第17話 決行は今夜

 今日は保護者からの電話への対応と、メールの返信で一日が終わってしまった感がある。ただし事件に関する詳しい話はできないので、相手の不安を受け入れて、子どもたちへの可能な限りのケアを約束しただけだったが。


 もちろんそれで納得しない保護者もいた。しかし、「ならばいますぐ連れ戻しに行く」と言う親は一人もいない。他の公的認可を受けた施設なら違うのかも知れないが、この秋嶺山荘はそういう場所だった。


 誰かが守らなければ、小さな波の一押しで簡単に崩れ去る砂上の楼閣。そしていまここを守れるのは私一人。


 もっとも、それはいまに始まったことではない。何年も前から、いや、私が初めてここに来た十二年前から本質的には変わっていないだろう。


 オーナーの日和義人には、最初から子どもたちを守ろうなどという意識はなかったに違いない。復讐のための道具であり、生活の手段であり、欲求のはけ口。ねじくれた被害者意識を満足させることしか考えていなかったのではないか。


 それでも私にはここしかなかった。ここで生きて行く以外の選択肢などなかった。だから私はすべてを捨て去り、この場所にしがみついたのだ。


 幸福など忘れた。夢も希望も要らない。ただなるべくなら、売り飛ばされる子どもが一人でも少なくなるように、それだけを考えて。


 子どもたちが私を夜叉と呼んでいることは知っていた。鬼で結構、いくらでも嫌えばいい。それで何も起きない平穏な一日が買えるのなら安いものだ。


 ただ食事をして、意味のない体操や瞑想をして、役にも立たない創作活動をして、後は眠るだけ。そんな平穏。たったそれっぽっちのことがどれだけ大切なのか、気付くことなく人生を終えるのも悪くないはず。


 とは言え警察を、検察や裁判所を、永遠にあざむき続けることはできない。事実は必ずどこかで明らかになる。その後はどうすればいいのだろう。私に何ができ、どこまでいつまで子どもたちを守れるのか。


 考えても仕方ない。時間は戻せないのだ、未来など一寸先は闇。しかしその闇には可能性も隠れている。ただ前に進もう。他に選ぶべき道はない。


 階段を下りて一階に。夕食はもう終わっている時間、細い明かり取りの窓の向こうは真っ暗闇。そろそろホールの照明も夜間モードに切り替えなければ。そんなことを考えている私の耳に、ユメナの声が届いた。


「八科先生」


 部屋の入口で途方に暮れている姿を見たとき、ようやくそれを思い出す。あまりの忙しさにうっかりしていた、まったく何てこと。慌てて駆け寄り部屋に入れば、漂うカレーの香り。


 他の子どもたちが奥の二段ベッドで寝る準備をしている中、手前の楕円形の大テーブルには一人ジローの姿。目の前にはカレーライスが三皿。おそらく朝、昼、夕食のカレーに手を付けず、じっと待っていたのだ。何を。もちろん私が声をかけるのを。


 ケンタもカンジもベッドからこちらを見ている。おそらくユメナだけが、頑張ってジローに食べるよう促していたのだろう。だがジローは食べなかった。目の前の冷めきったカレーライスすら見ようともせず、ただ虚空を眺めているだけ。


「先生、どうしよう」


 疲れた様子のユメナだったが、もしカレーライスを温め直せと言えば即座に従ったろうと思う。この子はそういう子だ。酷い弱視でさえなければ、誰からもうとまれず愛されたはずの女の子。


 だが、ここで彼女に仕事をさせるのは正しくない。ジロー一人だけを特別扱いする訳には行かない、私はこの子たち全員を守らなくてはならないのだから。


「ジロー、食べなさい」


 私の言葉にユメナはメガネの奥の目を丸くした。しかしジロー本人には驚く様子もない。いつものように飢えた獣の勢いで嵐の如くスプーンを動かし、三皿のカレーライスを瞬く間に平らげる。すでに冷め切り、皿の端では脂が固まった、どう考えても美味しくはないだろうカレーライスを、一心不乱に口にかき込んだ。


 そして一日分の食事を一度に摂ったジローは皿にスプーンを置くと、再びその視線を虚空に遊ばせ何の反応も見せなくなった。テーブル中央に積まれた冷たいおしぼりを手に取って、私はジローの顔を拭う。テーブルを拭き、皿を三枚重ねて持ち上げる。


「あ、先生私が」


 その皿に手を伸ばそうとするユメナに私は首を振った。


「いいわ。あなたは寝る用意をなさい」


 そして腰を下ろすと、ジローの顔の横、額がつくほどの距離でその目を見つめる。


「ジロー、聞こえてるんでしょう」


 もちろん聞こえていないはずなどないのだが、たずねずにはいられなかった。


「いつまでも私が声をかけなきゃご飯も食べられないようじゃ、みんなが困るの。私だって事故や病気でいつ居なくなるかわからない。そのときあなたどうするの、飢え死にする気? いいこと、私を待ってはいけません。私に声をかけられるまで食べないなんて絶対にダメです。自分を変えなさい。いいですね、これは約束です。あなたが返事をしなくても、ここに居るみんなが証人。あなたは私が居なくてもご飯を食べなきゃいけないの。わかった」


 しかしジローは何の反応もしない。視線一つ、眉毛一本動かさない。予想通り、いつも通りではあるのだが、いまはそれが腹立たしく思える。


 このかたくなさが生まれ持ってのジローの性質であることは理解しているものの、あまりにも限度があるのではないか。いまがどういう状況かを考えれば、少しは協力的になってもいいのではないのか、故意に頑なさをよそおっているのではないなら。


 いや、さすがにそれは考えすぎだ。ジローが悪意を持って反抗しているなどとはとても思えない。言い方は悪いかも知れないが、この子にそんな能力があるとは考えづらい。それは何年も同じ建物の中で一緒に暮らしてきた経験から見て明らかだろう。ジローはこれで精一杯、限界なのだ。


 私が立ち上がると同時に、ジローも椅子から立ち上がった。そして無言で背を向け、トボトボと自分のベッドに向かう。現状でこの子の処遇は難題だ。誰か外部の人間に容易く任せる訳には行かない。頭は痛いが、何とかしなければ。その何とかとは、現実的に考えれば警察に捕まらないこと。それがここにいる子どもたちを守ることにつながる。


 どうする。どうすれば逮捕の手を逃れられる。私の頭の中はそのことで一杯だった。それが油断を呼んだのかも知れない。




 八科祥子が部屋から出て行くと、部屋の前にいた刑事たちも移動した。それを見てケンタとカンジは入口に近づき、そっと顔を出して外をうかがう。八科祥子は厨房に入った。たぶんもうここには来ない。


 カンジが小さな声でささやいた。


「何か夜叉、感じ違わなくないか」


 ケンタも小さな声でささやき返す。


「そりゃ人を殺しておいて、普段通りって訳には行かないよ」


「やっぱりオーナー殺したの、夜叉なのかな」


「普通に考えればね。他に犯人がいる可能性もゼロじゃないんだろうけど、僕は夜叉だと思ってる」


 そう言い切るケンタの顔には自信が満ち溢れていた。しかしそれが少年期特有の何の根拠もない自信であると、本人が気付いていたかどうか。


 そこに背後から静かに近づいたのはユメナ。


「ねえ」


 反射的に振り返ったケンタとカンジに、ユメナは心配げな声でたずねる。


「どうするの。本当に今日?」


 これにケンタがうなずいた。


「ああ、今夜決行だ。夜叉はいま自由に動きづらいし、刑事たちはその夜叉に張り付いている。今夜が絶好のチャンスなんだ」


「でも……ホントに大丈夫なのかな」


 不安そうなユメナにカンジはニッと笑ってみせる。


「大丈夫だって。何とかなると思えば何とかなるんだよ、なあケンタ」


 ケンタも大きくうなずいて見せた。


「ただ闇雲やみくもに逃げ出そうって訳じゃない。それなりに準備をして、作戦も立ててるんだ、できるよ。僕たちはきっとできる」


 その言葉はユメナの心に浮かんだ不安を、半分くらい押し流してくれた。ケンタがここまで言うのなら大丈夫なのだろう。きっと。そう、きっと。

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