第9話 データベース

 夜の森を走る。小さなペンライトに手のひらをかぶせ、足下にだけ光が集まるようにしながら走る。


 クソッ、せっかく日和義人が建物の外に出て来たのに。唐島源治は自分に腹を立てていた。あまりの大チャンスに気が焦ってしまったのか、首を狙ったナイフの一撃が腕に当たってしまったからだ。


 逃げた日和義人を追いかけて建物に入ろうとしたが、刑事だろうか、迫って来る影に気付いて、こっちが逃げ出す羽目になってしまった。当分次のチャンスはやって来ないだろう。警備も厳重になるに違いない。


 だが諦めはしない。どんな厳重な警備も完璧ではないのだ、待っていれば必ずチャンスはやって来る。今度こそ、次の機会こそ。


 そう走りながら考えていた唐島源治の後方で、何かが動いたような気配がした。まさか警察? 追いつかれたというのか。一瞬立ち止まった唐島の首に、背後から細く固い紐のような物が巻き付き、一気に締め上げる。


 肘で後ろを打ち、かかとで相手のすねを蹴った。だが唐島の必死の抵抗にも、首を締め上げる力は弱まることがない。


 そんな、馬鹿な、自分は、神に……そこで思考は闇に途切れ、唐島源治の肉体はすべての動きを止めた。




 式村憲明の戻った二〇二号室を、ブリーフケースを手にした五十坂が再び訪れるまで五分と経っていなかったろう。


「勘弁してくれ、刑事たちに見つかったら勘ぐられるかも知れない」


「まあまあ、いいからいいから」


 そう言って強引に入って来た五十坂はベッドに座るとブリーフケースを開き、中からノートPCを取り出して、電話台の裏にあったコンセントにプラグを差し込んだ。


「いったい何のつもりだ」


 いぶかる式村に、五十坂はノートPCを立ち上げながら歯を見せた。


「式村さん、アンタ県警のデータベースにアクセスできるか」


「そ、そんなこと勝手にはできない」


「つまりできるんだな」


「私用目的のアクセスなんてバレたら懲戒処分の対象になるんだ、無茶を言わんでくれ」


 しかし五十坂はノートPCの画面を式村に向けてキーボードを指さす。


「どうせ警察も辞めるつもりだったんだろ。たいした問題じゃない」


 それは図星。この五十坂という男、本当にただのフリーライターなのか。どうにも頭が回り過ぎるように思う。疑念は恐怖と困惑を生み、ため息をついたり不服げな顔を見せたりはしたものの、もはや式村は蛇ににらまれた蛙だった。


 慣れ親しんだURLをブラウザに打ち込み、職員番号とパスワードを入力する。誰がいつアクセスしたのか調べればすぐに判明するのだ、ごまかしは利かない。


「それで、何を調べようというんだ」


 諦めの境地から開き直った式村も、隣のベッドに腰を下ろす。その枕元にノートPCを置いて、五十坂はあぐらをかきながら無精ひげをこすった。


「まずは日和義人についてだな」


「ここのオーナーじゃないか。何が出て来ると思ってる」


「出てくるかどうかは知らないが、とにかく取っ掛かりだ。いいから調べてみなって」


 五十坂に促され、日和義人の名前を検索する。画面には税務署や労働基準監督署などの届出書類が出て来た。


「怪しい情報は特に……ん? 今月に入って警察の事情聴取を受けてるな」


 式村の言葉に五十坂は身を乗り出した。


「何の容疑で」


「いや、容疑者じゃない。これは、唐島源治の事件だ。唐島源治を目撃したってことらしい」


 五十坂は首をかしげた。


「その唐島源治ってのは有名人なのか」


「先月の末頃にT県警の留置場から殺人の容疑者が脱走したって事件あったじゃないか、アレだよ」


 なるほどその事件の報道なら見た記憶がある、五十坂はそんな顔でうなずいた。


「ああ、あの事件まだ解決してなかったのか」


「してない。唐島源治は逃亡中に、自分の起こした殺人事件の目撃者を殺害した容疑もかけられてる」


「その唐島を日和義人が目撃した?」


「そう、県内の狭庭真一郎氏住宅前の道路で午後八時頃に目撃したと証言してるらしい」


 五十坂は腕を組んで天井を振り仰いだ。いかにも気に入らないといった顔で。


「要するに日和義人は、その唐島源治に狙われてる可能性がある訳か」


 これに式村はうなずく。


「一人目の目撃者を殺したのも唐島なら、そういうタイプのシリアルキラーなのかも知れない。だったら日和オーナーを殺すため、ここに来るのは十分に考えられる」


「で、ついさっき実際に日和義人は何者かに襲われて重傷を負った。これはおそらく唐島源治の仕業だ、少なくとも警察はそう考えるんだろう」


「そうだな、日和オーナー警護のための要員がT県警から派遣されるともあるから、あの鶴樹刑事はT県警の人間だと思う」


「ふうん」


 五十坂は天井を見つめたままだ。何かが酷く気に入らないらしい。それが気になった式村はたずねてみた。


「何か気に入らないところがあると?」


「その狭庭なんとかの家は、繁華街のど真ん中にでも建ってんのか」


 いきなり何を言い出すのか。狭庭真一郎の家の住所は、式村の知る限り住宅街だ。


「いや、どうだろう。住所を見る限り近くに繁華街はない気がするが」


「じゃ何で唐島の顔が見えた」


「何でって」


 五十坂は冷たい眼差しで式村を見つめている。まさに獲物を見つめる蛇の目だ。


「夜の八時は真夏でも暗い。住宅街にも明かりはあるが、街灯と門灯くらいじゃ出会ったヤツの顔なんぞ、知り合いでもなきゃ判別できないだろ」


「しかし、現に唐島は日和オーナーを襲ってる」


 式村の言うことはもっともだ。さっき唐島源治は日和義人を襲ったと考えられる。日和に顔を見られていないのなら襲う必要などなかったはず。それはリスクを高めるだけの無意味な行為なのだから。だが五十坂は首を振る。


「もしそれが間違いなく唐島の仕業だったとして、日和が唐島の顔を見たのも事実なんだとしたら、日和と唐島が顔を合わせたのは狭庭の家の前じゃない。もっと明るい時間帯、どこか別の場所のはずだ。なのに日和はそれを警察に話さなかった」


 何でそんなことが言い切れるのか。しかもそこまで自信満々に。式村はそう問いたかったが、ならば違うのかと問い返された場合に応える言葉を持っていない。二〇二号室にはしばし沈黙が下りた。


 五十坂はズボンの尻ポケットからボロボロのメモ帳を取り出し、開いて見つめる。しばらく眉をひそめた後、視線はメモに残したままでたずねた。


「式村さん、唐島源治の顔のデータはそこにあるのか」


「顔写真? ああ、入ってるが。見るか」


「いや、俺はいい。アンタが見てくれ。よく細かいところまで」


 五十坂の意図するところが判然としないが、式村は言われた通り画像のサムネイルをクリックし、唐島の顔写真を見た。ゴツゴツとしたジャガイモのような顔。顎は張っているものの頬はこけ、目つきは鋭い。


 すると五十坂は続けてこう言った。


「じゃあ今度は空葉からばたくみって名前を探してくれないか」


「からば? え、何だって」


「空葉巧だ。検索してみてくれ」


 検索すればすぐに出て来た。空葉巧、ああこの事件か。うっすら記憶にある。二十年ほど前に十六歳の少女を刺殺した通り魔だ。心神喪失を理由に不起訴になったと記載されていた。


 五十坂はたずねる。


「空葉巧の顔写真はあるか」


「ああ、あるな。見た方がいいのか」


「見てくれ」


 またサムネイルをクリックし画像ファイルを開く。色白で顔の大きな小太りの男。


 五十坂は再度たずねる。


「どう思った」


「どうって……人を殺しそうには見えないな。どちらかと言えば家に引きこもってそうな感じだ」


「そうじゃない。唐島源治に似てるかって意味だ」


「唐島に? それは似てない。いや、まあ顎の張り方とか部分的に見れば似てるところもあるかも知れないが、印象としては全然似てない」


 この答に五十坂はメモから視線を上げると、小さくため息をついた。


「さすがにそれはご都合主義が過ぎるか」


 何を言っているのだろう、さっぱり意味がわからない。困惑する式村が何気なくノートPCに視線を落としたとき。


「ん? あれ、これは」


「どうした」


 五十坂の声に緊張が混じる。式村はさらに困惑した顔を上げてこう答えた。


「いや、空葉に不起訴処分を下した担当検察官なんだが、狭庭真一郎と書いてある」


 狭庭真一郎。日和義人が唐島源治を見たと警察に説明したのは、狭庭真一郎の家の前だった。これは単なる偶然の同姓同名なのか、それとも。


 五十坂は口元を押さえ、その目は虚空を見つめている。式村はあのジローという少年の透き通った目を思い出していた。


「ご都合主義。すべてがご都合主義で動いているのなら」


 誰に語るでもなく五十坂はつぶやき、やがてハッと目を見開いた。


「式村さん、葦河宏和で検索してくれないか」


「え、今度は誰だそれ」


「日和義人の本名だよ」


 式村は何かを言いかけたが、黙ってキーボードを動かす。


「出た……ああ、空葉匠の事件の被害者の父親だったんだ」


「検察審査会に審査の申し立てはしてないか」


「してる」


「つまりその時点で、担当検事の狭庭真一郎の名前を知っていたはずなんだ、日和義人はな」


 それはいったいどういうことで、何を意味しているのか。混乱し困惑している式村に、五十坂はたずねた。


「式村さん、アンタさっき二〇一号室の様子をうかがってたな」


「え、ああ、あれはちょっと気になったから」


「何が気になった」


「何って、別にたいしたことじゃない。二〇一号室のドアが開いて閉じた音がしたんだ。でも隣に人の動く気配がまるでないから、どうしたんだろうなと」


 五十坂は眉をひそめ、何やら考え込んでいる。式村は言葉を続けた。


「娘もそれがおかしいって言うんだ。私が何かに利用されるんじゃないかと。正直、意味はわからないんだが」


「それで神隠し、か」


「いや、私だって別に本気で神隠しだとか考えている訳じゃなくて、つまりその」


 しかしそんな言い訳を最後まで聞くことなく、五十坂は立ち上がる。


「式村さん、来てくれ」


「何だ、おい何なんだ、説明してくれよ!」


 慌てて後を追う式村憲明を振り返りもせず、五十坂は廊下に飛び出した。

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