第2話
言いながらほあらは、スカートのポケットを探っている。出てきたのは、単語カードだった。女の子らしい丁寧な字が記されている。
「私はもう覚えたからあげよっか?」
せっかくだからと、そろそろと受け取る。成績アップの後利益があるに違いない。
「僕は今、非常に驚いている」
「あいむ・そー・さぷらいずど・じゃすと・なう。何に?」
僕は素直に打ち明けた。単語カードを前時代的な昭和の遺物だとバカにしていたこと。ましてや単語カードが現在に実存しているだなんて夢にも思わなかった。名称こそ「英単語テスト」と軽やかな響きではあるが、実際には、大変な量の範囲である英単語が全て書かれてあること。何よりもまだ週の半ばであるのに、来週のテスト分をすでに道草さんが覚えたと言いきっていることなどだ。
「単語カードは、本屋さんや文房具屋さんで普通に売っているよ。むしろ困るのは、単語カードがカードとリングでセットになって売られていることだよ。リングだけってのを探すと、これがなかなか無いんだ。それと英単語なんて自主的に勉強しないといけない最たるものだよ。先生との面談で進めておきなさいねって言われるでしょう」
顔を手で覆い、うなだれる。
「まるで、普段から勉強している人の発言みたいだ。とても屋外で細長い野菜をむさぼっている女子の発言には思えない。ましてやコアラに似た名前なのに!」
きゅうりを一切れ食べ終わったところで、こちらに顔を向ける。
「あのね、
お母さんみたいなことを言うものだと、顔をしかめる。
「ただ、自分の勉強法が確立していれば、無駄が省ける。そして、残念ながらその勉強法は万人に共通するものではないの。努力もしないくせに、何が最適かだなんてわかりはしないのよ。それから、私の名前がコアラに似ていることは潔く認める。本当のところは、母が成しえなかった『ほんわか、朗らか、穏やか』な人生を送ってほしいというところだけど」
半透明の箱の中には、色とりどりの棒が行儀よく並んでいる。緩んだ表情を見て、
「道草さんのお母さんってどんな人?」
「生まれながらのアーティスト」
聞き覚えがあるフレーズに、前に向き直る。座ったまま、伸びをする。
「天才少女の母親は、芸術界の天才だったか。なんだか納得できたよ」
まぶたを閉じる。深い、静かな海を想った。道草ほあらの母親は、世界に名の知れたアーティストだ。その証拠に、芸術とは程遠いところにいる僕ですら知っているほどだ。
「お父さんのいいところ。お母さんのいいところ。それだけを表に出して生きていきなさいって。そんなの無理に決まっているのに。だって、嫌なところも全部含めてひとりなのに。私の大好きなお父さんとお母さんなのに」
道草ほあらは、確かに望まれて生まれた子供だ。
「でも、親の願望を一方的に押し付けるのって、本当に勝手だ。別に、こっちは生まれたくて生まれてきたわけでもないのに」
こら! と耳を引っ張られる。
「だからだよ。到底、叶いっこない目標があるからこそ、人はどうにか生きられる。親への恨みは、自分の子供で晴らせばいい。真に伝達すべきなのは、永遠の嫌悪だよ。息切れしないためには、どうしたって工夫を凝らさなくてはならない」
まばたきの仕方を忘れてしまった。目が痛んで、無理にまぶたを閉じる。何故か、涙がこぼれる。
「え? それ、何? 何の涙なの?」
うるさいので、眼鏡を奪う。ついでに、べっとりと指紋をつけてやる。長くはない人生数回目の「最低」とのお言葉を頂戴する。
「畜生め。勉強ができるやつは、考え方もスマートだ」
青空を仰いだ。頬に受けた生傷が、冷たい風によくしみた。
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