第21話 解決編(前)

 おやつの時間。子どもたちにも刑事たちにも、コーヒーとビスケットが振る舞われた。来週の分のおやつはもうないのだが、八科祥子はそれをおくびにも出さない。


 これまでは子どもたちのおやつも衣服も、もちろん毎日の食材も、多くが寄付でまかなわれてきた。ボランティア団体などと交渉し、ルート開発をしてきたのは八科祥子だ。おかげで週に何度か、必ずしも新鮮・新品とは言えなかったものの、ここで消費するのに十分な量の食料や生活資材が届けられていたのだ。


 だが、もう当分の間はそれもかなわないかも知れない。人が何人も殺された山奥の私塾に、好き好んで関わりたい人も団体も多くはないだろう。また一からやり直しだ。もっとも、八科祥子にとってそれは嫌な苦労ではない。その苦労ができるのならばの話だが。


 おやつの時間がちょうど終わった頃、マスコミひしめく秋嶺山荘の入り口前に、銀色の型落ちのクラウンがやって来た。制服警官に誘導されて駐車スペースにたどり着いたこの車の運転席から人影が降り立った途端、バシャバシャバシャと雨のようなカメラのシャッター音。これに呆れ返ったボサボサ頭でグレーのスーツの男が誰なのかは、言わずもがなである。


 まったく何の因果で。再び秋嶺山荘の玄関をくぐることになった五十坂の顔には、そんな思いがアリアリと浮かんでいる。彼の姿を目にした受付の刑事が内線電話の受話器を手に立ち上がる。健康道場の子どもたちが部屋から顔を出し、奥の厨房から出てきた八科祥子が笑顔で迎えた。


「お帰りなさいませ」


「そいつはあんまり嬉しかねえなあ」


 立ち止まった五十坂が見上げると、亀森と鶴樹、そして式村が階段を下りてくる。その後ろには刑事に挟まれて、ケンタとユメナが。


「やあ、ようやく来てくれたな」


「金一封、忘れんでくださいよ」


 亀森とそんな会話を交わし、五十坂は小さくため息をついた。


「で、どこで話します」


「ここで話そう」


「ここで?」


 不審げに片眉を上げる五十坂だったが、亀森は背後のケンタとユメナを、反対側に立つ八科祥子を、そして部屋から顔をのぞかせる子どもたちを見回した。


「そうだ、ここで、この秋嶺山荘に関わった全員の前で話そう。彼らにはそれを聞く権利がある。自分たちの未来がどうなるか、知る権利がね」


 また大仰な、五十坂の顔に浮かぶ心の声。しかし五十坂も周囲を見回し、子どもたちの中にふと目を止めると、納得したようにうなずいた。


「いいでしょう。じゃあどっから始めますかね」


「二十年前」


 おい、また最初から全部説明させるつもりかよ、と言いたげな五十坂の前で亀森は言葉を続ける。


「二十年前に娘を殺された葦河宏和は日和義人を名乗り、数年後ここ秋嶺山荘を手に入れた。目的は社会に復讐するため。まずこれがすべての事件の原点になる。この点は間違いないかな」


 口調は軽いが視線は重い。見つめられた五十坂は小さく笑みを浮かべて首を振った。


「間違っちゃいないが、原点はもう一つありましてね」


「もう一つ?」


 眉を寄せた亀森に、さらりと衝撃的な事実を告げる。


「二十年前に死んだ娘は一人じゃない」


「待て、どういうことだ。殺された被害者は一人だけのはずだ」


 その通り、空葉匠が刺し殺したのは葦河宏和の娘一人だけ。それは疑いようのない事実。しかし五十坂はこう言った。


「殺された葦河の娘は、直前まで友人と一緒にいたんです。その友人と別れた直後に殺された。友人はそれで心を病んでしまいましてね、自殺したんですよ。その娘の父親の名前、もしかしたらご存じかも知れません。良谷弥五郎っていうんですが」


 亀森をはじめとする刑事たちが色めき立った。鶴樹が思わず言葉に出す。


「炭焼き小屋の」


 これに五十坂は、やっぱりな、と表情で応えた。


「報道には名前が出てませんでしたけど、どうせそんなところだろうと思ってましたよ。良谷はおそらく娘の死を通じて葦河、つまり日和義人に共感し、協力者になったんでしょう。以上二つの娘の死が、ここで起こったことの原点になった訳です」


 亀森も鶴樹も息を呑み、式村は呆れたように口を開けた。


「よくこの短時間にそこまで」


 すると五十坂は顔の前で手を振った。


「いやいや、調べたのは俺じゃないんですよ。何もかんもピロロ三世のおかげでね」


 一階ホールに居た者のすべてが困惑した。鶴樹が明らかに動揺した声を発する。


「な、何ですかそのピロロとかいうのは」


「まあ、その辺は追い追い話すとしましょう。さて原点が明らかになったところで、いきなり現在に時間が飛ぶ訳じゃない。そこに至るまでには、他にいくつかの何かが起きたはずです」


 五十坂の言葉に、亀森の表情は険しくなった。


「いくつかの何かとは」


「例えばこの近隣の村の役場の人間、あるいは土地の有力者やその関係者あたりを探せば、何件か出てくる可能性がある。神隠しみたいに突然行方不明になったヤツがね」


「県庁の職員のようにか!」


 亀森は戦慄に声を上げた。そしてようやく己の思慮の浅さを理解した。あのとき、あの朝食の席で五十坂が県庁職員のことを調べろと主張したのは、ここまで想定してのことだったのだと。


 五十坂はうなずき、言葉を続けた。


「日和が表に立って動き、邪魔をするヤツを陰から良谷が始末する。そういう協力関係がキッチリできてたんでしょうな。それは曲がりなりにも成功し、その体験が日和をより大胆にさせた。結果、県庁の職員が姿を消す。そして日和の元には更なる情報が届いた。二十年待ち望んだ情報が」


「唐島源治と狭庭真一郎の情報か」


 うなる亀森に五十坂は、ニッと歯を見せる。


「ここで登場するのが、さっき言ったピロロ三世という自称ダークウェブインフルエンサーです」


「それはいったい誰なのですか。冗談ではありませんよね」


 ふざけているのか、と言わんばかりの鶴樹に、五十坂は首を振った。


「ピロロ三世がどこの誰かは置いときましょう。日和義人の名前が偽名だってことに気付いたコイツが、まずはその情報を集め出したんです。そこで葦河宏和って名前を知り、やがて派生する形で狭庭真一郎と空葉巧の名前にも行き着いた」


 ホールに響き渡る悲鳴。健康道場の部屋から二歩、三歩と進み出た狭庭夕里江は、蒼白な顔でよろめいた。式村沙良が隣で支えなければ、硬い大理石の床に倒れ込んでいただろう。八科祥子が駆けつけるのを確認して、五十坂は再び亀森に視線を戻す。


「秋嶺山荘の公式サイトにはPR動画があるんですよ。狭庭真一郎にはそのURLでも教えたのかも知れない。間違いメールか何かを装ってね。掲示板にそう焚き付けるコメントを書いたヤツがいたんです。実際にやったかどうかはわかりませんし、本当に引っかかるとはピロロ三世も予想してなかったかも知れませんが」


 疑問や反論の声は聞こえない。みんな五十坂の言葉に耳を傾けているのだ。


「空葉匠がいま唐島源治と名乗っていることに気付いたのは、時期的に同じ頃でしょう。これを日和義人に教えるのは簡単だ。山荘のサイトには問い合わせ用のメールフォームがありますから、捨てアドのフリーメールか何かを使ってその事実を書けば済む」


「それは何のために」


 鶴樹警部補の問いに、五十坂は口元を緩めた。


「日和義人は自分の目で事実を確認しようとするに違いない、そう思ったんでしょうな、ピロロ三世は。それで日和が唐島に殺されれば話は早い。つまりピロロ三世には、日和義人を殺そうという意思があった。ただしここで注目すべきは、コイツは日和に対して強い殺意を持っているとは思えないって事実です」


 これに今度は亀森が疑問を差し挟む。


「殺す意思があるのに強い殺意がない?」


「ええ、計画的な殺害を企ててるくせに、ピロロ三世にはたいした殺意がない。恨みつらみを積み重ねての、やむにやまれぬ殺しじゃないんですよ。おそらくは、自分の計略で他人の人生が左右されるのが面白かったんでしょう。だから唐島が日和を殺そうが、その逆に日和が唐島を殺そうが、どっちでも良かったんだ。目の前を飛んでる蚊が邪魔だから叩き潰してやれ、程度の軽い殺意でここまでできる。ある意味、才能だ」


 そして五十坂は後ろを振り返った。狭庭夕里江はベッドにでも運ばれたのだろう、姿が見えない。五十坂の顔は心なしかホッとしているようにも思えた。


「一方、ピロロ三世は唐島源治に対しても行動を起こした可能性がある。おまえの顔を目撃したのは秋嶺山荘の日和義人だぞ、と何らかの手段を使って教えたのかも知れない。まあこの辺はあくまで想像でしかありませんがね」


 そこで五十坂は、一つ息をついた。


「とにかくピロロ三世に情報を操作された結果、狭庭真一郎と唐島源治は日和義人が罠を張っているとも知らずに、別々の道をたどってこの山荘にやって来た。結果、狭庭は三階からエレベーターの縦穴に吊るされて死亡、唐島はおそらく良谷弥五郎に殺されたんじゃないでしょうかね。亀森警部」


 名前を呼ばれたことが意外だったのか、亀森は目を丸くしている。


「何だね」


「良谷が死体を消した方法ですが」


 そこにも気付いていたのか、まったく食えない男だ。亀森は驚きを顔に見せながら答えた。


「炭焼き小屋で大量の苛性ソーダが見つかっている。浴槽はホーロー製だ」


「なるほど、苛性ソーダで肉を溶かして川に流した訳か。でも骨やら脂肪やらは残りますよね。炭焼き窯の中はもう確認したんですか」


「いいや、窯は口を塞がれている状態だ。令状は申請しているが、それが出るまで勝手に破壊はできない」


「来るときちょっと見たんですけど、煙出てましたよ」


「そうだ、まだ火は消えていない」


「骨のかけらくらい残ってるといいんですがね」


 これにはさしもの亀森もムッとした。しかし五十坂にとっては蛙の面に何とかだ。


「とにかく日和義人は本懐を遂げた。狭庭真一郎と、唐島源治こと空葉匠も殺した以上、もう何も思い残すことはない……とは行かなかった。そうですよね、八科先生」


 五十坂がもう一度振り返った視線の先には、部屋から出てきた八科祥子の姿が。


「ええ、よくおわかりですね」


 ここに鶴樹警部補が慌てて割って入る。


「ちょ、ちょっと待ってください。これ以上思い残すことって、いったい何なのですか。復讐すべき相手にはすべて復讐したでしょう」


 その疑問は至極もっともだった。常識の通じる普通の人間の当たり前の発想。普遍性は高いものの、狂人の行動を理解するには役に立たない。


 八科祥子は鶴樹に向かって静かに語った。


「日和にはまだ復讐すべき相手が残っていました。それは、この秋嶺山荘に暮らす子どもたちと、その親です」


「馬鹿な、そこから金を巻き上げるという形で復讐を」


「それは手段であって目的ではありませんから」


「では、では目的とは何なのですか!」


 鶴樹警部補の頭のボルテージが急上昇しているようだ。しかし八科祥子は静かに淡々と言葉を紡いだ。


「この山荘に関わった人々を不幸のどん底に叩き落とすこと、それが日和の最終目標。その結果、自分が犯罪者として監獄かんごくに入るであろうことなど、まるで歯牙にもかけませんでした。そこまで全部を含めて、社会に対する復讐。だから誰かが止める必要があったのです」


 それは事実上の告白に当たる。亀森警部は八科祥子を静かに見つめた。


「つまり、そのためにあなたは日和義人を刺し殺したと」


「……ええ、そうです。日和を病院で刺し殺したのは私です」


 健康道場の子どもたちがザワザワとざわめく。それを横目に、八科はこう続けた。


「ついでに言えば、狭庭真一郎氏の首にロープをかけて突き落としたのも私です」


 五十坂の目がすうっと細くなる。これは想定していなかった展開なのかも知れない。だが、想定しておくべき展開であったとも言えるだろう。五十坂の解説は辻褄が合っている。しかし証拠は何もない。ならばそこに別の辻褄が合った話をぶつけられると、根幹が揺らぐのだ。


 亀森は頭から信用している訳ではないと顔で主張しながら、それでも興味を引かれたのだろう、八科祥子に向き直る。


「狭庭真一郎殺しもあなただと。動機は。いったい何のために」


「動機はありません。私は日和の奴隷でした。命じられれば断ることなどできないのです」


「奴隷、ですか」


「はい、希死念慮の酷かった私がこの山荘に来たのは十五歳のとき。そして……日和にレイプされたのは十八歳のときでした。それ以降、私は日和の人形。言われたことを完璧にこなすことだけが生きている理由」


 ユメナは自分の胸元を押さえ、同情するような視線を八科祥子に送っている。


 亀森は更に問う。


「そんなあなたが何故自我を取り戻し、日和義人を殺したというのです」


「お恥ずかしながら、日和義人の腕から流れる血を見たときです。そのときまで私は自分がおかしいと思っていませんでした。でもあの血で日和義人も人間なのだと理解し、その瞬間呪いが解けたのです。もうこれ以上は繰り返せない、私は日和義人の排除を決めました」


「だから病院で殺した」


「病院の防犯カメラの位置的に、病室の出入り口しか撮影していないのは明白ですよね。カーテンに仕切られたベッドで殺すのは簡単でした。傷の縫合手術に疲れて眠っている日和の布団の上から、持参した果物ナイフで心臓を一突き。返り血は布団が受けてくれるので、ナイフの指紋さえ拭き取れば決定的な証拠は残らないはず。逮捕、送検されても証拠不十分で不起訴になればいいのです。私には簡単な仕事に思えました」


 亀森は眉を寄せている。供述調書に記入する内容としては、体裁が整っていると思う。だがあまりに整いすぎていないだろうか。五十坂に目をやれば、落ち着いた表情で八科祥子を見つめている。これも意外といえば意外だ。自説を曲げられて不愉快に思うかと考えていたのだが。

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