隊商宿の魔術師

吉楽滔々

第一部 隊商都市バランティ編

終わりと始まり①

 冬の終わりの雨は、ひどく冷たかった。

 荒々しい風に混じって叩くように吹きつけてはヴィダーユの体温を奪い取り、身どころか心の奥まで凍てつかせていくようなそんな雨だった。


 陽が落ちて久しい空気は一層底冷えし、吐き出す息はまるで雪のように白い。闇夜に雨音ばかりが響く中、ヴィダーユは隊商都市バランティの一角で立ち尽くしていた。目の前には友人が経営する、〝木漏れ日の樹洞じゅどう亭〟という小ぶりな隊商宿の明かりがある。


「……」


 似合いもしないことをして得てきた地位も名誉も、長く積み重ねてきた魔術の研鑽も、その全てを手放して、ヴィダーユは今ここいた。


 残っているのは、この二十年は一体なんだったのだろうという虚しさばかりだ。


 もう少し耐えられなかったのかと己を責める気持ちと、いやどう考えてもこれ以上は無理だったという諦めに似た感覚が、身の内で名残りのようにせめぎ合っている。


 ただ虚無だけを抱え、あてもないまま都を出て、歩いて、歩いて、気づけば足はこの街へと向かっていた。


 ——————私は何をしてるんだ……もう営業時間も過ぎているし、ニカとの手紙を止めてしまったのは自分の方なのに……なにを今さら、都合のいい……


 取手に下がった営業時間外の札に我に返り、夜遅くでも開いている大きな宿に向かおうと思った、その瞬間だった。


 かろん、という柔らかなベルの音と共に、戸が開く。扉の一部が磨り硝子になっていたため、入口の前に立っていることに気づかれたらしい。


 溢れ出した橙色に、暗闇に慣れた目がくらんだ。


「……ヴィダ?」


 視界がきかず光しか見えなかったが、扉を開けたのが誰かはわかった。聞き覚えのある懐かしい声。


「ああ、やっぱりヴィダじゃないか!やっと来てくれたんだな。もー、お前ときたら手紙も寄越さないで……俺はずっと待ってたんだぞ?」


 ようやく視界が戻り、その心底嬉しそうな旧友の笑顔を見た瞬間に、ヴィダーユは悟った。あの偉大でどこか冷徹な魔都に戻ることは、今の自分にはもう耐えられないだろうと。


「……ヴィダ、お前、どうした?すごく顔色が悪いぞ。具合が悪いんじゃないか?」


 肩に添えられた手の温もりと心配そうなその眼差しが、じわりと沁みた。


 ——————最後にこんな風に来訪を喜んでもらえたのは、一体いつだった?温かい言葉を誰かと交わしたのは?他愛ない話で笑い合ったのは?二十年近くあそこにいたくせに、全然思い出せないじゃないか……


 そんな場所にしがみつくために、寝る間も惜しんで研究成果を追い求め、死に物狂いで仕事をこなしていたのかと思うと、我ながら少し自嘲わらえた。


「……いや、このところちょっと忙しくて……少し疲れてるだけなんだ」


 だから大丈夫、と付け足した言葉と一緒に零れ落ちてしまったかのように、ヴィダーユの身体から意図せず力が抜ける。がくん、と膝をついてしまい、自分でも驚いて体勢を立て直そうとしたが、雨で冷えきったせいか手も足もまるでいうことをきかなかった。その上、あたりを柔らかく照らしていた明かりがふっと消えて、急に真っ暗になる。


「ヴィダ!」


 全てが暗闇に沈んだ中で、咄嗟とっさに支えてくれた友人の体温だけが、泣きたくなるくらいに温かかった。

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