風待ち

 手持ち無沙汰だ。

 ああ、それはもう手持ち無沙汰だった。


 ここ数日でヴィダーユの寝不足は一気に解消されていたが、さすがにもうこれ以上は寝られそうもない。


 そんな訳で、せっかくだから街中の観光でもしようと宿を出ようとしたところ、受付にいた従業員のパラスに捕まり「何考えてるんですか、まだ駄目ですよ!!」と部屋に追い返されてしまった。


 仕方がないので、都から唯一持ってきた魔術書を寝台で読んでいると、「そんなもの読んでたら気が休まらないだろ」とニカに取り上げられ、それならと術式の思考実験をしながらノートを書いていたらやっぱり取り上げられ、なんならこれ以上余計な動きをしないようにと旅行鞄ごと強奪され、仕方がないのでよれたシーツを綺麗に整えていたら終いにはキレられた。


「お前、病人の自覚ある!?」


「だってやることがないと落ち着かないんだ。なにか手伝うことないか?もう寝不足は解消したから元気になったし」


 ヴィダーユは必死でそう訴えたが、


「だって、じゃないだろ!?お前もう、それは別の病気じゃないか!わかってるのか!?過労で倒れたんだぞ!なんで大人しく休めないんだ!!」


「それが仕事中毒の、中毒たる所以ゆえんなんでしょうね」


 ニカの怒鳴り声に様子を見にきたらしいパラスが、やれやれという表情を浮かべてそう呟いた。


 業を煮やしたニカは、とうとうヴィダーユの腕を掴んで寝台の中に強制的に押し込み、あと三日は部屋の中で休め、トイレと食事以外は絶対に何もするなと厳命した。完全に据わった目をした彼は、「次に勝手になにかしようとしているのを見つけたら、宿の従業員たちにお前の幼少期からの弱みを一つずつバラしていく」と、ご丁寧に脅迫してから去っていく。


 あまりにも怒っていたために、お前それは諸刃の剣だろう、などという軽口は叩けなかった。ニカがヴィダの弱みを知っているのと同じように、ヴィダもニカの弱みを知っている。伊達だてに長年友人をやっていたわけではない。


「……あーあ……」


 あらゆる動きを封じられたヴィダーユは、ため息をついて天井を見上げるしかなかった。無駄に動きたくなる理由は、なんとなくわかっている。たぶん、空白が怖いのだ。余計なことを考えてしまいそうになるから。


 仕方がないので、ヴィダーユは天井板を数えることにした。口に出して数えているところを発見されて、排気口に挟まって抜けなくなった話とか、幽霊屋敷で大泣きした話とか、誤って学校の創立者の銅像の首を吹っ飛ばしてしまった話とか、うっかり図書館の書棚をドミノ倒しして逃げた話などをされると困るため、あくまで心の中でだ。


 ——————天井板が一枚、天井板が二枚、天井板が三枚……


 淡々とした繰り返しは、眠気を誘う。数えること何周目かに差し掛かったあたりでだんだん数があやふやになっていき、ヴィダーユはようやく眠りに落ちる。ただ残念なことに、また面白さの欠片もない夢をみる羽目になった。いや夢というよりは、記憶の再生に近いかもしれない。


 ヴィダーユは都の薄暗くて埃っぽい空気のこもった古書室で、延々と資料探しをしていた。古い時代にかけられた守りの術のほころびが、このところ多くなってきていたからだ。早急に対処しなくては、都の人々の安全が危うくなる。そんなこんなでヴィダーユが古い時代の魔術が記されたもろい羊皮紙を気をつけて扱っていると、ひそひそとした囁きが聞こえてきた。


「三十にもならないうちに室長だって?分不相応だろ。大した功績もないくせに」


「局長に気に入られてるからでしょうね。実力よりもおべっかが大事なんですよ、ここは」


「陰気な見た目通り、汚いこと色々やってるみたいじゃないか。ロスさんが左遷になったのも、あいつの差し金だったって聞いたよ」


「ほんと、世の中腐ってるよなぁ」


「……」


 ヴィダーユはあまり口が回る方ではないし、特にご機嫌取りなどした覚えはない。左遷については、言いがかりをつけてきた相手のほとんど自爆だ。ただ、噂する者にとっては真偽などどうでもよく、とにかく誰かをこき下ろしてささやかに鬱憤うっぷんが晴らせればそれでいいのだろう。


 ——————業務時間に仕事もせずに、生産性の欠片もない話に興じている自分たちは、腐ってないとでも言うつもりなのか……?馬鹿馬鹿しい……いっそひそひそせず正面から言え、と言ってやろうか……


 そう歯噛みしていたところで「ヴィダ、おーい、ヴィダーユ」と、ニカに揺り起こされて我に返り、ようやく夢を見ていたことに気づく。


「なんかうなされてたけど、大丈夫か?」


 彼はそう言いながら、ヴィダーユに昼食のお盆を差し出した。野菜がたっぷり入った温かいスープと、肉の燻製とチーズが挟まったサンドだ。もうひとつお盆を持ってきたところからして、今日はニカもここで一緒に食べる余裕があるらしい。


「……ああ、都にいた頃の夢だ。もう辞めたというのに……これじゃ仕事中毒と言われても否定できないな」


 サンドにかじりついたニカの空色の目が、うかがうようにこちらを見ていた。


「……どんな夢だったんだ?」


「別に大したものじゃない。古い術のほころびを直すために、古書室で資料を探していた。記録の保全のために、窓を閉め切って厚いカーテンをひいてるものだから埃っぽくて、その上古い時代の対インク劣化薬の独特なにおいがする部屋でな……まぁ都の術師連の建物はどこも古いから、薄暗かったりして似たり寄ったりの雰囲気ではあったんだが」


「じゃあお前、四六時中そんな空気のこもったところにいたのか?よくそんな環境で二十年近くもったな」


 眉根を寄せたニカが、どこか呆れを滲ませて呟く。


「……そんな環境でって……なんでだ?」


「なんでって……ヴィダ、昔から風通しがいい空間が好きだったじゃないか。まぁ本が好きだから図書館は別だったんだろうけど……それでも借りられる本は、外に持ち出して読んでることが多かっただろ?」


「……そう言われてみれば、そうだったか」


「俺を待っている時は、わざわざいい風が吹いてくるところに陣取って待ってるくらいだったのに……そんなことも忘れたのか?夏なんかは風がよく通る涼しいところに連れていってくれて、ありがたかったのに」


 ニカは懐かしそうにそう笑う。


「……そう、だったか?」


 膨大な量の都の記憶に押しやられているのか、いまいち自分では思い出せない。


「そうだよ。だからお前の部屋はここにしたんだ。窓が二つあるし、この宿の中でも特に風の入りがいい位置だからな。最近はだいぶ暖かくなってきたから、その方が気持ち良く過ごせるだろうと思って……まぁヴィダが来たあの日だけは、冬の名残で妙に冷え込んでたんだけど」


 この隊商都市バランティは、都からそこそこ南下した位置にあった。よって季節のめぐりがいくらか早いのだろう。確かに今日は、数日前とは比べものにならないほど爽やかな陽気だ。


「よし、ちゃんと全部食べたな。じゃあ俺は仕事に戻るから、もうひと眠りしろよ」


 ヴィダーユは回収されそうになったお盆を慌てて引き留める。


「もうそれくらい自分で運べる」


 しかしニカはひょいとそれを取り上げて笑った。


「どさくさに紛れて動こうとしても駄目。ほら、昔お前に教えてもらって一緒にやっただろ。風待ち。バインター先生の課題とかで煮詰まった時に、寝っ転がってさ。暇なら横になってそれをしてろよ。明日と明後日おとなしくしていたら、庭に出ることを許可するから」


 彼はそう言いながら二つの窓を開け、食器を重ねて部屋から出ていく。


 ——————風待ちって……なんだったか……


 取り残されたヴィダーユはしばらく考え、それからようやく思い出した。


 風待ちとは、要するに理由づけだ。何かに煮詰まった時に一旦それから離れ、寝転がって次に風が吹いてくるのをただただ待つ。


 ——————よく覚えているなぁ、ニカのやつ……私自身はすっかり忘れてたのに……


 そんなことを考えながらぼんやりしていると、ふいにレースのカーテンがふわりと持ち上がる。吹き込んできた少しひんやりとした風が、肌を心地良く撫でた。しゃらしゃらしゃらしゃらと木の梢が揺れ、髪が肌の上を滑り、すぅと空気が流れてゆく。


「……」


 今日の風は柔らかかった。ふぅわりと薄いカーテンを揺らしては、優しく部屋に入り、ゆるりと抜けていく。


 目を閉じて吹かれているうちに、ヴィダーユはふいに思い出した。まだニカと生まれ故郷で過ごしていた頃、髪を今より長めにしていたのも、締め付けの少ないゆるりとした服を好んでいたのも、より風を感じやすいからではなかったか。


「……」


 ——————他人からみたら取るに足りないことでも、自分にとってはとても意味があったことを……私はずいぶんと忘れているのかもしれない……


 ニカに言われるまで、風を好んでいたことなどまるで思い出せなかったくらいだ。都に上がって以来、余裕がないあまりに、我知らずに自分の感覚や心地よさを感じるものを脇に追いやってしまっていたのかもしれなかった。


 ——————もしかしたら……私がまず見るべきだったのは、社会への不満でも他者の不条理でもなくて……自分が何をどう感じるのかということだったのかもしれないなぁ……


 そんなことを頭の片隅で思いながらうとうとして、ヴィダーユの午後は微睡まどろみの中でゆったりと過ぎていった。

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