第18話 逃亡

 消灯時間を大きく過ぎた頃になって、ようやく亀森警部たち三人が、暗い秋嶺山荘に戻って来た。


「何か変わったことは」


 亀森の言葉に、出迎えた若い刑事は首を振る。


「いえ、いまのところ特に」


「八科祥子は自室か。見張りは」


 前を通過しながら受付を見れば、中には刑事が座っていた。若い刑事はそれを目で追い答える。


「受付に一人、裏の通路に一人です」


「炭焼き小屋の住人には接触できたか」


「それがまだ。人のいる気配はあるのですが、扉に鍵がかかったままで。無理矢理踏み込むなとの指示もありましたし」


「うむ、それはそれでいい」


 亀森は奥の階段を上って行く。鶴樹と式村、そして若い刑事は無言で後を追った。怒っているようには見えないが、そのピリピリした空気に声がかけづらいのだ。そして防災監視室の前まで来て、ようやく亀森は顔に笑みを浮かべ振り返った。


「炭焼き小屋の住人については、ある程度調べて来た。時間だけかけて手土産なしは格好がつかんからな」


 そう、県警本部を出てから後、亀森たちは税務署と県の森林組合連合会を回っていたのだ。炭焼きは資格や許認可が必要な職業ではないが、業とするなら開業届は必要だ。


 炭にする木も、勝手に伐採する訳には行かない。森の所有者から買い取るか、自分である程度の面積の森林を所有しなくては、炭焼きを仕事にすることは無理である。ならば当然、記録は残っているはずだ。


 その目算は大当たり、税務署の開業届も森林組合の加入届も確認できた。


「八科祥子の見張りの二人以外、全員を二〇五号室に集めろ、明日からの捜査方針を伝える。それが終わったら交代で仮眠を取るんだ、さあ急げ」


「はい!」


 張り切って走り出す若い刑事を背に、亀森たち三人は二〇五号室に向かった。明日から仕切り直しだ、そんな意気込みで。




 秋嶺山荘の中から人の動く気配が消えた。刑事たちは一室に集まって何か相談でもしているらしい。いまがチャンス。


 もしかしたら防災監視室で見張っている刑事もいるかも知れないが、ここの古い防災カメラに暗視機能はない。照明が落ちているこの時間なら、見つかる確率は小さいはずだ。


 ケンタとカンジ、そしてユメナは一方の手に荷物を、もう一方の手に靴を脱いで持ち、部屋から抜け出た。足音さえさせなければ、受付の刑事にも気付かれない。


 目指すはオーナー室。そしてその向こうの隠し通路。通路には刑事が見張っているが、見張る対象は八科祥子である、建物の反対側にあるオーナー室にまで注意を向けていないだろう。


 かなり甘めの希望的観測だったが、賭けはケンタたちの勝ち。静かな勝利者たちは雄叫びを上げることなく、音もなく階段を駆け上がって行った。


 三階に繋がる背の低い扉を音を立てずに開き、とうとう三人は最上階の三角形の闇の中に侵入した。あとは直角三角形の斜辺にある外への出口を開けさえすれば、自由が待っている。


 ケンタが後ろを振り返ると、階段の下からの薄明りに照らされて、カンジとユメナは戸惑っていた。ここに入るのは初めてなのだろう、仕方あるまい。ケンタは一歩近寄り、二人を安心させようと小さな声をかけた。


「大丈夫、出口はここだよ」


 そう言って指さしかけた手が止まる。背後からの声に。


「大丈夫、出口はここだよ」


 振り返れば闇の中から出て来る小柄な影。そのシルエットには見覚えがあった。


「おまえ、ジローか」


「おまえ、ジローか」


 こうなればもう間違いはない、あのジローがここにいるのだ。しかし何故。カンジが思わずたずねる。


「何してんだよ、こんなところで」


 これほど「おまえが言うな」と言いたくなるシチュエーションもないが、ジローの返答は考えるまでもない。


「何してんだよ、こんなところで」


「もういいよ、放っといて行こう」


 ケンタはジローを無視することに決めたらしい。確かに、ジローに彼らの行動がバレたところで何のデメリットもないのだ。こちらが大声でも出さない限り、ジローが騒ぎ立てることはない。まして、誰か他人をここに連れて来ることなど、まず考えられないのだから。


「もういいよ、放っといて行こう」


 自分を切り捨て見捨てる言葉を物真似することだけが、いまジローにできる精一杯。コイツは無視して構わないとケンタが判断するのは至って当然と言えたし、それをカンジとユメナが理解したのも自然なことだった。


 ケンタは三角形の暗闇の中で、斜めの壁の真ん中に手を伸ばし、簡単なロックを外した。そしてなるべく音を立てないよう静かに内に向かって扉を開けば、彼らを迎えるように眼前に広がるのは美しい満天の星の海。


「さあ行くぞ、自由だ」


 外に飛び出したケンタを追って、カンジとユメナも星空の中に足を踏み出した。そこは秋嶺山荘を外から見たとき、山の中腹の斜面になる。三人は靴を履き、手をつないで闇の中、斜面を下り始めた。


 三角形の闇の中、一人残されたジローは誰もいない空間を前にして、まるで義務ででもあるかのようにつぶやく。


「さあ行くぞ、自由だ」


 これが手向けの言葉なのか、もしくは否定か嘲笑か、それは誰にもわからない。わかる者などいるはずがない、他ならぬジロー自身が内心そう考えていたとしても、何の不思議もなかったろう。




 斜面は思ったより急で、夜の暗さもあり、音を立てずに歩くのは至難の業だった。だが日和義人は歩いていたのだ、若い自分たちが下りられない訳がない、そうケンタは思っている。


 小さなペンライトの光が揺れる。小枝が折れ、藪がざわめき、積もった落ち葉がかさかさと笑う。入り口門の外にはまだ制服警官がいたはずだ、気づかれないようにしないと。


 秋嶺山荘の左右側面は、隣の山との境界が曖昧になっている。正しく言えば左右の山も日和義人の持ち物であるから、境界を明確に区切る必要がないのだ。


 山荘の周囲を囲む塀は徐々に高さが小さくなり、ある一点より奥側は積もった枯葉に埋まっている。ここより奥を通って道なき道を行けば、警察に気づかれずに山荘の外へ出られるはず。


 その目論見は簡単に成功するかに思えた。


 闇の中に、あの野太い声さえ聞こえなければ。


「おまえら、何してんだ」


 野太いが、周囲をうかがうような小さな声。ペンライトを向ければ、そこに立っていたのは小柄な老人。ケンタはそれが誰か知っている。


「山荘の子どもが出歩く時間でも場所でもない。すぐ帰れ」


 とらえようによっては慈愛に満ちた父親的な、子どもを心配する声に聞こえたかも知れない。だが、いまのケンタたちにとっては地獄からの追っ手の声である。


「カンジ、上から逃げろ!」


 ケンタの声を聞いて、カンジは慌てて斜面を登り始めた。しかし老人は山怪の如く、やすやすと暗い斜面を駆け上がり、カンジの襟首を捕まえる。


「逃げられるか、馬鹿者が」


 余裕綽々しゃくしゃく。だからこそ、まさかこれが策略だなどとは思いもよらなかったに違いない。背後からケンタの腕が、首に巻き付くまでは。


 老人は慌てて後ろに走り、木にケンタを叩き付けた。けれどガッチリ首を締め上げる若く細い腕は思いのほか力強く、一度では緩まない。脳裏には自らが唐島源治を絞め殺したときの様子が映画のシーンのようによぎったが、それを気にしている場合ではないのだ。


 ふらつく足で老人は二度、三度とケンタを木にぶつける。四度目でようやく腕が緩み、力任せに振りほどいた老人は、夜の冷たい空気を懸命に吸い込んだ。


 その瞬間、感じる大きな衝撃。頭を、殴られた? 目を見開き闇を仰ぐ老人の前に立ちはだかるのはカンジ。拳二つ分ほどの小岩を頭の上に振りかざし……それが振り下ろされる。




 鍵が開く音がして、暗闇の中で炭焼き小屋の引き戸が開いた。その中の土間に、投げ捨てられるように放り出される老人の体。引き戸はすぐに閉まり、また鍵がかけられる音。


 ケンタは炭焼き小屋の老人を見知っていた。他人との関わりを極力避ける人物であることも。つまり老人があの場にいたということは、炭焼き小屋はまだ警察の監視下になく、マスコミも張り付いていないはず。その想像は見事に当たった。


 間の悪い人間はいるものだ、今夜のこの老人のように。続くときにはことごとく悪いタイミングが続いてしまう。だがいまケンタはその逆、あらゆるタイミングがことごとく彼に都合よく働いていた。


 ケンタは神を信じていないが、この展開が神がかっていることは理解している。だからこそ確信していた。秋嶺山荘から今夜脱走したのは、結果的にベストな判断だったと。いまの自分に不可能はない、計画は成功すると。


 ただ、未来は前途洋々だと考えていたのはケンタだけだったのかも知れない。


「なあ、ホントに大丈夫かな」


 闇の中を林道に向けて走りながら、カンジがつぶやく。一時的な興奮状態から覚め、その声は少し震えているようにも思えたが、ケンタは特に気にかける様子もなく明るく答える。


「大丈夫だよ、証拠の岩は隠したし、警察があの死体を見つけるまでには何日もかかるはずだ。それまでの間に、僕らは遠くまで逃げられる」


「だけど、人を殺したんだぞ、簡単に逃げられるのかな」


「心配ないよ。見つからない犯罪は犯罪じゃないんだから」


 ケンタは前を見つめていた。光に満ちた明日だけを見つめていた。だからこのとき、夜の闇の中でカンジとユメナがどんな顔をしていたのか記憶にない。

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