第10話 決意

 エレベーターを一階に下りると、五十坂は受付をのぞき込んだ。中にはあの日焼けの少年カンジが座ってスマホに熱中している。五十坂が窓を三回ノックすれば、慌てて顔を上げた。


「う、うわっ。あ、何ですか」


「悪いな忙しいとこ。ちょっと聞きたいんだが」


「八科先生ならオーナーと一緒に病院に行ったけど」


 そいつは都合がいい、五十坂の笑顔はそう言いたげだった。そして次に出て来た言葉に、式村憲明は目をみはる。


「二〇一号室の狭庭さん、まだ戻ってないのか」


 これにカンジは困ったような顔を浮かべた。


「たぶん。俺の見てる前は通ってないと思うけど、結構見過ごしちゃうから」


「そんなに結構見過ごすもんなのか」


「うん、さっきも狭庭さんが俺たちの部屋の前通ったからコーヒー持って行ったのに、部屋にいなかった。たぶん俺が見過ごしたか見間違えたかしたんだと思う」


「そうか、まあうっかりミスは誰にでもある、気にすんな」


 振り返った五十坂の視線の先には、困惑している式村の顔が。


「狭庭? どういうことだ。説明してくれないか」


 と、そこに玄関から聞こえたのは神経質そうな鶴樹警部補の声。


「何をしているのですか」


 部下の刑事を二人引き連れ、迷惑げな顔で近付いて来る。


「もうすぐ鑑識が到着しますのでね。現場を荒らさないでいただきたい」


「いえいえ、もう用事は終わりましたんで、部屋でおとなしくしてますよ」


 蛙の面に何とやら、五十坂は平然とエレベーターに向かい、ボタンを押した。ドアが開き乗り込めば、式村も慌てて後に続く。五十坂が無言で二階のボタンを押すと、エレベーターはドアを閉じ上昇を始めた。


 そこで式村の我慢は限界を迎える。


「どういうことだ、狭庭って狭庭真一郎か? あんた何を知ってる。何に気付いたんだ」


 早口でたずねる式村憲明を前に、五十坂は突然目をみはった。


「聞いたか、いまの音」


「音? 何のことだよ」


 エレベーターは二階に到着しドアが開く。だが五十坂は天井を見つめたまま降りない。そしてまた一階のボタンを押してドアを閉じた。エレベーターは一階に到着し、ドアが開く。目の前で苛立たしげな顔を浮かべているのは鶴樹。


「あなたたちねえ」


 その鶴樹に素早く近づくと、五十坂は腕を取ってエレベーターに引っ張り込んだ。


「ちょっと来てくれ」


「な、何ですか、おいコラ!」


 腕を振り払い怒り心頭の鶴樹に向かって、口の前で人差し指を立てると、五十坂はまた二階のボタンを押す。


「とにかく音を聞いてくれ」


 エレベーターは再びゆっくりと上昇を始め、五十坂は天井を指さした。そのとき。ゴトリ、確かに天井から何かが叩くような音がする。鶴樹も式村も困惑している。エレベーターが二階に到着し、ドアが開いても降りる者は誰もいない。五十坂はまた一階ボタンを押した。


 エレベーターは下りて行く。しかし。


「下りるときには音がしない」


 真剣な顔の五十坂に、鶴樹は苛立ちを見せた。


「だから何だというのです。こっちはねえ」


「エレベーターのカゴの上に、『何か』がぶら下がってるんじゃないかと思うんですがね」


 エレベーターは一階に到着し、またドアを開く。部下の刑事たちが駆け寄ってきたが、鶴樹はそれを手で制し、五十坂を探るようににらみつけた。


「『何か』とは何ですか」


 五十坂は一瞬躊躇ちゅうちょするような表情を浮かべたが、すぐに不敵な笑みを見せる。


「幽霊の正体見たり枯れ尾花」


「はあ? いったい何を言って……」


「人間の死体かも知れない、って言ったらどうします」


 これには鶴樹警部補も式村憲明も息を呑んだ。


「誰の死体がこんなところに」


 鶴樹の問いに、五十坂は一度式村を振り返る。


「狭庭真一郎じゃないかと」


「えぇっ!」


 愕然とする式村と、対照的に冷静な五十坂を見比べた鶴樹は、若い部下の刑事に向き直った。


「雁沢」


「は、はい」


「車から脚立を持ってこい。急げ!」


「はっ!」


 雁沢刑事が玄関に向かって走って行くのを確認して、鶴樹は再度五十坂に向き直った。


「知ってることを話してもらいますよ、フリーライターさん」


「ええ、そりゃもちろんです」


 五十坂はやれやれといった風に肩をすくめているが、式村憲明はただただ混乱していた。いったい何が起こっているのだろう、自分は何に巻き込まれているのだろうかと。




 山間部の土の下に埋まった鉄筋コンクリート建築である秋嶺山荘は、夏は非常に涼しく過ごしやすい。ただし冬の底冷えは想像以上、そのため山荘内部には灯油ボイラー式のセントラルヒーティングが張り巡らされている。


 階段の下に設置されている燃料タンクには、常に灯油が蓄えられていた。燃料タンク室の鍵はオーナーである日和義人の管理。すなわち、日和義人は常に大量の灯油を自由に取り出すことができるのだ。




 日和義人は本懐を遂げた。狭庭真一郎を殺害し、唐島源治を処分したのである、もはや思い残すことはないだろう。いや、最後の願いが残っているか。自らに金を支払い子どもたちを託した、親連中の希望を叩き潰すことが。


 幸福な未来など許さない。すべてをまとめて地獄に引きずり込んでやる、それが日和に残された最後の望みのはず。


 いま日和は県立総合医療センターで緊急の縫合手術を受けている。さすがに今夜は帰宅できまい。行動に移すとしたら明日以降。ならば私の行動するチャンスは今夜しかないのではないか。子どもたちを守るためには。


 おそらく日和は秋嶺山荘で火災を起こすつもりだ。子どもたちを炎で焼き、しかし命を奪わない程度で抑える面倒な火災を。子どもたちを殺さず、火傷と炎の記憶という二つの傷を与えて親元に戻す。そうなれば親の金銭的、そして精神的負担は一気に増大し、大半の家族が崩壊するに違いない。それを日和は監獄の中から笑って見つめるつもりなのだ。


 それを防げる者があるとすれば、私以外に居ないのではないか。私が日和を止めれば、これ以上の惨劇は起こらないはず。いま、今夜、私がこの手で。


「八科さん」


 名を呼ぶ声に顔を上げれば、刑事の国下が大きな右手に缶コーヒーを二つ持って立っている。


「少し息を抜きませんか。疲れたでしょう」


 そう言って右手を差し出す。どちらかの缶コーヒーを選べというのだ。私はどちらでも良かったのだが、白い缶のカフェオレをとりあえず選んだ。国下は残った黒いブラックコーヒーを開けながら私の隣に座る。


「傷は深いみたいですが、とにかく急所は外れてたのが良かった」


 安堵した声で国下は話す。私は何だか可笑しくなり、口元に笑みを浮かべた。


「ええ、縫合処置だけで戻れるのですからラッキーですね」


「明日には戻れるといいですな」


「戻れるでしょう、身体だけは若い人ですし」


 その言い方が何か琴線に触れたのか、国下刑事は頬を赤らめうつむいてしまった。


 と、そこへナースステーションから事務員が一人、国下のところに駆け寄って来る。


「あの、警察の国下さんですか」


「はい、私が国下ですが何か」


「T県警からお電話がかかっていまして」


「県警から? ありがとうございます、すみません」


 国下は立ち上がると、私に小さく頭を下げて「それじゃ」と言い残しナースステーションへ速足で去って行った。


 もしや「アレ」に警察が気付いたのか。想定より随分早いが、そうならばもう猶予はない。日和義人の、いや葦河宏和の身柄が拘束されないうちに、私が、この手で。

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