第3話

「ちょっと、お母さん。聞いてよ!」

 高校生の長女がいつになく騒いでいる。大変、珍しい。もちろん、年頃の娘だから浮足立って話し声がついつい大きくなることはある。

「ほああ、どうちた?」

 いつもは穏やかな語り口調の姉の異変に、年の離れた弟が驚く。

「うー、眼鏡に指紋つけられた!」

 姉は地団駄を踏んでいる。

「前から疑問に思っていたのだけど、それって、そんなに腹立たしいことなの?」

 生まれてこの方、裸眼で通してきた父が平然と尋ねる。

「バカ」

 さすが母と娘。見事なハモリだ。ひとり、哀しみに暮れていると、誰かの腹の虫が鳴いた。

「ねえ、さっさとごはん作ってくれない? お腹、空いたんですけど」

 妻の機嫌が悪いのは、空腹だからか。納得して、頷く。すぐ横には、気を抜くと踏み潰してしまいそうな息子がいる。

「手伝いにきてくれたの?」と頭をなでてやる。猫の仔みたいな笑顔で見上げてくる。胸が温かくなり、しゃがみこんで抱きしめる。

「お父さん、ごはん! なんで料理中に息子を愛でているの? ホント、男の人って、意味わかんない」

 ダイニングテーブルの天板に上体を預けて文句を言っている。そこで、はて? と首を傾げる。

日示理ひじりちゃんとほあらは、この家に料理を作る人がいなくなったらどうするのかな?」

 ほあらが今にも泣き出しそうな顔をする。

「ひどい。お父さんはもう愛する家族のためにごはんを作ってくれないのね。お母さん、こんな人とは離婚だよ」

 顔面蒼白なのは、妻も一緒だった。

「え、本当に考えようかな…」「ちょっと、嘘でしょ?」

 大声を上げたのに驚いて、小さい子が泣き出す。見かねた姉が弟を抱き寄せる。

「おいで、太助たすけ。これからは、美人なお母さんとかわいいお姉ちゃんと暮らすのよ。だから、もうあんな大声で怒鳴りつけるような野蛮な人に怯えないで済むの」

 もちろん、太助は何のことやらと理解はしていない。だからと言って、このままではいけない。唾を飲み込む。

「はい。今日の晩御飯がいらないという人は手を上げて下さい」

 言われて、騒いでいた妻と娘が息をのむ。

計人けいとくんが言ったのに…」「あ、お母さん!」

 やっちまった。頭の回転が速い娘の引き留めも虚しく、妻は大粒の涙を流して部屋から出ていってしまった。

「ええと…。この場合、ごはんを作るのと日示理ちゃんを追いかけるのと、どっちが先かな?」

 そこで、娘ににらまれる。つかつかと歩み寄って、静かに言い放つ。

「殴っていい?」

 甘んじて了承した。痛かった。

「私は料理できないから、お父さんは太助とごはん作っていて」

 眉間にしわを寄せた娘は恐ろしい。職場である研究所にもあれほどの威圧感を持ち合わせている人間はそうそういない。その娘がいなくなったのを確認して溜息を吐く。

「うまくいかないなあ。僕は日示理ちゃんが大好きなのに」

 妻は、世間では「生まれながらのアーティスト」と呼ばれている。それは、厳然たる事実で、彼女の名前が日示理であるくらい自明なことである。そもそも彼女はどうしてもアーティストになりたくてなったのではない。きっと生を受けた瞬間から、そうなることを宿命づけられていたのだ。

 僕は子供の頃から、彼女のことが大好きだった。だからこそ、彼女を傷つける全てが許せなかった。どうして不得手なことばかりを責めるのだろうと腹立たしかった。いつか力を得たら、彼女の素晴らしさを世に知らしめることが夢になっていた。

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