第3話 無数の未来線

気が付けば、ミカは独房のベッドに横たわっていた。正確に言えば、独房のように狭い個室に寝ていた。小さな窓から差し込む夕方の西日が眩しかった。

彼女が起き上がろうとすると、身体の節々が痛む。自分自身がボロ雑巾にでもなったかのようだった。

彼女は35歳になっていた。もうだいぶ若さを失いかけていた。

ようやく起き上がると、彼女は乱暴に抗うつ剤を口の放り込み、水で胃に流し込んだ。

「おい、起きたか?仕事だ」と看守役の大男がドア越しに言った。

「もうしばらく待って、身支度をするから」と彼女は答えた。

彼女は寝起きのシャワーを浴びた後、鏡の前に立ってメイクを始めた。

風呂上りにもかかわらず、化粧水を顔に叩き込んでもファンデーションが思うように伸びない。もうだいぶ前から肌がサメのようにざらついていたからだった。

メイクを完成させると、彼女はコロンを付けて黒づくめの衣装を身に付けた。彼女は肩を大胆に出した細見のワンピースにファーのついたコートを羽織り、ヒールが10センチほどもある裏だけが真っ赤な黒いパンプスを履いていた。

仕上げに姿見の前に立つ。彼女は先ほどとは見違えるように美しくなっていた。しかし、そこには何の喜びもない。もはやこれは仕事前の作業に過ぎない。

軽く容姿をチェックすると彼女は部屋を出て、収容施設の入り口に出た。

外には、大きなリムジンが待ち構えていた。

「乗れ」と先ほどの大男が言った。彼は運転手を兼ねていた。

ミカは最上流階級の接待役となっていた。接待役と言えば聞こえは良いが、実のところ、愛玩用の性奴隷であった。

彼女は、来る日も来る日も、大金持ちや政府要人の夜の相手をしなければならなかった。彼らはまるで欲ボケした豚のようであった。彼らの腹はだらしなく膨れ上がり、肌は油でぎらつき、口からは耐えがたい口臭を吐き出していた。そして、性癖も想像が難しいほど歪んでいた。

彼女はそのような連中のいやらしい視線に毎晩肌を舐め回され、身がよだつような思いをしていた。彼女は何度も死のうと思って手首を切った。でも死にきれなかった。死のうとすることに疲れた彼女はもはや泣こうとも思わなかった。涙はとうに涸れていた。

「おい」と運転手の大男がバックミラー越しに彼女の顔を見て言った。「最近、痩せたんじゃないのか?ちゃんと食べているのか?」

 彼女は無言だった。

「まあ、あの食事なら食う気にもならんか。あれでも大分ましなほうだがな」

 窓の外では、薄汚い少年たちが食糧の入った袋の取り合いをしていた。彼らの食糧と言えば、昆虫の粉末ペーストを焼いて作ったスナックバーやボロ雑巾のような肉片で作ったハムが相場だった。なかにはゴキブリの油分で作ったミルクを愛飲する者もいた。

すぐ近くでは車内を荒らされて放火された車が黒煙をくすぶらせていた。

 そこは荒廃したスラム街であった。売春、麻薬取引、窃盗、強盗、放火、詐欺、強姦、殺人…、この世の悪のすべてが詰め込まれたような場所であった。あまりの治安の悪さに警官も立ち入らない。

この15年で大部分の人間は処分されてしまった。彼女の父母も死んだ。「生きるに値しない」という理由で。生き残った“愚民”たちの多くはこのような場所で生きていかざるを得なかった。この世界では、貧しさと無能は大罪であった。

 車は、通称「110番街交差点」に差し掛かった。交差点の向こう側では、たくさんの高層ビルが天を衝くようにそびえ立っていた。そしてそのビルの最上階付近では、選ばれた者たちがこの世の春を謳歌していたのだった。

 若さを失いかけた彼女が今の仕事をお役御免になるのは、もはや時間の問題だった。そうなればあの貧民街をあてもなくさまようことになる。どちらにしても地獄だった。

 ああ、どうしてこんなことになったのだろう?窓越しに夕空を見上げて彼女は思った。


 彼女は泣きながら目覚めた。

「ミカ、朝からどうしたのだ?」とそばで休んでいたクウがその青い目を見開いて問いかけた。

ミカは何も言わずにクウの小さな体を強く抱きしめた。

「おい、やめないか、くっ、苦しい…」とクウは思わず声を上げた。

「夢でよかった…。だって、あんなの悲しすぎるよ」とミカは言った。


 落ち着きを取り戻したミカは夢の一部始終をクウに話した。

「そうか、ずいぶん悲しい未来を夢で垣間見たという訳だな」とクウは言った。

「そう、あんな悲しい未来はまっぴらよ」とミカは言った。

「だが」とクウは言った。「その夢は実在する未来の一つなのだ」

「それってどういうこと?」とミカは問いかけた。

「今、私は“未来の一つ”と言ったがそれがどういうことか分かるか?」

「よくわかんないけど、私が夢で見た以外にも、いくつか未来があるということ?」

「そういうことだ。もう少し正確に言うと、考えられるだけ無限パターンの未来があるということだ」

「“無限パターン”の未来って、どういうこと?」

「そうだな、話を分かりやすくするために一つ質問をしよう。ミカ、例えば1時間後、お前は何をしている?」

「家を出て学校に向かっているよ」

「しかしだ、その気になればお前にはいろんな行動を選択することができる。例えば、学校へ行かずにそのまま二度寝することもできるし、学校とは正反対の方向にピクニックに出かけることもできるだろう」

「それはそうね」

「そして、お前が学校へ行った現実と、二度寝した現実、あるいはピクニックに行った現実はもはや交わることのない平行した世界として実在するのだ」

「それ、聞いたことがある。“パラレルワールド”ってやつ」

「そう、それだ」

「そして、さらに1時間後を想像してみるがいい。二度寝した世界では、その後、寝続けているかもしれないし、マンガを読んでいるかもしれない。ピクニックに行った世界では、思い直して学校に行っているかもしれないし、電車でさらに遠くの街まで行っているかもしれない。2時間後、3時間後…と時間がたつにつれパターンは無数に広がる。要するに、未来は無限に枝分かれして成り立っているということだ」

「未来が無限にあることは分かったけど、夢の世界が実在するっていうのはどういうこと?」

「この前、私は“人の一生はすべて夢のようなものだ”と言ったが、覚えているか?あれはたとえ話などではない。今見ている世界と、眠っているときに見ている世界に、いかなる違いがあるというのだ?わたしに言わせれば全く同じだ」

「今見ている世界と夢の世界が同じ?…わかんない。…なんだか頭が痛くなってきた…」

「まあ無理もない、すぐには受け入れられまい。しかし、私のいうことは真実だ」

「でも…」

ミカはしばらく何か反論できないかと考え込んだが、何も言葉が出てこなかったので諦めた。そして、机の上の時計に目をやった。

「8時5分?嘘っ、遅刻だ!」

 ミカは慌てふためいて、パジャマを脱ぎ捨て、シャツのボタンの掛け違いも気にせず制服を着た。

「私の話は途中なのだが…」とクウは驚きながら言った。

「ごめん、今はそれどころじゃない!あとで聞いてあげるから」と言って、ミカは部屋を飛び出すように部屋を出た。

 部屋にはクウだけが取り残された。

「やれやれ、学校などに行って何が面白いのだろうか?あの娘には二度寝するという未来はないのか?」

 そう言って、クウは大きなあくびをした。

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