終わりと始まり②

 熱が高かったせいだろうか。

 何やら恨めしげな囁きを繰り返す、怨霊の夢を何度も見た。


「……ゆるすまじ……ゆるすまじ……えいよう、すいみん、ふそく……きわめてふそく……やせすぎ……きょくどのせいしんふか……かろう……しんじがたい……ふけんこう……ゆるすまじ……ゆるすまじ……」


 亡霊の低いボソボソとした嘆きをお供に夢現ゆめうつつを二日ほど彷徨さまよい、ヴィダーユがようやくまともにものが考えられるようになったのは、このバランティの町に来て三日目の昼頃だった。まだ少し怠さは残っていたが、熱や汗と共に身体の中によどんでいたものが出ていったのか、気分は不思議とすっきりしている。


 目を覚ましたヴィダーユに、昔と変わらない金の癖毛を揺らしたニカが、食事を運んできてくれた。湯気を立てる木椀を渡して丸椅子に腰を下ろした彼は、渋い顔をこしらえてこちらを見ている。


「都の生活環境は一体全体どうなってるんだって、先生めちゃくちゃ怒ってたぞ」


 どうもあの憂鬱そうな囁きは怨霊などではなく、往診に来てくれた医師か何かの呟きだったらしい。


「……いやその、都というよりは……たぶん私自身の問題というか……ちょっとまぁ、術士連のごたごたに巻き込まれて、色々あって余裕がなかったものだから……」


 ヴィダーユは居心地の悪さをなんとか誤魔化そうと、卵を溶いた麦がゆを口に運んだ。忙しさにかまけてろくなものを食べてなかった身体に、優しい味わいと温かさが沁み渡っていく。


「……不健康な自覚はあったのに、改善しなかったんだな。人の事はやたらと心配するくせに、自分のことはいつだってなおざりなんだ。お前ってやつは。やっと来たと思ったら過労死寸前だなんて」


 明るい空色の双眸に怒りの眼差しを向けられ、言い訳しようにも何も思いつかなかったヴィダーユは目を逸らして謝るしかない。


「……面目ない」


「ヴィダ、都にはもう戻るな」


 ニカは眉根を寄せ、珍しく強い口調でそう言った。


「もっと早くに言うべきだった。手紙が返ってこなくなったあの時に……せっかく小さい頃からの夢を叶えてる奴に、余計な横槍になるかもなんて躊躇ちゅうちょしたりしないで……迎えにいけばよかった。命をおびやかすほどぼろぼろにならなきゃやっていけないようなところが、お前のいるべき場所なわけがないだろ?そんなとこには、もう帰るな。頼むから」


「……ニカ」


「俺は絶対に嫌だからな。次に顔を合わせるのが、過労死したお前の葬式だなんて冗談じゃない」


 共に家庭環境に難があったため、小さな頃から兄弟のように助け合ってきた友人だ。距離感は家族に近く、音信不通になっていた間に相当心配をかけてしまっていたらしいことが伝わってくる。


 木椀の温もりを手のひらに感じながら少し考えた後、ヴィダーユは告げるか告げまいか迷っていたことを、思い切って話してしまうことにした。


「実はその……心配しなくても、もう都に帰る場所はないんだ。……退職して、国立魔術師連盟からも抜けたから……私はもう国家魔術師じゃない。あの部屋も引き払って来た」


「……辞めた?職場だけじゃなくて、国家魔術師もか?」


 驚いたように、ニカは目を見開く。それはそうだろう。ヴィダーユが子どもの頃から国属の魔術師になるために奮闘していたのを、誰よりも近くで見ていたのだから。自分から辞めるなどとは、思いもよらなかったに違いない。


「ああ。そうしないと、もう事態が収まらなかったんだ」


「……あのインチキ野郎のせいか?」


 歯軋りしそうな勢いでニカがうめいた。


「インチキ野郎?……ああそうか、あの人の話をしたところで手紙のやり取りが止まってたな。彼はあの後早々に左遷されたよ。今回のはまた全然別のものだ」


「次から次へと……術師連ってのは高尚なる研究機関じゃなかったのか?蹴落とし合いばかりで……まるで魔窟じゃないか」


 呆れたように呟かれた言葉に、ヴィダーユは心底から賛同する。


「その通りだよ。だからもう、私は都に戻るつもりはないんだ。どこに住むかとか、これからなにをするかとかはまだ何も決めていないが……今回のことでほとほと懲りたしな。だけどまさか、ひっくり返るほど消耗しているとは思わなかった。夜遅くに訪ねてきた挙句に、迷惑をかけて悪かったな」


 ニカはまだ何か言いたげな様子をしてはいたが、一応相手が病人であることを考慮したのか、ひとまずほこを収めることにしたらしい。


「別にそれは迷惑じゃない。だけど、覚悟しとけよ、ヴィダ。お前完全に、シスカ夫妻に目をつけられたからな」


 彼は薬草のような香りのするお茶をカップに注ぐと、全部飲み干せとヴィダーユに押しつけた。


「……シスカ夫妻?」


「お前を診てくれた癒師と、その奥さんだよ。この町の外れで療養所を開いてるんだ。あの人たちが世話を焼くと決めたら、朝採れ野菜よろしくぴっちぴちになって、それを自力で維持できるようになるまで、絶対に離してくれないからな。そう簡単にこの町を去れると思うなよ?」


 どこか意地悪げに彼は笑った。


「ぴ……ぴっちぴちって……それはちょっと、私には無理じゃないか……?」


 自分がぴっちぴちの健康体になっている様など欠片も思い浮かばず、ヴィダーユは困惑するしかなかった。なにしろ幼い頃から血色は悪かったし、勉学にしろ仕事にしろ寝不足になりがちで、目の下の隈と縁が切れた試しもない。


 髪は黒く目は灰色で、全体的に配色が暗くて痩せぎすな上、間違っても快活には見えない陰気な風貌のせいで、学生の頃に〝図書館の幽霊〟などという不名誉な呼び名がついたくらいだ。同じように入り浸っても〝本の君〟などと呼ばれ憧れられたニカであればともかく、己が健康的の極みともいえる形容詞にふさわしくなれるとは到底思えない。


「じゃあもう一生この町から出られないな」


 そんなことを不吉に笑って言い残すと、ニカは空になった椀とカップを引き取って仕事に戻っていった。


 残されたヴィダーユはしばらく寝台の上で所在なくごろごろしていたが、やがて微睡まどろみに絡め取られて夢をみた。


 その夢の中で、ヴィダーユはなぜか大工だった。誰もが見惚れるような屋敷がほしいという注文をもらったので、張り切って希少な材料を集め、腕によりをかけて家を建てていく。ところが、その家の地中深くに得体の知れない巨大生物が棲んでいて、完成した矢先に屋敷がなんと一口で喰われてしまった、そんな夢だった。


「……」


 目を覚ましたヴィダーユは、夢特有の不可思議さと自分の置かれた現実が絶妙に織り混ざったあまりにも夢のないその夢に、ため息をつくしかなかった。せめて夢の中くらい楽しい思いをさせてくれてもいいじゃないか、と内心で苦情を述べながら時計を見ると、どうやら十時間以上眠っていたようで驚愕する。


 ———ここ数日で散々寝たはずなのに……まるで赤子だな……


 都ではこんな生活は考えられなかった。なにかと睡眠時間は削られたし、眠りの浅いヴィダーユは疲れていても短時間で目を覚ましがちだったのだ。


 耳を澄ませば宿の中はしん、と静まり返り、窓の外を吹く風の音ばかりが聞こえてくる。時間が時間だ。明日に備えてみな眠りについているに違いない。備えるべき明日のない己に、自由と不安を同時に感じた。それから空腹も。


 いつ目を覚ますかわからなかったからだろう。小さなテーブルの上にはいつの間にやらパンと干し果物が置かれていたので、ありがたくそれを食べることにする。


 チーズがごろりと入ったパンをかじりながら、ヴィダーユは考えるともなしに考えていた。


 ———あの家を無事に建てるには、一体どうしたらいいのだろう……喰われないように土台をなにかしら強化するか……いや、そもそもあの地下に潜んでいる巨大生物をなんとかしないと、結局は同じか……


 自分が荒唐無稽な夢の対策を真面目に考えていることに気づいたヴィダーユは、苦笑してパンの最後の欠片を口に放り込む。恐ろしいことに、腹が満ちたらまた眠気が忍び寄ってきたので、もう色々諦めて寝てしまうことにした。


 こうして、一体全体どこに向かっているのか先行きがまるで見えない、新しい暮らしが始まったのだ。ヴィダーユ・オルガス、32歳。追い求め続けた夢に挫折して全てを手放した、冬の終わりの新たな門出だった。

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