第20話 金一封
始発電車に乗り込み、いくつか鉄道を乗り換えた先にたどり着いたのは、日雇い労働者向けの安ホテル。宿泊代は予約した者が一週間分先払いしてある。何もない、ベッドすら置かれていない部屋は暗くて狭いが、当面姿を隠すにはうってつけだ。
ケンタはジャケットを羽織りマスクをつけると、うつむくカンジとユメナに明るい声をかけた。
「とにかく金を下ろしてくる。二人とも着替えとか必要だろ。しばらく待ってて」
そう言ってケンタは部屋を後にした。
二人きりになった部屋で、カンジとユメナは話す言葉もない。昨夜のショックが大きすぎる。特に老人を殴り倒したカンジの情緒は不安定で落ち着かない。その目に、ユメナの肉体はいつになく
手近なコンビニのATMで金を下ろせるだろう、ケンタはそう踏んでいた。彼がキャッシュカードを持っているのは親名義の銀行口座だが、両親はそんなところまでちゃんと管理できるような、キッチリした人間ではない。公共料金の引き落としや給与振り込みは別の口座を使っており、ケンタの使う口座は事実上、何にでも自由に使えた。
この口座に、金が入っているはずなのだ。親が入れた金だけではない。いま三人が泊まっている安ホテルの予約をしてくれたヤツなど、アングラネットで取り巻きとして彼の行動を支持してくれている連中に、しばらく前に金を募った。「ちょっと大きな仕事をするために」と称して。
これに取り巻き連中が呼応、公開した口座番号に、投げ銭感覚で次々に金を振り込んだ。もちろん一口単位では小さな金額だが、
だが。
コンビニのATMは金を吐き出さなかった。「現在このカードはお取り扱いできません」と。どういうことだ、なぜ金が引き出せない。ATM備え付けの受話器から文句を言いたかったところだが、それができる状況でないことくらいケンタは理解している。
ただちに
おそらく、急に小口の入金が立て続けに起こったため、不審に思った銀行が親に注意喚起を行ったのだろう。心当たりのない親は、一時的に口座を凍結してしまったに違いない。
昨日はあれほど神がかり的なまで自分に運が向いていたというのに、たった一晩でこうも変わるのか。ケンタはいま、丸裸で街に放り出されているかのように感じていた。
いけない、当惑していても何も始まらないのだ。いったんホテルに戻って対策を話し合おう。三人寄れば文殊の知恵とも言う。何か現状を打開する策が思いつくかも知れない。
スマホで「口座凍結 解除方法」と検索しながら、ケンタはホテルへと急いだ。自身の学習障害など、忘れてしまったかのように。
しかしたどり着いたホテルの部屋では、異変が起きていた。入り口の前に、他の部屋に宿泊しているのであろう男たちが集まっている。いったい何だと戸惑っているケンタの耳に聞こえてきたのは、ユメナの悲鳴だった。
「いやだあ!」
「ちょ、ちょっとどいて! 通して!」
人垣を割って入り、部屋のドアを開けたケンタが見たものは、半裸に服を
一方のカンジはケンタの方になど目もくれず、押さえつけるユメナの腕や肩に唇を
「お……おい」
声を震わすケンタだったが、やはりカンジは無視して悲鳴を上げるユメナの肉体を夢中で
「おいカンジ、やめろ!」
ようやく体に力が戻ったケンタがカンジを羽交い締めにし、ユメナから引き剥がそうとした。だが立ち上がったカンジはそれを振り払う。
「うるせえよ!」
小柄な体のどこにこんな力があったのか、ケンタは狭い部屋の壁まで吹き飛ばされてしまった。カンジは据わった目でにらみつけている。
「いいじゃねえかよ、このくらい。ちょっとくらいよぉ!」
「おまえ、何でこんな馬鹿なことを」
ケンタの言葉をカンジは鼻先で笑った。
「馬鹿なこと? 人殺しより馬鹿なことなんてあんのかよ」
「まだアレを気にしてんのか、見つからない犯罪は犯罪じゃないって」
「だからうるせえんだよ! おまえの理屈なんか知るか! 俺は人殺しになったんだよ、おまえのせいで! おまえなんか信じてついて来たから!」
「カンジ……」
「だったらユメナくらい
そう言うと顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべ、カンジは部屋を飛び出して行った。
座り込んだユメナは脱がされた服を集めて抱きしめ泣いている。
「もう、嫌だよぉ」
その声はケンタの胸を切り刻んだ。
「帰りたい。山荘に帰りたいよぉ」
どうしてだ。何故こんなにも上手く行かない。何がいけなかったのか。自分は間違っていなかったのに。そのはずなのに。ケンタはただ呆然と立ち尽くしていた。
炭焼き小屋の浴室にあった戸棚からは、大量の苛性ソーダが見つかっている。良谷弥五郎が危険物の取り扱い資格を保有しているかどうかはまだ調べがついていないが、どう考えても炭焼きに
浴槽は小さな炭焼き小屋には似つかわしくない大きさのホーロー製、苛性ソーダと合わせて考えれば、この浴室で死体の処理をしていた疑惑が浮かび上がる。
死体を苛性ソーダに浸せば、肉は溶けてしまうだろう。もちろん骨や石けん化した脂肪など残る部分もあるが、炭と一緒に
炭焼き窯の中身を見てみたかったが、いま窯には火が入り、窯の口はレンガで封じられている。中を確認するためには破壊しなくてはならないし、それにはまず令状が必要だ。果たしていつ発付されるのやら。とにかく、いまは事情聴取できるレベルまで良谷弥五郎が回復してくれるのを期待するしかない。
その良谷を襲ったのは、おそらくケンタ、カンジ、ユメナの三人か。何があったのかは不明だが、これは三人を保護できればすぐわかるだろう。
保護できれば、か。安直だな。唐島源治が逮捕できれば事件の全容が解明される、と同じ程度には安直だ。唐島が捕まらないときの想定はしておいた方がいい。あの男の言葉が、いまになって痛烈に響いてくる。やはり事件の全体を見回すためにはもう一度、彼の見識が必要なのかも知れない。
秋嶺山荘一階の応接室でコーヒーを飲みながら、亀森警部は深くため息をついた。そこに飛び込んで来たのは鶴樹警部補。
「子どもたちが見つかりました!」
濃緑のレンガ壁に漂うタバコの匂い。
モーニングセットは用意されていない「シガーカフェわかば」だが、コーヒーとハムエッグとロールパンのセットが軽食メニューにある。フリーライターの五十坂はそれを遅い朝食代わりに注文した。
フライパンの脂が弾ける音、肉の焦げる匂い。白いヒゲのマスターはカウンターの五十坂にブレンドのカップを出しながらたずねた。
「以後どうですか、ミスターファイブ」
「それはやめろ。以後って何だよ」
マスターの赤いベストが軽快に動き、白い皿に焼き立てのハムエッグが乗せられた。隣に丸いロールパンを二つ置き、両手でカウンターに差し出す。
「件の山荘ですよ。県警は子どもの公開捜査に踏み切りましたが、事件の核心に迫ったのでしょうか」
確かに今朝見たワイドショーでは、子ども三名の公開捜査に触れられていた。炭焼き小屋で重傷者が発生した件もニュースで報じられている。ただし、警察はこの二件の関連について言及していない。
「さあ、どうだかねえ。俺は知らんよ。それより自分の仕事探しを頑張らにゃならん、いまさらこの事件とかどうでもいい」
「おや、お仕事を探しているのですか」
「探してんだよ、不景気だからな。この店、月末払いとかできたっけ」
「残念ながら」
「だよな」
五十坂は苦々しく笑いながら、三本目のタバコを灰皿でもみ消した。そして皿の上のロールパンに手を伸ばそうとした瞬間、それを待ち構えていたかのようにポケットのスマホが振動する。取り出して画面を見れば知らない番号。相手は携帯電話でも固定電話でもないようだ。
「衛星電話だったりすんのか」
まさに苦虫を噛み潰したような顔で電話に出てみれば。
「はい……ええ、そうですが。俺はもういいでしょう……はあ……はあ。とは言いましてもねえ……え、ケンタが?」
五十坂は天井を仰ぐと、一つため息をつく。
「仕方ない、金一封で手を打ちますよ」
今日の昼食は人気のチキンカツ。子どもたちはほぼ全員が食べ終わった。残っているのは例によって例の如く、いつもの通りジローだけ。チキンカツカレーを前に、虚空を見つめてただ椅子に座っている。
やはりすぐには変わらないか。私は諦めて声をかけた。
「ジロー、食べなさい」
ジローは嵐のように一瞬で食事を終えると、また虚空を見つめる。おしぼりで顔とテーブルを拭けば、ジローは立ち上がり部屋の隅に移動、膝を抱えて座り込んだ。
カンジはまだ見つかっていないという。ケンタとユメナはパトカーに乗せられて先ほど戻ってきた。いまは別々に刑事から尋問されているが、ケンタはあの五十坂が来るまで何も話さないと黙秘しているらしい。
どうして五十坂なのかはわからない。ケンタと通じ合う何かがあったのだろうか。とは言え、問題はこの先だ。もし炭焼き小屋の老人を襲ったのがケンタたちだった場合、当然重い罪に問われる。一方、私に対する逮捕状が出るのもそう遠くはないはず。
秋嶺山荘にはまとめる人間がいなくなり、空中分解するしかない。子どもたちは親元に帰されるのだ。親が引き受ければの話だが。何人かは一時的に別の認可施設にでも送られることになるだろう。
ダメだ。
そんな未来は受け入れられない。それを受け入れるくらいなら、日和義人を殺す必要性などなかった。生かしておいた方がまだマシだったかも知れない。
しかし時間は巻き戻せない。過去を悔やむ意味はない。ならば、せめてケンタたちに課せられる罰をできるだけ小さくしよう。彼らの罪を軽くしよう。そうしてこの山荘を守ってもらうのだ。そのためには。
さすがに娘の指図だとは言わなかったものの、五十坂を再度呼び寄せてはどうかという式村憲明の「ご注進」を、亀森警部は嫌な顔一つせずに受け入れた。もし、どうして五十坂を呼ぶ必要がある、などと問われたら、式村には答えようがなかったのに。
それどころか亀森は、まるで我が意を得たりといった顔で大きくうなずき、細かいことには言及しなかった。運が良かったのだろうか。
実際のところ、本当に五十坂を呼び寄せれば何かが変わるのか、誰にもわからない。少なからず紗良の迫力に押されてしまった感はある。ただ刑事ではない式村に刑事の勘は働かないにしても、この秋嶺山荘で起こっている事件を考えるには、何かが決定的に足りていない気がしていた。
確かに事件は多層的で複雑だ。だがそれだけではあるまい。我々は重大な何かを見落としているのではないか。その一点に気づくことさえできれば、全体の見方が変わるような何かを。
現実の警察の仕事は大昔の探偵小説のようには行かない。事件を解決する一番の近道は、地道に一つ一つ事実を積み重ねることだ。けれど、ときとして発想の飛躍を要求するのもまた現実のややこしさである。いまこの場においてはそれが求められている気がするし、その飛躍をもたらすことができる者は、ここにはいない者かも知れない。
そして何より、この事件が解決しなければ紗良はここから離れようとしない可能性がある。それは大変に困るのだ。何とか、どうにか解決に結びついてほしい。式村憲明は、見ず知らずのどこかの神様に祈らんばかりの気持ちだった。
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