第14話 鬼の伝説

 戸をドンドンと叩く音がする。


「すみませーん、誰かいませんか」


 警察やマスコミなどに顔を出してやる義理も、くれてやる言葉もない。まったく傍迷惑はためいわくな話だ。炭焼きの老人は入口に背を向け、仏壇に手を合わせた。


 報道によれば秋嶺山荘の中で殺人事件が起こり、さらにはオーナーが殺されたらしい。それでマスコミ連中がこんな山の中まで出張って来ている訳だ。


 山荘の近隣にある民家といえば、この炭焼き小屋以外にない。したがってここを訪ねる意図は理解できるものの、協力してやらねばならない理由など、老人には毛の先ほどもなかった。


 殺人事件の被害者が誰で、オーナーが誰に殺されたのかといったことについて、警察はまだ発表していない。秋嶺山荘の支配人の女が身柄確保されたという話もあるようだが、この辺り情報が錯綜しているように思える。警察は唐島源治が犯人である可能性を捨て切れないのかも知れない。


 まあ、そんなことは断じてあり得ないのだが。


 日和義人、いや葦河宏和に恩義は感じているものの、それももう返した。あの男も満足して死んで行ったのではないか。自分もそう長く生きるつもりはないし、気に病むつもりなどまったくない。「老兵は死なず」などとも言うが、真に老いたるは死ぬ。死ねばいいのだ。それが世の中のためだろう。この世界にも新陳代謝は必要なのだから。


 葦河も自分も、もはやこの世界に生きる価値を失った。ならば死ぬ以外の道は残されていない。それが世の正しい摂理ではなかろうかと老人は思う。


 またドンドンと戸を叩く音がする。何とも風情のないことよ。選り好みをするでもないが、自分が死に行くなら、もう少し静かなときがいい。その程度のワガママは、仏壇の中の娘も許してくれるだろう。何にせよ、そう遠い話ではない。


 老人は一つ微笑み、立ち上がった。風呂の様子を見に行こう、もうそろそろのはずだから。




「父さんは帰っていいよ。私はまだ帰らないけど」


「えっ」


 紗良の言葉に式村憲明は困惑した。元より親に甘えるタイプの子どもではなかったとは言え、こんなときに独立心を発揮しなくてもいいのではないかと。


「いや、父さんも別にいますぐ帰りたい訳じゃないんだ、ただこんな状況だろ、だから紗良と相談してだな」


「相談するような話じゃないよ。だってここ、インチキじゃない」


「こ、こら」


 まるで五十坂のような紗良の言い草に、憲明は思わず周囲を見回す。当然ながら二〇二号室に他人の姿はない。とは言え――さすがに盗聴器などは仕掛けられていないだろうが――壁に耳あり障子に目ありである、誰がどんな形で会話を聞かないとも限らないではないか。


「子どもが滅多なことを言うものじゃない。そもそもインチキだと思うのなら家に帰ればいいじゃないか」


「夕里江ちゃんが放っておける感じじゃないし。それに家に戻って、私はどうしたらいいの」


「どうって」


 感情のこもらない素朴な問いに、憲明は答えられない。彼はいつも心配する側だ。心配するだけ。娘を心配し、金を工面し、新しい治療法を探しはするが、心配される側の気持ちには、まるで無頓着とさえ言えた。


 だから紗良の考えていることがわからない。家に居るのと病院に入院するのと、あるいはここに居るのとでは、どれが一番苦しくないのかすら想像が及ばないのだ。


「私はいいから、父さんは帰って」


 優しく微笑む紗良に、式村憲明は漠然とした拒絶を感じた。無論、紗良の側にそんな意図などなく、ありもしないものを勝手に感じているだけなのかも知れないのに、これまた勝手に憤慨して勝手に傷ついている。何と面倒臭い男だろう。


「いや、父さんはまだ帰らないから」


 それだけ言って、式村憲明は廊下に出た。自分が部屋を出てどうするのかとは思ったものの、あまりにいたたまれず我慢ができなかったのだ。


 細長い明かり取りの窓から外に目をやるが、何が見える訳でもない。子どもじゃあるまいし、まったく何をしているのやら。憲明が深々とため息をついたとき。


 エレベーターが二階に到着し、出てきたのは亀森と鶴樹。


「どうかしたのかね、式村くん」


 声をかけてきた亀森に何と答えれば良いのかわからず、式村憲明は「いえ、別に何でも」と曖昧な返事をしたのだが、亀森は何かを察したのかも知れない。


「私と鶴樹警部補はこれから県庁に向かうんだが、君も一緒に来たまえ」


 そんなことを言い出した。


 これには憲明も目を丸くする。


「警部が直接出向かれるのですか」


「現状ここで必要な人員は、周辺の聞き込み要員と八科祥子の見張りだけだ。私がふんぞり返って世話を焼かせる訳にも行かないだろう。だから使いっ走りをしようと思ってね」


 そのくせ亀森の顔はワクワクしているようにも見える。ああ、この人は根っからの刑事なのだな。そう感じた式村憲明は、自分でも驚くほどの勢いでこう口走っていた。


「私も行きます、行かせてください」




 結局、式村憲明からは何も言って来なかった。まあそれはそれでいいのだろう、別段これは五十坂が考えることでもない。余所は余所、うちはうちだ。他人の家族の問題になど構っていられるほどの余裕はないのだから。


 ブリーフケースを担いでエレベーターを下りると、受付前で八科祥子が立っていた。一礼をすると五十坂からカードキーを受け取る。


「このたびは当山荘をご利用いただきまして、まことにありがとうございました。またの機会を心よりお待ちいたしております」


「そういう縁起の悪い冗談はやめてくれ」


 五十坂は疲れ切った顔でニッと歯を見せた。


「ところであの二人は県庁に向かったのかな」


 これに八科は少し首をかしげてこう言う。


「亀森警部と鶴樹警部補、そして式村様のお三方なら、先ほどお車で出かけられましたが」


 おやおや、また面倒なところに巻き込まれたもんだな、式村さん。とは思ったが、これも五十坂が口を挟むようなことではない。


「ま、戻ったら俺は帰ったって言っといてくださいな、仕事熱心なお三方には。できれば永遠にお別れしたいって言ってたって付け加えといてくれると助かる」


「承りました。できるだけお伝え致しましょう、記憶にあればですが」


「たいして期待はしてないさ」


 五十坂はそれだけ言うと八科祥子の隣を通り過ぎ、玄関から外に出た。空は晴れ上がり、絶好のドライブ日和だ。


 その瞬間、制服警官によって閉ざされた入口門の向こうから、バシャバシャバシャと無遠慮なシャッター音の洪水。


 おいおいこっちは一般市民だぜ、勘弁してくれよ。判断力ってもんを働かせてくれませんかねえ、マスコミの皆さんは。まったくやれやれだ。五十坂が口の中でそうつぶやきながら駐車場のクラウンに乗り込むと、門の陰から顔を出した記者が叫ぶ。


「刑事さん、刑事さーん! ちょっとお話聞かせてください! ちょっとでいいんで!」


 やべえな、刑事と一般人の見分けもできないヤツが事件現場に駆り出されてんのかよ。取材陣の低レベル化とか心配してられる次元の話じゃないぞ。そう呆れ返りながら、五十坂はダッシュボードからタバコの箱を出し、一本加えてライターで火を点ける。


 とにかく、あの自分たちを選ばれし民か何かと勘違いしてそうな馬鹿どもの間を通らなければ、家には戻れないのだ。何ともウンザリとする関門。キーを捻ってエンジンをかければ、気を利かせた制服警官が入口門の前からマスコミ連中をどかせた。


「はい一般車両通ります、道開けて。こらそこ! 道を塞がない!」


 スケールの小さなモーゼの奇跡の如く、左右に割れた人垣の間をクラウンは通り、秋嶺山荘の敷地外に出た。もっとも外に出たら出たでマスコミの車両が林道の両脇を埋め尽くしていたため、運転に気を遣う状況はしばらく続いたのだが。


 とは言え、それもせいぜい何十メートルか。やがて目には見えないプレッシャーから解放された五十坂は、アクセルを踏み込んだ。タバコが旨いと感じたのは何日ぶりだろう。長い期間ではなかったはずだが、そんなことを考えてしまうほど異様な空間に身を置いていた事実に戦慄する。


 しかし、もう終わったのだ。


「自由っていいねえ」


 思わずつぶやいたりしてしまう五十坂であった。




 山一つ越えたところにあるコンビニにクラウンを停めたのは、主としてタバコの補充のため。ただ、五十坂は店に入る前にその裏手の景色が気になった。


 広い河原。人間の頭ほどもある白くて丸い大きな石がゴロゴロと転がるその川には、おそらく秋嶺山荘の近くにあった滝からも水が流れ込んでいるはずだ。その川で、何やら水を汲んでいる若者の集団が。最初はキャンプでもしているのだろうかと思ったものの、雰囲気が違うように思える。


 とは言え、それ以上気になることがあるでもない。五十坂は店に入り、缶コーヒーと一カートンのタバコを買った。客は他にいない。昼飯時にこの閑散っぷりは経営が思わしくないのかも知れないが、これもまた五十坂が気にすることではあるまい。


 支払いを済ませると、五十坂は暇そうにしている若い店員の女に話しかけてみた。


「例のあそこ、秋嶺山荘の取材に来たんだけど、君もインタビューとかされたかな」


 店員は少し面倒臭そうな作り笑顔でうなずいた。


「今朝から何回か」


「同じことばっかり聞かれたろ」


「うん、どう思うかって訊かれても、どうも思ってないから答えようがなくて」


「あそこの人間、他の住民と交流ないみたいだもんね」


「全然ない。だから年寄りは気持ち悪いとかイロイロ言うけど、私らは別に」


「じゃあ交流があるとしたら、あの炭焼き小屋の人くらいか」


「どうだろ。あの炭焼き小屋に住んでんのも余所から来た人だから、よくわからない」


 五十坂の眉がピクリと動いた。


「……そう、いや邪魔しちゃったね。それじゃ、ありがと」


 五十坂は笑顔を見せて店を出た。そのままクラウンに戻ろうとしたのだが、駐車場の隅っこで荷物を広げて何やらチェックしている五人組がいる。さっき川で水を汲んでいた連中だろう。


「なあ」


 近くに寄って話しかけてみた。


「どこかの大学の人かい」


 すると中の一人が笑顔で「はい」とうなずき、近くの大学の環境学科の名前を出した。小さな瓶が並んだクーラーボックスを五十坂はのぞき込む。


「川の水質か何か調べてるのかな。こんな上流でも水質って変わるの」


「結構変わりますよ。この近辺て鬼の伝説が残ってる土地なんです」


 ああ、夜叉姫伝説か。そんなことを思い出しながら、イマイチ意味がわからない五十坂はたずねた。


「鬼が水質と関わりあるのか?」


 学生は楽しそうに説明を披露する。


「鬼の伝説が残ってるってことは、大昔に産鉄民がいた可能性があるんです。つまりもっと上流の源流辺りに古い坑道とかがあるかも知れなくて、それが崩れたりした場合、水質の変化になって現れることが考えられます」


「なるほど、産鉄民ねえ……ちなみに水質が変わったりした場合、目に見える変化とかあるのかな。水の色が濁るとか」


 すると別の学生が会話に参加した。


「水が濁るケースもありますけど、大半は見た目じゃたいして変わらないですよ。でも水のpHが急激に変化したりすれば、下流で魚が死ぬことがありますから、それで気が付く人もいるんじゃないでしょうか」


 さらに別の学生も話し出す。


「この川って結構よく魚が死ぬんですよ。上流に工場とかある訳じゃないのに、ときどきpHが大きく変わるみたいで。だから何か鉱毒みたいなのが流れてるんじゃないかって噂はありますね」


「そのpHの変化を記録したことはある?」


 五十坂の問いに、しかし学生たちは首を振った。


「そうか。勉強になったよ、ありがとう」


 そう言って笑顔を見せると、五十坂はクラウンに乗り込んだ。そして新しいタバコに火を点け、ズボンの尻ポケットからヨレヨレのメモ帳を取り出して開く。


 数分はそうしていただろうか、やがて五十坂はクラウンのキーを回し、ゆっくりと発進させた。頭を振り、大きなため息をつきながら。

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