第19話 天の配剤
しかし現実の良谷弥五郎は、そのイメージとはかけ離れているのかも知れない。もしこの男が日和義人の協力者なら、県庁職員の行方不明事件に関与している可能性がある。場合によっては殺人に関与している疑いすらあるし、根拠もない憶測が許されるのであれば、唐島源治の行方さえ知っているのではないか。
森林組合の記録によれば、良谷は日和の所有する山の木を木炭の原料として使用する権利を買っている。顔も知らぬ隣人などでは決してない。ならばいったい、どれほどの深さを持った関係性だったのだ。人の命を奪うほどまでに?
亀森はそれ以上、想像力をたくましくするのをやめた。捜査に先入観を持ち込むのは
何ならいますぐ炭焼き小屋に突入したいくらいの気分だったものの、亀の甲より年の功、さすがにこの程度のはやる気持ちを抑えきれないほど血気盛んではなかった。
階段を下りて行くと、正面の厨房前に見張りの刑事が立っている。亀森は軽く手を上げて厨房を指さした。
「中か」
「はい」
刑事はうなずく。八科祥子が厨房の中で朝食の準備をしているのだ。言い方はアレだが、まったくたいしたタマだと思う。肝が太いにも限度がある。
病院で日和義人を殺したのは、八科祥子で間違いあるまい。状況から考えてそれ以外にあり得ない。もし唐島源治が犯人なら、病院内の防犯カメラに一コマくらいは映っているはずだ。どれほど神出鬼没であっても、本当に神や鬼の類いではないのだから。
ただし、病室の防犯カメラは出入り口を撮影し、ベッドの様子までは映していない。日和の胸に刺さっていた果物ナイフからは指紋が出ていないし、掛け布団の上から刺しているため当然だが、八科祥子は返り血を浴びていない。決定的な物証に欠けるのも事実だ。逮捕状の請求は慎重を要する。
何か別件で逮捕容疑を探すという手もあるが、逮捕さえされれば観念して全部話すような相手とも思えない。また現実的な問題として、いま秋嶺山荘に預けられている子どもたちを強制的に親元に戻すことが可能かどうか。それが無理なら認可施設への割り振りを考えねばならないだろう。
もちろんそれは警察の仕事ではないものの、時間を要する作業となる。いかな県警本部とはいえ、延々と子どもの人権問題に巻き込まれるのは遠慮したいはずだ。
結局のところ、証拠である。明確な証拠が一つ見つかれば、連鎖的に足りないピースが埋まって行き、後は芋づる式に全体像が明らかになる……というのはちょっと楽観的に過ぎるかも知れないが、良谷弥五郎の証言内容いかんによっては、状況に劇的な変化も起こり得る。まずは今日、その一歩を固めるのだ。
亀森は振り返った。細い窓から朝日が差し込んでいる。世間的にはいささか非常識な早さだろうが、これだけの重大事件に関連しているのだし、言い訳は立つだろう。再び二階へと階段を駆け上る。さあ始まるぞ!
それから三十分としないうちに亀森と鶴樹、そして若い刑事が二人の計四名が、炭焼き小屋の前に集まった。マスコミの記者連中は山荘周辺の車の中にいるのだろうが、さすがにこの時間はまだ起き出して来ていないようだ。面倒事は少ないに越したことはない。
小屋奥の煙突からは煙が上がっている。炭を搬出するための軽トラックは停まったままだ。小屋の中に誰もいないとは考えづらい。
若い刑事はまた引き戸をドンドンと叩く。
「すみませーん、誰かいませんか。良谷さん。良谷弥五郎さん、いらっしゃいませんか」
しかし例によって例の如く、炭焼き小屋の内部からは何の反応も返って来なかった。どうしたものかと若い刑事が亀森を振り返る。警部はしばし考え込んでいたが、やがて結論を出した。
「戸をこじ開けろ。責任は私が取る」
いかに警察とはいえ、令状も取らず勝手に個人宅の戸をこじ開けて内部に侵入するなど許されない。焦っているのかと自分自身に疑いの目を向けないでもなかったが、亀森の刑事の勘がささやくのだ。いまここで一歩引いてしまったら、取り返しのつかないことになると。
部下の二人は手にしたバールで引き戸をこじ開けた、と言うより戸を外してしまった。すると朝の光が差し込む土間に、倒れている老人の姿が。
「警部! 容疑者が!」
亀森警部は慌てて土間に飛び込み、額から出血してうつ伏せで倒れている良谷弥五郎と
「……! 脈がある、生きてるぞ! 救急車を呼べ!」
亀森警部は、一命を取り留めるかも知れない良谷の隣で、天の配剤という言葉が頭から離れなかった。運任せで刑事の仕事は務まらないが、運も実力の内ではある。これで良谷弥五郎の証言が取れさえすれば、事件の全容解明は一気に近づく。
そして同時に思い出していた。没個性だが頭の切れるフリーライターの顔を。あの男にこの状況を見せれば、いったい何と言うだろうかと。
朝食は二〇二号室で一緒に摂っても良かったはずなのだが、娘の紗良は他の子どもたちと並んで食事することを選んだ。この短い期間にもう馴染んだということだろうか。式村憲明は自分自身のしたことを棚に上げて、「人の気も知らないで」などという思いに駆られていた。
五十坂に言われたことだが、金はもう諦めるしかないだろう。この秋嶺山荘に先はない。いずれ解散となったところで、債権者の手元には微々たる金額しか残らないはずだ。それを気にするよりも、一刻も早くこの異常な環境から娘を引き剥がし、連れ出すことを優先しなくてはなるまい。
娘を再び標準治療に戻し、受け入れてくれる病院を探す。金はなんとか工面しなくてはならないものの、ただ何もせずこんなところに置いておく訳には行かない。とは言え、だ。
娘は自分を許してくれるだろうか。勝手に前後不覚となり、勝手に溺れて藁をつかみ、紗良の命を危険に
そんなネガティブな思考が頭を支配し、憲明がベッドからぐずぐず立ち上がれずにいると、不意にドアがノックされた。
慌ててドアを開いてみれば、そこに立っていたのは娘の紗良。そして紗良と手をつないだ狭庭真一郎の孫娘、夕里江がいた。
「ど、どうしたんだ紗良」
「ケンタたちが消えたの」
「消え、た?」
あまりにも藪から棒で、憲明は意味がわからない。ケンタというのは、子どもたちのリーダー格だったあの背の高い少年のはず。それが消えた?
「消えたって、具体的にはどういうことだい。まさか煙みたいに消えた訳じゃあるまい」
父親の頭の悪さを苛立たしく思ったのか、紗良はムッとした顔で部屋に入ってくると、まず狭庭夕里江をベッドに座らせた。夕里江は茫然自失の状態で、まるで人形のように見える。祖父の死体を見せつけられたショックから、まだ立ち直れていないのだろう。
紗良は言う。
「今朝、ケンタとカンジとユメナがベッドから起きて来なかった。起こしに行ったら、ベッドには誰もいない。おそらく夜の内に姿を消したんだと思う」
「姿を消したって、それはつまり」
「脱走したってこと」
「脱走かあ」
さもありなん、などと憲明は思ってしまった。小さな子どもならいざ知らず、未成年とは言え成人に近い年齢にまで育った者には、ここでの生活は息が詰まるかも知れない。大人たちのゴタゴタを見て、いまなら逃げ出せると考えたのではないか。
だが思わず納得してしまった父親を、紗良は軽蔑するような目で見つめている。
「何も感じないの」
「えっ、感じるって、何を」
戸惑う憲明に一つため息をつくと、紗良は吐き捨てるような口調でこう言った。
「ここで育った、ここしか知らないような子どもが、外の世界で普通に生きて行けるはずがない。脱走なんて自殺行為」
確かに、言われてみればその通りなのだろう。しかし。
「だからって、いま何かできることもないだろう」
「刑事さんに事情を話して。それと五十坂さんに連絡して」
「五十坂さんに?」
紗良の言葉に首をかしげながら、だが確かにあの男なら何か想定外の言葉を吐き出すんじゃないかとも憲明は思った。とは言え、こちらから連絡を取ったところで、果たして乗り出してくるだろうか。そんなお人好しにはとても思えないのだが。
その考えは娘に見透かされていたのだろう、紗良はこう付け加えるのを忘れなかった。
「亀森警部に話して、警部から五十坂さんに連絡させて」
そんな簡単に言うがなあ。大人の世界にはメンツもあれば体裁もあるのだ、ハイそうですかと行く訳がない。憲明はそう思ったものの、そのまま口にすれば紗良に怒られることくらいは予測できた。
「まあ、機会があれば話すだけ話してみるよ」
「それじゃダメ。絶対に話して。約束」
こう言い出したときの紗良は頑なだ。返せる答は自ずと限られてくる。
「……わかった。とにかく亀森警部に話してみるよ。約束だ」
そう言いながらも、式村憲明は自分の言葉に責任など持てる気分では到底なかった。
朝食の時間を大分過ぎ、健康道場では体操の時間。子どもたちは一階ホールで流れる音楽に合わせて手足を振っている
そこに炭焼き小屋から戻ってきた亀森たち刑事の足音。
「何か変わったことは」
受付の前に立っていた若い刑事に問いかけると、こんな返事が。
「子どもが三名、姿を消したそうです」
「子どもが?」
「ケンタ、カンジ、ユメナの年長組三名が、昨夜のうちに脱走した模様で」
一瞬考え込んだが、すぐに亀森は決断を下した。
「すぐ公開捜査だ! 本部にそう伝えろ!」
「はっ!」
何があったのか、現段階では不明だ。だが良谷弥五郎は頭部を鈍器で殴られ意識不明の重体、そして子どもたちが三人消えたという。これがまるで無関係だとは考えづらかった。
ただし良谷を殴った凶器らしきものは炭焼き小屋周辺から見つかっていない。体に付着していていた落ち葉などの状況から、良谷は炭焼き小屋以外で殴られ、現場まで連れてこられた可能性がある。最悪の場合、凶器はこの山のどこかの落ち葉の下に埋もれているかも知れない。発見には骨が折れるだろう。
それにしても、だ。亀森はため息をつく。
話が入り組みすぎていて、全体像が見えない。まるで巨象の全身を虫眼鏡で探っているかの如きだ。現場指揮官は自分だが、作戦遂行にはもっと
亀森の脳裏には、あの男の顔が浮かんでいた。
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