女子高生と悟った猫

Rico

第1話 ある河原での出会い

 風が運んできた草の香りが少女を包んだ。

 ショートヘヤの彼女の歳は17歳だった。彼女は白いシャツにネイビーブルーと白のストライプのネクタイ、丈の短いチェックのスカートに濃紺のハイソックスを身に付け、黒いローファーを履いていた。典型的な女子高生の制服姿である。

 やや盛りを過ぎた午後の日差しが、彼女のいる河原一帯に芽吹きだした、草花の新芽を照らしていた。つい半月前まで満開の花を咲きほこらせていた向こう岸の桜の木は、今や、青々とした葉に包まれていた。初夏が近づきつつあった。

 彼女は草で覆われた土手に膝を抱えて座り込んでいた。そして、青いスクールバッグから一枚の紙を取り出して開いた。先日受けた模擬試験の成績表である。

 そこには、彼女の学力を無機質に数値化したようなデータが羅列されていた。


「英語 85点 偏差値72.3

 数学ⅡB 72点 偏差値63.5

 現代国語 95点 偏差値80.3…

 合否判定:K大学:A、S大学:A、F大学:A…」


 彼女は何の感動もなくその成績書を開くと、すぐさま手で丸めて目の前の川に投げた。丸められたただの紙くずとなったその成績書は、水面に揺られながら、大きな橋のある川下へ流れて行った。

 そして、彼女は仰向けになって空を眺めた。草の若芽が制服の白いシャツ越しに彼女の柔らかな背中の肌を刺した。

 彼女の名は、ミカといった。この春、高校三年生になったばかりだった。世のならいとして、同い年の若者の多くはこの頃から大学入学を目指し勉強を始めるのだが、彼女もその中の一人であった。地元の国立大学へ行く。―これが、幼い頃からの両親との暗黙の合意事項であった。

 しかし、彼女の直感は告げていた。“何かが違う”と。

 もちろん、彼女は両親を―茫洋とした父親と口うるさい母親ではあったが―娘なりに精いっぱい愛していた。だからこそ、彼らの期待に応えるため、“良き娘”であり続けていた。

だが、近頃はモヤモヤとした思いが時折、心の中を満たすようになっていた。そのようなとき、彼女は一時でもその割り切れない違和感を紛らわすために、空に浮かぶ雲を眺めるのであった。

ミカは、いつものように、眠るでもなく、考えるでもなく、ただ、小一時間程ぼんやりと空を眺めた。そして、くるりとうつぶせになって小さくつぶやいた。

「…面倒くさい」

そろそろ彼女が塾へ行く時間だった。そこへ週3回通うのは、彼女にとって今や苦行そのものだった。ビジネスライクで、内心では時給のことしか考えていないアルバイト講師たちのことが彼女は嫌いだったし、模試の点数をむきになって争う周りの男子たちも何となく苦手だった。

勉強なんて、所詮点取りゲーム。こんなことをやるのに何の意味があるのだろう?そんなことも分からない幼稚な男子たちに話しかけられたくもない。彼女はいつもそう思っていた。

ああ、もう行きたくない、と思いながら、ミカが起き上がるのをためらっていると、頭の上に小さな影があるのを感じた。

「娘よ、何を悩んでいるのだ」と誰かが言った気がした。

 ふと彼女が見上げると、一匹の猫が佇んでいた。その猫はやや小柄で、雪のように真っ白な毛をしていた。眼は深海に光が差したような深い青さをたたえていた。

「まさかね」とミカは言った。

 するとその猫は繰り返した。「娘よ、何を悩んでいるのだ」

 ミカは驚きのあまり、飛び上がって、二メートルほど後ずさった。「うそ!ね、猫が喋った!」

「何を驚いている?ただ、私は普通に話しているだけではないか?」

「だって、あなた猫でしょ?何で人間の言葉を話しているの?」

「私はいつも通り話しているだけだ。お前が特殊能力で私の言葉を理解しているのだ」

「特殊能力?」

「そうだ、お前は私の言葉を理解する特殊な力を持っているのだ。他の猫ではなく、私の言うことだけを理解する力」

ミカはきょとんとして、その場に座り込んで言った。「へぇ、そうなんだ。でも何で私がそんな力を持っているの」

「それはお前が選ばれた者からだ。たった今、私が選んだ」

「ええっ、私が?どうして?口を利く変な猫に選ばれるって…」

「お前はわが身の幸運をなぜもっと喜べないのか?まあ、今は理解できないだろう。それよりも、なぜお前は浮かない顔をしていたのだ?」と猫は再びミカに問いかけた。

「別になんでもないよ。これから塾に行くのが面倒くさいだけ」と彼女は答えた。

「塾?それはどういう所だ?」と猫はさらに問いかけた。

「そうね。猫ちゃんには分からないかな。勉強するところよ。大学に行くために」

「ほう、大学というところに行って何をするのだ?」

「それは、いい会社に就職するために勉強するのよ」

「会社とはどういうところだ?なぜそこに就職したいのだ?」

「それは、お給料が貰えるし、いい人と結婚できるかもしれないじゃない。良家のイケメン御曹司とか」

「分からぬ。結局、お前はどうなりたいのだ?」

「どうなりたいかって?あんまり考えたことないけど、そりゃ、たくさんオシャレして、海外旅行とかにも行って、カッコいい人に巡り合って、赤ちゃんを産んで、育てて、最後は、おばあちゃんになって孫に囲まれて天国に行ければいいんじゃないかな?」

「何とくだらないことか」と猫は呆れたように言った。

「はぁ?失礼ね。私がどんな人生を夢見ようが勝手でしょう?」とミカは少しムッとしながら言った。また、それにしてもこの猫は何者なのだろう?どうしてズケズケとものを言うのだろう?と、彼女は内心思った。

「そのような目先のカスに惑わされてどうする?お前は本当にそのような生き方を望んでいるのか」と猫はさらに続けた。

「分からないけど、そんな生き方が嫌だという人はいないよ」

「誰かの幸せは、お前の幸せだとは限らない。そう思わないか?」

 ミカには返す言葉がなかった。それは、内心この猫の言うとおりだと思ったからだった。

「お前がなぜ悩んでいるのか、私には理由が分かる」と猫は言った。

「それは何だって言うのよ」とミカは言った。

「それはお前が本当に望む生き方から外れているからだ」と猫は答えた。

「私が本当に望む生き方って?」

「それは己の真の姿を知ることだ」そう答えると、猫はミカの瞳を見つめた。

ミカは一瞬、異次元に浮かんでいるような感じがした。そこでミカには見えた。どこまでも深い青、無限の宇宙がこの眼に映っている。銀河のさざめき。流星の瞬き。静寂の中の、無数の宇宙の始まりと消滅。ここは一体どこなのだろうか?そして、それを見ている私とはいったい何者なのだろう…。

「…!」ミカは我に返った。「さっきのは何?」

「お前は自分の真の望みに忠実になるのだ」と猫は彼女に言った。

「何だか癪に障るけど、もう少しあなたの話を聞くのもいいかもね」

 ミカは不思議とこの猫の話をしてみたい気持ちになった。それは、自分が無意識に求めている答えをこの猫が持っているような気がしたからだった。

 彼女は何かこの猫に聞いてみようと思ったが、すでに陽は落ちかけ、あたりがすでに薄暗くなっていることに気が付いた。川のずっと下流側の橋の電灯には、すでに明かりが灯っていた。

「あーあ、塾に行きそびれちゃった。そろそろ家に帰らなきゃ。ところで、あなた家に来ない?何か食べさせてあげる」とミカは猫に言った。

「余計な心配は無用だ。人間ごときの情けは受けん。わたしはここで草花を食べれば生きるのに十分だ。それに時々川魚を少々…」

 猫がそういった途端、小さく腹が鳴る音がした。

「なんだ、お腹がすいていたんじゃないの?人の好意は受けておくものよ。白猫ちゃん」とミカが言った。

「…仕方がないな。お前がそういうなら、今宵は馳走になろう」と猫は少しばつが悪そうに言った。

 猫を前カゴに乗せて、ミカは暮れなずむ街の通りに向けて自転車を繰り出した。彼女は家路に向かいながら、両親にどう話そうかと考えた。もちろん、しばらくこの猫の面倒をみることについてだ。自分でも意外なほど、彼女の気持ちは弾んでいた。

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