第8話 襲撃

 森の土は柔らかい。唐島源治は深く穴を掘り、便を埋める。明かりのない夜の森で、作業の頼りになるのは小さなペンライトの光と勘だ。しかし、これも慣れである。唐島はもう十分、こういう環境に慣れるだけの経験をしてきているのだ。


 昼間はただの山の斜面にしか見えなかった秋嶺山荘だが、縦に細長い明かり取りの窓があるのだろう、そこから内部の光が漏れている。まるで山が命をはらんでいるかのように。


 日和義人。この山荘のオーナー。いつ出て来るだろう。いつ隙を見せるだろう。それはわからないが、チャンスを待つしかない。いちいち乗り込んで行ったのでは、殺さねばならない人間をどんどん増やすだけでキリがない。


 せっかくの人目につかないロケーションである、人目につかずに行動し、人目につかずに相手を殺して、人目につかずに逃げ去るのが一番。いまそれが十分可能な状況に身を置いているのに、ここで目撃者を増やすなどもっての外と言えた。


 とりあえず、今日はこの場所で野宿するしかあるまい。唐島は小ぶりなバックパックから携行食を取り出した。




 式村憲明はドアを開けて顔を半分外に出し、隣の部屋の方向を見ていた。気になる。午後のティータイムに一度ドアを開け閉めしただけで、二〇一号室の宿泊者は戻って来ていない。いったいいま、どこにいるのだろう。


 オーナーの日和氏によれば、軽い障碍のある孫娘を連れてきた人物らしい。その孫娘はこの山荘で無事預かることになったそうだから、もしかしたら一人で家に戻ったのだろうか。


 何となく腑に落ちない。


 紗良は憲明が利用される可能性に言及したが、本人はいま一つピンと来ていない。しかしそれでも、何かおかしなことが起こっているのではないかという気はしているのだ。


 憲明は娘を連れてここに来た。二〇一号室の人物とほぼ同じシチュエーションだ。こちらも娘を預かってもらえることになった。したがって憲明自身にはここにもう用がない。帰宅しても問題はないのだが、まだここにいる。


 いや、それはそうだろう。とりあえず一晩くらいは過ごしてみなければ、紗良がこの先ここで生活し続けられるかどうかわからないではないか。最初の一晩は様子見、それは当たり前の話に思う。と言うか、それが当たり前だからこそ日和義人側は憲明に一泊の宿泊を勧めたのだろう。


 二〇一号室もその点は同じ条件のはず。なのに隣はどこかへ消えた。いったいどこへ。そのとき脳裏に、あの言葉が稲妻のようにひらめいた。


「まさか、神隠しじゃ」


「何ブツブツしゃべってんだ」


 背後から突然聞こえた声に、式村憲明は悲鳴を上げそうになった。


 振り返ればフリーライターの五十坂が立っている。確かオーナーと話していたはずだが、そうか、エレベーターを使わずに階段から上がってきたのだなと思い至り、憲明は胸をなでおろした。


 と、五十坂は二〇一号室のドアに近付き堂々と指をさす。


「ここに何かあるのか、式村さん」


「いや、ちょ、ちょっと来てこっちへ!」


 憲明は思わず五十坂の手を取って、二〇二号室に引きずり込んだ。こんなところをあの鶴樹つるぎとかいう刑事にでも見られたら厄介なことになるだろう。


 ドアを閉じてため息をつく憲明に、五十坂は面白そうな顔でたずねてきた。


「式村さん、アンタ警察官か」


「なっ」


 心臓が口から飛び出そうになる。


「何で、それを」


 いったいどうしてそれがわかったのか。しかし、別段不思議でも何でもない、そう言いたげな顔で五十坂は歯を見せた。


「アンタあの鶴樹って刑事のこと、やたら気にしてたからな。警察から逃げてる指名手配犯て可能性もなくはないんだろうが、それにしちゃ落ち着きすぎだ。普通に考えて同業者の線が濃厚だろ。まあ刑事課じゃないかも知れんが」


「た、確かに少年課だが、そんなものなのか」


「そりゃこんなインチキ施設に子どもを連れて来てることなんぞ、同業者には知られたくないわな」


 その言葉に、憲明の頭の中は真っ白になる。


「イン……チキ?」


 すると今度は五十坂の顔に驚きが広がった。


「あ? アンタまさか本気で、ここの宣伝文句を信じて娘を連れて来た訳じゃないだろ」


「どういうことだ。どうしてインチキだなんて言い切れる」


「言い切るも何もあるか。信用できる要素を探す方が難しいだろうが」


「しかし」


 式村憲明は日和義人との会話の内容を思い出していた。


「ここは昔からのパワースポットで、実際に村には百歳以上の高齢者が何人も居るんだ、人口比で見ると考えられないくらい」


 だが五十坂は鼻先で笑う。


「そりゃあそういうことはあるだろうよ。日本中どこを探しても同じ比率でしか百歳以上が居ないって方がおかしいんじゃないの。自治体の形は別に人口ピラミッドに合わせてる訳じゃないからな。百歳以上が何人も居る村もありゃ、まったく居ない町もあるのが当たり前だろ」


「いや、それはそうかも知れないが、でも、この地域じゃ数年経てば百歳以上が倍増するって専門家も言ってるし」


「たとえばいま百歳以上が三人居るとして、九十七歳の人間が三人居たとする。もし仮に誰も死ななきゃ、百歳以上が三年で倍増しても不思議はないよな。そんなの専門家じゃなくても言えるだろ」


 愕然とする憲明に、五十坂は心底呆れたようにため息をついた。


「いいかい、東京と北海道、百歳以上の爺さん婆さんの数を比較したらどっちが多いと思う。そりゃ圧倒的に東京だろうよ。人口の絶対数が違うんだからな。ところがこれを『百歳以上の住民がいる市町村の数が、域内全市町村中に占める割合』とか言い出してみな、一気に数字はあやふやになる。要は切り取り方なんだよ。式村さんわかるかい、数字は嘘をつかないが、数字を使うヤツは嘘をつくんだ」


 憲明は何も言い返せなかった。自分は本当に大間抜けだったのだろうかと思えてくる。五十坂は小馬鹿にしたような、それでいて同情も少し混じったかのような目で見つめていた。


「悪いことは言わない。娘が大事なら、高い勉強代払ったと思って金は諦めることだ。すぐに連れて帰った方がいい」


「そんな、だけどいまさら」


 標準治療に絶望した憲明は娘の入院の話を一方的に断り、現金化できるものはすべて売り払ってここにやって来た。いまさらどこへ戻ればいいというのか。式村親子にはもう戻れる場所はない。この秋嶺山荘に賭けるしか道は残されていないのだ。このときの憲明にはそうとしか思えなかった。


 だが五十坂はため息をつきながらこう言う。


「あのな、この世界はそこまで面白かないぜ。世の中のほとんどの連中が知らない、もしかしたら自分しか知らない真実なんてモノはどこにもないんだ。本当の事は、ほとんどの連中が知ってる。だが知ってても間違うのが人間だ。アンタみたいにな」


 そうなのか? そうなのだろうか。本当に? いや、しかし。困惑し当惑した憲明がうつむいた、そのときだ。


「急げっ!」


 部屋の外に野太い声が響き渡った。複数の足音が階段を駆け下りて行く気配が伝わる。


「何だ?」


 五十坂が外に飛び出し、憲明も釣られるように部屋を出た。静かな廊下の空気には、目に見えない殺気が漂っている。


「一階で何かあったか」


 五十坂は「どうする?」と言いたげな目で振り返る。それまで式村憲明の頭は機能を停止していた。紗良の身に災いが及ぶかも知れないことに思い至らなかったのだ。




 五十坂と式村が階段を一階に下りると、血の匂いが鼻を突いた。白い大理石のホールの床に点々と落ちる赤。応接室の前に座り込んだ日和義人は出血している腕をタオルで押さえていた。救急箱を床に置いて傷口を消毒し、ガーゼを押し当て包帯を巻いているのは八科祥子。


 そこから少し離れて立つ鶴樹警部補は、誰もいない玄関を見つめ、さらには健康道場の子供たちへも意識を向けていた。


「ケンタくん」


 ホールに出てきていた少年に鶴樹は言った。


「子どもたちは全員ベッドに入っているように。部屋の外には出ないよう、言って聞かせてくれたまえ」


「わかりました」


 部屋に戻って行くケンタを確認し、今度は階段の下に立つ五十坂と式村に顔を向ける。


「あなた方はそこにいてください。二次被害が出ないとも限らない」


 何があったかをたずねて答が返って来る雰囲気でもなく、二人はしばらく立ち尽くしていた。そこにいかつい短髪の、初めて見る刑事――なのだろう、状況的に――が一人、息を切らせて走り戻って来る。


「警部補、ダメです、見失いました」


「クソッ!」


 鶴樹は思わず床を踏みつけた。日和義人を振り返る目はいささか腹立たしげだ。


「詳しい事情はまた聞かせていただきます。救急車は呼んでいますね」


 これに八科祥子がうなずけば、鶴樹は息を切らせているいかつい刑事に命じた。


「国下は救急車に同乗して病院まで行け。油断はするなよ」


「はい」


 玄関からは他に三人の刑事が入って来た。鶴樹の指揮下に四人の刑事が配置されていたのだろう。しかしいままで見かけなかったのは、いったいどこにいたのか。


「俺たちはここにいても邪魔になるだけ……かな?」


 五十坂のつぶやきに、鶴樹はジロリと鋭い視線を向けた。


「できれば部屋で、おとなしくしておいていただけると有り難いですな」


「了解、そうしましょ」


 五十坂は式村の肩をポンと叩くと階段を上りかけた。だが式村は娘が気になるのだろう、子どもたちのいる場所へ行きたそうな顔でモジモジしている。と、その目がこちらに一人、歩いて来る人影を捉えて丸くなった。あのジローという少年だ。


 気付いた鶴樹は眉を寄せる。


「何かね。用があるのなら」


「何かね。用があるのなら」


 ジローは即、鶴樹の真似をした。同じ表情、同じ口調、同じ身振り手振り。鶴樹はいたく立腹した様子で八科祥子をにらみつける。


「何とかしてもらえませんか」


「何とかしてもらえませんか」


 もちろんジローはすかさずこれも真似をした。


「ケンタ! すぐ来てちょうだい」


 八科祥子の上げた声に、ケンタは慌てて走って来る。


「は、ハイ! すみません!」


 そしてジローの腕を取ると、「ほら、行くぞ」と元居た部屋へ引っ張って行った。ジローは特に抵抗することもなく、そのままついて行く。いったい何がしたかったのだろう。

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