第13話 気まずい朝食
総合医療センターに集まったT県警とN県警の刑事たちは、日和義人の病室で彼の死体を取り囲んでいた。その真ん中、日和に寄り添うように椅子に座っているのは八科祥子。
横たわる日和の胸には、掛け布団の上から心臓を目掛けて突き立てられた果物ナイフ、返り血は飛び散っていない。八科祥子の手は血で汚れてはいないが、死体の第一発見者が彼女であり、普通なら誰がどう見ても殺人の現行犯である。だが八科祥子は容疑を否認している。これは唐島源治が行った殺人であると主張して。
「だとすれば、ですよ八科さん。病院内の防犯カメラには唐島源治が映っていなければおかしいでしょう。しかし実際には唐島らしき人物の影すら映ってはいません。どう可能性をかき集めても、ここに唐島源治が来たとは考え難い。つまり、あなたが嘘をついていることになる」
問い詰める鶴樹警部補の言葉に、しかし八科祥子は静かに首を振る。
「私は嘘をついていません。日和オーナーを刺し殺したのは唐島源治です。防犯カメラに映っていないのであれば、それはカメラの画角やシステム全体の問題点によるものでしょう。秋嶺山荘の防犯カメラを思い出してください。あの防災監視室のカメラだけで、館内全箇所を監視することができたでしょうか。応接室やオーナーの個室前など、映らない場所もたくさんあったはずです。この病院も同じではありませんか」
平然と、
「とにかくあなたは重要参考人であることに変わりない。任意同行願います」
鶴樹の言葉に、八科はまた静かに首を振る。
「任意であればお断り致します。秋嶺山荘の子どもたちを放っておけないことは、刑事さんもご存じですよね。私は逃亡するつもりなどありませんし、警官だらけの秋嶺山荘から逃げられる訳もないでしょう。私が犯罪を行った証拠が固まり逮捕状が出たら、おとなしく身柄を拘束していただきます。しかしそれまでは秋嶺山荘で子どもたちの面倒を見なくてはなりません。ご理解いただけますか」
「そ、そんな得手勝手なことが」
「鶴樹警部補」
声をかけたのは亀森警部。
「これは返って我々に好都合かも知れない」
「はぁ? 好都合、ですか」
それはさすがに納得行かない、と言いたげな鶴樹をまあまあといった風に抑え、亀森は八科祥子に笑顔を向けた。
「秋嶺山荘支配人として、警察の捜査続行を容認していただけるということですね」
「それは市民の当然の義務だと考えます」
「結構。では日和義人氏の遺体は司法解剖に回すとして、八科さんは我々と秋嶺山荘に戻りましょう。お疲れだとは思いますが、ご容赦ください」
「承りました」
立ち上がる八科祥子の立ち居振る舞いからは、自信が溢れて見える。それがただの強がりなのか、それとも本気で実行犯は唐島源治だと信じ込んでいるのかは判断がつかない。鶴樹警部補には、どうにも厄介な相手に思えてならなかった。
血を流したような真っ赤な朝焼け。こんな健康的な時間に目を覚ますような人間じゃないんだが。五十坂は二階の廊下に出て明かり取りの窓から入る、まだ弱い陽光を浴びながら、この先のことを考えていた。
病院で日和義人が殺された件についての現状は不明、五十坂には何も情報が入って来ない。まあ当たり前の話だ。
被害者がどんな状況で殺されて誰が犯人だなどといったことが、たまたま現場にいたフリーライターの耳にダダ洩れなんてことになったら、いまどき笑いごとじゃ済まされないぞと思う。
実際、済まされないでほしい。もう自分は今回の事件から興味を失ったのだ、さっさと自宅に戻らせてもらいたい。
亀森や鶴樹たちは、昨夜のうちにここに戻って来たらしい。確認した訳ではないが、夜中に物音がしていたからたぶんそうだろう。だとしたら八科祥子はいまごろ留置場か。まあ他に考えようもない、どう見ても犯人は八科祥子になるだろうしな、と五十坂は思った。
日和義人を殺したのが唐島源治だとは、とても考えづらい。いや、人間は火事場でクソ力を発揮するモノだし、追い詰められた唐島源治が起死回生の一撃を放った可能性もなくはないのかも知れない。だが何かが引っかかる。
一番大きな引っかかりは、あの防災監視室で見た映像の中、逃げ出した唐島源治だ。あのとき唐島源治はいったい何を見て逃げ出したのか。あの場に日和義人でも刑事でもない別の誰かがいたとすれば話は至極簡単だ。
唐島源治は刑事に見つかったと思って逃げ出したのかも知れないが、それが刑事ではなく、日和義人の協力者だったとしたら。その場合、唐島源治はいまどこにいる。
無事に逃げ伸びて日和を病院まで追ってから殺した? それはあまりにもご都合主義に過ぎるというものだろう。唐島がパトカーのスピードで走れる超人なら話は別だが、世の中そんなに上手く行く訳がない。
この推測が当たっているのであれば、日和殺しは唐島源治の仕業ではなく、自動的に八科祥子の犯行となる。他に動機がありそうな人間も見当たらない。そこまで思考を働かせて、五十坂は思わず頭を抱えた。何を朝からアホなこと考えてるんだ、俺は。もう終わった話だっつってんだろうが。
「五十坂様」
階段の方から声がする。
「あぁ?」
寝ぼけた顔をそちらに向ければ、笑顔で立っているのは、黒のブラウスに黒のロングスカート、見紛うことなき八科祥子であった。
「お早いですね。よろしければ朝食をすぐ運びましょうか」
「……えっ」
「それともみんなと同じで構わないでしょうか」
「はあ、じゃあ同じで」
「承りました。では後程お部屋に朝食を運ばせますので、それまでしばらくの間おくつろぎください」
そう言うと八科祥子は踵を返し、五十坂が呆然と見送る中を再び階下へと下りて行った。
どういうことだ。何故八科祥子がここにいる。警察は逮捕しなかったのか。さすがに任意同行くらいは求めただろう。なのに、どうして。
嫌な予感がした。いや、予感なんてオカルトを信じてる訳ではないが、それはともかく。
自分はもう関係ない。とにかく亀森か鶴樹に確認を取って、ここから離れるのだ。これ以上ここにいても、もはや何の意味もメリットもないのだから。だがもし、刑事たちが難色を示したら……?
「勘弁してくれよ、おい」
五十坂はげっそりした顔で部屋に戻った。
しかし五十坂は自分の部屋で朝食を摂ることができなかった。八科祥子の判断により警察に開放された応接室での「朝食会」に、式村憲明と共に呼ばれたからだ。
楕円形のテーブルを、亀森、鶴樹、式村、五十坂が囲む。朝食のメニューはトーストが二枚に目玉焼きと小さなサラダ、そしてコーヒー。八科祥子がかいがいしく配膳している。
その状況で亀森警部は言った。
「日和義人氏を殺したのは自分ではないと八科さんは言っている。お二人にもどう思うか意見を聞きたくてね」
八科祥子は五十坂のカップにコーヒーを注ぐ。
「どうって言われましてもね。本人がやってないってんなら、やってないんじゃないですか」
投げやりな五十坂の言葉に、亀森は意表を突かれたような顔を見せた。
「ほう、言葉のまま信じてよかろうと」
「いや、あのですね。俺はただの一般人ですよ、これ以上事件に首を突っ込ませてどうするんです。ここから追い出すのが普通でしょう」
「確かに普通の状況なら、我々も普通にそう対応している。ところが今回の事件、普通の状況とはいささか言い難い。こうなってしまっては、使えるモノは何でも使う、立ってる者は親でも使えというのが私の主義でね」
面倒くさい主義だ、亀森の視線の中で五十坂の顔はそう告げている。
鶴樹警部補は苛立ちを抑えながら、神経質そうにトーストの隅々にまでジャムを塗りたくった。
「結局すべては唐島源治の逮捕にかかっているのではありませんか。唐島さえ捕まえられれば、すべての謎は解けるでしょう」
そう言ってトーストにかぶりつけば、そこにボソリと聞こえる式村憲明の小さな声。
「捕まるんでしょうか」
そして顔を上げ、自分が注目されていることに初めて気づいて焦り出す。
「あ、いえ、警察を信頼していないとか、そういう訳ではなくですね」
「唐島が捕まらないときの想定はしておいた方がいい」
五十坂はコーヒーを口に運んだ。
「何故捕まらない想定が必要なんです」
鶴樹の言葉にはトゲがある。プライドと経験値に研がれたトゲが。だが五十坂の厚い面の皮には、トゲもささらないようだ。平然と目玉焼きを口に放り込みこう言った。
「唐島が捕まったら全容が解明されるなんてのは、言い換えれば唐島が捕まらない限り何もわからんのを受容するってことでしょう。そいつは追う側の立場の理屈として、極めて間抜けだ」
「ま、間抜けですと!」
激高し立ち上がりかけた鶴樹を、亀森がまあまあと抑える。それを見て五十坂は言葉を続けた。サラダをフォークでザクザク鳴らしながら。
「追いかけるには手数も頭数もいる。一本道を追いかけるだけじゃ、見えるはずのモノも見えてこない。仮に唐島が捕まらなくても、別のルートから事件の真相にたどり着ければそれで良しでしょう。絶対に逮捕できるなんて前提は、無駄に目を曇らせるだけだ」
「あんな危険な男を放置などできるものですか。逮捕できない想定など、敗北主義以外の何ものでもない」
鶴樹にはかろうじてテーブルを叩かないだけの分別が残っていた。しかし、その主張はもっともである。理想論的には悪い奴らを全員逮捕すべく期待されているのが警察組織なのだから。ただし理想が現実とかけ離れるのは世の常識。
それを思えば、亀森は非常に柔軟な現実主義者なのかも知れない。
「まあ唐島源治が逮捕できるかどうかは、現段階では横に置いておこう。それで、いま現在我々はどこに立っているのか。どこまでを理解しているのか。これまで以上に今回のこの事件を理解するために必要なことは何か。そういう根本的な部分をまず固めたい」
「三階に上る階段はもう見つかったんですか」
サラダを頬張りつつ問う五十坂に、亀森はうなずく。
「昨夜こちらに戻ってから八科さんに案内してもらった。どこにあるのか予想はしているのかな」
「入口は日和義人の居室にあるんでしょうよ。そこから建物の『裏』にでも通路が伸びていて、三階まで階段で上るとか」
その回答に鶴樹は目をむき、亀森は唸る。
「たいしたものだな。何故そう思ったのかね」
褒められた五十坂だが、まるで嬉しそうではなかった。話さないで済むなら話したくなかったのかも知れない。トーストにバターを塗り、ため息をつきながら視線を逸らす。
「この建物の断面は直角三角形、だが二階には天井がある。なら天井の上にまだ空間があると考えるのは自然だ。なのに階段もエレベーターも二階まで。それはつまり、二階の宿泊客や一階の子どもらに見えない場所に階段があるってことですよね」
これに鶴樹が異を唱えた。
「エレベーターが隠してある可能性だってあるでしょうに」
「エレベーターは作動音で気付かれる。三階が秘密の空間なら、上るのは階段じゃないと」
トーストにかじりつく五十坂を、式村は呆気にとられて見つめていた。何て男だ。自分たち親子と一緒にここにやって来て、見ていたモノはたいして変わらないはずなのに、どうしてここまで考えつくことに差が出るのだろうか。
亀森警部は感銘を受けた様子で、また唸った。
「本当にたいしたものだ。ほぼ満点の回答だよ」
「ほぼ?」
その一言が意外だったらしい五十坂は、亀森に視線を投げかける。それで子どもじみた自尊心でもくすぐられたのか、少し得意げに亀森は答えた。
「建物の裏の通路には出口が二つあったんだ。一つは君の言った通り日和義人の居室に、そしてもう一つ八科さんの部屋にね。あと三階に外部とつながる出口があった」
「なるほど、つまりその外部への出口から入って来た唐島源治が、狭庭真一郎をエレベーターの縦穴に突き落として殺したって可能性もある訳だ」
その五十坂のつぶやきに、激しく反応したのは鶴樹警部補。
「な、何を言い出すのです。あなた自分が話した事件のあらましを否定する気ですか」
「あらましってか、証拠が出るまでは単なる仮説でしょう。いわば机上の空論だ。否定して困る理由なんぞ、こっちにはありませんがね」
しかし鶴樹は引かない。
「第一、唐島源治には狭庭真一郎を殺す動機がありません」
「殺人鬼の動機なんて、それこそ机上の空論だ。理由もなしに他人を殺す人間はいるでしょうに。まあ書類を上げるには必要なんでしょうが、一般人の俺には関係ないんで」
言い返してやりたいのに言葉が浮かんで来ないのか、口をワナワナ震わせている鶴樹に目もくれず、五十坂は亀森にこう言った。
「もういいでしょう、俺は家に帰らせてもらいますよ。これ以上長居をしたところで、こっちにはメリットも何もない。問題はありませんよね」
すると亀森は意外と素直に「わかった」とうなずいたかと思うと、次にこう付け加えた。
「では警察はこの先何に取り組めば、事件解決につながると思うかな」
これには、さしもの五十坂も目を丸くする。
「はぁ? 捜査方針を俺に決めろって言うんですか」
「いやいや、方針を決めるのは捜査本部の仕事だ。私は君に公僕として、善良なる市民の協力を求めているに過ぎない」
「何だその理屈」
「君に訊くのが一番早くて確実だと思っているのでね。合理的だろう」
これを合理的というのなら、たいていの手抜きは合理的だと五十坂は思ったが、さすがにそれを口にはしない。
「答えたら帰っていいんですよね」
「ああ、連絡先さえキチンと教えてくれれば構わないさ」
五十坂は、しばし不服そうに亀森をにらみつけていたが、やがて諦めたのか冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
「八科さん」
応接室の隅に立っていた八科祥子は、突然五十坂から名を呼ばれても、驚く素振りさえ見せない。
「はい、コーヒーのお代わりですか」
「いいや。聞いた話なんだが、この秋嶺山荘に福祉施設の公的認可を得るよう、県の方から担当者が来て要請したことがありましたよね」
八科祥子は不思議そうに首をかしげる。
「はあ、ありましたね。それが何か」
「いつ頃だったか覚えてますか」
「一番最近は先月でした。一回目は去年でしたか一昨年でしたか。とにかく何度かは来ていますね。PCで過去のスケジュールを確認すれば日付はわかると思いますが」
「つまり先月を最後に、県からは誰も来てないってことですよね」
「ええ、それは確かに。でもそれくらい間が開くことは珍しくありませんけど」
五十坂の口元がニンマリと緩んでいる。その視線は亀森警部へ。
「どう思います」
亀森の目が鋭く輝いている。
「これが事件に関係あると?」
「そいつは保証できませんね。でも何かの取っ掛かりにはなる。無駄にはならんでしょう」
まるで軽口を叩くかの如き五十坂の言葉を聞いて、式村憲明の背筋には冷たい汗が流れていた。
亀森の目は疑っている。それが五十坂と八科の会話の内容に対する疑念なのか、それとも五十坂が他にも何か知っているとの疑惑を抱いているのかは、血の巡りの悪い式村の頭にはわからない。
だがいまにも亀森が怒鳴りながら立ち上がり、五十坂を後ろ手に押さえつけるような展開に至りそうな気がしてならなかった。
しかし結果として、その予想は大きく外れた。亀森は不意に笑顔を浮かべ、うなずいたのだ。
「ご協力感謝します」
すると五十坂は皿に残っていたトーストのかけらを口に放り込み、椅子を引いて立ち上がる。
「式村さん、アンタどうするんだ。最寄りの駅までなら乗っけてくけど」
いきなり話を振られた式村憲明は動揺し、頭の中が真っ白になってしまった。
「え、いや、私は、とにかく娘と相談しないと」
「相談が必要な話とも思えんがね。ま、俺は昼前にここを出るから、何かあったら声をかけてくれ」
それだけ言い残し、五十坂は応接室から出て行った。
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