第2話 人は死んだらどこへ行くのか?

 川沿いの静かな新興住宅街。流行りの無機質な形をした家々が並ぶその一角に、ミカの家はあった。

判で押したような、どこにでもあるような小さな一軒家。それでも彼女のうだつの上がらない父親が、ようやくローンで手に入れたマイホームであった。

 二階の一室がミカの部屋だった。白く明るい壁に囲まれた彼女の部屋は、17歳の少女の部屋にしてはひどく質素だった。部屋に備え付けのクローゼットを別にすれば、机とベッド以外に家具はなかった。もちろん、壁にはアイドルのポスターなどない。机の上には、電気スタンドと必要最低限の教科書や参考書が整理されて置いてあったが、それ以外の物はなかった。彼女は雑多な物に囲まれることを本能的に嫌っていた。

 その夜、ミカと猫はこの部屋にいた。彼女の両親への交渉の甲斐あって、猫はこの家に居候することになったのだった。塾を休んだせいもあって、両親の説得はとても骨の折れる仕事ではあったが。

「はいどうぞ」

ミカはさっきコンビニで買ってきたキャットフードを、皿に盛ってクッションの上に鎮座している猫に差し出した。

「なんだこれは?」と猫はいぶかしげに言った。

「キャットフードよ、野良ちゃんだからこんなの食べたことがないのね。」

猫は何度もにおいをかいだ後、少しだけキャットフードを口に入れた。

「おお、これは美味い。こんなものを食べるのは初めてだ」と猫は感嘆の声を上げた。猫の意外な反応にミカが驚いていると、ばつが悪そうに猫は姿勢を正して小さな咳払いをした。

「いかん、私としたことが…」

「あなた、本当に素直じゃないのね、もう少し喜びなさいよ」とミカは言った。

「私はこの上ない菩提を求める者。煩悩に惑わされてはならぬ」と猫は答えた。

「お坊さんみたいなこというのね」と彼女は言った。

「ところで」と彼女は続けた。「あなたの名前を聞いてなかったけど?」

「私に名はない。そんなもの必要ないからだ」と猫は素っ気なく答えた。

「あら、そうなのね。でも、あなたのことを何と呼んだらいいかわからないし、困ったわね…。そうだ、私が名前を付けてあげる。“クウ”というのはどう?」

「“クウ”?」

「そう、色即是空の“クウ”。あなたお坊さんみたいだから」

「なんでもいい、好きにしろ」とクウはつっけんどんに言った。しかし、彼は内心この名前が気に入っていた。

「ところで」とミカは言った。「あなたはずっとあの河原にいたの?」

「ああそうだ。私はあの場所で他の猫たちに教えを垂れているのだ」と猫は答えた。

「生まれたときからそこにいたの?」とミカはさらに質問した。

「生まれる?生まれるとはどういうことだ?」とクウは逆にミカに問いかけた。

「えっ、生まれるって、お母さんのおなかから出てくることよ。オギャアって言いながら」

「お前が“生まれる”と言っているのは、この世界に肉体を持って生まれ落ちることだな。そういう意味では、私は生まれてこの方、あの場所の近くを離れたことはない。ところで、いったん生まれた者は、最期はどうなると思うか?」

「どうなるかって?そりゃ、いつかは死ぬに決まっているよ」

「生まれたものは、いつかは死ぬ。それはある意味正しい」と猫は言った。「だが、本当はそうではない。人は生まれもしなければ、死にもしない」

「それってどういうこと?」とミカは問いかけた。

「人の一生は―実は人以外の生き物の生涯もそうだが―すべて夢のようなものだ。今人間の世界で流行っている言い方で「仮想現実」とでも言おうか。皆、母の胎より生まれ、成長し、この世の事象に振り回され、老い疲れて、最後は死んでゆくように思っているが、これは錯覚に過ぎない。人の本体は心だ。心は死にもしないし、生まれもしない」

「でも」とミカは続けた。「心は死なないにしても、人はいなくなっちゃうよ、私たちの目の前から。だって、おばあちゃんもいなくなったし、お父さんもお母さんもその時が来るときっといなくなるわ」

「たしかに、お前たちの目の前からはいなくなる。でも、お前の愛する者たちがいる世界が他にはあるのだ。ふつう、彼らはそこでまた似たような人生を送っている」とクウは答えた。

「それって、どっかに生まれ変わったということ?」

「まあ、そう考えてもよい」

「似たような人生を送るってどういうこと?」

「もちろん、その人生の舞台背景は様々だ。古代文明の中で生きることになるかもしれないし、宇宙時代に生きることになるかもしれない。しかし、舞台は異なるにせよ、基本的に似たような人生を送ることになる。お金に目がない者は、そこでも富を追い求める。性欲の強い者は、そこでも異性を追い求める」

「それって、何回ぐらい続くの?」

「いくらでも」

「いくらでも!?」

「そうだ。無限に近いくらい何度でもだ」

「えっ、本当?なんだか気が遠くなりそう…。でも、死んだら生前の行いによって天国に行くとか、地獄に堕ちるとかいうじゃない?」

「良いことを行えば天国へ行き、悪いことを行えば地獄へいくと人間たちはいうが、それは違う。人は前世の心のあり方によって、来世でただそれにふさわしい人生を送るということだ。むしろ、そのような人生を自ら選んで生まれ変わると言ってもよい」

「それじゃ、自分の心のままに地獄を選ぶ人は、何度でも地獄のような人生を歩むということ?」

「残念ながらそうだ。何度でも、無限に近いくらい」とクウは大きな目を細めながら言った。「彼らだけではない、生きとし生けるものの九割九分はそうだ。彼らは目の前の出来事に捉われ、救いの言葉に耳を傾けようともしない」

「なんだか、切なくなるね」とミカは膝を抱えながらつぶやいた。


 その後、クウは食事を終え、そのまま二階の窓から夜の散歩に出かけて行った。時計はすでに夜の10時を回っていた。眠る前にミカは風呂に入った。

 湯船につかりながら、彼女は先ほどの話のことを思い返していた。

 何度も似たような人生を送るとクウは言っていたが、たとえば、会社員である彼女の父は、来世も、そのまた来世も、やりたくもないような仕事をやらされ、十分な報酬を与えられず、奴隷のような一生を何度も送るのであろうか?

また、彼女の母は、転生するたびに、似たような配偶者のもとに嫁ぎ、子を産み、「ああ、こんなはずじゃなかった」と後悔しながら死んでゆくのだろうか?何度でも、何度でも。

そして、彼女自身はどのような生涯を繰り返すことになるのだろうか?

湯船から立ち上る湯気のように、とりとめのない思いが次から次へと湧いてくる。仮に自分がすべての過去世の記憶を持っていたとしたら気が狂ってしまうのではないかと、彼女は思った。

「バカみたい」と彼女は呟いた。

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