第15話 再び、わかば

 N県の県庁は県警本部からもさほど遠くない。亀森にとっては庭に等しい。とは言え、本来なら警部である自分が足を運ぶ必要はなかったはずだ。部下に行かせれば済んだものを、鶴樹と式村を引き連れてわざわざ自身でやって来たのは、捜査本部に対する後ろめたさなのかも知れない。


 五十坂などという、どこの馬の骨とも知れない男の言葉を進んで採用しているのは、亀森の勝手な判断だ。それで自分だけが後方でふんぞり返っている訳にも行くまい、そんな気持ちが多少はあった。


 ただそうは言っても、事件が動く、新たな展望が開ける、その瞬間に常に身を置いていたいという刑事としての渇望がなかったと言えば、それは嘘になる。


 県庁のリノリウム張りの床をまっすぐ横切ってエレベータ前に。表示板によれば県民福祉課は三階だ。


 エレベーターで三階に上がり、降りて右側のカウンターが県民福祉課。受付の女性職員に警察手帳を提示し、課長を呼び出してもらう。課長は困惑していたものの、「まあ、こちらへどうぞ」と相談ブースの一つに亀森、鶴樹、式村の三人を案内した。


「それで、警察の方がどういったご用件でしょうか」


 県民福祉課長は、四角いテーブルを囲む他の三人を見回しながらそうたずねた。口を開いたのはやはり亀森警部。


「単刀直入にうかがいます。秋嶺山荘をご存じですね」


「あ、はい。殺人があったとか、経営者の方が殺されたとか、ニュースで」


「いえ、そうではなく、あの山荘を以前から知っていましたね」


 これに課長は口をへの字に結ぶと、しばし亀森を見つめて考え込んでいた。


「……まあ、あの山荘につきましては、県民の方からの声が多く寄せられていたのです。曰く、アレは詐欺ではないのか、とか、県が指導に入るべきだろう、とか。しかしご承知のように、あそこはあくまで私塾ですから、県としてもそうそう指導に入る建前がありません。被害届でも出ていれば別なのでしょうが、実際にあそこを利用している人たちからは評価が高いのです」


 なるほど、と亀森はうなずく。


「だから担当者を派遣して、認可施設になれと伝えた訳ですか」


「いえ、なれとかそういう強制的な姿勢ではありませんでした。できればなって欲しいというレベルで、何度かは」


「それで、何が起こったんです」


 これに課長は慌てて首を振る。


「いえいえ、何が起こったということはないんです。と言いますか、何が起こったのか、我々にもサッパリわかりません。相手方と大きなトラブルがあったとは聞いておりませんから。ただ、何と言うか」


「何です」


「担当者が、ある日突然消えてしまったのです。神隠しみたいに。それも二人。いや、もちろん私としましても、神隠しなど信じている訳ではありません。ありませんが、部下の安全を優先するのも私の仕事のうちなのです。ですから」


「だから秋嶺山荘に関わるのをやめた、ということですか」


「はい、端的に申し上げれば、そうなります」


 上目遣いにうなずく課長を見て、亀森警部は難しい顔を浮かべた。鶴樹警部補も困惑した顔でたずねる。


「警察には届け出たのですよね」


「ご家族が捜索願を出しているはずですが、いまのところまだ何も連絡はないようで」


 子どもや高齢者ならともかく、普通の社会人の行方不明者を警察も必死には捜さない。自分の意志で行方をくらませた可能性が少なからずあるからだ。下手に捜せば追い詰めてしまうケースさえ考えられる。


 亀森も鶴樹も、そして式村憲明も、その現実を理解しているからこそ、消えた二人を捜すのは絶望的に思えた。




 県庁横の立体駐車場に停まる濃紺の覆面パトカーに戻ると、亀森は運転席に座り、鶴樹を慌てさせた。


「警部、私が運転いたしますのに」


「いや、構わんでください。運転をしたい気分なのでね」


 そう言われては引きずり降ろす訳にも行かない。鶴樹と式村は顔を見合わせて後部座席に座った。エンジンのかかった車は静かに静かに駐車場を出て行く。


 だが車影の少ない道路に出た途端、覆面パトカーはスキル音を上げて猛然と加速した。


 亀森の叫び声と共に。


「二人の県庁職員はどこに消えた!」


 後部座席で呆気に取られている二人の返事を待つことなく、亀森はハンドルをバンバン叩きながらわめき散らした。


「もし消えた二人が日和義人に殺されたとする! その場合、謎は何だ! 動機か! 違う! 死体だ! 死体がどこに消えたのかだ! 問題はそこだ! そこにしかない!」


 エンジンは唸りを上げ、タイヤは悲鳴を上げる。


「犯人が唐島源治であろうと八科祥子であろうと同じだ! 死体の行方がすべての鍵になる! 死体だ! 死体はどこだ!」


 憤然とそこまで叫んで、亀森はようやく一息ついた。覆面パトカーは加速をやめ、まるで別の車になったかのように静かに車道の流れに従う。


「……死体を処分する方法はいくらかあるが、どんな方法であれ『場所』は必要だ。死体の処理はどこでもできる訳じゃない。もし日和義人が二人を殺したのなら、死体を消し去るための場所を確保していたはず。だが秋嶺山荘の中にそんな部屋があるとは考えづらい」


 一転して低くつぶやく亀森の耳に、後部座席の式村憲明の声が届いた。


「協力者だ」


 亀森が目を向けたルームミラーの中で、式村は顔を上げる。


「日和義人には協力者がいた可能性があります」


 あのとき五十坂が指摘した、防犯ビデオの映像。日和義人を襲った唐島源治は、玄関で何者かの存在に気づき逃走した。その何者かが日和の協力者なら、場所を提供することもできたろう。


 式村の説明を聞く亀森の目は、次第にわって行った。あの秋嶺山荘の近くに、場所を提供できる協力者がいるとしたら、それは。


 再びアクセルが踏み込まれ、覆面パトカーは加速、車線変更し、テールをスライドさせながら交差点を左折した。


 鶴樹警部補が思わず悲鳴を上げる。


「け、警部! どこへ!」


「県警本部だ! 炭焼き小屋の捜索令状を請求する!」


 吼える亀森の声を聞きながら、式村憲明は自分の顔が青ざめて行くのを感じていた。




 小さな繁華街の片隅に、たたずむような濃緑のレンガ壁。店名を示す看板やサインは建物にない。黒い木製の入口扉の脇に置かれた小さなスタンドボードには、「シガーカフェ わかば」とある。


 この店は、その名の通り喫煙者専門のカフェ。全席喫煙席であり、非喫煙者は入店お断り。タバコや葉巻を嗜む者に残された数少ないオアシスだった。


 漂う紫煙が作る雲が砕けた。店内の空気が揺れる。黒い扉が開いて、新しい空気を連れた新しい客が入って来たのだ。


 ボサボサの髪に無精ヒゲ、グレーのスーツに黒いネクタイを絞めた、中肉中背で没個性的な、個性がないのが個性になっている三十がらみの男。今日の午前中まで秋嶺山荘にいた、フリーライターの五十坂である。


 五十坂はタバコを咥えて火を点けると、まっすぐカウンターに歩み寄り椅子に座った。


「ブレンド」


 オリジナルブレンドのホットをブラックで。いつも通りの五十坂の注文を受けて、ワイシャツに赤い蝶ネクタイ、赤いベストに白い口ヒゲのマスターは、フランネルのコーヒーフィルターを手にした。


「お仕事は上手く運ばなかったようですね、ミスターファイブ」


「その変な呼び方はやめてくれ、マスター。俺までおかしいと思われる」


 顔には笑みを浮かべている五十坂だが、仕事の件には触れない。これにマスターは肩をすくめて微笑んで見せた。


 マスターが熱湯の入ったコーヒーケトルを持ち上げれば、ケトルの中でチュンチュンと湯の暴れる音が響く。フィルターの中の黒い粉末に熱湯が注がれると、タバコの匂いを押しのけて湧き上がるコーヒーの濃厚な香り。あまりにも馴染み深い魔法の一時。


 やがてガラスのサーバーに溜まった漆黒の液体は、カップに注がれ白い小皿に乗って五十坂の前に置かれた。そのカップに手を伸ばす前、五十坂は胸いっぱいにタバコの煙を吸い込んだ。そして深々と煙を吐き出した後、コーヒーカップに口をつける。


 美味い。


 自宅で飲むインスタントコーヒーも決して不味くはないものの、たまに飲む他人の入れたコーヒーに比べると雲泥の差だ。悔しいが金を払う価値はある。


 昼食時はとっくに過ぎており、店内に客はまばら。この店でも軽食メニューはあって、サンドイッチやスパゲティ、オムライス、カレーライス、そのほかマスターに注文すればイロイロと作ってもらえるのだが、五十坂はそれを注文しようとはしないし、マスターも食事を勧めたりはしない。ただ静かにコーヒーを飲むだけだ。それがこの店の価値と言っていい。


 マスターは自身もコーヒーを飲みながら、カウンターの中で英字新聞を読んでいる。


「何か景気のいい話は書いてるかい」


 まるで独り言のような五十坂の問いかけに、マスターは笑顔で首をかしげた。


「景気のいい話はありませんが、面白そうな話ならありますよ」


「へえ、どんな話だ」


「山奥の山荘で死体が見つかって、オーナーが殺されたって話なんですけどね。おや、どうしました」


「どうもしねえよ」


 そう言いながらも、五十坂の顔は不愉快げに歪んでいる。


「で。その話の何が面白い」


 これにマスターは英字新聞の字面を追いながら、本当に楽しそうにこう答えた。


「私はミステリーが大好きなのですが、この事件をミステリー小説的に解釈しますと」


「解釈すると」


「犯人は、ここに預けられている子どもかも知れませんね」


 五十坂の眉がピクリと反応した。


「……子ども?」


「ええ、頭の切れる子どもが大人たちを出し抜いて起こした事件ではないかと。まあちょっとエンターテインメント方向に振り過ぎた解釈なのでしょうけれど、そういう見方はできるのではないですかね。人が死んでいるのに不謹慎だとは思いますが」


 マスターの笑顔を五十坂はしばし複雑な顔で見つめていたが、やがてカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。


「おかわり」

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