットは少し打たれてでも、一人に一球か二球だけで済ませるなら、そちらの方がいい。

 長打になる可能性の高いフライ性のボールよりも、ゴロを打たせる方がいい。

 内野の間を抜いていったボールが、外野の間まで抜いていくということはまずない。

 ゴロを処理する方がエラーの過程は多くなるが、長打にはなりにくいのだ。




 こんなことを考えているピッチャーと、対決するだけ相手は大変だった、というべきであろうか。

 奪三振を肯定している直史であるし、今はストレートで三振を奪うことを増やしている。

 それなのにコンビネーションを使っていた昔の方が、奪三振率は高い。

 MLB時代もフルスイング上等のバッターが相手だったのに、奪三振率は低下している。

 このあたり、理論と現実の間に、差があると言っていいだろう。


 埼玉は間違いなく健闘した。

 直史から四本のヒットを打ったというのは、八回で降板した広島戦と並び、今季に入ってから二番目に多いヒット数である。

 だが結局のところ、重要であるのはフォアボールを一個も出さないということであろう。

 フォアボールを出すことを恐れていては、ピッチングのコンビネーションの幅は小さなものになってしまう。

 直史のようにスピードのないピッチャーは、コンビネーションでアウトを積んでいくしかないのだ。


 実際に直史は、投げた球数以上に疲労した。

 九回完封で、97球。

 しかしながら奪った三振は、完投した中では最少の七つだけ。

 打線も合計で四点も取ってくれたので、その部分でも楽には感じた。

 だがそれでも、埼玉の打線は厄介だと感じたのである。


 これを明日、今季二度目の先発となる、百目鬼が明日は投げるのか。

 おそらく敗北するか、早い段階で交代するしかないだろうな、と直史は感じた。

 百目鬼に不足しているのは、何よりもまず経験である。

 二軍でそれなりに投げたといっても、一軍の先発で投げるというのは、全く違う者であるのだから。




 九回完封で、今季九勝目。

 もちろんハーラーダービーのトップである。

 この調子で投げていくなら、おそらく22勝ぐらいには届くのだろうか。

 試合後のコメントを求めるマスコミも、直史のところに殺到する。

 しかし直史はこの時、激烈に眠たかった。

 ランナーが出たところで相手の機動力まで計算すると、普段とは違う脳の部分を使ったのかもしれない。


 直史は確かに疲労していた。

 なので今日の試合は、本当に疲れたとした答えようがない。

 塩対応というのが基本の直史であるが、普段はもう少し愛想がいいというか、しっかりと対応する。

 だが余裕がないと、こういうこともあるのだ。

 完封勝ちしたのにも関わらず塩対応。

 負けた時には塩対応になるピッチャーというのは、確かにいるものであるのだが。


 明日の百目鬼戦に、少しアドバイスはするべきかな、などとも考えた。

 だがとりあえずはシャワーを浴びて、トレーナーにマッサージをしてもらいたい。

 眠気は本当にあるので、やはり情報の少ない相手とは、戦うのはしんどい。

 昔は平気であったものだが、やはりこれは年齢による体力の低下が原因であろう。


 交流戦は残り、福岡との試合を待つだけ。

 ただこの福岡戦は、アウェイでの試合となる。

 東京から福岡まで、野球の試合に一試合投げるだけのために行く。

 ひど冷静に考えてしまえば、なんとも奇妙な話ではないだろうか。

 そんな球に醒めた思考をしても、やらなければいけないことは何も変わらないのだが。




 こういう時は本当に、自分で運転などしなくていいな、と思う直史である。

 タクシーを雇っておくというのは、確かに金はかかることだ。

 しかし試合に対する自分のパフォーマンスを、より高いものにする。

 そのためにはこういったことに、投資をしておくべきなのだろう。

 試合や練習の時にしか、このタクシーは使わない。

 従って全てが自営業者の経費となるのだ。

 直史の今年の年俸は、球界最低の1600万なのである。

 そこから500万をタクシーの年間貸し出しとすると、あとちょっと経費を使えば、税率が安くなる。

 これは弁護士時代に仕入れた税の知識である。


 前日に登板し、しかも完投した先発は、翌日は上がりの日であって、ベンチに入ることはない。 

 ただ何も練習しないというわけでもなく、重要なのはほどほどに体を動かし、疲れを取っておくことである。

 これが本気で投げた後であったりすると、もう何も動きたくなくなってしまったりもするのだが。

 今日の直史の仕事は、百目鬼へのアドバイスである。

 埼玉のやってくる野球がどういうものか、おおよそは分かるのだから。


「細かい攻撃をしてくることは間違いない」

 百目鬼の経歴からしても、一軍のベンチに本格的に入ったのは今年からで、先発として投げたのはこの間が初めて。

 それで勝ち星がついたのは、実はけっこうたいしたことなのだ。

 ただ東北と比べても、埼玉は明らかに機動力を使ってくる。

 もちろん打線が貧弱、というわけでもない。


 ここでしっかりと勝つことが出来たら、もちろんそれは望ましいことである。

 だが重要なのは、試合を壊さないようにすること。

 序盤で大崩れなどして、リリーフ陣を大量に投入することになると、それだけで投手のやり繰りが大変になる。

 具体的には豊田が疲れるし、下手をするとリリーフがどこかで故障するかもしれない。

 ビハインド展開や敗戦処理も、それはそれで必要とされる仕事なのだ。




 百目鬼は今年が20歳のシーズンで、直史にとってはほとんど息子に近い年齢だ。

 ただ20歳の時、直史はプロで飯を食っていなかった。

 直史がNPBの二年間で伝説を作っていた頃、百目鬼はようやく小学校に入った頃。

 具体的にその大活躍が伝えられたのが小学校時代で、中学校の頃にはもう引退直前であったということだ。

(俺も年を取ったんだなあ)

 若手の成長株を見ると、本当にそう思う。


 直史はうんと年下の選手に対しても、俺の若い頃は、などという上から目線では話さない。

 基本的に直史は、プロ野球選手としては七年しか働いていないからだ。

 ただそれでも、技術的な指導はいくらでも出来る。

 一番重要なのは、メンタルコントロールだと思っているが。

「本当に困ったら、もうど真ん中に投げるだけでもいいぞ。意外と失点しないから」

 ほとんど失点しない人間がそう言っても、冗談なのか本気なのか分かりにくい。


 ともあれしっかりと、百目鬼はミーティングを受けて、三連戦の最終戦に向かう。

 プロのピッチャーであればよほどの例外を除いては、先発ローテで投げることを目指すものなのだ。

 なんだかんだ言ってもリリーフよりは、年俸の高くなる傾向があるのが、先発なのである。

 それに中継ぎのピッチャーは、本当に選手生命が短い場合が多い。

 今後のプロとしてのキャリアのためにも、今年一年をどう過ごすかが、百目鬼には重要になってくる。

 ただそれを言葉で説明しても、分からないのだろうなと直史は理解していた。

 直史がそういったことを正しく理解していたのは、俯瞰的に物事をみていたからである。




 戦争においてもっとも必要なものは何か。

 これは時代や、その規模によって答えは変わってくる。

 ただほとんどの場合、機動力は重要視される。

 それは戦闘であって戦争ではないと言う者もいるかもしれないが、戦力を素早く移動させるということは、やはり重要なことは間違いない。

 ちなみに兵站というのは無意識に排除されていたりする場合が多い。

 あの孫子にも、兵糧揃えるの大変だから敵地で略奪した方がいいよ、などという意味のことが書いてあったりする。

 閑話休題。


 過去のデータから判断して、レックスが日本一になるために必要なのは、新しい戦力であると思われている。

 実際のところ直史が加わった時点で、優勝争いが出来るようになったと思った者は、ほとんどいなかった。

 ただ新しい若手が急に台頭し、それを支えるベテランがいれば、急激な化学作用が起こるかもしれないとは、だいたいどのチームも思っている。

 少ない事例ではあるが、なかったわけではないのだ。


 社会人の同じチームから、下位指名で入った迫水と左右田。この二人が既にほぼスタメンの活躍をしているというのが、嬉しい誤算である。

 故障者が出ての交代であるが、キャッチャーとショートいうなかなか替えの利かないポジション。

 それが両方ともそれなりに打てるバッターでもあるというのが、攻撃においては大きな加算。

 直史安定して無敵を誇っており、また他の若手が出てきた。


 エースはシーズン序盤こそややもたついたものの、今は五勝二敗と安定した成績となってきている。

 主力のFAまでの日数や外国人の安定などを考えると、今季で日本一を狙えるかもしれない。

 それは甘い考えだな、と直史なら悲観的に否定するだろう。

 否定しておきながら、その低い確率を引き寄せるのだろうが。




 さて、埼玉との第三戦である。

 ここで勝ち越せれば嬉しいのだが、そう甘くもいかない。

 機動力を使うという埼玉の攻撃は、分かっていても対処は難しい。

 何かに気を付ければいいというものではなく、とにかく経験や慣れというものが必要なのだ。

 百目鬼も日本の高校野球を経験しているのだから、様々なタイプのチームと対戦してはいるだろう。

 単純に臨機応変ということなら、高校野球の方がむしろ、対決は一期一会になることが多い。

 しかしそういった理屈を超えたところにあるのが、プロのレベルである。


 ホームゲームなので、相手の先攻となる。

 この初回の入り方が本当に難しい。

 実際にマウンドで投げてみないと、その日の自分の調子など、ピッチャー自身でさえ分からないのだ。

 この日の百目鬼は、やや球が浮いていた。

 浮いているなら浮いているで、それを利用すればいいだけの話。

 そう開き直って考えられるほど、百目鬼はコントロールが良くない。


 一番二番と、外野フライを飛ばされる。

 これは今日は忙しくなるかなと、ブルペンの豊田は早くも予測した。

 三番打者に打たれたボールは、これまた外野ではあったがファールグラウンド。

 外野フライ三つというのは、あまりいい入り方ではない。


 直史がベンチにでもいれば、なんとアドバイスしただろうか。

 むしろ百目鬼ではなく、迫水に話したかもしれない。

 球が浮くなら浮くで、ボール球を主体にすればいい。

 百目鬼の球速は、直史よりもずっと速いからだ。

 もっとも球速では上回っていても、それ以外の多くの部分が平凡だ。




 内野ゴロ三つであるなら、それはいい調子と思える。

 だが外野フライ三つだと、かなりミートされているのに近い。

 ヒットにならなかったのは、ラッキーであると言っていいだろう。

 ちなみに直史は、この試合をリアルタイムでは見ていなかった。

 次の遠征が神戸から福岡となるので、そちらに合わせて調整していたからである。


 ミーティングには参加してアドバイスもしたのだから、それで自分の仕事は終了。

 もし負けたとしても高卒二年目のピッチャーが、それで見限られるはずもない。

 千葉のマンションに戻って、久しぶりに家族との時間を作る。

 この時期は真琴が中学最後の大会に向けていた時期であり、また思春期を迎えて面倒になっている。

 こんな時期に野球などやってる場合じゃないぞ、と思わないでもないのだが。


 ただフライと言うのは当たり次第では、やはりアウトになりやすいのだ。

 ライナー成分の多いフライであると、外野手が追いつかない。

 しかし高く上がったフライは、ホームランにならない限り外野が追いつく。

 なので意外と、ヒット連打とはならなかったのだ。


 三回までを無失点に抑えた百目鬼は、首脳陣をはらはらさせてはいた。 

 しかし野球は確率のスポーツであるので、こうやって相手を抑えられることも出来る場合がある。

 本人が調子に乗ったら問題だが、さすがにこれで百目鬼がいい顔をするはずもない。

 ストレートで三振が取れていないので、連打は浴びなくてもいい気分にはならないのである。

 これで勝てたら運がいいものだな、と言えるような展開であり、本人の表情も勝ってはいるが、苦いものであった。




「娘が反抗期になってきた父親の顔がこれです」

「それも仕方がないかな、と思っている母親の顔がこれです」

 佐藤家には今、それなりの問題が持ち上がっている。

 長男の病気についてはもちろんだが、それのとばっちりと言うか、我慢をさせられてる長女が、やや反抗期に突入しているのである。

 もっとも他の家の問題と比べるなら、ささいなものだと思われるかもしれない。

 ただどんだけささいなものであっても、当事者たちには重大であることは間違いないのだ。


 ここに加えて、次男の育児の問題もある。

 ただこのあたり佐藤家の夫婦は、育児や家事を外注することに躊躇いはなかった。

 高給取りの人間にとっては、金でどうにかできるものなら、してしまうのが正義であるのだ。

 また瑞希の母が、それなりに面倒を見てくれている、ということもある。


 佐藤家の次男坊は、生まれた時から死にかけていた長女や、おとなしかった長男に比べて、とても活発である。

 その育児が大変である、というのは間違いではない。

 直史が現在、長男のために全力を野球に注いでいるので、瑞希の負担は大きくなる。

 今までの子供たちの手のかかりようとは、全く別物であったのだ。

 働き方改革というわけでもないが、瑞希は仕事に自由裁量を入れている。

 下手に弁護士として活動するより、文筆業に手間をかける方が、金になるのは皮肉であろう。




 直史は直史で、普通に家族で過ごせないのが、そのまま不満であった。

 このように先発翌日の上がりと、休日が上手く重なっていれば別であるのだが。

 ただこの二人はお互いに理性的であろうとし、それでも理性的でいられないのが人間だと、深く理解していた。

 なので喧嘩に発展するようなことはないのだが。


 子供たちが眠った後でも、色っぽい雰囲気にはならない。

 ここでは子供の未来をつかむために必死の男が一人と、それを全力でサポートしようとする伴侶がいるだけである。

「パーフェクトは難しいわね」

 直史の出したデータを見て、そう判断できるのが瑞希である。

「惜しかったように見える試合でも、実際はもう少しヒットが出てもおかしくなかった」

 直史もそう判断している。


 埼玉との試合で直史は、四本のヒットを打たれている。

 大きな外野フライというのはともかく、内野の間を抜けていったものはどうしようもない。

 全ての打球を分析してみれば、他にもほんのわずかな差によって、ヒットにならなかっただけの打球も多い。

 これを直史は楽観視したりはしない。

 データ上ではもっとヒットになっていてもおかしくない。

 もちろんこれは直史だけではなく、他の多くのピッチャーにも言えることなのだが。


 奪三振の数がもっと増えなければ厳しい。

 それが直史の判断であるが、あまりストレートに力を注ぎすぎると、今度は肘への負担が大きくなる。

 壊れてしまっては全てが水の泡となる。

 その前提だけは、しっかりと違えないようにしなければいけない。

「やっぱりムービング系が」

「そうなんだがな」

 ツーシームとカットボールが、どうしてもほしい。

 本当ならばスルーが使えれば、それも必要なくなるのだが。


 NPBとMLBのボールの違い。

 ボールの縫い目の高さの違いが、直史のボールを安定させてしまっている。

 今のNPBのボールを使うなら、何かもっと新しい、球種かコンビネーションを生み出せるかもしれない。

 ただ二人ともそれは、さすがに手に余る仕事である。

 レックスの分析班の力をもってしても、それは不可能だ。

 だが可能そうな人物に、二人は心当たりがある。

「連絡を取ってみるか」

 今はアメリカにいるセイバーだが、彼女は彼女でMLBからは、手を引こうとしていたりする。




 本当に金に困っていない人間は、自分のしたい仕事をする。

 ワールドチャンピオンのチームを経営して常勝軍団を作るという仕事は、既に完成してしまっていた。

 彼女にとって野球というのは、もっと属人的なことだと思えている。

 それはもう二度と現れないような、スーパースターと同時代を生きてしまったがゆえの不幸とでも言おうか。

 栄光を、本当の栄光を体験してしまった者は、もうそれいかの体験では満足できない。


 そんなセイバーはメトロズのオーナー権の、売却を考えている。

 ワールドチャンピオンや、ワールドシリーズを何度も経験し、メトロズの球団としての価値は、かつてなく高いものとなっていた。

 つまり純粋にビジネス的に見れば、手放すのは今がチャンスなのである。

(ラッキーズもまだ面白いけど)

 武史はまだ主力級の働きをしている。

 それでもサイ・ヤング賞の争いをするのは、難しくなってきた。


 直史と大介のいる、NPBの方が面白い。

 セイバーはそう思ってしまう自分を感じていたし、実際に日本のNPBは注目度が上がっている。

 ロートルと思われていた直史が、立派に活躍していることで、その注目度はさらに上がってきているのだ。

(日本に帰ろうかな)

 アメリカはアメリカで、窮屈な国ではある。

 もちろん金さえあれば、過ごしやすい国であるというのも確かだが。

 しかし単に生きていくなら、世界中のどこにでも場所はある。

 セイバーはそんなことを考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る