第4話 心の中の天地創造
ある雨の日曜日の午後のことだった。
ミカは自分の部屋のベッドの上に寝転がって、スナック菓子を食べながらスマートフォンで動画を見ていた。
「何を見ているのだ?」とクウが話しかけた。
「今いいところなの。あとで構ってあげるから」とミカはつっけんどんに答えた。
「いいから見せてみよ」と言って、クウはミカの顔のすぐそばに近づき、彼女の視線の先にあるスマートフォンの画面を見上げた。
「『138億年前のビッグバンの秘密』?なんだ、くだらん」とクウは言った。
クウの言葉が妙にミカの癪に障った。なぜだか、動画を見ていた自分自身が小馬鹿にされているように思えたからである。
「はぁ?くだらん?ちょっとあなた、人が好きで見ている動画にケチつけないでよ」とミカは反論した。
「大昔に“ビッグバン”なるものが起きて、大宇宙が出来て、その大宇宙の片隅のちっぽけな惑星で人間やその他の生き物が暮らしているだと?そんなもの人間どもが作ったただのフィクションにすぎん」
「フィクション?だって、偉い物理学者が言っているのよ?」
「偉い物理学者がどうしたというのだ?彼らは“ビッグバン”の瞬間を見てきたとでもいうのか?」
「そりゃ、見てはいないけど…」
「ただ、誰か偉い人が言っているからといって、それが真実だと受け止めるのは良くない。私に言わせれば、地球平面説を信じるフラットアーサーたちと大して変わらない」
「それって、どういうことよ?」
「地球は動かない平面、宇宙はその上の覆いかぶさる天球であって、星たちはその天球に張り付いて、キラキラと光りながら回るイルミネーションのようなものだ。―フラットアーサーたちの中には、そう言う者たちがいる。一見、彼らは“ビッグバン先生”たちと全く異なることを言っているように思えるかもしれない。
しかし、それぞれ自分が信じた宇宙に生きているという意味では彼らは同じだ。
ところで、宇宙は信じることで創られるものだ。だから私たちは自分が創造した宇宙に生きている、と言い換えてもいい」
「ん、よくわかんない。だって宇宙は一つしかないはずでしょ?なんで、それぞれ自分が作った別の宇宙に生きていることになるの?」
「お前はまだ分からないのか?宇宙は私たちの内にある。私たちはそれぞれ自分自身の内なる宇宙を生きているのだ」
「はあ、また始まった。頭が痛くなるから、もうそういう話はいいよ」
そう言って、ミカはクウに背を向けてふて寝した。
「まだ、この話はこの娘には難しかったようだな」とクウは寂しそうにつぶやいた。
それからしばらく、ミカはクウと口を利かないでいた。クウも彼女に話しかけはせず、いつもそうしているように、窓際で瞑想でもしているかのように、ただ目をつぶって前足を体の下に潜らせたかたちで座り込んでいた。
夜になると、ミカはその部屋で勉強をしていた。彼女は受験生なのだ。すっかり暗くなった部屋では、机の上の電気スタンドだけに明かりが灯っていた。
彼女は苦手な物理の参考書を読んでいたが、字を目で追っても上滑りしていくだけで、中身が全く頭の中に入らない。昼間にクウが言った、「宇宙は私たちの内にある。私たちはそれぞれ別の宇宙を生きている」という言葉が耳から離れなかったからだ。そして、「信じることで宇宙は創られる。だから自分が創造した宇宙に生きている」という言葉も。
彼女はそのことについて考えた。
生きとし生けるものが、それぞれ別の宇宙に生きているというのはどういうことだろう?そしたら、私が見ているこの世界は一体何なのだろう?ただの映像ということになるのだろうか?
ミカは、すでに暗くなった窓の外を見た。そして、間もなく来る夏のある日に、この窓から見えるであろう風景のことを思った。
目の前には灼熱で焼かれたような家々の屋根が連なり、所々に植えられている木々はその根もとに濃い影を落としていた。木々に止まった蝉たちは声を競い合い、短いその命の絶頂を謳歌していた。
空には白く輝く入道雲が立ち昇り、家々の向こう側にわずかに見える川の水面は、強い日差しを浴びて銀色に波立っていた。その上の鉄橋を電車がけだるそうに走っていた。
窓のすぐ下の通りでは、夏休みの子供たちが数人、流れ落ちる汗も気にせずに、大声を上げながらサッカーをして遊んでいた。
そして、どこからか風鈴の涼し気な音色が聞こえてくる。
見慣れた夏の風景。これが、ただ私だけが見ている幻影あるいは幻聴にすぎないということになるのだろうか?信じられない。ミカはそう思った。
もちろん、自分自身の体を機械のようなものと考えれば、彼女の目や耳が外部の情報をキャッチして電気信号に変え、それをもとに脳の情報処理システムが今見たような風景を描画していると考えられなくもない。その場合でも外部に何かしら実在することにはなる。
しかし、幻となると話は違う。それは外部には何も必要としないからだ。
たしかに、人の意識の外部にあるものの実在を証明することは不可能だ。もっとも、今彼女が見た夏の風景の中に出ていけば、日差しが肌を刺し、むせかえるような熱気に包まれるだろう。しかし、それはリアリティーを増し加えることにはなるだろうが、夏の風景の実在を証明することにはつながらないのだ。
そうなれば、彼女の見た夏の風景は幻であったと考えても不思議ではない。もっとも、風景の方が実在し、それを見た彼女の心の方こそ実体のない、ただの電気信号の集まりという見方もできるであろうが、彼女の心の奥底の方はそれを拒否していた。彼女にとって、心のほうが存在していなければならなかった。
そうであれば、やはり、あの風景は私だけが見る宇宙の一風景ということになるのだろう、と彼女は思った。
それでは、この宇宙を作りだしているのは何者か?言い換えれば、目に見える混沌の中のあらゆるものに言葉のラベルを貼って、意味の体系の世界を作っているのは誰かということだが、それは自分自身であるとしか言いようがない。おそらく、それが、クウが言った「自分が創造した宇宙に生きている」という事態なのだろう、とミカは思った。
ミカは薄暗いベッドの方に行き、クウの方を向いて横向きに寝転んだ。
「ねぇ、ビッグバンって、心の中で起きてるんだと思うんだけど?」とミカはクウの瞳を見つめながら言った。
「少しは考えたようだな」とクウは言った。
「少し教えてほしいんだけど?」
「もちろん、構わない。私はそのためにここに居るのだ」
不思議な猫と少女との対話が再び始まろうとしていた。
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